── それは、堕天が見た夢。
己の力が枷となり、地に堕ちる事も許されず、天にも地にも留まれなかった者の。
何故ならその者はかつて天上にあった時すら、夢を見る事しか許されていなかったのだから……。
+ + +
夢見たのは、あの大地。
遥か彼方、手の届かないその上で暮らす人々のように、その日一日をただ精一杯に生きて行く、そんな生き方が出来たらどんなにいいかとあの人は言った。
生を受けたその時から、定められた天命に逆らう事を許されない私達。
逆らえばもうこの場所にいる事は許されず、どんなに願おうとも二度と戻る事は許されない。
それを恐れてはいなかったけれど、私達はそれをしなかった。
何もかも捨てる事で『自由』を手に入れられるとしても──
その代償が余りにも大き過ぎるが故に。
そう…今生きているこの世界を愛する限り、それだけはしてならないのだ。
その事を、誰よりもあの人は知っていた。
だから── 語る。夢見るように。
「…もし、全てを捨てたらどうなるのだろう。そんな事を考えるよ」
何時もの廃園。
他の誰も見向きもしないそこにやって来て、不意にあの人は言った。
遥か眼下に望む大地を見つめる瞳は、何時も何処か悲しげで──
憧れと諦めが底に淀んでいた。
「秩序は乱れ、安定は崩れ…闇が生じる。闇は狂気を招き、憎悪を生み──」
「…滅びを、呼ぶ」
続きを口にすると、あの人はようやく私に目を向けて微笑んだ。
それは生まれ出でてから、ずっと周りに言い聞かされてきた言葉。天命に逆らってはならない──
その理由として。
それでも、とあの人は言う。
「時々、無性に全てを投げ捨ててしまいたくなるんだ。この世界を愛しているはずなのに、同時に考えてしまうんだよ。『本当にそうなるのか、誰も試した事はないのに』と」
その言葉があまりに痛々しくて、思わずその身体に抱きついていた。
…あの人は優しかった。だから、耐えられなかったのだ。
── この世界の、重みに。
叶う事なら、代わってあげたいとどんなに望んだ事だろう。それが無理なら、ほんの一握りでいいからその重みを分かち合えれたら、と。
けれど…私には── 私にだけは、その資格がないのも事実だった。
「…オーリア」
それは彼だけが呼ぶ、私の名前。
本当の名前は嫌いだと言った時に、あの人がつけてくれた仮の名前だった。
「…側に、いるから」
万感の思いを込めてようやくその一言を言うと、きりっと胸の奥が痛んだ。
そんな事は出来るはずがない── そう、この身体が言っている。己の天命を思い出せ、と。
それでも、この想いが消える事はなかった。
「私は、貴方が…どんな道を選んでも、側にいる」
胸の痛みを堪えて、必死に言葉を紡ぐ。
想いの強さを伝えたくて、ぎゅっと腕に力を込める。あの人は──
微笑んだようだった。
張り詰めたような空気がふと緩んで、腰に回していた手に大きな手が重なった。
「…駄目だ、オーリア。出来ない事を口にしては」
「でも……!」
「オーリア。君の気持ちはわかる。だから…いい、言葉にしなくても」
降ってくる優しい響き。
いつまでもそうして声を聞いていたかった。
たとえ、世界を道連れに地へ堕ちても。
愛するこの世界が、そのせいで滅びてしまうとしても。
「…夢だよ、オーリア。全て、夢だ……」
こうして二人、手の届かない大地を眺めている事も。
そう言われたような気がして、胸を先程とは違う痛みが貫いたけれど。
…それでも、その言葉を頷いて肯定する事しか出来なかった。
── いっそ、何もかもがなくなってしまえばいい。
そんな背徳の望みを、私こそが抱いている事を知られないように……。
+ + +
「…おい? オーリア? どうしたんだよ、オーリア!」
「──…え?」
呼びかけられた言葉と不意に肩に手が乗せられた感覚とで、はっと我に帰る。
一瞬、今自分が何処にいて、何をしようとしていたのかわからなかった。そんな彼女の動揺を、珍しそうに見つめるのは二対の瞳。
「どうしたんだよ、あんたがそこまで考え事に没頭するなんて珍しい」
実際口に出してからかうような目で笑う男と、
「具合でも、悪い?」
正反対に心配そうな目を向けてくる少女だ。
それ以外に、彼等の周りには誰もいない。
周囲は険しい山道で、かろうじて人が通れる道はあるものの、考え事をしながら歩ける場所ではない事は確かだった。
彼女── オーリアは自分の失態に苦笑を浮かべる。
「ごめんなさい…シュラン、リュエル」
彼等の名を口にして、ようやくはっきりと目的を思い出した。
── 現実を認識するのにこれ程時間がかかるようではかなりの重症だ。こんな所を襲われていたらうまく対応出来たか自信がない。
「謝る必要はないけど、足元には気をつけろよな」
軽い口調で言うのはシュラン。
一見した所では二十歳前後、実際の所は不明。青味がかった灰色の髪に、金を帯びた赤茶の瞳という一風変わった色彩が印象的だ。
「本当に大丈夫? …お姉ちゃん、呼ぼうか?」
シュランに対して、不安を隠さないのはリュエル。
年は十二らしいが、その生い立ちのせいで何処までそれが正しいのかわからない。結われた焦げ茶の髪こそ一般的な色合いだが、左右の瞳の色が違う。
一つは緑、もう一つは── 銀。覗きこむその瞳を真っ直ぐに見返して、オーリアは頷く。
「大丈夫よ。エルトリンクにはこの後頑張ってもらわないとならないから、今の内に力を貯めてもらっておかないとね?」
「…そうだね」
ようやくリュエルの顔に安心したような笑顔が戻る。
それを横目に眺めて、シュランがやれやれ、と肩を竦めるのが見えた。
「…とかなんとか理由をつけて、エルトリンクの姉さんと話したいだけだろ、お前」
「…! そ、そんな事ないよ!!」
シュランのからかう言葉に、リュエルがすかさず噛みつく。──
いつものじゃれ合いが始まって、オーリアはようやく現実を噛み締めた気がした。
そう…これが、現実。
思い返せばすぐに甦る、あの場所は過去の記憶。
けれど、それはどんなに永い時間が過ぎても、つい先程の事のように生々しく在り続ける。
時によって美化されない代わりに、風化もしない。忘れる事など出来ない──
愛しい、彼女の心の暗部そのもの。
「今日が初陣だからって心細い気持ちはわかるけど、遠距離の感応は気力も体力も消耗するんだろうが。自覚してんのか?」
「大丈夫だよ、ちゃんとやれる!」
「そうかあ? まだ完全に力を制御出来ないくせに」
リュエルとシュランのやり取りは続いている。
言われる事にいちいち反応するリュエルもリュエルだが、その反応を楽しむように、わざと神経を逆なでにするような事を言うシュランも大人気ない。
オーリアは小さくため息をつき、ここが人通りの多い街道でなかった事を感謝した。
「…二人とも。じゃれ合うのもその辺にして──」
「「じゃれ合ってない!」」
声をかければ、息もぴったりに反論が飛んで来る。思わずオーリアは笑ってしまった。
「「笑い事じゃない!!」」
またしても同時だ。
その様子はまさに喧嘩する程なんとやら、なのだが、指摘するとまたいつまで経っても先に進めない状況になるのがわかっていたので、慌てて笑いを収める。
シュランとは、五年。リュエルに至ってはまだニ年。
知り合ってから過ぎた時間はその程度だ。やがて──
彼等もいつか、彼女を置いて去って行ってしまうのだろう。
…今まで関わり合い、そして別れた人々のように。
「ほら、わかったから先を急ぎましょう。他の皆が待ってるわ」
オーリアの言葉に、ようやく二人は何処となく言い足りなさそうな顔をしながら再び足を動かし始める。
その後を追いかけながら、オーリアは果てしなく続く空を見つめた。
あの日、夢見たこの大地に自分はいる。
人々に囲まれ、何にも縛られる事もなく。ただ自由にその日一日を生きて、生きて、生きて──。
…その代償は、余りにも大き過ぎたけれど。
「なあ、オーリア。結局、ガルの奴は来るのか?」
「来るって話だったけれど…どうかしらね。本業も忙しいだろうし……」
今度は聞き逃さずにきちんと受け答えをする。
そう、過去よりも現実、現実よりもやがて訪れる未来に目を向けなければ。
この地上に立った時に、決めたのだ。──
命ある限り、出来得る限りの全てを見届けるのだ、と。
「…来なかったら、ルーンおじいちゃんががっかりするね」
オーリアの答えにリュエルが考えこむような口調で呟く。そこをすかさずシュランはいや、と否定した。
「むしろ、喜ぶだろ。『フッ。この俺に勝てはしないと恐れ入って逃げおったか、若造が』とか言って」
「あはは! 言いそう言いそう!」
シュランの口真似に、リュエルが明るい笑い声を響かせる。
実際その言葉を口にする姿を思い浮かべて、オーリアも思わず吹き出した。
+ + +
「あ! ガルお兄ちゃん達だ!」
やがて見えてきた合流地点に指定していた大岩の元に、数名の人影を見つけてリュエルが嬉しそうな声を上げた。そして、その腕を元気良く振りながら駆け出す。
「待て、リュエル! 走ったら危ねえだろ!?」
「平気だも〜ん!」
「ったく! 待てって!」
足場の悪い道を駆けて行くリュエルの後を、焦った様子でシュランが追いかける。その背中を見送って、オーリアは微笑んだ。
そう── この命が続く限り、見つめ続けるのだ。自分が──
自分とかの人が引き起こした全ての結果を。
たとえ、横にかの人の姿はなく、一人きりでも。
そうして── 有り得ない、奇跡を夢見る。
「オーリア! 早く〜〜!!」
「来てみろよ、ファナの新作、今までに輪をかけてすっげーえげつないぞ!」
「失礼ねッ! この天才サプリミナー、ファナティラの作品に対してその暴言許すまじ!! そこに直りなさい、シュラン!」
「ま、待つんだ、ファナティラ! こんな所でそんな物騒なものを振り回してはっ!」
「止めないで、ガル!」
「おー、やれやれガキどもー。いやあ、若いってないいなあ…なあ、あんたもそう思うだろ? イザ」
「…ルーンさん。言っておきますけど、僕は確かに若いとは言えないかもしれませんが、まだ年寄り扱いされる年でもないです」
「いいじゃないか。若年寄なんだし」
「……(しくしく)」
…口々に言いたい事を言い合っている人々を眺め、オーリアは苦笑する。
血の繋がりもなく。ただ『異端』という言葉で繋がり合う人々は、それでも力強く生きて行く。
涙も絶望も乗り越えて──。
「…シュラン、ファナティラ! 落ち着きなさい! 貴方達がこんな所で暴れたら、必要以上に魔法力が活性化するでしょう! ルーンもわかっていて煽(あお)らない! 年甲斐もない!!」
オーリアの一喝で、騒ぎはぴたりと沈静化した。それを確認して、オーリアはてきぱきと指示を飛ばし始める。
「リュエル、エルトリンクに合流した事を連絡して」
「うん!」
「ガル、目的の魔族の出現位置は?」
「ここから北東に抜けた谷だ。近辺に民家がないのが幸いな所だな」
「そう、じゃあファイザード」
「もう見て来てもらっているよ。そろそろ戻ってくるはずだ」
「ありがとう。それじゃ、リュエルの準備が出来次第動きましょう」
オーリアの言葉にその場にいる全員が頷く。
そこに微笑んで、オーリアは首の後ろで結わえていた髪を解く。ざあっと風に吹かれて広がった色は、闇の色。
その色がかつては違う色であった事を、その場にいる全ての人間は知っている。知っていて…それでも共にいてくれる。
それが何と幸せな事か。
── オーリア。君は自分の名を嫌うけれど、君の持つ天命こそ、私よりも…いや、他の者よりも、ずっと価値あるものだ
かつて聞いた言葉を思い出す。
その時はわからなかった事、理解出来なかった事が、永い時の果てにわかるこの不思議。
出来る事ならば、共に分かち合いたかった。
(…忘れない)
かの人の言葉、かの人の想い。
かの人の涙、かの人の絶望。
── 願い。
それら全てを抱えて、巡って来ては去って行く未来へ向かう。
── 君の天命は『可能性』を育てる。良くも、そして悪くも。だからこそ君は自分を疎んじている。でも私は…その天命を抱えた君を…
(忘れない)
──…愛しているよ
「…オーリア! お姉ちゃんと繋がり取れたよ! 向こうも準備出来ているって」
「そう。じゃあ、怪我しても怖くなくなった所で行きましょうか」
生きて行く。この夢見た大地の上で。
── たとえ、罪でも。
たとえ…── 行く先に待つのが、絶望であろうとも。
この命が、果てるその時まで。
〜終〜
After Writing
という訳で、『堕天幻夢譚』という話の触りです。
実際の物語はこれからあと数年後に始まりますが、その辺は割愛、っと(汗)
大体わかるんじゃないかと思うのですが、この話は『どうして相容れない存在である魔族がこの世界にいるのか』『どうしてオーリア以外の天精が作中に姿を見せないのか』とか(これは他の話が出ないとわかんない部分ですな・汗)そういう、深読みする人でもないと引っかからない謎が解明される物語です(爆)
そんな訳で、世界を同じくする全ての話がこれに繋がっています。
同時に全てが終わらないと、これは書けません。
いや、書けない訳じゃないけど、年代的に一番これが後になるんで(汗)
∴この話は永遠にお蔵入り
…無理です(T▽T)
どう考えても、物理的に無理です!
キャラクター的にはすっごく愛着があるんですけどねッ!!!(握り拳)
…でも、この話に出てきた人々それぞれにシリーズがあるようなものだと思えば(しかも未登場キャラ数名あり)わかっていただけるでしょうか(涙)
…うう、最初はこんなに壮大な世界観になる予定ではなかったのに……(今更…)