翼の末裔

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 ── 昔、昔のお話です。


 まだ空に数多くの星と、『月』と呼ばれる聖地が存在した頃のこと。地上はたいへん、たいへん、汚れた場所でした。
 空にも大地にも人々を苦しめる毒が混じり、その為実りも少なく、その僅かな実りさえも、毒を含んだ呪われた場所だったのです。
 たくさんの人々が、苦しみながら必死に日々を暮らし、そして死んで行きました。
 一方、地上を遠く離れた『月』は、反対に清浄にして美しい場所でした。
 そこに住まう人々は皆、背に大きな翼を持ち、自由に空を翔け、そしてその心は慈しみに満ちていました。
 月の民は常々、地上の人々の苦しみを我が事のように考えていました。
 何故なら、地上と月が生まれた時、月の民も地上の民も同じ場所から生み出されたとされていたからです。
 かつて、彼等は何度も地上の民を月へと連れて行こうとしましたが、地上の民の弱い体では、天の高みにある月へ行く事など到底耐えられない事でした。
 試みは何度も失敗し、そして、彼等はある時、こう考えたのです。

『あの大地の汚れを浄化さえすれば、きっと地上の人達も健康で幸福に暮らせるだろう』

 それは途方もない、大掛かりな計画でした。
 何故なら、地上は広く、月の何倍もの大きさを秘め、しかもその汚れは一朝一夕でどうにかなるものでもなかったのです。
 それでも、それは地上の民を月へと連れて行くよりは、ずっと現実的な方法でした。そうして、月の民は地上を清める為、地上へと降り立ったのです。
 苦しみに喘ぐ地上の人々を救う為。
 己の片割れとも言える、人々を守る為に。


 …しかし、地上は彼等が思っていたよりも、ずっとずっと── 穢れた場所だったのです……。

+ + +

 旅立ちを決めたのは、とても静かな晴れた夜のこと。

 ── ここを出よう。

 それは衝動的な思いのようであったけれど、元々何かにつけて疎い所のある自分だったから、本当はずっと前からそう思っていたのかもしれない。
 ここで生まれ、ここで育った。
 両親の顔を知らず、何処か普通の人と違った自分を、村の人々は親切にしてくれた。
 非力で彼等に混じって農作業する事もろくに出来ない自分を、大事にしてくれたように思う。
 実際、自分は特別扱いを受けていたに違いなかった。だから、それらの事に対する感謝の心は確かに感じている。感じて、いるのだけど。
 でも── ここは自分の生きる場所、そしていつか死ぬ場所ではない。
 ここで自分はただ、『生かされて』いるだけ。ここにいる限り、自分には生まれた来た意味がないままだ。
 そして…ある時、夢を見た。
 自分が泣いている夢だった。
 どうして、泣いていたのか理由はわからない。悲しいのか、辛いのか── それとも別の何かなのか。
 ただ、溢れる涙を堪える事が出来ずに、幼い頃のように泣いていた。
 誰かが嘆いている夢だった。
 その人は言う── 何故、自分はここにいるのだろう? 何故、生まれてきたのだろう? 誰の為にもならず、誰の必要にもならないというのに。
 どうして自分の夢に知らない人が出てきたのか、その理由などわからない。その嘆きに対する答えもない。
 ただ…ただ、切なく悲しく── そして、同時に何故か幸福な夢でもあった。
 目が覚めても、その幸福感と切なさは残っていて── あとはもう、いても立ってもいられなくなってしまったのだ。
 夢の中にいた人に、会いたくて。
 顔も姿もわからないのに、会いたかった。そして、嘆かないで、と一言伝えたかった。
 わたしがここにいるから。あなたは── 独りではないのだから、と。
 そして…その人のいる場所が、自分の居場所のような気がしてならなかった。そう伝える事が、自分の役目のようにすら思えた。
 それは予知なのだとしても、あまりに曖昧なもの。相手の性別すらもはっきりしない、単なる夢と片付けてしまえる程度のもの。
 …それでも、旅立つ理由には十分だった。

+ + +

 見上げた夜空は、不自然な程に真っ暗だった。
 よくよく見れば、お情け程度に星が散らばっているのがわかるものの、今まで馴染みだった星が、今日はその姿を消していた。
 それを確認して、ティアーレはそっとため息をつく。何だか、ずっと一緒だった友人と離れてしまったような、そんな淋しさを感じたからだ。
 ── 星が、消える。
 それは決して珍しい事ではない。すでに、わかっているだけでも数百年程前から、星は次々にその姿を消し、夜の闇はそれに比例するようにその深さを増しているのだ。
 その原因は、誰にもわからない。
 昔語りに聞くかつての夜空は、星々が一面に広がり輝いていたという。そして、その輝きの比ではない光を湛える、『月』が昼間の太陽のように支配していたのだと。
 想像してみてもピンと来ないが、おそらくそれは素晴らしく美しい光景だっただろうと思う。
 もっとも、村を家出同然で飛び出してきた彼女には、たとえ星や月があったとしても、純粋に楽しむ余裕などなかったに違いなかったが。
 星と── そして、聖地とも呼ばれた月が失われて、人々は徐々に夜目が利くようになったと言う。けれど、それも限度というものがある。
 真夜中の今、特に灯りになるようなものを持っていない彼女の目では、もはや夜道は先の見えない迷路に等しい。
 すでに来た道も定かでない闇の中、ティアーレはついに立ち止まった。
(…今日はこの辺で休んで、夜が明けて道がわかるようになったら先に進みましょう)
 今までろくに働く事もなく、長時間歩き続けた経験もない彼女の足は、たった数刻の道のりでも、すでに痛みを訴えていた。
 歩けなくなる程ではないが、無理をして後に響くようだと困るだろう。
 どちらにしてもこの足とこの闇では、手探りで進んだとしても、大した距離も稼げない。そう判断し、そのままその辺の繁みの中へと分け入り、そこへしゃがみ込んだ。
 手の入っていない繁みは、ちくちくと小枝が刺さって決して気持ちのよいものではなかったものの、そのまま地面に横たわるよりはずっと楽に違いなかった。
 しばらくごそごそと身体の位置を調節し、出来るだけ身体の負担のない体勢を取ると、ティアーレはそのまま目を閉じた。
 山の奥、しかも夜更けの時刻。獣が何時出てもおかしくない状況で、ティアーレはそれでも何処か満足そうな表情で睡魔の訪れを待った── が。
「……?」
 不意に何かの気配を感じ取り、彼女は結局目を開いた。
 かさかさ、と葉擦れの音がする。風が鳴らすそれとは違う、明らかに何かが立てる音だ。
 まさかもう追手が来たのだろうか、と身を固めて様子を伺った。
 がさり、と誰かが落ち葉の積もった地面を踏みしめる音。急速に高まって行く緊張の中、ティアーレは息すらも殺して、必死に物音を立てないようにしていた。

 がさ、かさり、がさっ。

 次第に近付いてくる足音。やがてティアーレは、その足音が自分の今までやってきた方向とは逆からやって来ている事に気がついた。
 つまり── 少なくとも、追手ではない。
 だからといって物騒な昨今、安心していいはずもなかったが、その事実は少なからず彼女を安堵させていた。

 かさっ、がさり。

 足音はすぐ側まで来ていた。満足に灯りのない状態で、その姿を見極めるのは困難に違いない。そして…その逆も言えるはずだった。
 しかし──。
「…あんた、そんな所で何してるんだ。迷ったのか?」
 急に足音がしなくなったかと思うと、それと同時にそんな声が飛んできて、ティアーレは思わず息を飲んだ。
 声の様子では、まだ若い男のようだ。しかし、だからと言って安全とは限らない。彼女は益々身を縮めた。
 すると、まるで呆れたような、困ったようなため息が聞こえたかと思うと、がさがさと足音は迷う素振りもなしに彼女のいる繁みの前までやって来てしまう。
「……!!」
 乏しい知識を総動員して、ありとあらゆる『よくない事』が頭の中を駆け巡る。
 このまま、殺されるんだろうか?
 そんな事を考えた時には、足音はティアーレの目の前で止まっていた。しかし、しばらく待っても何も起こらない。
 恐る恐る顔をあげると、そこに彼女は星を見つけた。
(…目…光ってる……)
 それは、空に散らばる星よりも、もっと熱のある輝きだった。赤を帯びたその金の瞳は、じっと彼女を見下ろしている。
 こんなに暗くなければ、おそらく瞳の持ち主の容貌も知れただろうが、この闇の中ではわかりようもない。
 だからただ、見下ろす瞳をじっと見上げる。不思議とその瞳に恐怖感は抱かなかった。
「…迷子にしちゃ、育ってんな」
 やがて聞こえてきた呟きは、内容こそ失礼極まりないものながら、何処か優しいもので彼女は少し安心する。
「迷子じゃありません」
 何となく聞き捨てならないと思って反論すると、相手はおや、というように少し目を見開いた。
「口、利けるんじゃないか。ずっと黙ってるから、てっきり喋れないのかと思ったぞ」
「喋れます。勝手に決め付けないで下さい」
 何処か小ばかにしたような言葉に、ちょっとだけむっとして言えば、相手は笑ったようだった。
 気配しか伝わらないものの、それだけで場の緊張がいくらか和らぐ。
「じゃあ、こんな所に一人蹲(うずくま)って何してたんだよ?」
「…それは」
 ここで野宿をしようとした。そう言うのは容易(たやす)いものの、よくよく考えれば今会ったばかりの、しかも見も知らない男に話してやる義理などない。
 ティアーレはしばらく考え、そして繁みの中から立ちあがる。
 そうして見ると、男は自分より頭半分くらい背が高いくらいで、外見的な年もあまり変わらないように思えた。
「あなたには、関係ないでしょう?」
 挑発的にも受け取れる彼女の言葉に、金の瞳が眇められる。そして、やはり小ばかにするような口調で言い放った。
「…なるほど? 確かにオレには関係ない事だ」
「……」
「だが、野宿するんだったら、もうちょっと装備を整えてやるんだな。そんな薄着じゃ、夜も満足に越せないぜ?」
「……!」
 言わずともお見通しだと言わんばかりの言葉に、ティアーレは目を見開く。返す言葉も思い付かない彼女に、男は更に言葉を重ねた。
「それにこの辺りにも夜盗が出る。あんたみたいな世間知らずは、さっさと家へ戻る事だ。…何なら、送ってやろうか?」
「!!」
 まるで子供に対するような言葉に、かっとなる。反射的に睨んだ瞳は、何処か冷めた輝きで、余計に腹が立った。
 今までずっと村でこんな扱いを受けて来なかった分、こういう無礼甚だしい扱いに対して、どう対処すればよいかわからない。出来た事はただ、怒りを込めて睨むだけ。
 男はそれに堪えた様子もなく、ティアーレの次の行動を待っているようだった。
 素直に送ってくれ、と頼んでくるとでも思われているのかと思うと、益々頭に血が上りそうだったものの、不意に一つの考えが思い浮かんで、彼女に冷静さを取り戻させた。

 ── この男こそ、一体何の為にこんな夜中に、こんな森の中を歩いていたのか?

 その疑問は、じわじわとティアーレの心に不安を育てて行く。
 男自身が言ったように、今の世の中、何処でも夜盗や山賊といった危険な人間が横行している。世界はあまりに貧しく、それ故に人の心も荒廃しやすいのだ。
 この男だって、そういう人種でないとどうして言いきれる? こんな所を夜中に歩いているだけでも十分怪しいではないか。
「…あ、あなたに送ってもらう必要なんてありません」
 ともすれば震えそうになる声を必死に紡いで、ティアーレは言う。
「あなたが、その夜盗の類でないと、どうして言い切れるんです。わたしを送って…その足で仲間を連れてくるつもりではないの?」
「──」
「おあいにく様ですけど、わたしは村を出てきたのです。今更戻る気などありません」
「……へえ?」 
 ティアーレの言葉に、男は何処か愉快そうな声を漏らす。そして、やはり人をばかにしたような口調で言ってくれる。
「そんな無防備な格好で、何処に行くつもりか知らないが…人を疑うなら、言葉を選べよな。もしオレが本当に夜盗の一員だったら、言いがかりだとか何とか理由をつけて、今ここであんたは殺されてるぜ?」
「……!?」
「言っておくが、オレは夜盗なんかじゃねえよ。大方、こんな夜中に歩いていて怪しい、とでも思ったんだろうが、オレはこの通り、普通の人間より夜目が利くんでね。かえって夜の方が移動しやすいから動いているだけさ。…まあ、信じてもらわなくても結構だけどな」
「夜目が利く……」
 それは目が光っている事と何か関わりがあるのだろうか。そんな事をふと考え、やがてティアーレは名案を思いついた。
「そうだわ。あなた、わたしを手伝って下さいません?」
「…はあ?」
 いきなり態度を変えたティアーレに面食らったのか、初めて男が間抜けな声をあげた。
 それが何となくおかしくて、彼女は勢い付いて言葉を重ねる。口にしてみると、実際それはとても名案のように思えた。
「ええ! 先程も言いましたが、わたしは村を出てきたのです。黙って出てきたから、きっと追手がかかると思うのだけど、わたしにはこの暗闇を進むような無茶は出来ません。あなたが夜盗でないと言うのなら…そして、わたしを放っておけないと思うのなら、わたしを助けて下さい」
 そうすれば、ティアーレはこの夜道を進む手立てを得られるし、最悪男が夜盗の類でも── その場合は、ティアーレは殺されてしまうのかもしれないが── 村までの道を知られずに済む。
 勝手に村を出てきたものの、村の人々達に恨みはない。心配をかける分、危険からは遠ざけたかった。
 男は目を眇め、ティアーレを見下ろす。そしてゆっくりと口を開いた。
「…あんたの家出の手伝いをしろって?」
「家出ではありません!」
 胡散臭そうに言われて、反射的に否定する。
 確かに黙って出てきた事を考えれば、それは十分『家出』と言えるのかもしれない。けれど──。
「…『家出』というものは、帰る場所がある場合に言える事です。わたしには、帰る場所がない。家はありましたが…家族はいませんし、何より──わたしは、あの村では生きていなかった」
「……」
「わたしは大事にされていたけれど、誰も…わたし自身を必要とはしてくれていなかったんです。だから」
「── わかった」
「え?」
 遮るように言われた言葉に、ティアーレは一瞬自分の言葉を忘れる。
 思わずまじまじと男の目を見ると、そこには先程まであった冷ややかな輝きが消えているように思えた。
 決して友好的なものは感じさせないものの、それだけで何となく安心感を感じる。
「…『わかった』って……?」
「だから、あんたの言いたい事はわかった、って事だよ。…いいぜ、助けてやる。今、特にこれと言ってやらないとならない事もないからな」
「…本当に?」
 こんなに簡単に手助けの手を得られるとは思わなかっただけに、ティアーレは面食らって思わず確認を取ってしまう。
 もしかしたらそれが男の手なのかもしれない、とは一瞬思ったものの、それよりも『助けてやる』という言葉が嬉しかった。
「ああ。…その代わり、あんたもオレを手伝ってくれるか?」
「あなたを?」
 確かに返せるものが何もない状態だけに、その条件は当然のような気はした。
 持っている物といえば、この命とこの身体くらいだ。言わば無償で手伝ってもらう以上、出来る事はやらねばならないだろう。
 しかし、何となく即答をしてはいけないような気がして男の言葉を促す。
「一体、わたしはどうすれば?」
「難しい事じゃない。…いや、あんたみたいな奴には難しいかもしれないけどな」
「…何ですか?」
 一体どんな困難な条件を提示されるのか。
 思わず身構えて確認を取ると、男は静かに言いきった。
「── オレは、自分の死ぬ場所を探している。もしくはオレを殺してくれる人間でもいい。そういう情報を手に入れたら、オレに教えてくれればいいのさ。…あんたがオレを殺せるのなら、それが手っ取り早いが…それは無理だろう?」
 男の瞳は真剣そのもので、冗談で言っているのではない事はわかった。しかし── それは簡単に頷ける内容ではない。
 言葉通りに受け取れば、この男は死にたがっている。つまり、ティアーレに死ぬ手伝いをしろと言っているのだ。
「── だ、駄目です! そんな事……!!」
「…そう言うと思った」
 男はくすり、と初めて笑い声を漏らす。
 それは何処か自嘲めいていて、ティアーレは何故だか泣きたい気持ちになった。
「…どうして、死にたがるんです? 生きている事は、何より尊い事でしょう? 生きていなければ、何も出来ないのに……!」
「そうだな。でも、オレは死ななければならないんだ…出来るだけ早く」
「どうして!」
 悲鳴のような声で追求する彼女に、男は静かに言った。金の瞳が、無機質に輝く。
「── オレがオレである為に」

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