下条家にうこそ

 ここ数日というもの、下条家は大騒ぎだ。
 人々が右往左往している姿を眼下に眺めながら、現在の所蚊帳の外に置かれている彼女は苦笑を漏らす。

「栞も思い切った事をやったわねえ。…ね、そう思わない? 榊(さかき)」
「そうだな」

 振り返りつつ、部屋の持ち主を見やると、あちらこちらに積まれた本の隙間からそんな同意の声が返る。
 子供の頃ほど頻繁(ひんぱん)には来なくなったが、相変らずこの部屋は凄まじい、の一言に尽きる。
 一応、部屋の清掃に使用人が入る事もあるのだが、下手に触れれば崩れ落ちそうなそれは、さぞ彼等にとって脅威以外の何物でもないに違いない。
 ── 最も上には上がいて、元は図書室だった部屋が気がつくと自室同然だった、という人物もいたりするのだが。
 …それが右条榊、この部屋の主の実の父親である事を考えれば、この状況は誰もが納得するに違いなかった。

「斎(いつき)叔父さまもお気の毒。今頃倒れているんじゃないかしら?」
「それはないさ。百合、お前だってわかっているだろう?」

 ようやく立ち上がって姿を見せた榊が、やはり苦笑混じりに言う。
 実際、彼等の叔父であり、現・下条家当主である下条斎の打たれ強さは、それぞれの父親から聞き及んでいた。
 彼女── 左条百合は軽く肩を竦めてくすりと笑いを漏らす。

「それより、今日はどうしたんだ。お前がここに来るのは随分と久しぶりじゃないか」

 頭一つ分背が高い榊が、覗き込むように尋ねてくる。百合はその目をまっすぐに見返して、ただ微笑む。
 ── ここへやって来た本当の理由なんて、今の榊に言ってもおそらく首を捻るだけだろうから。

「あら── わたしがこちらに来なければ、榊からわたしの所へ来たりしないでしょう?」

 だから百合から足を運んだ。それが純然たる理由の一つ。
 百合の真実を突いた言葉に、榊はう、と言葉に詰まる。
 下条家に現在いる従兄妹の中でも、榊は一番賢い。それは読書量からも言動からも窺(うかが)い知れる事実。
 けれど、百合はそんな榊をやり込める事が出来るのだった。特に口が上手いわけでもないにもかかわらず。
 従兄妹の中でも一番口達者な栞ですら、ここまで榊の言葉を封じる事は出来ない事を考えても、その特異さはわかろうというものである。
 …それは、百合の父親と榊の父親の兄弟関係にとてもよく似ていたのだが、当然彼等は知る由もない。

「…用があれば、行くよ」

 苦し紛れの、けれど誤魔化しようのない本音を、こうして引っ張り出せるのも、今の所は百合だけだ。
 その彼らしい答えに、百合はついに声に出して笑ってしまった。

「── 百合、そこでどうして笑うんだ」

 心外だと言わんばかりに反論してくるが、百合はただくすくすと笑い続ける。
 生真面目というか、妙な所で考えが及ばないと言うか。
 今まで榊が百合の元へ来なかったのは、百合の元へやって来る用事がない事も事実だろうけれど、単にそんな用事が出来る前に、百合がこちらに顔を出しているからなのだ。
 …まあ、もう子供でもないから、成人も間近い男が年の近い女の部屋を訪れるなど、気軽に出来るものでもないに違いないのだが。

「ふふふ…いいのよ、無理しなくても」

 目尻に浮んだ涙を指で拭って、百合は言った。

「栞と巡はよく来るから、時々思うだけなのよ。…ああ、榊がいないなあって。それだけ」
「……」

 百合の言葉に、榊は少しだけ目を見開いた。やがてその顔が微苦笑を浮かべる。

「…やっぱり、百合が最強だな」
「え? どういう意味?」

 まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかった。今度は百合が目を丸くする。
 何故なら── 彼等、従兄弟同士の間で『最強』の名を冠するのは、基本的に現在失踪中の栞なのだ。

「栞も、巡も…俺も、何だかんだ言って、百合には頭が上がらないからさ」
「そ、そうかしら……」

 確かに栞と巡は妹・弟のように懐いてくれている気がしないでもないし、榊も自分には結構本音を出してくれる気もするけれど。

「そうかしら。…でも、それならわたしが頭の上がらない姉さまが、一番最強って事になるんじゃない?」

 身体が弱く、現在諸事情で祖父母と共に地方都市で暮らしている姉を、百合はとても敬愛している。
 つまり、『頭が上がらない』という理由だけなら、単純に考えて『最強』を頂くのは百合ではなくなる── のだが。
 そんな百合のささやかな反論も、榊は簡単に退けてしまう。 

「葵(あおい)はほとんどこっちには戻らないだろう? だから百合が最強」
「…何か、嬉しくないわ……」

 ぐったりと項垂れると、何処となく嬉しそうに榊がにやりと笑う。そしてふと真顔に戻ると、榊はぽつりと百合へ言った。

「── 心配しなくても、栞は無事に戻って来るさ」
「…榊……」

 ここへ来たのは一つだけ、聞いておきたい事があったから。でもそれと同じだけ、栞の安否を案じていたのも事実だった。
 …やはり、鈍いのか鋭いのかよくわからない。
 そんな感想を抱きつつ、百合は微笑んで頷いた。

「うん、そうね……。栞は強いもの。傷付いた時、ちゃんと自分の傷を見る事が出来る子だから、きっと大丈夫よね」
「ああ」
「でも…ね、榊。わたし、栞の気持ちがわからないでもないの」

 ── 聞きたい、事。

「私だって、好きでもない人と── 好きになれないとわかっても、結婚しなければならないとしたら、きっと同じようにしたと思うわ」
「──下手をしたら二度と戻って来れなくても?」

 神妙な顔で、榊が問う。
 百合は一瞬言葉を躊躇(ためら)い── やがて微笑む事で返事に変えた。

「戻れなかったらそれが運命。…心を犠牲にして得られる幸せなんて存在するのかしら?」
「── 同感だ」

 榊の口からその言葉が紡がれた瞬間、百合はここへ来た本当の理由について口にしかけた。
 ── が。

「榊……。百合、こっちにいる〜〜?」

 力ないノックの音と共に、廊下から疲れたような声。

「巡? どうしたんだ、一体……」

 驚き慌てた様子で扉に向かう榊の背を眺めて、百合はこっそりため息をついた。
 以前から確認を取ってみたいと思いつつも直接聞けなかった事を、今日は聞けるかと思ったのだが── 今日もお預けのようだ。

「百合、聞いてよ! あのクソ親父がさ〜〜〜!!」

 榊に迎い入れられると同時に、巡が駆け寄ってくる。そして彼が被った数々の被害を一気にぶちまけた。
 その様子を眺める榊の目が、尋ねずとも全てを物語っている気もするけれど。

(…でも、私には栞が言う程、榊が巡の事を好きなようには思えないのよねえ……)

 栞は榊は巡の事が好きだと言うが、百合の目から見るとどちらかというと── 巡本人が知れば烈火の如く怒りそうだが── 『妹』のように大切に思っている感じに近い気がする。
 ずっとお互い兄妹のように育ってきたから、そんな風に感じるだろうか?
 百合自身は初恋もまだだ。恋愛感情を抱いているのとそうでない場合の違いを述べよと言われてもはっきり答えられない。
 だからこそ、気になるのだ。
 ── 聞いてみたいと思うのは、そうしてみんな大人になって、何時かはそれぞれの道を歩いて行く事を淋しく思うからなのか。
 自分だけ置いてゆかれるような気がするからなのか……。

「…百合?」

 思わず自分の考えに没頭してしまった百合を、巡が不思議そうに覗き込んでくる。

「あ、ごめんなさい。…それで、結局行くの? 《天域》へ」
「うん、だって仕方がないし。…榊もここから動きたくないだろ?」
「《天域》へ行く事自体には興味が引かれるけどね。百聞は一見に如かずと言うし──。でもまあ、尾上の御当主と面会するのは、出来れば遠慮したい所だね」
「── ね?」

 だから結局自分が行かねばならない、と巡は肩を竦めて笑う。
 愚痴を聞いてもらえた事と、変わりない榊と百合の様子に落ち着きを取り戻したのか、巡に本来の屈託なさが戻ったようだ。
 いつもならここで栞が容赦なく巡をからかい、もし葵が戻ってきていたら、あの歯に衣を着せない言動(しかも悪意はない)で更に巡を奈落に突き落としただろう。
 榊はしばらく黙って見守りつつ、撃沈してしまった巡に助け舟を出す切っ掛けを探して── そして自分は打ちひしがれる巡を慰めてあげるのだ。
 何時の間にか決まっていた役割。
 ずっとそんな風に続くと思っていたけれど── 今は栞も葵もいない。子供の時間は、何時かは終わってしまう。

「巡、頑張ってね。御土産話、楽しみにしているから」

 励ますように言うと、巡は少し照れ臭そうに頷いた。

「うん。楽しみにしててよ、百合」

+ + +

 子供の時間は何時かは終わってしまうけれど。
 それぞれがそれぞれの道を歩いてゆくのは、もう少しだけ先の事。
 新年を控えた何処か忙しい雰囲気の中で、それでも《地域》守護役・下条家はそんな平和な時間が営まれていた。


 …もっとも、それが嵐の前の静けさであった事がやがて判明するのだが── この時、彼らが知る由もなかった。

〜終〜


After Writing

これは元トレカSSとして書き下ろした『神の悪戯』の外伝です(笑)
ちなみに、下条家の子世代の話のタイトルは基本的に↑で統一となっていて、親世代以上だと「下条家の人々」とつきます(だから何だといわれると困りますが・爆)

現在、まだ作中では榊の名前しかでておりませんが、下条家では現当主・斎の巡と栞の双子、斎の長兄・左条祓(はらい)の娘の百合、同じく次兄・禊(みそぎ)の息子の榊が同じ屋根の下で暮らしておりまして
百合は彼等の中でもおっとりマイペースの癒し系な人物です(性格は父親似…というか、実際には祖母似だと最近気付いた・マテ)
百合には姉が一人いて、作中に出てきてますがそちらは「葵」といいます
葵に関しては別にメイン(?)の話があるので、今回は未登場…って、書くかどうかも決めてないのに(^-^;)←オイ

百合はその内、本篇にも登場します
ある意味重要人物…なのかも(意味深?)
しかし…書いてて感じたけれど、巡ってば思いっきり末っ子状態の上に周りから愛されてますよね……(^▽^;)