この足が土に塗れても
彼女は空を見上げた。 そこにはついこの間まであった蒼穹はなく、どんよりと分厚い灰色の雲で覆われていた。見渡す限りの、雲。空の色など、欠片も見えない。 その雲の向こうには、今はもうあの蒼はない。先も底も見えない、暗黒が口を広げてそこにあるのだ。 それが事実。 この世の全ての者が知る訳ではない、世界の秘密。 (…これから、どうなるのかしらね?) 長い長い、腰どころか膝まで届くような白銀の髪を、乱暴に吹き付ける風に任せて、彼女はその唇に微苦笑を浮かべる。 無垢だったこの世界は、陵辱(りょうじょく)された。 これから始まるのは、今まであった平穏とは正反対の混沌。今までなかったあらゆるものが、あの雲の向こうから流れてくるのだ。 恐怖・不安・絶望── そうしたものが。今まで── 意図的に、敢えて与えられていなかったものが。 光と闇。生と死。そんな相反する事柄でさえ、今までこの世界には正負の区別がなかったのだ。 無垢であると同時に、愚かで無知だったこの地上の生き物は、この変化をどう受け止めるのだろう。 世界が生まれ変わる── 為す術もなく。 (──…見届けるわ) 言葉にはせず、心の中だけで誓う。 誓う相手は、もう何処にもいない。だから心の中のその人に誓う。 (私と、あなたが引き起こしてしまった…全ての結果を) それが彼女に課せられた罰であり、唯一の贖罪だった。 その罪の重さに自ら命を絶つ事も出来ず、その罰故に死を賜わる事も赦されなかった、彼女の。 ── 目を閉じれば思い出す。 焦がれて、焦がれつづけて、苦しみ抜いて── そうして得た、愛しい人。 自分と同じ白銀の髪は、彼女よりずっと短かったが、曲のないつややかなものだった。 自分と同じ虹の瞳は、彼女よりずっと涼しく…そして数多くのものを知り、数多くのものを見てきたが故に、底が見えなかった。 皆に愛され、皆が必要とし── この世界の中心であった人。 …側にいられるだけで幸せだと思っていた。言葉を交わせるだけで、満足しなければならないと思い続けていた。 …触れてしまったらもう二度と、引き返せなくなる予感があった。 「…後悔はしていないわ。そんな事を言っては、きっといけないのだろうけれど」 今度は言葉にして── これは自分への確認。 「私はこの命が果てるその時まで、あなたを愛した事を恥じたりしない」 身の程知らず、と何度も罵(ののし)られ、ついにはこうして混沌の大地へと追いやられてしまっても。 けれど、それは何の感慨も彼女には与えなかった。かの人がいなくなってしまったその時から、彼女の居場所も、そこに属する誇りも全てなくなってしまったのだから。 そう、何処へ行っても彼女にとっては同じ。そして同時に、何処へ行っても彼女は『彼女』でいられる自信があった。 ── かの人が自分と同じように、自分の事を想ってくれた事を知っているから。 再び目を開き、今度は荒れ果てた大地の果てを見つめる。虹の瞳に宿るのは、揺るぎない決意。 そして、一歩目を踏み出す。 傷一つない足が、直接大地を踏みしめた。その白い足はすぐに泥で汚れてしまうが、彼女はまったく気に止めずに歩き続ける。 (── ねえ?) 一歩ずつ確かめるように歩きながら、彼女は記憶に残る面影に語りかける。 (何年も…何百年も── 何千年も時間が過ぎたら、私達も地上の生き物と同じように、巡る魂を持つのだとしたら…いつかまた、私はあなたに会えるかしら?) そんな事を思って、彼女はくすりと笑い声を漏らす。 不可能だとわかっているからこそ、思い描く夢。思い描く── 願い。でも。 (ほら、今、私は大地の上を歩いているわ。かつて憧れて夢見たこの大地の上に、この足で立っている) 本来ならその事自体が、彼女へ課せられた罰。でも、それは他者にとっては死よりも恥ずべき事でも、彼女には違うのだ。 それは不可能だった事が、可能となった証。だから、きっと。 (きっと、有り得ない事なんて何もないわ。何一つ…そう、何もないのよ) 彼女は一度立ち止まり、先程見上げていた場所に微笑みかける。 「…また、会いましょう」 そして彼女は、歩き出す。もう二度と立ち止まる事も、振り返る事もなく。 ── 己に課した、誓いを現実のものとする為に……。 〜終〜 After Writing |