その世界は、かつて選ばれた者の《生命》と《祈り》で守られていた。
彼等はその背に選ばれた証である翼を持ち、月にある《聖殿》より、死の間際まで夢を紡ぎ続ける。
地上を癒す夢を。穢れた大地を浄化する為に。
彼等は「翼を持つ者」。
月に抱かれ、夢に住む、世界を守護する高貴なる存在。
…月が消えてしまった今、彼等の姿は何処にも見えない。
+ + +
元気な産声だった。
身体全体で自分の存在を誇示する、小さな小さな生命。それを取り上げた老婆は、手慣れた手つきで赤子を抱き上げ、清めの湯へと運ぶ。
赤子は死の世界からやって来た者。母親の胎内を介して、こちら側へとやってきた旅人だとされている。死の世界の残滓を取り除く為、赤子は特別に清められた湯で身体を洗われるのがしきたりなのだ。
決して難産ではなかったものの、あまり身体が丈夫でない母親は、生涯における大仕事の疲れでか、息も絶えだえの様子でその光景を眺めている。しかし、その口元には何処か誇らしげなものが漂っていた。
五体満足な男の子── それは生まれてすぐに告げられた言葉。死産である事も珍しくない昨今、その言葉は母親にとって何よりの労いだった。
祝福をこめた呪(まじな)い言葉を呟いて、老婆は赤子をそっと湯船に浸す。
すると、初めて触れた湯水の感触に驚いたのか、赤子はぴたりと泣き止んだ。そして、今までぎゅっと閉じていた両の瞼を開く。
老婆は、もう少しで赤子を湯の中へ取り落とす所だった。その深い皺が刻まれた顔にあるのは、驚愕と──
恐れ。
「…何と言うこと……」
思わず、といった様子で呟かれたその言葉に、母親は何か不穏なものを感じ取った。抑えきれない不安を隠せず、倦怠感を引きずりながら上半身を起こす。
「…シドリ、様? 一体、どうしたのです……?」
名を呼ばれた事で、老婆ははっと我に返った。そして、すっかりお留守になっていた手を動かし、丁寧に…むしろ丁寧すぎる程にその小さな身体を清め始める。
そうしながら、シドリ、と呼ばれた老婆は、母親の方へ顔を向ける事すらもせずに一言、ぽつりと呟いた。
「…この子は、《獣宿》持ちだ」
「え?」
母親は一瞬、老婆の言葉が理解出来なかった。
言葉は確かに母親の耳に入ったものの、その意味する所がわからなかったのだ。
…否、理解したくなかったのかもしれない。それ程に、老婆の言葉は重かった。
「獣宿、ですって……?」
声が震える。
信じられない気持ちのこもったその言葉に、老婆はようやく母親の方へと目を向けた。そして小さく頷く。
清めあがった赤子の身体を手早く拭い、すぐ横に用意してあった白い産着を着せ付けると、老婆はあまりの衝撃に言葉もない母親に赤子を差し出した。
ほとんど反射的に受け取った母親は、そうして間近で自らの産んだ子の顔をしっかりと目の当たりにしたのだった。
ほんの少し浅黒い肌と黒い髪は、父親譲り。顔立ちは生まれたばかりではっきりとは言えないが、目元などは母親に似ているようだった。
しかし、母親をじっと見上げる双眸は──。
事実を確認した母親は、食い入るように赤子を見つめていたかと思うと、絶望のため息をついた。
「ああ…こんな、こんな事って……!」
感極まった嘆きを吐き出して、母親はぎゅっと赤子を抱き締めた。
突然の事に、当然赤子は驚いてまた激しく泣き出すが、母親は頓着しない。あやす事も忘れて、ただ縋るように抱き締めるばかりだった。
「…どうして──?」
やがて、その両目から涙が零れ落ち、呟いた言葉は湿った響きを持つ。それを老婆は、ただ沈痛の表情で見守るばかりだ。
これから母親と…子供の誕生を知ってやって来る父親は、一つの選択をせねばならない。
どちらを選んでも、彼等夫婦にとっては痛みを伴う選択を。
何故なら。
…獣宿を持った者の末路は、最終的に死しか存在しない。
それが獣宿を持って生まれた者の宿命。それは一種の病、もしくは呪いのようなもの。
そこから救われるには、人である内に死ぬしかないと言われている。だから、親は選ばなければならない。
── 生まれてすぐにその命を死の世界へと還すか、その子供が自身の《獣》を目覚めさせる事のないように、一生幽閉してしまうか。
後者の場合、確かに命こそ奪われる事はないが、人としての自由は一切失う事になる。そしてそうした場合、例外なく大人になりきらずに死ぬ。
内に獣を宿した時点で、彼等の生命はどんどん削られているからだと言い伝えられているが、実際の所は定かではない。
ただ、二十歳の齢を過ぎても生き延びた獣宿持ちの子供がいた例を今まで聞き及んだ事がない事と、獣宿持ちの子供の命を絶たなかったばかりに、滅んでしまった数々の村の噂話だけが彼等の真実。
《獣》は血に宿り、血によって目覚め、血によって成長し、血によって眠りに就く。
…だから、獣宿の者は葬らねばならない。この世から──
この人の世界から。
そうしなければ、彼等は他者の血を欲し、己の人格を食らい、本能だけの獣になる──
そしていつか獣と成り果てた彼等は、実の親すらも殺すだろう。村人を殺すだろう。
彼等は人として生まれながら、本性は血に飢えた獣なのだから。
「…どうして」
母親は、震える声で呟きながら、やがて訪れる運命の時を待った。