襲 (さくらがさね)

 桜の下で交した約束。

 今生で結ばれぬ時は── 死して後の世でまた会いましょう。そして、その時こそは……。

 桜色に包まれて私は逝く。
 遠く果てしない、未来の夢を見ながら。

+ + +

 愛した女の肉は、何故だか涙の味がした。
 柔らかく、白く、未だ暖かな肌は、自分のしている行為を甘美なものに変える。

 これは、罪か?

 天に問うても、地に問うても、答えは得られないまま。
 ただ、永遠に開かれる事のない双眸(そうぼう)が、現実を知らしめる。
 『人』 は、『鬼』を狩る。
 その血肉を不老長寿の霊薬と信じ、同じ『人』を殺して喰らう。彼等にとって、『鬼』は人などではないのだ。

 ── ならば、その逆は?

 この行為は罪なのか、悪なのか。こんなにも愛しいという気持ちが溢れているのに?
 鬼は力の抜けた女の身体をかき抱き、その肉を食む。
 死して後の世での再会を約束した恋人は、そうして自ら命を断ったのだ。その細い首筋に懐剣を突き立てて。
 鬼の叫びも、涙も知らずに。
「…おれは、人ではないのか……」
 咀嚼(そしゃく)を止めて、鬼は絶望に満ちた呟きを漏らす。
「…姫よ。貴女までも、おれを鬼だと言うのか……」
 共に生きる事ではなく、死をもってでの来世の約束が、それを肯定していた。
 好きだと、言ってくれた。
 他の男では嫌なのだとも。
 それなのに── この残酷な仕打ちは何なのだろうか……?
「姫よ…おれは、人だ。人間なのだ……」
 愛しい人が得られれば幸福だし、死なれれば胸が引き裂かれるように痛む。
 生も死も、血も涙もある。痛みも── 悲しみも。
 ただ常人よりも少しばかり自然に近いだけ。昔、誰でも持っていたものを、今でも保持しているだけ。
 他は、人と何一つ変わらないのに。
 変わってしまったのは── 失ってしまったのは、『人』の方。
「来世など…そんな約束など、欲しくはなかった……」
 たとえ、真実生まれ変わり、再び会える日が来るとしても。今の悲しみは癒されない。彼の欲しい幸福は決して得られない。
「貴女は、愚かだ」
 腕の力を緩め、そっと優しく抱き締める。
 冷たい抱擁(ほうよう)。もう、彼の想いに応えてくれる腕はないのだ。
「…来世の貴女も、おれも、…決して今と同じでないのに」
 今でしか得られない幸福を捨ててまで、未来の幸福を選んだのか。今では幸福になれないと信じたのか。
 …本当に来世で出会えると、幸福になれると信じたのか。
「…貴女は愚かで…ひどい女だ……」
 もう、涙も流れない。
 鬼は、ただひたすら、その時を待った。

+ + +

「姫君!! …ああ、何という事だ……!」
「鬼め、姫君の美しさに惑い、狂いおったか……!?」
 追手は、一目見るなり状況を自らにいいように解釈した。
 人ならぬ化物── 鬼が、姫君を自らのものにせんとして失敗し、結果としてその手にかけたのだ、と。
 その悲痛と怒りに満ちた視線に晒(さら)されながらも、鬼は平然と彼等の前に立っていた。そしてゆっくりと口元に笑みを浮かべる。
 姫君の血潮で鮮やかに染まった口元の、その壮絶なまでの笑みに人々は怯(ひる)み、息を呑んだ。
「…鬼…貴様、姫君を……!?」
 血相を変えた男達を前にして、鬼は歌うように言った。
「ああ、おれが殺して、食った」
 そうして姫の艶やかな黒髪を手に絡める。その目がうっとりと眇(すが)められるのを、人々は恐れと共に目にした。
 決して恐ろしい牙や鋭い爪を持っている訳ではないのに── いや、そうであるからこその畏怖であった。
「…おれが、殺したのよ……」
 妖しく光る目は、何処か狂気に侵されていたが、人々は気付かない。『鬼』とは、そういう『生き物』だと認識したに過ぎなかった。
(…姫、これが、おれに出来る手向けだ……)
 彼が噛み切ったように見える首筋の傷。恐らく彼等はよく確かめもせずにそう判断するだろう。
 鬼によって儚く生涯を終えた薄幸の姫君と、世の人は謳うだろう。
 政略結婚を嫌っての自害だとは、きっと思いもすまい。それどころか、鬼と姫が想い合っていたなどとは、夢にも思わないに違いない。
 …ひどい裏切りにも似た、一方的な別れを押しつけられても、結局鬼にとっては誰よりも愛しい者だったのだ。
 ── ふと、視界を何かが掠めた。
 一片の、白い雪のような。
 確かめずとも、それが桜の花弁であろう事が鬼にはわかった。この山に一本だけ、季節を問わず花をつける桜があるのだ。
 かつて、鬼と姫が束の間の逢瀬を交した場所。
(…迎えに来てくれたのか、姫?)
 鬼の目には、もう、周囲は見えていなかった。
 まるで、そうする事が決まっていたかのように、鬼の足が動いた。誘われるように、後ろに下がる。
 そして。
「…っ!!」
「待……っ!?」
 遠くでそんな切羽詰った声がしたが、鬼にはもう届かない。
 ちらちらと舞い落ちる花弁を追って、鬼は姫の亡骸を手放し、中空に手を差し伸べる。
 そこに、誰かがいるかのように。
「…姫……」
 迷子の子供が、母親を呼ぶように。愛しい人を呼んで、鬼は最後の一歩を踏み出した。
 まるで、芝居の一幕のように、鬼の体は飲み込まれるように闇に沈んだ。深い、深い、谷の底へ。
 …来世の旅路へ。


 大地に横たわった姫君の亡骸。佇む人々。そして沈黙した山。
 そんな情景を…一本の山桜が、ひっそりと見守っていた……。

〜終〜