海王記(プロローグ)

1941年12月7日深夜 東京 外務省

 仕立てのよいスーツに身をつつんだ初老の男が、薄暗い廊下を歩いていた。両側
に並ぶ部屋の一つの前で足をとめ、木製の扉をノックする。部屋の主の返事を確認
して中に入った男は、持参した書類を提示すると、事務的な口調で淡々と用件を述
べた。
 数分間。
 会話が交わされ、最後に一言言い残すと、男はきびすを返して部屋を後にした。
 男が広々としたロビーにさし掛かったとき、壁にかけてあった時計が鳴り、日付
がかわったことを----ひとの手による、史上最大の宴のはじまりを告げた。
 先程手交された----そして、この都市のいくつもの場所で----書類の効果が、た
ったいま、この瞬間に発揮され----

 そして、祭りが始まった。


1916年6月20日 北海 デンマーク東方沖 戦艦「マルクグラーフ」

 砲術長のヨハン・クラウゼン少佐は、今現在自分の身を含む、全ドイツ戦艦を襲
っている危機が信じられなかった。ともすれば、悪い夢をみているような錯覚にと
らわれそうになる。
 無理もない。
 彼が所属している、栄光あるドイツ帝国海軍主力戦艦部隊----排水量20000
トンをこえる弩級戦艦16隻より成る----は、たった7隻の敵の突撃により潰乱し、
総崩れの状態で退却しようとしていたのだから。
(これは夢だ)
 クラウゼンは、心の中でそう信じこもうとした。そうしなければ、精神の平衡が
あやうくなるほどの衝撃と混乱が、彼に降りかかっていたのだ。
(夢にちがいない。栄光あるドイツ海軍の主力戦艦部隊が、こともあろうに黄色人
種の建造した戦艦に追い回され、逃げ惑っているなど……)

「敵一番艦、発砲!」
 見張り員の報告----というより、悲鳴に近い絶叫----によって、にわかにクラウ
ゼンは現実へと引き戻された。思わず目をやった窓の外で、櫓を組み上げたような
形状の艦橋をもった巨大な戦艦が、こちらに向けて前部4門の主砲を斉射していた。
(……違う)
 不謹慎とはわかっていたが、思わず安堵の息が漏れそうになる。敵艦の主砲は、
明らかに「マルクグラーフ」とは違う方角を指向していた。たしか、あの方向にい
た味方艦は----
「!」
 水平線の近くに3本の水柱が屹立し、その中央部で巨大な閃光が沸き起こった。
一瞬の間をおいて、爆炎と共に無数の黒っぽい物体が、中空へとまき散らされる。
「あれは……」
 咄嗟に判断ができない彼にかわって、隣にいた艦長が悲鳴のような声を洩らした。
「旗艦が……!」

 水柱が収まった後には、数分前まで戦艦「フリードリヒ・デア・グロッセ」であ
った物体が、中央部から黒煙と火柱を吹き上げ、水蒸気に包まれて沈んでいこうと
していた。船体が徐々に折れ曲がり、艦首と艦尾がそれぞれ首をもたげるように持
ち上げられていく。
「弾薬庫への直撃だ……」
 艦長が、呆然とした表情でつぶやいた。
「あれでは、誰も助かるまい……」
 クラウゼンは、味方の旗艦を----ケーニヒ級の新型艦が登場したとはいえ、いま
だに海軍でも戦力の中核を成していた、23000トンの大戦艦を----ただの一撃
であのような姿に変えてしまった敵艦に、恐怖を覚えた。同時に、皇帝ヴィルヘル
ム二世が、執拗なまでにかの民族を敵視していた理由が、わかるような気がした。

 ドイツ帝国艦隊総旗艦を、たった一発の砲弾によって司令部もろとも葬り去って
しまった戦艦----その名は、「長門」という。
 この日より、「長門」の名は伝説と化した。彼女がその生涯において最初に仕留
めた獲物----この事件は、「ナガト・ショック」と呼ばれ、畏怖を込めてのちの世
に語り継がれることとなる。


1930年1月16日

 『ウォール街は青天井!』

  15日のニューヨーク証券取引所は、平均株価がまたしても11.2%という
 驚異的な伸びを示した。特に、鉄鋼・石油・造船関連企業の株価の上昇が著しく、
 それに引きずられる形で、繊維・機械・食品分野も順調な成長を見せている。
  この好景気の背景には、間違いなく3年前より継続されている第二次海軍三年
 計画があり、大量の造船発注による公共投資は、確実に企業へと資金を投下し、
 労働者にその恩恵を与え、1928年頃からその兆候を見せていた景気の減退を
 抑制しているものと思われる。
  これによる消費者の購買力の向上こそが、この好況を基盤部分で支えていると
 いっても過言ではなかろう(以下略)----


      ウォールストリート・ジャーナル 1930年1月16日号より抜粋


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