Evergreen 〜比翼の鳥〜

「その棚の上に木箱があるでしょ? …そう、それ。そこに五本くらい入っているはずなんだけど」
 連れて行かれた先は半地下になっている食糧庫だった。
 ランプの明かりだけでは心許ない暗がりが広がる中、指示された棚の前に立つと、横にフレルが当たり前のように並ぶ。
「この頃、ワインの消費が激しいの。まあ、それだけ住民にゆとりが出来たって事だし、平和で結構なんだけどね」
「……」
 言わんとする事はわからないでもない。
 戦火の絶えない明日をも知れない時期では、蒸留酒など日持ちがして少量で酔えるものが売れる。気付けにもなるし、消毒薬の代理にもなるからだ。
 嗜好品が売れるという事は、それを楽しめる状況にあるということ──。
 言われるままに、棚から木箱を下ろす。
 乗せるのはともかく、下ろすとなると女の細腕では確かに辛いかもしれない。そんな事を考えながらも、リーフはその目を自らもごそごそと周辺を探っていたフレルに向けた。
「…おい、フレル」
「何? もしかしてそこになさそう?」
 返って来た呑気な声に、リーフは僅かに苛立ちを感じた。
 まるで本当に手伝わせる為だけに、ここに連れ出したようだ。だが…先程の意味ありげな目。そして、以前の彼女を思い返すに、そんな事だけの為に動くとも思えず、リーフはずばりと核心に触れる事にした。
「…いつ、力を手放した? 『フリューリー』」
「……」
 フレル── かつては、フリューリーと呼ばれていた彼女は、ごそごそと探っていた手の動きを止めると、姿勢を正して真っ直ぐに彼を見つめてきた。
 そこには先程までの友好的な表情はない。かつて、彼を見た鋭さすらも感じる冷たい目。
 そして彼女は静かに口を開いた。
「…その言葉、そっくり貴方にお返しするわ、リフェイ。上位天使の中でも、否定派の最たる場所にいた貴方が、一体どういう心境の変化?」
 静かな声には、僅かな敵意がこもる。
「── 聞いているのは、こちらだ」
「相変わらずね。…こちらの意見には耳を貸す気もないの?」
 冷笑を浮かべ、軽く肩を竦めるのは、かつて対峙した天使『フリューリー』そのままだった。
 何故かその態度にほっとする自分を自覚しながら、リーフは告げる。
「お前がどんな経緯で、今そうしているのか…実の所、それはどうだっていい。ただ…、アディには余計な事は話さないで欲しいだけだ」
「…余計なこと? たとえば、元『守護天使』だったとか?」
「── そうだ」
 その答えに対するフレルの反応と言えば、彼の予測をまったく超えたものだった。
 しばらく沈黙したかと思うと、いきなりぷっと吹き出したのだ。何事かと眉根を寄せる彼の前で、彼女は盛大に笑い声を上げた。
「あ…っ、あははははは!」
「!?」
 ぎょっと目を見開き、珍しく動揺を見せた彼に、フレルは肩を揺らして笑いながら、心底愉快そうに言い放った。
「あ、あの、あのリフェイが……! あんな子に知られたく…ないって!? うっそみたい……!! あは、ははははは…っ!」
「── !」
 その遠慮のない言い草に、流石にかっと頭に血が昇る。反射的に怒鳴り返そうとした矢先、不意に笑いを収めたフレルは真顔で言い切った。
「そんな事、言う訳ないでしょ。頼まれたって口にはしないわ」
「…っ」
「あのね、貴方にも事情があるように…わたしにもそれなりの事情があるの。…知られる訳には行かないのよ。わたしが、彼の守護天使だったって事は」
 その顔は真剣そのもので、リーフは言い返す言葉を失った。
 そんな彼をちらりと流し見て、フレルは再びごそごそと周辺を探り出す。
「…フリュー……」
「フレル。…その名で呼ぶのなら、わたしも貴方の事を『リフェイ』って呼ぶわよ」
 ドスの効いた声で言われ、言葉を飲み込んだ。
 そして彼もまた、先程下ろした木箱の中を探り、4本のワインボトルを引っ張り出す。…そろそろ戻らなければ、アディ達も何をやっているのかと思うに違いない。
 フレルもまた、そこからいくつかの瓶詰めを引っ張り出す。それを抱えながら、憮然とした顔のリーフに、フレルは再び最初の友好的な笑顔を見せた。
「…あのアディって子、いい子ね」
「── そうか?」
「ええ。あんなにも人間を毛嫌いしていた貴方が、趣旨替えするだけの子だと思ったわよ?」
 くすくすと軽やかに笑い、リーフが何か言う前にさっさと上へ続く階段に彼女は向かっている。
 そして途中で振り返ると、何とも言えない顔をしているリーフに静かに告げた。
「もしかして、貴方は知らないんじゃないの?」
「…何をだ」
 フレルの言わんとする所がわからずに問い返すと、フレルはその顔に哀しげな微笑を浮かべた。
「先程の言い草だと、知らないんでしょうね。…リーフ、『天使』がその役目を放棄するのは、一種の罪悪だという事はわかってるわよね?」
「…ああ」
 彼とて『守護天使』だった身の上だ。
 だが、元々人間に対して否定的だった上に、特殊な立場にある『上位天使』の一人だった彼は、それを『恥ずべき事』としては捕らえていても、実際の所どれほどに天使にとって罪深いものかまでは理解していなかった。
 …それを証明するかのように、フレルは彼の知らない事を口にする。
「わたし達が『守護天使』だって事は、誰にも知られては駄目よ。話すとか話さないとか、そういう次元の問題じゃないの。── わたし達は罪人。天の掟に背けば、当然ながら罰を受ける。守護する人間の運命を変えた時は、天使としての『力』と『格』を。守護の対象となっていた人間に、その守護をしていた事を知られた時は──…」
 フレルはそこで一度言葉を切った。
 そして怪訝そうに上へと目を向ける。同時にリーフも弾かれたようにそちらに目を向けていた。
「…何か……」
 ── いる、というフレルの言葉は言葉にはならなかった。

 …── ガシャン…ッ!
 パリーン…!!

 比較的近くで、硝子が盛大に割れる音が響いた。同時に、微かに聞こえてきたのは── 悲鳴。
「…ッ、どけ!!」
「きゃあッ!? ち、ちょっと…リーフ!? 待って、わたしも……!!」
 進路を塞いでいたフレルの身体を乱暴に押しのけ、リーフの身体は動いていた。背後から追いすがるように聞こえたフレルの声は、もう届いていない。
 彼の意識は、先程聞こえた悲鳴だけに囚われていた。無意識に腰に手をやり、軽く舌打ちをする。
 ── 剣が、ない。
 宿に泊まる手続きをする際、上の部屋へ荷物と共に置いてきたのだ。
(…、だが今は取りに行ってる場合じゃない……!)
 先程の悲鳴── あれは確かにアディのもの。
 ここしばらく忘れていた緊張感を取り戻す。彼の目に、先程フレルに対して見せていた凍えた光が再び宿る。
 目的の為ならば手段を選ばない── 冷徹な。けれども、同時にそれは焼け付くような焦りもあって。
(無事でいてくれ……!)
 祈るようなこの気持ちが、何処から生まれてくるのかなど、彼にもわからない。
 けれどもその衝動に身を任せるのは、自然な事だと思えた。── ごく、当たり前の事だとそう思った。
 今はまだ、その感情が何かわからないけれど──。
 そしてリーフはその感情のままに、やがて辿り着いた表へと続く木戸に手をかけた。

+ + +

 フレルがリーフを伴って木戸の向こうに消えるのを見送ると、コトンと音がして目の前に皿が置かれていた。
 注文した料理はもう終わっていたはずで、何だろうとそこに目を向けると、そこには今までほとんど口にした事のないような、綺麗なお菓子が置かれていた。
 ランプの光を受けてきらりと光るそれは、果物のタルトだった。
 中に詰められた赤い果実が宝石みたいにつやつやで、タルト生地は見るからに食欲を誘うキツネ色。しばらくアディは、言葉もなくそれを見入っていた。
「う…っわあ……、綺麗……!」
 正直な賞賛に、それを置いたゴードの顔はにっこりと満足そうな笑顔を浮かべる。ここまで素直に感想をくれると、作り手としてあれこれしたくなってしまう。
「こ、これ……?」
「まあ…お近づきの印、かな」
「…食べていいの……?」
 おそるおそる尋ねるその姿に、ゴードは思わず吹き出す。
 目の前に置くだけ置いて、食べては駄目なんてそんな意地悪はとても出来ない。もちろん、アディがそう考えている訳でない事もわかっている。
 どちらかと言うと注文もしていないものを食べていいのだろうか、という困惑からそんな事を尋ねたのだろう。
「どうぞ。食べてもらう為に作ったものなんだからね。…お代の事は心配しなくてもいいよ。これは宿代とは関係ないから。君の連れ…リーフだっけ。彼に何か言われたら、僕がちゃんと説明してあげるよ」
 そう言うと、ようやく安心したのかアディの顔に笑顔が戻った。
「えへへ、良かったあ。リーフって、こういうのにちょっとうるさいんだもん」
「彼…お兄さん、じゃないんだよね?」
「え、うん。血は繋がってないよ」
 言いながら、アディは添えられていたフォークを手にする。
 心はすでにタルトにあるのか、ゴードの質問に対する答えもあっさりとしたものだった。
「あたしが六歳くらいの時に会ったの。それ以来、ずっと一緒に旅をしてるんだ…── ゴードさん…これ、綺麗過ぎて崩すのが勿体無いよ〜〜」
 いざフォークを握ったはいいが、綺麗に仕上げられたタルトを崩せずに、アディが困った顔でそんな泣き言を言う。
 そんなアディにまた吹き出して、先程フレルと連れ立って出て行った青年を思い出す。
(なるほどね、道理で似ていないと思った)
 兄妹にしてはあまりにも共通点がないと思っていたら、赤の他人だったのかと納得する。
 だが、先程リーフがアディに向けていた心配そうな目は、本心からのもののようだった。血の繋がりなどなくても、絆というものは出来るものだと暖かな気持ちでそんな事を考えた時だ。

 …ざわ…っ

「…?」

 何か、人の気配を感じた気がして、ゴードは何気なく店の入り口へと顔を向けた。
 先程他の客は帰って行き、今、店の中にはアディとゴードしかいない。新たな客だろうか、そんな風に思った矢先。

 …バンッ!!

 乱暴に店の入り口の扉が開き、あ、と思った時には黒ずくめの男達が数人、風のような勢いで入ってきていた。
 …客ではない。
 そんな認識を持った時には、もう男達は状況についていけていない二人に肉薄している。

 …ガシャンッ!! パリーン!!

 反射的に身を引いた瞬間、腕が背後にあった壜に当たって床に落ちた。
 数本まとめて落ちたそれは、思いのほか激しい音を立てたが、侵入者を怯ませる事はなかった。
「…え、や、きゃああああ!?」
 気がついた時には、男達の一人がアディの腕を掴んで捻り上げていた。
「い…ッ、た……」
「…アディ!?」
「── 動くな」
 自由を奪われ、苦痛に顔を歪めるアディの様子に身を乗り出すと同時に、ぴたりと冷たく硬い感触と感情のこもらない声が突きつけられる。
 男の一人がゴードの咽喉元にナイフを向け、それ以上の行動を制限する。…強盗にしては変だ、と思った矢先、アディを捕えていた男が別の男に声をかけた。
「…おい、確認しろ」
「はっ…間違いありません。先日受けた報告にあった容姿と酷似しておりますし、何よりこの特徴的な瞳の色…別人である可能性は低いかと」
(…何だ……?)
 そのやり取りを聞く限りだと、どうやら目的はアディの身柄らしい。
 だが、アディ本人にはその理由がわからないらしく、自分を見下ろす二つの視線の狭間で混乱を隠さない顔をしていた。
 捻り上げられていた腕は、どうやら逃げる素振りがない事で、多少は力を緩めてくれたらしいが、完全に解放はしていない。
 一体、どうなっているのかと思っていると、アディを捕えている男と、ゴードの行動を制限している男以外が、いきなりすっと跪(ひざまず)いた。
 それはなかなかに堂に入っていて、彼等がそうした礼を取る事を日常行っている事を示していた。すなわち── 明らかに、賊とは違う。
 そしてアディの容姿を確認した男が静かに口を開いた。
「…突然、このような無礼を働いて申し訳ございません」
 淀みなく発音されたのは、マザルークの言葉。
 この街では決して珍しくはないものの、その後に続いた言葉はゴードを驚愕させるに十分だった。
「旧アディア王家の直系にして、現在、唯一王位継承権を有するアディライト=ケイナ=アディア様。我等が主がその身柄を欲しておられます。…ご足労願えますか?」

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