あなたにがあるように

 ただ祈る。
 ただ、願う。
 ── あなたに光があるように。

+ + +

 微かに聞こえる水音に、人々の喧騒が重なる。
 南領の都市の一つ── 貿易都市セイリェン。
 先程まで絶える事のなかった叫び声や剣戟(けんげき)の音はなく、代わりに何処か和やかな談笑の声すら混じり、張り詰めていた大気は穏やかさを取り戻していた。
「── 血の匂いがする」
 不意に聞こえてきた声に、彼はびくっとその肩を震わせた。
 人目につかぬ物陰の、更にその暗い影に身を溶け込ませるようにして蹲(うずくま)っていた彼は、ゆっくりと伏せていたその頭を持ち上げ、気配すらも感じさせずに目の前に立つ人影に目を向けた。
 …たった、それだけの行為なのに、身体はギシギシとまるで錆びついたようにぎこちない。
 その重い身体を持て余しながら、朦朧(もうろう)としつつある頭の中に浮かんだのは、やはり来たか、という確信だけだった。
「…ゥ…ア……ァ……」
 何かを言おうと── 名を呼びかけようとしたのかもしれない── 口を開いたものの、そこから出てきたのは掠れてまともな音にならない声だけだった。
 まるで、傷付きながらも威嚇(いかく)する獣のような。
 そんな彼を哀れむような目で見つめ、その人物は一方的に話しかけてくる。
「ばかか、お前は。…忠告はしておいたはずだぞ」
 月を背後に夕闇に浮かび上がるのは一人の青年。
 見た所十七、八歳といった所だが、逆光になったその顔はまだ幼さが残り、正確な年を掴めなくしている。
 青年と表現するよりは、少年と表現した方がまだ近い── そんな曖昧な容姿である。
 青年はそのままスタスタと彼の目前にまで歩み寄ると、見下ろす体勢で冷ややかに問いかけた。
「…どうして欲しい?」
 そこには先程まであった憐憫の欠片もない。
 鈍く輝く金色の双眸は、未だ微動だにしないローブ姿の男を断罪するように見つめている。その瞳を、彼もまた魅入られたように見つめ返す。
 やがて男── ザルームは震える手を伸ばし、まるで縋るように青年の手を掴もうとした。否、実際縋ろうと思ったのかもしれない。
 だが、触れるか触れないかという位置で、弾かれたようにザルームの手が引き戻され、その骨のような手が掴みかかるようにしてすぐさま別の方向へと伸びた。
 向かったのは、青年の心臓。そのまま抉(えぐ)らんとばかりに伸ばされた手を青年はすかさず避けるが、ザルームは先程までの様子が嘘だったかのような素早さで次の行動に移っている。
 布の内で小さく何事かが呟かれ、その骨ばった掌が青年に向けられた。
「…シネ……!!」
 次の瞬間、彼等の姿はそこから消え失せ、激しい火花と共にそこにあった古い木箱が全て瞬時に炎も上げずに墨と化していた。
「…ったく、手のかかる!!」
 一気に上空に上昇し、攻撃を交わした青年は舌打ちをしながら、やはり上空へと移動している赤黒いローブ姿の呪術師の姿を捉える。
「── フィッツ・ディスティーザ・ラーナ・エイム……」
 風伝えで届いた紡がれる言葉に軽く目を見開き、すぐさまそれに対抗する呪術を発動させる準備をする。
(《紅蓮の翼》!? ── こんな所でそんな呪術を使うか!)
 急速に集まってくるのは火の要素。眼下に広がるのは、セイリェンの街並み。
 つい先程、戦闘が終わったばかりで、港の火の気もようやく落ち着いたばかりの状況だ。人もこの場に存在する要素も浮き足立っている。
 にもかかわらず、目の前の男は普段なら自らは決して使おうとはしない攻撃呪術を行使しようとしているのだ。
「メイ・カリェン・レイディア・フェレム……!」
「テス・ニスト・エリル・メイ・シェルク・フォルン・ナ・メシエ!」
 ザルームが呪術を完成させるのと、青年が防御呪術を行使するのは同時だった。

 ピシィイイイイ── ン!

 まるで鞭が大気を鋭く切り裂くような音がし、刹那、全ての音が消える。
 ── 勝負は呆気なく着いた。
 この場の大気が術が発動する瞬間のみ強制的に失われた結果、地上を一瞬にして焼き尽くす炎は生み出されず、不完全な術は術者へ跳ね返る。
 ぐらり、と体勢を崩したのはザルームだった。意識でも失ったのか、そのまま重力に従い、地上へと落下する。
「…テス・ガルス・ペルセム・ナ・フリエ・メイ・エナージェ・テア・ハール」
 疲れた声音で更なる呪術を展開すると、ふわりと何かに受け止められたようにザルームの落下が止まった。
 それは本来落下を緩和し、衝撃を和らげる程度の効果しかない初級呪術だったが、青年が使うと落下を止めるだけの威力に変化している。
 その理由に思い当たり、忌々しげに天上の月を睨むと、青年は空中に縫いとめられたザルームを回収し、再び地上へと舞い降りていった。

+ + +

 それはまるで、溶岩のような憎悪。
 炎のように燃え上がるのではなく、じりじりと胸の奥底を溶かし、深く深く沈む熱の固まり。
 触れれば、終わり。
 取り込まれ、溶けて…いつしか自分もその憎しみそのものになる──。
「…目が覚めたか?」
 すぐ目の前に金色の瞳。
 人に在らざるその色をぼんやりと見つめ、ザルームは掠れた声で呟いた。
「王……?」
 その反応に青年はほっとしたように身を離した。代わりに目に飛び込むのは、満天の星空。そして、月。
 布越しに伝わる固い感触に、石畳に直接横たえられているのだと理解する。
(…一体、何が……)
 記憶が曖昧になっていた。
 禁を犯し、呪術を── 呪法を使い、反乱軍を助力した事までは覚えているが、そこから先はまるで何かに食い散らかされたかのように、断片ばかりが浮かび上がる。
 だが、すぐに何が起こったのかは理解した。
 『王』がここにいる。しかも、実体を伴って。── それで答えには十分だった。
「── 申し訳ありません……」
 思い出したように復活した全身を襲う苦痛を無視して、無理に身体を起こそうとすると、横から手がそれを押し留める。
「寝てろ」
 短く命じた言葉には、呆れと同時に僅かな労わりもあって。
 その事に少し驚きながらも、ザルームはおとなしくその言葉に従い、再び身を横たえた。
「…わざわざ、こちらにいらっしゃったのですか」
 ただでさえ暗い声音が、苦痛により更に掠れて聞き取り難いものになる。それでも青年はしっかりとその言葉を理解し、鷹揚(おうよう)な態度で頷いた。
「理由をわかっていてそれを聞くか? …誰かがあれだけ言っていたにも関わらず、契約を守らずに術を使い、あまつさえ暴走しかけていたからな。少し説教をしに来た」
「……」
 返って来た言葉は少々予想していたものと異なり、ザルームはどう返して良いものかわからずに沈黙してしまう。
 だが、青年はそんな彼を無視して、さらに続けた。
「これでも結構忙しい身なんだ。今日がたまたま『蝕』だったからいいけどな、普通なら来る事だって難しいんだぞ? だから少し位、耳に痛くても聞いてもらう」
 言いながらその手を持ち上げ、掌をザルームの胸に乗せる。
 何をするつもりなのかと視線で問いかけるザルームに、青年は苦虫を噛み潰したような顔でぼそりと答えた。
「…が、怪我人に説教して悪化されるのは性に合わない。少々乱暴な手を使うが、まずは回復してもらう。── 耐えろよ?」
「── ッ!?」
 言われた側から、全身に電流が流れるような衝撃が走り、一瞬呼吸が止まった。
 痛みこそ感じなかったものの、内側から突き破ってきそうな力の圧力に身体と精神が悲鳴をあげる。
 ザルームは歯を食いしばり、その衝撃に耐えた。
 おそらく、それは時間にするならほんの僅かな時間の事だったに違いない。しかし、衝撃と苦痛がない交ぜになった状態では、それは永遠に続くかの如き苦行だった。
 ついに意識が遠のきかけた時、青年が胸の上から手を退け、衝撃から解放される。
 思わず吐息をつき、同時に先程まであった苦痛がほとんど感じない程に和らいでいる事に気付いた。
「……」
「どうだ。楽になっただろう?」
 何処か得意げな口調で言い放ち、青年がにやりと笑う。
 一体何をしたのかさっぱりわからなかったが、借りが出来てしまった事だけは確かだった。
「お前には手間暇かかっているんだ。そう簡単にくたばって貰っては困る」
「…ありがとう…ございます……」
 偉そうな言い草に思わず苦笑しながら、ザルームはせめてと礼の言葉を口にする。
 そして今度こそゆっくりと身を起こして青年と向かい合った。
「では…拝聴させていただきます」
 居住まいを正しながらのその言葉に、青年は一瞬何の事だかわからないような顔になり、やがてそれが先程の『説教しに来た』という言葉を受けてのものだと理解すると、眉間に皺を寄せ、真面目な奴、とぼそりと呟いた。
「説教はともかくだ。あまり長居も出来ないから要件だけ手短に聞く。── 何故、呪法を使った?」
「…それは……」
「お前の目を介して大体の所は見ていたが…あれなら攻撃呪術で十分やれたはずだ。言っておいたはずだろう。呪法は今のお前にとっては毒にしかならないと」
「……」
 口調は決して荒い訳ではないが、嘘や誤魔化しを許さない言葉に、ザルームは沈黙する。
 実際、青年の主張が正しい事は彼自身がよくわかっていた。
 だが、それでも呪法を使う事を選んだのは──。
「── 偽善です」
 ようやく答えたその一言に込められた苦さに、青年はぴくりと片眉を持ち上げる。
「黙秘か? …まあ、黙っていても大体の所は予想しているけどな。あれだけ『魔物』化した人間に情けをかけるなと言ったのに…つくづく私の言いつけを破ってくれる」
 はあ、と呆れ果てたため息をつき、青年は以前ザルームと交わした会話を思い出していた。

『お前達が「魔物」と呼ぶものの正体を知っているか?』
『正体……?』
『あれは、お前達と同じ人間だ』
『!? …まさか……』
『信じたくない気持ちはわからないでもないが、事実だ。「秤」が壊された結果、こちらの影響が出てきているようだな。潜在能力の高いもの程強力な魔物になるはずだ。そして太陽の光が、それらを狂気に駆り立てる。…今後、益々その数は増えるだろう。皇女ミルファを、彼等が襲いかかるような事も出て来るはずだ。その時── お前は彼等を殺せるか?』

 その時、目の前のこの男は震える声で尋ねた。…彼等を救う方法はないのか、と。
 生命の根源から変質してしまった彼等を元に戻す方法など、何処にも存在しない。出来る事があるとすれば、彼等が血に飢えて苦しみ、狂い死ぬ事から解放してやる事だけだ。
 甘い、とは思うが、非難する気はない。
 自分とて、身近な存在が魔物のようになってしまったなら、まず最初に同じ事を考えたに違いないから。
 そしてそれが無理だとわかったら──。
(…せめて、最後は出来るだけ苦しまずに、か……)
「偽善だろうがどうだろうが、そんな事で死にかけてどうする? それはむしろ、偽善ではなく自己満足ってやつじゃないのか? あるいは、自己犠牲精神か。くだらない。お前には…まだやる事があるだろう」
「──」
 歯に衣着せない言葉に、ザルームは返す言葉がなかった。
 言われた通りだと思ったからだ。
 あの時── 確かに意識の端で考えた。この命があの場で果てても構わない、と。
「…お前は役目があるはずだ。命を捨てるなら、その為に捨てろ。皇女ミルファがお前の存在に疑いを抱くのはわかっていた事だろう。どんなに尽くそうと、報われる事はない。お前は呪術と言う光で生み出された『影』に過ぎないのだから」
「わかって…おります」
 言われなくても理解している。
 この身は偽り。いつか世界に真実の光が満ちたその時には、消える運命。
 ここに在る限り、自分は契約という名の鎖に縛られる。魂すらも支配する── 力によって。
「私がここに在るのは、皇女ミルファを皇帝の御座について頂くため。その為ならば、手段は選ばないと言ったのは私自身です。…ですが……」
「…何だ」
「── 出来る事なら、あの方を…ミルファ様を苦しませたくはないのです」
 目的の為に多くを切り捨てる事の出来る者ならば、何も感じず、何も思わずにその目的の為だけに存在出来た。
 けれど、ミルファは──。
「あの方は…優しすぎるのです。この私ですら、信じようとしている。心を許そうと、している。── 決して出来はしないのに。そう出来ないようになっているのに」
「……」
「そうすればする程、傷付くのはあの方なのに── やめようとはしないのです。だから……」
「…契約を反故にしてでも、願いを叶えたいと? 重傷だな」
 フン、と鼻先で笑いながらも、青年の目に責める色はない。
「強情なのは皇女ミルファもか。…その内、条件を満たす前に自力でお前のかけた術を破るのではないか? 仮にも『分銅』の一つだ、普通の人間と同じには行くまい」
「…そうならないよう、努力します。まだ早い…せめて── 拠り所が出来るまでは」
「敢えて疑われるような行動を取るとでも? 本当にばかだな…お前は」
 青年はそう言いながら立ち上がると、足についた土ぼこりを払った。ザルームもそれに倣う。
 その薄い胸を、トン、と軽く拳で叩かれた。
「…?」
「ばかだと思うが── そういうばかだから、お前は信用出来る」
「王……」
 ふわりと宙に浮き上がった青年を、ザルームは呆然と見上げた。
 その言葉を言った瞬間に青年が見せた表情が、あまりにも幼く淋しげなものだったからだ。
 その理由の一部を知るザルームは、声をかけたい衝動を感じつつも沈黙を守った。
 第三者が何を言おうと、結局何の慰めにもならない事を知っているから──。
「もう一度言っておく。契約を忘れるな、ザルーム。呪法は絶対に使うな。── お前の中の封印が解ける。それがどういうものかは、たった今実際に体験したお前ならわかるだろう。…食われるぞ、何もかもを」
「…はい」
 彼が頷くのを確認すると、そのまま青年は一言言い残すと、その姿を大気に溶け込ますようにして消した。
 一人取り残されたザルームは、視線をさらに持ち上げ、天から見下ろす月を見上げた。
 不吉な赤い月── それが意味する事は『蝕』。二つの世界が重なり合っている…相反する世界が。
 それは全てが始まった夜を思い起こさせる。
 この手が血に染まっても、この身が血に塗れても── 守ろうと誓ったあの夜を。
「…── ファル・エーシア・オルワ・マーナ、か……」
 それは青年が彼に最後に言い残した言葉。意味は『汝の上に光あれ』── 行く末を祝福する言葉だ。
 なんと自分に似つかわしくない言葉だろう。
 明かす事の出来ない秘密を抱えて、光なき道を進む。そしていつかは、全ての苦しみと共に消えるのだ。── その為にここにいるのに。
 そう…その言葉は、彼が命を捧げる主にこそ相応(ふさわ)しい。
 ただ祈る── 彼女が傷付く事のないように。
 ただ願う── 彼女が幸福になれる事を。

 あなたに光があるように。
 それだけが、光を見つめる事しか出来ない影の願い。


 あなたに光があるように(完)

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