天 秤 の 

第一章 皇女ミルファ(10)

 …ズゥゥゥ…ン……──

 そう遠くはない場所から、何かが崩れ落ちる音が響いてくる。
 その衝撃の大きさを示すかのごとく、僅かに時間を置いて足元が震え、窓ガラスがビリビリと音を立てた。

「……」

 中央棟より奥、本来ならば領主とその家族が生活を送る場所である領主棟── 現在は東領の反乱軍の本部となっているそこに控えていた人々の顔は、その音が示す事態を想像し、硬く強張る。
 もはや言葉はなかった。
 互いに顔を合わせ、最後に彼等を束ねる人物── ソーロンへとその視線は集中する。
 その不安を隠さない視線を受け止めて、彼は難しい表情を浮かべたまま、じっと正面を睨みつけていた。
 今の衝撃が味方の呪術師が放った術の結果ならばいい。だが、もし…そうでなかったら。
 事実、それは彼が考える『最悪の事態』そのものだったのだが、彼等はまだそんな事は有り得ないと信じきっていた。
 火によって再生力を下げ、一体ずつ仕留める。
 それは魔物の集団を前にして、現時点で彼等が取れるおそらく最上の手段だった。これがもし、駄目だった時── その場合、次にどんな手を取ればいいのか。
 今はただ、信じて待つより他はない。先程ここを飛び出していった、彼の剣の能力と強運とを。
 自身の無力さに、無意識に手を握り締める。
 わかっているのだ。ここで自ら戦いの場に飛び出した所で、逆に敵の思う壺だという事は。
 自分の命は、今となっては彼一人だけのものではなく、彼を信じて集った者にとって、守るべき『最後の砦』である事も。
 ── だが、落ち着けない。
 平和の中で育ったソーロンは、五年の時を経ても、まだ『守られる』事に慣れきっていなかった。
 そして、自分の為に、顔も知らない誰かが死ぬという事にも。
 自分の命を他人任せに出来ない── その事は、おそらく人間としては長所だろうが、指導者としては欠点にもなり得る事だ。
 最悪の事態が起こった時、自分の命を守る為に、時として自分以外のものを切り捨てられる事も必要だというのに。
 …他人の命を預かる重責を理解しているが故に、ソーロンは冷酷に振舞う事が出来ない。
 愚かだとわかっていても、一人この場から逃れるという選択肢を自分では選べないのだ。
 そんな彼だからこそ、人々は忠誠を誓い、彼の元に集った事もまた事実ではあったけれども。
(…よもや、こんな事態が起こるとはな)
 思い返すのは、先日聞いた言葉だった。

 ── 身辺にお気をつけなさいませ。狂帝は、南の地を介してこの東へと刺客を送り込んだ可能性がございます……

 異母妹・ミルファに仕えていると言った呪術師の言葉は、こうして現実のものとなった訳だ。
 あの時、一蹴した自分を苦々しく思うが、同時に今の状況を思い返し、たとえあの言葉を信じて警備を強めても、相手が魔物ならば結果は同じだろうと結論する。
 魔物によるこの襲撃が父のものだと決まった訳ではないが、ソーロンは心の中で断定していた。
 …かつて尊敬していた父は、子の命を奪う為に闇の生き物と手を結んだのだ……──。
 そこまでして、自分達の命を奪いたいのか。自分達の命には、そこまでして奪い去らねばならない、どんな理由があるというのか?
 この五年、ひたすら考え続けた答えのない問い。
 はっきりしている事があるとすれば、もはや父にこの世界を統べる皇帝の資格はないという事、それだけだ。

『皇帝は決して「特別」を作ってはならない。お前に、それが出来るか? ソーロン』

 耳には、最後に父と交わした言葉が今もまだ残っている。
 一体どんな話の流れでそんな事を話すようになったのかはもう覚えていないが、その言葉を言った時の、何処か苦しげな表情はいつまで経っても薄れる事はなかった。
 ── 確かその時、自分は出来る、と答えたと思う。
 『特別』を作る事は出来なくても、全てに等しく心を注ぐならば問題はないと思っていたからだ。
 だが…今にして思う。
 あの言葉は、もしかするとソーロンに対してではなく、皇帝自身の心に対する問いでもあったのではないかと。
 父は作ってはならない『特別』を心の中に持ってしまったのではないか。それが── この事態を引き起こす原因になったのではないのか、と。
 …そんな事をふと考え込んでいたソーロンだったが、それは突如上がった悲鳴で中断された。

「…ヒッ!?」
「うわ!?」
「ま、ま、ま……!?」

 一気に恐慌状態に陥り、口々に意味不明の言葉を紡ぐ彼等の視線の先── 窓へと反射的に視線を走らせたソーロンは、そこにあった光景にその目を限界まで見開いた。
 窓の外。
 まだ闇に支配されたそこに、赤く光る三つの目。
 獲物を求めるかのように、こちらを覗き込むその影は、室内の明かりを受けてその異形が僅かに見て取れる。
(…翼……?)
 その背にある、鳥のものとはまた異なる歪(いびつ)な形の翼を目にし、ソーロンの驚きは益々深まった。
 魔物が複数で現れた事も前代未聞の事だったが、有翼の魔物がいるなどという話も聞いた事がない。
 そうだ── この部屋は建物の三階部分にあり、それぞれの部屋の窓にベランダはない。
 つまり、こちらを見ているこの魔物は宙を浮いているのだ……!
「…皆、窓から下がれっ!」
 それは予感だったのか。

 …ガシャ─── ン!!

 ソーロンが怒鳴った瞬間、その部屋にあった窓と言う窓の全ての硝子が、一瞬にして激しい音を立てて弾け散っていた。
 それが魔物が自らの翼を振るわせた衝撃によるものだと、気付けた者は果たしてどれだけいただろう。

「ぎゃあッ!」
「ぐわっ!?」

 不意の出来事に、対応できず逃げ遅れた者の身体へ、その硝子の雨は無情に降り注いだ。
 口々に悲鳴を上げ、倒れては激痛にのた打ち回る彼等は、見る間に鮮血に染まってゆく。
 降り注いだ硝子が小さかった為に、それは致命傷には至らなかったが、逆に全てを抜き去るのも困難な状態となっていた。
 一瞬にして阿鼻叫喚の状況と化した中、床に散った硝子の破片を呆然と見つめながら、ソーロンはそろそろと自らの頬に手を運ぶ。
 触れた先に、僅かに濡れた感触。そして、ピリっと走った痛み。飛んだ破片が彼の頬を掠(かす)め、傷つけたのだ。
 彼はそのまま無言で、側に置いていた自らの剣を手に取った。そのまま鞘を抜き払う。
「で、殿下……!?」
 彼の様子に気付いた者が、驚いたような声で彼を呼ぶ。
 だが、ソーロンはそちらに目を向ける事なく、言葉だけを返した。
「…腕に覚えのある者は構えよ」
「で、ですが……!」
「お逃げください、殿下! ここは、我々が……!!」
 ようやく状況に気付いたのか、自らの得物を手にしながら彼を庇おうと近寄ってくるのを、ソーロンは厳しい口調で制した。
「私に構うな!」
「殿下!?」
 驚きを隠さない彼等に、ソーロンは流れる血潮で頬を赤く染めたまま、口早に注意を促す。
「相手は魔物だ。今は私の身の事よりも、全力で倒す事に集中しろ!」
 魔物は一体、対するソーロン達は負傷者を除いても、五、六名はいる。しかも相手はかなりの巨体だ。
 この狭い室内をうまく利用すれば、倒す事も不可能ではない── そう判断した結果だった。
 そして、ついに魔物が硝子を取り払った窓枠に手をかける。ミシリ、と耳障りな軋む音がした。
「── 来るぞ!!」
「!!」
 ソーロンの声で彼等が反射的に身構えるのと、恐るべき腕力で魔物が掴んだ窓枠を引き千切るのはほぼ同時だった。
 窓枠の残骸を背後に放り投げると、魔物は室内を改めてぐるりと見回す。
 その赤い三つの瞳は、その場にいた人間一人一人を吟味するように彷徨うと、やがてひたとソーロンに向けられた。
 …そして。

「……──」

 その口が裂けるように笑みを象(かたど)ったかと思うと、そこから彼等の予想もしない、『言葉』が飛び出したのだった。

「ワレ、《ヨウメイノフンドウ》ミツケタリ…ソノチ、ワレラガタメ、テンビンニササゲヨ」

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