我が家の成り立ち
戦国時代小田原を本拠とする北条早雲は、武蔵、下総の両国にその勢力を
延ばそうとしていた。
天文6年その先兵として近田軍の一隊は、伊豆の河津より浜伝いにここ船堀
の陣屋橋付近に上陸し陣を構えた。我が家の祖先もその中にいた。
天文7年、永禄7年と2回江戸川を遡って国府台にて下総の里見軍と戦い、
これを撃破した。天正18年豊臣秀吉が小田原で北条家を亡ぼした。この時
近田軍も救援に行ったが間に合わず、再び船堀に引き上げた。
しかし北条家の滅亡は近田軍も解散のやむなきに至り、一部は故郷に帰国し
、多くは新田を開墾しこの地の住人となった。
この時我が家の先祖は、舟問屋に転身した。行徳にあった塩田から塩を運ぶ
のを主とした。
やがて江戸川を遡り利根川から渡良瀬川その支流思川のほとり乙女に河岸を
築き、物資の集積場を設け、乙女屋と名乗って舟問屋は繁盛し大きくなって行
った。
慶長5年徳川家康は 会津の上杉を討つため小山に陣を張っていた。
この時石田三成が兵を挙げた 世に言う天下分け目の戦い。 関ヶ原の合戦の
火蓋が切られたのである。家康は重臣を集め一週間もの協議を続けた、世に言う
小山評定である。その後家康は乙女河岸より江戸川船堀川(現新川)を経て
江戸城に戻ったと徳川実記に記載されている。
この乙女河岸こそ我が家の業務拠点だったのである。
乙女屋の屋号はここからつけられた。
やがて舟は成田山、千葉寺詣での武士町人までが利用するようになり、大いに
船堀は賑わい、出身地を屋号にした、銚子屋、関宿屋、上州屋等が立ち並び、
酒色でさんざめきが響いた。
幕府は治安維持のため、番所を設け夜間の通航を禁止した、船堀のにぎわいは
大いに増した事であったろう。
番所を前にしての休憩、通過しての泊まりに利用されたと言う。
この繁栄はやがて船頭、舟人足、船のお客の為銭湯経営にまで 手を広げて行った
という。安永2年の事と聞いている。
乙女屋は一時期大変繁盛したようである。
広大な土地をも所有していたと言い伝えられている。その頃の方であろうか?
戒名に島田院教常防還速阿本源居士と言う仏が居られる。
江戸時代町人の戒名としては破格の者であろうと思う。
しかしやがて、陸運が盛んになり舟問屋の使命は終わった。
乙女湯を昭和28年売却しあけぼの湯を新設51年ビル化して、38年乙女湯を
再建 娘が結婚し営業を娘夫妻に任せる様になって、身障者施設でのボラン
イア活動を行った。 5年8ヶ月の間である。
平成13年7月江戸川区老人会くすのきくらぶメル友会発会に参画
古書その他の道具類
年屋根改造認可書類
当時 許認可担当は警視庁でした。
また、警視総監は男爵でした。
このような古い書類が沢山残って
居ります。
「生年五性の事」
文政二年(1819年)七月九日武蔵の国
嶌田兼松
この本は
甲子(きのえね)(1924、1984年)生まれの人は・・・・の性格
丙寅(ひのえとら)(1926、1986年)生まれの人は・・・の性格
己巳(つちのとみ)(1929、1989年)生まれの人は・・・の性格
等 生年によっての性格を記したもので 易の本とでも言うのでしょうか? 易本
矢立
昭和二十年代まで、番台で使用していたものです。
墨壺の蓋、筆を入れる竿の部分に銀象眼細工が
施されております、 鑑定の結果、美術工芸品で
あると言われました。
法螺貝
中尾 保 様の撮影です。
開店時、また空いているときに毎日吹きならしたと
言われております。
祖父(16代)が 毎日吹いていたので、出っ歯に
なったと笑っていた事は、語り次がれております。
木製 引き出し
奥に隠し物入れがあります。
銀座ガスホールに展示された物です。
木製 金庫
昭和30年頃まで実際に使用していました。
銀座ガスホールに展示された物です。
銀座ガスホールでの展示説明板です。