のワルツ  (For ながおさま)

 あたしの名前はケイト。ぴっちぴちの女の子。
 毎日身綺麗にしてるの。大好きな、あの人の為に。

+ + +

「…おはよう、ケイト」
 寝ぼけ眼で、ハザマが毎朝の挨拶をくれる。
 朝が弱いハザマを起こしてあげるのは、あたしの大切なお仕事。毎朝欠かさず彼を起こし、彼の膝の上に乗って、朝の一番のキスをしてあげる。
「おはよ、ハザマ。今日もいい天気だよ」
 切り取ったように窓から見える空は、最近じゃ珍しい程に綺麗な青空。
 ハザマはまだ半分夢の中にいるような顔であたしを見つめて、ちょっと荒れた大きな手であたしの頭を撫でてくれるの。
 これがあたしの朝の幸せ。
 朝御飯を食べるよりも、ハザマに頭を撫でてもらう方がずっと好きなの。多分、ハザマは知らないだろうけど。

+ + +

 あたしとハザマの出会いは、残念ながら覚えていない。
 気がついたら、あたしはぶるぶる震えながら、ハザマにしがみついていた。
 視界に入ったハザマの手にはいくつもいくつも引っ掻き傷があって── あれは多分、あたしが無意識にやった事に違いない。
 でも、その大きな手が優しく頭とか背中を撫でてくれたのが本当に嬉しかったから、あたしはその傷について謝る事も忘れて、伝わってくる暖かさを手放すまいと必死だった。
 そうして連れて行かれたのがハザマのおうちで。
 気がつくと、ハザマとあたしの生活は何時の間にか始まっていたのだった。
 二日ばかり、ハザマはあたしを『チビすけ』とか『チビ』とか、ともかく失礼な名前で呼んでいたのだけど、何がきっかけだったのか、いきなり『お前の名前はケイトだ』って真顔で言って、それ以来ずっとあたしの名前は『ケイト』だ。
 ハザマは一日の半分はおうちで、半分はお仕事に出かける。あたしはずっとここでお留守番。
 外に出たいと思わないわけではないけれど、ハザマのおうちはそれなりに広いし、日当たりも悪くないから、まあ我慢は出来る。
 でも、最近── 離れている事がすごく苦痛になってきたの。
 あたしはハザマが好きだし、ずっと一緒にいたいけど、ハザマの方はきっとあたしをそういう対象には見てないんだろうし…多分、あたしの気持ちも気付いてない。
 ハザマは黒い髪に黒い瞳の、すごく無愛想な顔をしてる。にこりともしない。
 お仕事も何をやってるのか、あたしは知らない。なんで、こんな男が好きなんだろうとか思うけど、好きなんだからしょうがない。
 離れたくないけど、必ずここに帰ってきてくれるからいい。
 淋しいけど、ここにいる時は一緒にいられるから。
 …なのに。
 ある日、ハザマに電話がかかってきた。
 もちろん、相手が何を言っているのか、あたしにはよくわからなかったけど、ハザマの口調から偉い人らしい事だけはわかった。
「…三日間、ですか」
 少し固い声音で、ハザマが言う。
「…はあ、まあそれは仕方がないと思いますが……
「え? 明後日から? …わかりました。── じゃあ、当日に
「はい、資料は明日までには揃うでしょう。それでは」
 電話を切ってから、ハザマは困ったような顔であたしを見た。そして唸るように漏らす。
「…三日も放っておいて、大丈夫かな……」
 その言葉にあたしはびっくりして飛び上がった。
 ハザマはほとんど無意識に口にした言葉みたいだけど、内容が内容なだけにあたしの耳にははっきり聞こえた。
 ハザマは、三日もいなくなるつもりだ。あたしを一人ここに残して。
 ひどい、ひどすぎる!! 一日なら我慢出来ても、三日間も会えずにいるなんて絶対に出来ないよ!!
「ダメ! 行っちゃダメ!!」
 力一杯抗議してしがみつくと、ハザマは困ったように頭を掻く。
「参ったな…でも行かないといけないし…かといって誰かに預ける訳にもいかないし……」
 もちろん! そんな事したら許さないんだから!!
 相手の顔、引っ掻いてやる! 男でも女でも関係ないよ!!
「…三日分の食い物は用意しとけるし……。何とか、なるか?」
 なる訳ないでしょっ!!!
「行かないでよ〜ハザマ〜」
 思い切り甘えた口調で言ってみるのに、ハザマには効果なし。まるで埋め合わせみたいに頭を撫でてくれたりして。
 腹が立つ!
 …なのに、こうされると我がまま言えなくなっちゃうんだよね……。これが惚れた弱みってやつかも……。
 結局、そうこうする内にハザマは仕事の為に三日も帰ってこない事になってしまった。

+ + +

「じゃあ、いい子で留守番してるんだぞ」
 寝坊でも何でもすればいいんだわ! …とか思っていたのに、習慣って恐ろしい……。
 気がついたら何時ものように起こしちゃってた。
 玄関先で、ハザマは珍しくスーツ姿。意外と似合う。何時もとは言わないけど、たまにはこういうのもいいな。
 ── なんて、見とれている場合じゃないっ!!
 これじゃ、本当に置いていかれちゃうよ!
 そう── こうなったら着いて行くまで!! とここ数日心に秘め、機会を狙っていたのにどうしても実行に移せない。
 …だって、それが元で嫌われちゃったら嫌だもの。
 放り出すような人じゃないけど、今までたまに笑ってくれたりもしてたのに、それすらもなくなるなんて辛いもの。
 ハザマは滅多に笑わないけど、笑うととても優しい笑顔になるのよ…外でのハザマがどうだか知らないけれど、これは私だけの特別だと信じたい。だから、なくしたくないの。
 置いていかれるのは嫌だけど、嫌われるのはもっと嫌。
 そう思ってしまったら── 動けなくなっちゃって。
「それじゃ行ってくるから」
 ハザマがそう言って、何時も通りに頭を撫でて玄関のドアを出て行くのを、結局引きとめる事も出来ないまま見送ってしまった。
 ぱたん、とドアが閉まってしまうと、不意に後悔が押し寄せてきた。
 だって── 何時もハザマは帰ってきてくれるけれど、今度も…ううん、今までだって絶対の保証はなかったんだもの。
 外は色んな危険なもので一杯。車とか、ちょっとした弾みで命を奪うものが溢れてる。
 今度は三日もいないのに、あたしの知らない所でハザマが無事でいてくれるかどうかなんてわからないじゃない!!
 ひょっとしたら…知らない内に死んじゃったり…したら……。

 オトウサントカ、オカアサンミタイニ。

 ── 駄目だ!!
  やっぱり着いて行く!! 嫌われてもいい、ハザマが生きて元気でいるならいいよ。そりゃあ、辛いけど。でも、今は離れたくないんだもの!!
 思った時には体が勝手に動いていた。
 小走りにこの部屋で唯一直接外に繋がる場所── ベランダへ走る。
 ここの鍵は何時も開けてあるから、ラクに出られた。そして手すりによじ登って下を見る。
 …………。
 知らなかった。ここってこんなに高かったのね……。
 吹き上げてくる風が冷たい。風を透かして地上は遥か下に見えた。しばらく見ていると玄関らしき場所から小さな人影。
 ハザマだ!!
「ハザマーっ!!!」
 力の限り叫んだ。でも風が強くて、彼には届かない。
「ハザマっ! 待ってよーっ!!!」
 もう一度。今度は届いたのか、ハザマが立ち止まる。そして首を捻っているのがわかった。
 まさか、な。
 何だかそう言っているような感じで、彼はそのまままた歩き出す。
 ちょ、ちょっと待ってよ。普通、そこまで思ったらこっちを見たりしない?
 …あ、でもハザマはすごく目が悪いんだっけ……。
 だからって、ここで諦めて堪るか!!
「ハ〜ザ〜マァ〜〜ッ!!」
 体全体で叫ぶ。不意に何とも言えない違和感が体を襲ったけれど、そんな事には構っていられない。
 ハザマの歩みが止まった。そのままゆっくりとこちらに顔を向けて……。
「ハザマ!!」
 やった! 届いた!!
 ── そう、思った瞬間。
「きゃあっ!?」
 いきなり近くで悲鳴が上がった。女の人の声だ。
 何だ? とか思ってそちらを見ると、隣の部屋のベランダに女の人が突っ立っていた。ちょっと小太りな、中年に差し掛かった感じの──。
 なんて事を思っていたら、その女の人は今にも卒倒しそうな声で言った。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっとあなた!? ダメ、駄目よ、若い身空で早まっちゃっ!!」
「…はあ?」
「い、いいい、いい!? お、落ち着いて、落ち着くのよっ?」
 落ち着くのはどう見ても彼女の方だと思う……。
 それより、ハザマは!?
 慌てて目を戻す── 地上で彼がこちらを見上げているのがわかった。
 …あれ? でも何か、様子が、変……?
 その、刹那。
 不意に強風が吹き上げ、反射的に顔を庇った時。
 何かが違う。そう思った。でも、それが何かわからない内に、あたしの体はバランスを崩してそのまま──。
「き、きゃああああああ〜〜〜っ!!!」
 女の人が自分が落ちたみたいな悲鳴を上げる。落ちてるのはこっちだってばっ!!
 …じゃなくて、落ちてる、落ちてるようう!?
「…ケイトッ!?」
 ハザマが血相変えてるのを初めて見たかも。ああ、でもあたしこれで死ぬのかなあ。そうしたらハザマ、少しは悲しんでくれる……?
 そうして、世界は不意にブラックアウトした──。

+ + +

「…ええ、十五階のベランダから落ちて……」
「あらまあ、それは強運な子ですねえ」
「…まあ、助かってほっとしました」
 遠い所でハザマの声がする。それと、知らない女の人。
 …おんなあ!? ちょっとハザマ? その人誰っ!?
「そう言えば、さっき警察の人が『人が落ちた』とか言ってましたけど?」
「ああ、お隣の奥さんでしょう。すごい興奮状態で、多分動転してそんな事を……」
「あら、でも…女の子と子猫ちゃんを間違うなんて」
「見間違いです。あなたも診たように、この子は── ケイトは猫ですよ」
 ……。
 なんか、ハザマ、怒ってるような気がする。…やっぱりあたし、嫌われちゃったのかなあ……。
 何だか泣きたい気持ちでいると、女の人はため息を一つついて部屋を出て行ったようだった。
 ゆっくりと目を開けると、やっぱり知らない場所だ。匂いが違ったからそうだと思ったけど──。
「起きたか? ケイト」
 ハザマが何時もの不機嫌そうな声であたしを呼んだ。呼んで── くれた。
「…うん。ハザマ…怒ってる?」
 そっと声のした方に顔を向けると、ハザマは疲れたように笑ってた。
「ったく…、寿命が縮んだぞ」
 ごめんなさい。
 謝る前に、目が潤んだ。目が覚めてそうして── もし、そこにハザマがいなかったら、とか思ったらすごく怖かったから。
 大きな手がそっと頭を撫でてくれる。あったかい手。すごくほっとする。
「まだショックから抜けきってないんだ。寝とけ。…わかるな?」
 諭すような言葉がなくても、あたしは半分夢心地だった。ハザマに嫌われてない。それだけですごく安心できたから。
 もう一度目を閉じる。
 大好きだよ、ハザマ。
 世界で一番大好きだから……。だからお願い。ずっと側にいてね……。

+ + +

「…さて、どうしたものかな」
 彼はすっかり安心しきって眠りについた子猫を見下ろした。
 純白の毛。今は閉じられた瞳は琥珀。
 子猫と言っても生後半年以上は経っている。半分は大人── 人間なら少女くらいだろう。
(まだまだ子供だと思っていたんだが)
 彼は苦笑する。そしてそっと子猫の頭を撫でる。慈しむように。愛しむように……。
「いつかはこういう日が来るとは思ってはいたが……」
 脳裏に甦ったのは、落下してきた『彼女』の姿。
 この腕に落ちてきた時には、もう元の子猫の姿に戻っていたけれど、確かにあの時、この子猫は人の姿をしていたのだ。
 隣家の婦人は決して見間違ってはいない。かと言って、事実を明らかにする訳にはいかないのだけど。
(…引っ越すか)
 結論はすぐに出た。
 確かに、最近住み慣れてきたと思った部屋を去るのはもったいない気もしないでもないが、この手の噂はすぐに尾ひれがついて広まるものだ。
 そんなものに彼女を晒すつもりは毛頭ない。
「…やっと見つけた同類だからな……」
 ぼそりと呟いた彼の瞳が一瞬だけ金色に輝く。瞳孔が盾に裂けたそれは、正に猫の──。

+ + +

 あたしの名前はケイト。ぴっちぴちの女の子。
 何時も身綺麗にしてるの。大好きな── この世でただ一人、大事な彼の為に……。

〜終〜


After Writing

今回、ちょっと難産でした(苦笑)
忙しいというのもさておき、予想をとんでもなく上回ったカウンターの回り方に恐れをなしていたからです…多分。
リクエストは『半獣人もので!』という事だったのですが。
出てきたのが『猫又』か『猫娘』だったのには別に他意はありません(苦笑)
何で妖怪?と自分でもはてな状態です。
本当はもっとふぁんたじーなものにしようと思ってプロットまで立てたんですがね〜。
何だか食指が動かなかったんです……。
ごめんね、ながおさん。
めちゃくちゃおとめちっくな少女マンガ状態の話にしちゃって(涙)