天 秤 の 月
第一章 皇女ミルファ(3)
午後の会議は、当然ながら現在進軍中の友軍に関する事を中心に進んでいた。 南領の都ライエから、主力部隊が目的地に着くまでに数日はかかる。 その間の補給や情報管理をいかに短縮化出来るか、また敵方である帝軍の動きにも目を光らせなければならない。 …考える事は山ほどあった。 現在帝軍が不穏な動きを見せているのは、中央に存在する帝都とこの南領の境界となっている河、シェリス河に接する交易都市セイリェン。 その街は平常時では帝都と南領の流通の中心として、華やかで自由な気風で知られる街だった。 現在は帝都と南領との間に挟まれて、そこに流れる空気は必要以上に緊迫としたものに取って代わられてしまっているが……。 人と物が数多く集まるだけに、そこに集まる情報も相当なものになる。 民の大半がそこで親やそれ以前の代から何らかの商いをしている商人で、その独自の情報網は過去に幾度かミルファも助けられたものだ。 …だからこそ、セイリェンを見捨てる事も、帝軍に侵略させる事も許す訳には行かなかった。 「…失礼いたします!」 だが、話し合いは突如乱入したそんな声で中断した。 ノックをするのも忘れたのか、転がり込むような勢いで乱入してきたのは、まだ年若い少年だった。 赤毛で、その身体はひどく痩せている。転んだら折れてしまいそうなその痩身を包むのは、まだ身体に馴染んでいない黒い官服。 仕官してそう日が経っていないのが、その挙動以外ですでにわかる有様だった。 その少年は一斉に自分に向けられた視線に一瞬怯んだ顔を見せたものの、自身の役目を思い出してか、蒼白の顔色でその場に跪(ひざまず)き、発言の許可を待つ姿勢を取った。 「── 何事です」 少年の容姿から、最近この領館内の伝令に就いた人物である事を記憶の奥から引っ張り出しながら、ミルファが殊更冷静な声で発言を許可する。 すると少年は弾かれたように立ち上がり、口早に自らが抱えた情報をミルファとそこにいる重臣達に告げた。 「帝軍が、動きました!」 「…!」 その言葉に、その場の空気は一気に緊張したものへと変わった。 何時齎(もたら)されてもおかしくはない知らせだと言うのに、ミルファも知らず手を握り締める。…人の目につかないよう、会議用の机の下で。 「セイリェンですか?」 出来るだけ平静さを保っているように気をつけながら確認を取る。 すると伝令の少年の顔は、見る間に動揺と困惑に満ちたものへと変化した。 それは傍で見ていてわかる程に劇的なもので、ミルファ以外の人間も何事かと思う有様だった。 少なくとも、事実を私情を入れる事なく、正確に伝えなければならない伝令としてあるまじき態度だ。 そして彼は困惑を隠さない彼等の前で、震えている上に上擦った、あからさまに恐怖を隠さない声でミルファの問いへと答えたのだった。 「…いえ、違います。ウルテです、ここより北東にあるウルテにて、帝軍と思われる武装集団により襲撃がありました……!」 「…── ウルテ、ですって……?」 一瞬、それが何処の事かわからなかった。 しばらく頭の中で細部まで叩き込んであった地図を辿って、ようやくその地名を思い出す。 それ程にそれは、特にこれと言って特色のない小さな街だった。強いて何かを挙げるとすれば──。 「…、まさか」 そこまで考えて、見る間にミルファの顔から血の気が引く。 「セイリェンは、囮…!?」 その言葉に、そこの集まっていた重臣達はそれぞれに驚きを隠さない顔になった。 何しろ、セイリェンとウルテでは戦略的価値は天と地ほどに差がある。 まさか、と表情で物語る彼らに、まるで追い討ちをかけるように伝令の少年はミルファの言葉を肯定した。 「── おそらく、そうであるかと」 それが誰の見識であるのか、それはもはやどうでも良い事だった。 肯定された事で、ミルファの身体は震えた…恐れの為に。 仮にもこの南領における反乱軍の頂点に立つ者だ、緊急を伝える知らせに対して、いちいち動揺するなどもっての他の事だろう。 だが、今回は誰もミルファを非難する事は出来ないに違いなかった。 何しろ、その場にいた人間は一人残らず、その言葉にミルファ以上の衝撃を受けていたのだから。 「…急いで伝令を走らせて、セイリェンに向かっている兵を半分戻しなさい! …皇帝の狙いは南じゃない……!」 指示を飛ばしながら、ミルファはひどい咽喉の渇きを感じていた。 うまく喋れない。嫌な予感ばかりが募る。 小さな…この南領の人間でも必要がなければ知らずに終わりそうな街・ウルテ。 そこはこれといって特産物もなければ、交通の上の要所でもない。 けれど一つだけ何かを挙げるとするなら、そこが南領の主街道沿いに存在する街だという事になるだろう。 「どんな手段を使っても構わないから、すぐに東側との連絡を取りなさい! 南側から入る人間を何人たりとも侵入させてはならないと……!」 主街道── すなわち、この南領から一直線に続く道。 その道は、東の地へと続いている。 そしてその東の地── 東領と呼ばれるその地には、現在あと二人しかいない皇帝の血を引く者がいる。 ミルファにとっては、異母兄。けれど、数少ない肉親の一人。 「兄上…皇子ソーロンの命が、危ないと……!!」 最後の言葉は、もはや悲鳴に近かった。 |