天 秤 の 月
第五章 皇帝カルガンド(2)
この世界が好きかと問われた。
この世界を愛するかと問われた。
今ならきっと答えられる。
今ならきっと、否定する事が出来る。
彼女がずっとそうし続けてくれたように。
けれど、自分は間違ってしまった。
その問いかけの真意に気付かずに、頷いてしまった。
だからもう取り返しはつかない。
…凍りついた瞳が告げる。
── 『皇帝』の名を継ぐ者よ。
── ならばこの世界に心を捧げ、この世界の為に死ね。+ + +
何だか随分長い間眠っていた気がする。
時間に対する感覚は麻痺しきり、周囲の明るさで何とか昼か夜かを判別するのがやっとだ。
ひどく頭が重かった。
何かを考えようとする度に鈍い痛みが走り、痺れを伴って彼の意識を縛る。
何もしなくていい、何も考えるなと。
── それは彼にとってはとても馴染みのある『呪縛』だった。
そう…呪いだ。
父や祖父、さらにその前の彼に連なる人々を介し、永く永く連綿と続く終わりなき呪い。
それに比べれば、今の行動を制限する呪縛などさして苦痛ではない。
何故ならおそらく誰が見ても、今の彼が普通の状態ではないと理解してくれるに違いないのだから。
(…理解?)
ふと浮かんだ言葉に、彼は自嘲するような歪んだ笑みを口元に浮かべた。
(理解など…求めるだけ無駄なのに……)
そんな事は不可能だ。
それは何人にも『呪い』だと認識されないからこそ、呪いなのだから……。
「…おや、お目覚めになりましたか」
何処からともなく声がして、側に誰かがいる事を知る。
朦朧(もうろう)とする意識を凝らし、その声の主を判別しようとすると、何処となく楽しげな笑い声が上がった。
「まだ自我が残っているとはね。その精神力には恐れ入りますよ、陛下。…流石は『分銅』の最たるものと言うべきでしょうか?」
『陛下』── その呼び名で、彼は僅かに自分を取り戻した。
「── …何者、だ?」
考えるだけでもひどく億劫(おっくう)なだけに、そう口にするだけでもとてつもない疲労感が付き纏う。
ひどく掠れ、まともな声にならないその問いかけに、声の主はまるでふざけたような答えを返した。
「何者、ねえ……。役どころで言うならば、悪役と言った所ですか」
くっく、と喉の奥で忍び笑う声。
声音自体は若い男の物のようなのに、口調や言葉はひどく老獪(ろうかい)に聞こえた。
今の状況を楽しんでいる── 楽しめる立場にいるという優越感が見え隠れする。
ふざけた答えだと思う事も出来たが、実際の所、声の主が何処の誰かという問題は重要な事ではなかった。悪役だという、その言葉と状況が答えを出している。
(いつかは…訪れた事だ)
苦々しい思いを噛み締めつつ、自分に言い聞かせる。
逆に今までそうならなかった事の方が奇跡的な事なのだ。それほどに危うい均衡の上で、この世界はあまりにも永い平穏を保ってきた。
自らを悪と称するこの男が現れずとも、遅かれ早かれ同様の事が起こっただろう。しかし──。
たとえ、統治者としての『皇帝』はいなくても、実はそれほど深刻な問題とはならない。多少の混乱はあるかもしれないが、誰か代わりとなる者がいればそれで済む。
東西南北の地を治める領主は皇帝に従属する体制を取ってはいるが、あくまでも形だけのもの。
長い時間をかけて、代々の皇帝の手で地方分権を推し進めて来た。有事の際の混乱が必要最小限で収まるようにと、密かに基盤を固めてきたのだ。
何らかの理由で、皇帝が政治的責任を果たせなくなった時の為に。
…まさかその『有事』が、自分の代で、しかもこのような最悪な形で訪れるとは思いもしなかった。
おそらく、この世界は崩壊に向かって突き進んでいる。突き進んではいるが、まだ存続している。
それはまだ、この自分が『皇帝』として生きているからだ。
『皇帝』の不在は許されない。どんな状態であれ、必ず『生きて存在しなければならない』。
だからこそ、代々の皇帝の座は先代の死を待つ事なく次代に生前譲位される。
その理由を知っているからこそ、自らを悪と言う男はわざわざ自分を生かしているに違いなかった。
── そして、それを知っているという事は。
単に覇権を求めてこんな事をやっている訳ではない、ということ。
そして『こちら側』で完全に隠蔽(いんぺい)されたその『真実』を知るとなれば── 麻痺しきった頭でも、出てくる答えは一つしかなかった。
「…お前は、《陰冥界》の者か……?」
確信を込めて問いかければ、男が虚を突かれたように笑いを収めた。その反応を肯定と捉えて彼は考える。
陰冥界── 遠い昔に分かたれた、この世界とは双子のような関係のもう一つの世界。
この世界においては、もはや御伽噺と思われて久しい。けれど彼はそれが実在している事を知っていた。
── お前はこの世界が好きか?
死の床に瀕した父、前皇帝から皇帝の座を譲り受けたその時に、彼は世界の真実を知った。
そして、選んだ。…彼以外に後継者もおらず、他に選択の余地がなかったとも言うが。
「何が…望みだ」
「…この状況でそれは愚問というものでしょう」
まるで聞き分けのない子供を諭すように、男が答える。
「先程も言ったはずですよ…私は『悪役』なのだと。古今東西、そうした人種のする事は決まっている。財、権力、あるいは── 秩序の崩壊。とてもわかりやすい構図だと思いますが?」
「…そのいずれでもない事は、確かだな」
断言すれば、彼の言葉の何が気に入ったのか、男は愉快そうに問いかえす。
「…ほう? 何故そうだと?」
「そんな事が望みなら、私を…生かす理由がないだろう」
「ああ…本当に貴方には感服しますよ」
男の肩が揺れる。…笑っているのだ。
「正直、所詮は傀儡(かいらい)…まともな思考など出来ないだろうと思っていたのですがね。実に勿体無い…いっそ気の毒としか言いようがない。…皇家などに生まれなければ幸せだったでしょうに」
何処か道化師めいたその言葉は、何故か本心から哀れんでいるようにも感じられた。
そう、不思議と彼は男に親近感のようなものを感じる。
一方的に身体と思考の自由を奪い、彼がそれまで守ってきたものを蹂躙(じゅうりん)している相手だと言うのに、だ。
「では陛下、この道化が何を望んでいるとお考えですか?」
それがわからないから尋ねたというのに、試すように問い返してくる。
── この問答めいたやり取りを、楽しいと感じるのは何故なのだろう?
「さて、な…。それがわかるなら、最初から尋ねたりはしない。だが…」
「ふむ?」
「お前は── 何かを待っている…そんな気が、する」
彼の口から紡がれたのは、推測と言うほど確かなものではなかった。しかし、思いつきとそう変わらないその言葉を口にした瞬間、精神と肉体にかかっていた負荷が不意に消えた。
「……?」
急速に明確になる視界。戸惑う彼のすぐ側に人の気配があった。目を向ければ、そこに見知らぬ若い男の姿がある。
ようやくはっきりと見て取れた顔には、苦々しい笑みがあった。
「…恐れ入ったね。結構念入りに精神を縛ったはずなのに、そんな事まで考えるとは」
声からその人物が今まで会話していた相手なのだと知る。
見覚えのない顔だった。予想通り若い。二十代中頃という所だろうか。
「何故……」
今までの流れを考えても、己を解放する理由がわからずに視線で問えば、男はばからしいと言わんばかりに肩を竦めた。
「皇帝の血筋に呪術が効き難いのがよくわかったからな」
その口調は今までの物と何処か違った。
時として慇懃無礼にも聞こえた丁寧さは何処へやら、見た目に相応しい飾り気も敬意もない、どちらかと言えば乱雑な口調だ。おそらくこちらが生来のものなのだろう。
言外に無駄な事はしないと言われ、彼はその言葉を心の内で反芻した。
(という事は、この男は呪術の使い手なのか──…)
見た目だけではどちらかというと戦士と言った方が近そうだが、それだけで判断するのは誤りだろう。実際、今の今まで己を何らかの術で拘束していたのはこの男なのだ。
実際はどうか知らないが、陰冥界の民はこちら側の人間には到底及ばない身体能力を秘めているという。
彼の想像通りなら、強力な呪術を行使出来ても不思議ではないのかもしれない。
正体を探ろうとする彼のそんな思考を見透かしたように、男が忍び笑う。
「それに…こちらの方が、聡明な陛下には効きそうだ」
「……?」
「…覚えているだろう? 自分が何をしたのか」
何の事だ、と問い返そうとした時だった。
今まで封じられていた余波のように、彼の脳裏に次々に何かの情景が甦った。
「……!」
それは、今まで彼がその手で行った凶行の記憶だった。
(…私は……──)
それは血の通った人間の行為ではなかった。記憶の断片にいたのは、明らかに狂人そのものの己の姿だった。
世界の滅亡を叫び、自ら剣を振るい── 多くの屍を築いた。
妻であるはずの人間を切り捨てた。己の血を引く子等すら手にかけた。
(私は…私はこの手で……)
極限まで目を見開き、己の手を見た。
まるで老人のように痩せて骨のようになったそこには、その時の痕跡など残ってはいない。けれど、それが熱い血潮で染まった感触を、肉と断ち切った感触をまざまざと思い出す。
『今のあなたに…「皇帝」を名乗る資格などございません……!』
最後に手をかけたのは、それまで彼の片腕であった人物。
必死にこちらに訴えかける声に、耳を貸さなかった。彼女はただ、約束を守ろうとしただけだと言うのに。
最後の最後まで、誓いを果たそうとしただけだったのに──。
この手は大切なものを── 守りたいと願っていたものを壊したのだ。
「あ…ああ……」
彼の口から呻き声が漏れた。その瞳が絶望に染まる。
本心からではなかったのだと言う事は容易い。けれど、自分の心は偽れない。
切っ掛けが与えられたものであっても── それに手を伸ばしたのは、間違いなく己なのだ。
『世界』を壊してしまいたい、そんな願望を持っていたのは確かに自分だなのだ。
乱暴に突きつけられた現実に言葉を失う。確かに、無理矢理心を縛られるよりずっと効果的だった。
いっそ、狂気に堕ちたままなら良かった。もしそうなら、世界と心中する事すら厭わなかっただろうに。
けれど…一度正気に戻ってしまったら、もう彼は自分を自分で裁けない。
「先刻の問いに答えてやるよ。…『当たらずとも遠からず』、だ」
そんな彼を興味深そうに眺めながら男が告げたその言葉が、彼を現実に引き戻した。それが何に対する回答なのかを考え、彼は困惑する。
(──『違う』?)
「あんたの言う通りだよ。俺は待っている── 時が満ちるのをな」
まるでゲームを楽しんでいるかのように、その目を細める。
「俺は『世界』を壊す。これ以上とない程に徹底的に。これ以上とない程に残酷に。その為にいろいろと布石を打ってきた。あんたを殺さないのもその為だ。そして……」
薄闇に男の瞳が赤く光る。それは何処か禍々しい、流れる血を想わせる色。
歪んだ笑みを唇に刻み、男は何処か厳かな口調で告げた。
「…俺は、『神』を超えるのさ」