Evergreen 〜比翼の鳥〜

12

 迅速な対応が功を奏したのか。
 フレルの傷は出血の割りには深くもなく、肺などの身体の重要な器官を傷つけるものではなかった為、夜半を過ぎる頃には治療も完了した。
「…後は安静にして様子見だな」
 リーフと共にフレルを寝台まで運んだマリウス医師は、額の汗を拭いながらそう結論した。
 医師が到着する前に意識を失っていたフレルは、治療中一度も意識を取り戻さなかった。
 倒れた際に頭を打った可能性があるが、倒れてしばらくは意識があった事もあり、簡単には結論出来なかったのだ。
 医師が帰っていってしまうと、店の中が急に静かになった。今までの慌しさが通り過ぎて、一気に気が抜けたような感じだろうか。
 だが、そこに漂う空気は重かった。その原因の一つであるゴードは、店の片隅の椅子に座り込み、フレルの治療中かずっと口を開いていない。
 何処か思いつめたようなその顔色は悪く、今にも倒れてしまいそうにも見えた。
「…取り合えず、片付けた方が良さそうだな」
 おそらくこの場でもっとも建設的な意見をリーフが提案すると、ようやくその顔を上げた。
 確かに店の中は荒らされたままで、床にはまだ割れた硝子の破片が散らばっている。このままにしておいては危険だし、何より仕事も再開出来ない。
「そう、ですね……」
 ようやく重い腰を上げ、ゴードは片足を引き摺りながら本来の定位置である厨房へと向かう。
「それじゃあ、僕はここを片付けます。済みませんが、リーフさんとアディは店の中をお願い出来ますか?」
 顔色はそのままに、ゴードが指示を出す。二人に異論はない。すぐさま三人は作業に取り掛かった。
 黙々と、片付けに精を出す。
 時刻だけを考えれば、部屋で休んでも良かったのだろうが、三人が三人ともとても寝ていられる心境ではなかったのだ。
 ゴードはフレルの安否に気を取られ、アディは自分自身の身の上について思い悩み、リーフはアディに対してどう説明すべきかを考えながら、割れた破片を拾い、倒れた椅子やテーブルを元通りに起こす。
 その結果、夜が明ける頃には全てを完全に、とまでは行かないが、あらかた片付ける事が出来た。
 外が白々と明るくなって行く。それを切っ掛けに、ようやく手を休めてそれぞれが休息を取る事にした。
 一足先にアディが寝に行き、リーフがその場に留まる。ゴードが不思議そうな目を向けて来るのへ、リーフは静かに口を開いた。
「…迷惑をかけた。済まない」
「リーフさん……?」
 思いがけない言葉だったのか、ゴードの目が軽く見開かれる。
 そこには責める感情は欠片もない。まったくそんな事にまで考えが及んでいなかったという表情だった。
「謝って済む問題ではない事はわかっているが……俺の責任だ」
「何を言っているんですか。確かに…今回の事はとばっちりと言えばそうなのかもしれませんが…あなた方をここに連れて来たのはフレルだし、客と認めたのは僕です」
「しかし、」
「むしろ今回は、あなた方も十分被害者ですよ。本来は客なのに、店の片付けまで手伝わせてしまいましたしね」
 そう言って苦笑するゴードに、リーフはゆるりと首を振った。ゴードが受けた被害を考えれば、とても足りるとは思えなかった。
 あらかたは片付いたとは言え、修理が必要なものもあるし、ワインを筆頭に買い足さなければならない物がいくつもある。
 しばらくは商売にはならないはずだ。
「…これくらいは当然だ」
「そう言ってもらえると助かります。きっと、僕一人だけだったらしばらく手付かずだった気がしますからね」
 ふと、そこでゴードが表情を消す。視線を床に落とし、彼は小さな声で呟いた。
「…どうもね、駄目なんですよ。女の人が傷付いて倒れるのは」
 それは、彼の中に今もまだ生々しく残る傷。フレルが傷付いた事は、普段は奥深くに沈んでいるそれを揺さぶり起こすのに十分だった。
 どう相槌を打って良いのかわからないリーフに構わず、ゴードは続ける。
「もうあれから何年も経つのに…引き摺るものですね」
 そして視線は床から、言う事を聞かなくなった片足へと向かう。── 過去に繋がるものへ。
「実は以前、僕は妻を亡くしているんです。この足も、その時に動かなくなりました。結婚して、間もない頃です。二人でここから山を一つ越えた所にある村へ、人を案内した帰り道でした」
 行きはよく晴れていて、雨の気配は何処にもなかったのに、帰る途中で天候が急に変化した。
 山の天気が気まぐれなのは、いつもの事だ。特に珍しい事ではない。
 丁度、険しい山道に差し掛かった辺りで、ついに雨が降り出した。
 その村とは行き来する者も多く、トワルで生まれ育った彼には慣れた道だ。トワルまでは、目と鼻の先。この山道を抜ければすぐに街道に出る。
 ── そんな場所だったのも、原因の一つだったのかもしれない。
「ひどい雨でした。途中で止まって様子を見ようにも、周囲がよく見えない程でした。それどころか、益々ひどくなりそうで── 先を急いだ方が良いと決めた時、すぐ近くに雷が落ちたんです」
 光。轟音。地響き。馬車の中から、妻の悲鳴。
 馬も驚きと恐怖で、激しく嘶(いなな)き、暴れ出す。
 いけない、と思った時には遅かった。馬を制しようと握りなおした手綱が、雨で滑る──。
 それは、ほんの僅かな時間の出来事だった。
「僕と妻は、馬と馬車ごと崖の下へ落ちました。御者台にいた僕は地面に投げ出され、妻は……」
 馬車の中にいた事が災いしたと、後で状況を調べた役人から聞いた。
 落下の衝撃で馬車は木っ端微塵になり、それら全てが中にいた彼の妻の身体に圧し掛かったのだ。
 おそらく、即死に近かっただろうと役人は語った。けれども、それが何の慰めになるだろう──。
 二度と目を開かない彼女の、包帯に包まれた体が目に焼きついて離れない。それは手当ての為のものではなかった。負った傷を隠す為のものだった。
「…ああ、そう言えばその時にフレルに会ったんですよ」
「フレルに?」
「ええ。丁度そこに行き合った彼女が僕を見つけてくれて、トワルまで人を呼びに行ってくれたんです」
「……」
 そういう事か、とリーフは心の内で納得した。
 恐らく、その時ゴードも死ぬはずだったのだろう。そしてフレルはその運命を捻じ曲げた── 自分がアディの死を前に、そうしたように。
「フレルにはとても感謝しています。彼女がいなければ、多分僕はここまで立ち直れなかったと思いますから」
 再び視線を持ち上げると、ゴードは軽く肩を竦めて微かに苦味の漂う笑みを浮かべた。
「変な話かもしれないけれど、フレルと顔を合わせた時に、何故かとても良く知っているような気がしたんです。…こういう事を言うと、変な誤解をされてしまいそうですが」
「…誤解……?」
「ええ。フレルは妻でも恋人でもありませんからね。強いて言うならば、兄妹と言うか…家族みたいなものかな……」
「……」
「だから彼女には、誰よりも幸せになってもらいたいと思っているんです。一番僕が苦しい時に助けてくれた人ですから」

+ + +

 身体が重い──。
 最初の頃に比べると、随分重力の重みには慣れたはずなのにどうした事だろう。まるで、胸の上に石でも乗っているようだ。
 重苦しさはやがて息苦しさを伴い、フレルはその苦しさで目を覚ました。
 目に飛び込んできた周囲の様子は随分と薄暗かった。一体、今がいつ頃なのか判断がつかないが、どうやら昼間ではないようだ。
 相応の年月を経た天井の木目に見覚えはなかったが、漂う空気はこの数年で慣れ親しんだ場所のもの。
 一体、何処の部屋だろう。少なくとも、自分に与えられていた部屋ではない。
 確認しようと、特に考えずに身を起こし── たちまち胸部を走った、呼吸も止まりそうな痛みに再び寝台へと沈む。
(い…っ、いったああ……っ)
 悲鳴すら上げる事の出来ない、不意打ちの激痛で、フレルはようやく目を覚ます以前の事を思い出した。
(そうだわ、わたし…ゴードを助けようとして……)
 表側が静かになったので、全てが片付いたのかと様子を見に行った時、床に蹲(うずくま)っていた男が硝子の破片を手に取るのを目撃して。
 ── 男の視線がゴードに向かっている事に気付いた瞬間、後先を考えずに飛び出していた。
 破片を受けた時、痛みよりも奇妙な悦びを感じた。悦び── 充足感と表す方が近いかもしれない。
 もはや、未来を見通し導く力を失くし、ただの人間の女になってしまった自分でも、まだ彼を守る術があったのだ、と。
 どうにか痛みをやり過ごし、そろそろと目を胸元に向け、指で刺激しないように気をつけながら触れると、木綿の寝着の下に包帯の感触があった。
(…傷、深かったのかしら)
 取り合えず重苦しく感じていたのは、この苦しい程に締め付けている包帯のせいだろう。呼吸が無理なく出来ているという事は、肺などが傷付いている訳ではないという証だろうか。
 …もしかすると痕が残ってしまうかもしれない。そんな事が頭を過ぎり、小さなため息をつく。
 自分はそんな事は気にしないが(むしろ名誉の負傷という感覚が強い)、ゴードが気にするかもしれない。何しろ、目の前で彼を庇ったのだ。
 自分のせいだと思うかもしれない。それを思うと、いささか気が重い。
 ── ゴードは優しい。
 妻を喪い、足を負傷し── 生きる気力もなかったはずの状況で、急激な変化に耐え切れず衰弱していた自分に部屋を提供し、彼等を発見した事になっていた自分へ、感謝の言葉すら口にした人間。
 かつて自分がそうあれと願い導いた、数少ない善良な魂の一つ。

『ありがとう…あなたが通りかからなければ、僕は助からなかった』

 あの言葉が、どんなに耳に痛かったか。
 …意識を失っている間、懐かしい夢を見た。
 あれは自分のこの手から、彼の運命が離れてしまった日の事だ。同時に自分が、『天使』ではなくなった日でもある。
 悲しみと、喜びと── 悔恨と決意が入り混じった、幸福でありながらも思い出す度に苦みを感じる記憶。
 後悔は、していない。けれど自分の取った行動が、正しかったとも思っていない。
 一人生き残ったゴードが、愛する妻── セイネを喪ったと知った時の、あの天を呪うような慟哭を見てしまった今は。
 自分は彼の命を守る事は出来ても、その心までは守れなかったのだ。
 幸せを祈っていたはずなのに、結果的には辛い思いをさせる事になってしまった。…この上、不必要な心配や責任を感じさせる訳には行かないのに。
(…どう言えばいいのかしら……)
 気にするな、と言っても気にしないはずがない。どうしたら── そう思い悩んでいると、カタンという物音と共に、部屋の扉が開く音がした。
 思わず身体が強張った。もし、ゴードだったら。
 自分はどんな顔をして、彼を見ればいいのだろう?
「あ、フレルさん! 気がついたの!?」
 しかし、予想に反して耳に飛び込んできたのは、そんな明るい少女── アディの声。
 ゴードのものではなかった事に安堵しつつ、身体の力を抜くと、アディが枕元にパタパタと駆け寄り、今にも泣き出しそうな顔で覗き込んで来る。
「良かったあ〜〜!! あっ、傷! 痛くないですか!?」
「…ええ、大丈夫よ。アディ」
 安心させるように微笑んで見せると、アディはほっとしたように表情を緩める。
「フレルさん、一日近く意識が戻らなかったんですよ。倒れた時に頭を打っているからかもって、皆で心配してて…ああ、ほっとしたあ……」
「そう…心配かけちゃったのね。ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ! …あっ、ゴードさんに知らせなきゃ!! すぐに呼んで来ますね!!」
「え、あ……っ」
 まだ心の準備も出来ていないのに、引き止める暇もなく、アディはあっと言う間に扉の向こうへ姿を消してしまう。
 そこでようやく、フレルは自分が寝かされているのがゴードの部屋である事に気付いた。
 おそらく、二階にある自分の部屋に運ぶのが大変だったからに違いないが、同時に一日近くゴードが身を休める場所を占領していた事になる事に気付いて、さらに居たたまれない気分になる。
(…どうしよう、どんな顔をして会えばいいんだろう……)
 胸の傷さえなければ、このまま逃げ出してしまいたい。けれど、逃げた所で事態が良い方向へ動く訳ではない事も確かだ。
 やがて少し離れた所から、足を引き摺りながら近付いて来る足音が聞こえてくる。
 フレルは覚悟を決めた。

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