天 秤 の 

第一章 皇女ミルファ(5)

 しばらく一人になり、頭も冷えてきた。
 そろそろ軍議に顔を出さねば、とソーロンが座っていた椅子から腰を上げかけた、その時。
 ふと、何かの気配を感じた気がした。特に深く考えずにそちらに目を向けたソーロンは、言葉もなく硬直した。
「……!?」
 ぎょっと見開いた目の向けられた先── 窓辺に、一体何時の間に現れたのか、赤黒いローブをまとった人物が無言で立っていたのだ。
 すっぽりと全身を布で覆い、顔ばかりでなく体つきもわかりにくい。男か女かもわからないが、女にしては背が高いだろうか。
 上から下までその姿を凝視し、ごくりと唾液を飲み込む。そしてようやく自分を取り戻したソーロンは、微かに上ずった声で誰何した。
「…何者か」
「── 先触れのない参上にて、申し訳ございません。私は…ザルーム。皇女ミルファ様に忠誠を誓う呪術師でございます」
 まるで地面の奥底から響いてくるような、陰気な声が口上を述べ、恭(うやうや)しく礼を取る。
 呪術師、と聞いてその不気味さに多少の納得は出来たものの、それでも気味の悪さは拭い去れなかった。
「…ミルファの手の者が、何の用だ」
 それでも自制心を最大限に発揮し、ソーロンは問いかけた。
 つい先程、ミルファの事で激昂していた身としては、その声が幾分敵意のこもったものになるのは致し方ない事だろう。
 ザルームはソーロンの言葉に気分を害した様子もなく(そもそも、表情が見えないので実際はわからないが)、ゆらりと身を起こして姿勢を正すと、暗い声で用件を口にした。
「我が君より、伝言を承って参りました」
「伝言……?」
 その言葉に、ソーロンは首を傾げた。
 通常、何か伝える事があるなら鳩を飛ばしたり、人を走らせるのが普通だ。それをわざわざ単身、しかも先触れもなく訪れるなぞ、本来ならあって然るべき事ではない。
 その疑問が伝わったのか、ザルームは軽く頷いた。
「はい。間に人を置くのも、鳩を飛ばすのも惜しむほど、火急の用件でございます」
 南領の都から東領に至るまでに、足と体力に自信があるものが、交代で朝も夜も駆け続けても半月はかかる。
 そこからこの東の都・アーダまで更に半月。効率の面で言えば、確かに得策とは言えまい。
 だが、鳩を飛ばせば数日と時を縮める事が出来るのに、その数日を惜しむとは── 果たして一体何事が起きたと言うのか。
 眉間に皺を刻みながら、ソーロンは再び椅子に腰を下ろし、聞く体勢を取った。
「…申してみよ」
「── 先刻、南領の東へ向かう主街道沿いの街であるウルテが、帝軍と思われる武装集団に襲撃を受けました」
「…? それがどうした」
「お恐れながら、東の地は地形的に有利でありますが、同時に潜伏場所にも事欠かない場所。…北と西の壁は厚いものの、南に対してはその限りではございません。身辺にお気をつけなさいませ。狂帝は、南の地を介してこの東へと刺客を送り込んだ可能性がございます」
「……」
 ぼそぼそと語られる言葉は、聞いているだけで背筋に冷たいものを感じさせた。
 絶えず人が流れて来る北と、西── 帝都側は、人の出入りを厳しく監視しているものの、南からは行商人程度しか来る者がいない為、確かにその規制は緩かった。
 無意識に南側からの進入はないと思っていたのは、ソーロンだけではないだろう。
 南にはミルファが率いる反乱軍が控え、一歩も譲らない攻防を展開している。心では認めていないものの、南に対する警戒が薄くなっていたのは事実だ。
 もし、このザルームと名乗る不気味な呪術師の言葉が真実なら、すでに東の地に皇帝からの刺客が入り込んでいる可能性がある。そうなると、時間との勝負だ。
(── だからミルファは、この呪術師を送ったのか)
 …自然と表情が引き締まる。
 やがてソーロンは、窓辺に控えるザルームに礼を述べた。
「報告、感謝する」
 しかしそこで言葉を切り、ソーロンは冷ややかな目を向けると、だが、と言葉を繋げた。
「…ミルファにそなた程の呪術師がついているなど、聞いた事がない。私も詳しくは知らないが、空間を渡る能力は滅多に現れない特殊なものだと聞く。それだけの能力を持ちながら…今まで、名も聞かぬとはおかしな話ではないか?」
 言うと同時に、椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がると、側に置いていた剣を掴み、鞘から一息に抜く。
 そのまま剣の切っ先をザルームに向け、友好的なものなど欠片もない口調で言い放った。
「そなたが、皇帝…父の刺客ではないと、何をもって証明する?」
「── 信じてはいただけませんか」
「残念ながら、な。何より、ミルファがこちらを気遣う理由もない。疑うなという方が無理ではないか?」
 ソーロンの言葉に、何か感じる所があったのだろう。ザルームは僅かに言葉を躊躇った。
「…我が君は、殿下を血の繋がった肉親と思っていらっしゃいます」
「そうか? では…どうして何の相談もなしに挙兵した。兄と思っているのなら、こちらの言葉に耳を傾けるのが普通ではないか?」
「それは……」
 ザルームが言い淀んだ事で、ソーロンは益々自分の正しさを確信した。
 これは、おそらく罠なのだ。
 もしこの言葉を信じ、南への警戒を強めれば、自ずと北と西への手が薄くなる。兵士の数は多いとは言え、三方向全てに気を配るのは至難の業だ。
 ── これが謀(はかりごと)であると考えても、不思議な事ではないだろう。
 ソーロンの認識を覆す事は無理だと判断したのだろうか、ザルームは沈黙したまま、自分に向けられた刃を前に無防備に立っている。
 このまま切りつけられて構わないかのような、隙だらけのその様子にソーロンも行動を起こせずにいた。
 真っ当に育てられ、正義感の強い彼には、無抵抗な者を怪しいからと言って一方的に切りつける事は躊躇われたのだ。
 …息苦しい、緊張した空気が生まれた。
 刃を下ろす事も出来ず、次の行動を思いあぐねていたその時、このまま膠着するかに見えた事態は急転した。
「殿下、まだそこにいるんですか?」
「!」
 ノックと共に聞こえてきた呑気な声に、ソーロンは反射的に扉に目を向けていた。
「全員揃ってるんで、そろそろ来て欲しいんですがね。…殿下?」
 そこで扉の向こうにいる人物── ルウェンも部屋の中にある張り詰めた空気に気付いたのか、言葉尻が僅かに疑問の形を取った。
 そして次の瞬間、遠慮なく扉が乱暴に開かれるや否や、早くも剣を抜いたルウェンが飛び込んでくる。
「…何者!?」
「待て、ルウェン!!」
 反射的にソーロンが制止の声を上げるが、ルウェンが立ち尽くすザルームに肉薄するのを止めるには及ばない。
 それ程に身柄を取り押さえようとするルウェンの動きは正に電光石火の早さだったが、対するザルームはそれよりも一枚上手だった。
「…、メイ・プロス・テス……」
 その顔を隠すフードの奥から、不可思議な響きの言葉が紡がれるのと、ルウェンの手が伸びるのは同時だった。

 …キン……!

「ぐわっ!?」
 まるで金属がぶつかり合うような硬質な音が微かに聞こえたかと思うと、次の瞬間、ザルームに触れる事なく弾き飛ばされたルウェンの姿があった。
 流石に不様に倒れる事はなかったものの、体勢を崩して剣を取り落とす。
「…呪術師……!?」
 まるで予想してなかった展開に、ルウェンも驚愕を隠せない顔になる。そんな彼等の前で、ザルームは相変わらず暗く響く声で暇(いとま)を告げた。
「…信じていただけなくて残念ですが…我が君の言葉は、確かにお伝えしました。私はこれで去ると致しましょう」
「ま、待て……! 逃げるか!?」
 慌てて引きとめようとするソーロンに、フード越しに一瞥を与えると、ザルームは軽く頭を下げ、略式の礼を取る。
「…どうぞ、くれぐれもご身辺にお気をつけあそばされるよう……」
「ルウェン、逃がすな! 取り押さえろ!」
「…んな事言われても!」
 ソーロンの無茶な命令に、ルウェンが悲鳴じみた声をあげる。
「呪術師相手に、下手な攻撃が出来ると思っているのか、あんたは!!」
 もはや敬意も何もあったものではない口調で怒鳴り返しながら、それでもすかさず取り落とした剣を拾い上げた彼は、ある意味立派だった。
 何しろ、ルウェンはザルームが現れた場面を見ていない。どのような手合いかもわからない上に、先程の術の展開の速さ。
 東領の反乱軍の中にも、当然ながら呪術師は数多くいるが、一瞬にして防御壁を張るような事が出来る呪術師が果たしてどれほどいる事か。
 下手に攻撃して、反撃されては敵わない。剣と違って、呪術師の術は回避するのも難しいのだから。
 警戒を強めながらも剣を手に身構えたルウェンだったが、ザルームはそんな彼へも礼を取って彼の意表を突いた。
「…あ?」
 理由がわからず間抜けな声を上げる彼に、陰気な声は言った。
「…貴方が『返り血のルウェン』ですか。その異称は南の地にも届いてきております。…本日はこれで失礼しますが……」
「?」
「…またお会いするような事があれば、このような物騒なやり取りはなしでお願いしたいものです」
「!」
 僅かに苦笑の滲んだ声が紡がれたと思うと、ザルームの身体が透けて行く。
 ぎょっと目を見張るルウェンのソーロンの目前で、ザルームは静かにその姿を消していた。

+ + +

「……」
「……」
 ザルームが姿を消した後、ソーロンとルウェンは無言で立ち尽くしていた。
 それだけ、ザルームの消滅は彼等にとって衝撃的なものだったのだ。何しろ── 普通なら、人が跡形もなく消えるなどあり得ない事だ。 
「…何だったんだ……?」
 やがて沈黙を破ったのはルウェンだった。
 まだ手に持ったままだった抜き身の剣を鞘に収めながら、ぼそりと呟く。
 ザルームとソーロンのやり取りを知らない彼にしてみれば、一体あの呪術師が何をする為に来たのかと疑問を感じるのも当然の事だろう。
 その理由を知るソーロンだったが、まだザルームへの疑惑から抜け出せずにいた。皇帝の刺客ではないと言っていたが…本当にそうなのか、と。
 真実、ミルファに仕えているのだとしても、あれだけの使い手をミルファが隠す理由を思いつけなかった為だ。
 強大な力を持つ呪術師の存在は、それだけで一騎当千の価値がある。もしそれが判明すれば、皇帝側もその存在を恐れておいそれとは仕掛けられないだろうし、友軍内の士気も上がるに違いない。
 もし自分なら公表するだろう。いざという時の為に隠すにしても、何時訪れるかわからない有事の際まで温存するなど、宝の持ち腐れのようにしか思えない。
 だが…同時に思うのだった。
 もし、ザルームが皇帝の刺客ならば、自分が気付くよりも先にこの命を奪い去れたのではないかと──。
 そんな物思いに耽る主人をちらりとみやって、ルウェンははあ、とため息をつく。そして普段の口調に戻ると、考え込むソーロンに声をかけた。
「…殿下?」
「…?」
 まだ難しい顔をしたまま、何かと目をあげるソーロンへ、ルウェンは疲れた声で提案した。
「取り合えず、軍議に行きませんか。他の連中がいい加減に痺れを切らしている頃ですよ」

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