Seed
〜 A Story of 'Miracle'
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0−1.モノローグ 〜はじまりの前に〜
本当に大切なものって、きっと絶対に手に入らないものなのだ。 遠くから憧れて、見つめる、そんなもの。 薄暗い廊下を歩きながら、僕はつらつらとそんな事を考えていた。 その時の僕に『大切なもの』なんて一つもなかったのだけれど、だからこそそれを欲していた。 後から考えると、それはとても青臭いというか、早熟な願いだったけれども。 それさえあれば生きてゆける── そんなものが確かに必要だった。 たとえば、種が芽吹くのに水が必要なように。冬眠していた生き物が目覚めるのに、雪解けが必要なように。 この世に生まれてきた意味が、とてもとても欲しかった。 白衣に包まれた先を歩く人の背は、とてつもなく大きかった。太っているとか、そういう意味ではなくて、『敵わない』という意味で。 実際、その頃の僕にとって、先程から一度もこちらに目を向けず声もかけず、けれども僕が後を着いて来る事を欠片も疑っていないその人こそが、絶対的な支配者だった。 「…あの、博士」 沈黙は嫌ではなかったけれど、何処まで僕を連れてゆくのかわからない不安が、僕の口を開かせた。 「何かね」 やはり足を止めず、視線もこちらに向けず。『博士』は言葉だけをこちらに返した。 「何処まで、行くんですか?」 その頃の僕の世界は、この薄暗く大きな建物の一区画だけだった。 まもなく、進行方向に金属製の厚い扉が見えてくる。それが、世界の終わり。 このまま突き進めば、この世界から出てしまう事になる。その事が少し怖かった。 その先には、もっと果てしない世界があると知っていたけれど。知識としての理解は、とても現実感を伴うものではなくて。 足元が不安定な場所のような、心許ない落ち着かなさが心を侵食してゆく。 そんな僕の不安に気付いているのか、いないのか。前を行く人は歩む速さを変えたりはしなかった。 「それは君が気にする事ではない。黙って付いて来なさい」 予想通りの言葉だったので、その事で傷付いたりはしなかったけれども。 つまりそれは、目の前の人が僕の『支配者』であっても、『大切な人』ではない事なのだろうと漠然と思った。 この人の為に生きているのかもしれないけれど、この人の為に何かをしてあげたいという気持ちが生まれないのだから。 ── 君に頼みたい事がある つい先程聞いた言葉を思い返す。 それが今までのような『命令』ではなく、『依頼』の形である事に僕は驚いた。そこにどんな意図があるのだろう、と勘繰りもした。 どんなに考えても、答えは出て来なかったけれども。 彼にとっては、僕は自由に出来るゲームのコマみたいな、なくなってもすぐに代わりが手に入る、そんな存在のはずで── 僕もそれでいいと思っていた。 その為に生まれたんだろうと、半ば諦めたように。 だからその日、限られた場所の外に出るばかりでなく、今まで資料でしか見た事のなかった『車』に乗せられる事になるなんて想像すらしていなかった。 ましてや、この生まれ育った建物の外に出る事になるなんて、たとえ天と地がひっくり返ったとしても有り得ないと思い込んでいた。 建物の中ではわからなかったけれど、その日はとても寒い日だった。 空は先程通った暗い通路を連想させる、重苦しい灰色で、吹き付ける風は切り裂くように冷たい。 これが『冬』なのだと、僕は肌で理解した。 途中で白衣を脱いだ『博士』は、車の後部座席に深く腰掛け、目を流れて行く外の風景に向けながら、その隣で予想もしていなかった展開に困惑し、緊張していた僕へこう言った。 「…幸いは、予期せぬ場所にある。そう思わないかね」 「── え?」 いきなり何を言い出すんだろう。思わずまじまじと、横にいる人を見つめた。 深い皺が刻まれた、老齢を隠せない顔だった。…人生の終焉が近い人の顔だった。 でもこちらを見ない目だけは、鋭く冷たい。たった今『幸い』なんて言葉を口にした人とは思えないような。 博士は僕に話しかけるというよりは、むしろここにはいない誰かに対して話しかけるように、淡々と言葉を重ねた。 「私は籠の鳥は籠の中でこそ、幸せでいられると思っている。外に出した所で、彼等は自分の力で餌が取れるだろうか。危険から身を守る事が出来るだろうか? 人に守られてこそ、飢える事もなく限られた短い生をまっとう出来るのではないか?」 「……」 何を言いたいのか、よくわからない。ただ伝わって来るのは、目の前の人が肯定するような事を言いながらも、その裏ではその事を否定したいのだという事だけで。 それはとても意外な事だった。 だから答えなど期待されてはいないだろうと思いながらも、僕は口を開いていた。 「それでも…自由、です」 口にしてから、あまりにも平凡でありがちな言葉だと思ったけれど、今更なかった事には出来ない。 けれど、その言葉を口にした時、初めて横に座っている人の目が僕を見た。 心の奥まで突き刺さるような、冷たくて無感情なその目が、僕はとても苦手だったのに、その時だけは真っ直ぐに見返す事が出来た。 しばらく沈黙が降りて、車の立てるエンジン音だけがその場を支配した。 どれ程経った頃だろう。相変わらず無表情のその顔が、再び窓の外を向いた。僕は呪縛が解けたように肩の力を抜き、倣うように反対側の窓の方へと顔を向けた。 流れて行く景色は、何処かもの淋しい。それが木々に緑がないからだと気付いた頃、不意打ちのように横から声がした。 「…では、証明してみせたまえ。『自由』である事が、…何の下にも属さない事が、本当に良い事なのか」 ── それは、遠い日の出来事。 まだ僕にとって、現実が単調に続く夢のようなものだった頃の。 その日、僕は覚めるはずのなかった夢から覚める事になる──。 |
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