海王記(1)



1939年7月25日 ハワイ オアフ島沖

 つき抜けるような青空から照りつける南国の太陽を浴びて、はるか彼方にハワイ準
州の最高峰マウナケア山を望む海面に、一群の艦艇が浮かんでいた。アメリカ合衆国
太平洋艦隊所属の空母部隊と、その護衛艦群である。
 「フラット・トップ」と表現されるとおり、その甲板上はまっ平らで、微速航進に
ともなって発生する風が、艦首から艦尾までさえぎるものなく吹き抜けていく。甲板
上には、露天繋止された艦載機が何機か風に吹かれているが、それに取りついて作業
している整備員達の間にも、どこかのんびりとした空気が漂っている。ちょうど昼下
がり、一日で一番気だるい時間帯だけあって、整備員のほかには甲板上に出ている人
間は見あたらない。
「……泳ぎてぇや」
 甲板上の機体----この春に制式化されたばかりの新鋭艦上戦闘機、ブリュースター
F2Aバッファロー----の腹の下から這い出た整備員の一人が、見わたすかぎりの青
々とした水平線を見て、おもわずもらした一言が、この場の雰囲気を端的に物語って
いた。南中を過ぎて一時間半ほどの真夏の太陽は、あいかわらずぎらつくような直射
日光で、甲板やバッファローの背中を焼いている。今朝から日光を浴びつづけた木張
りの飛行甲板は、落とした卵が目玉焼きになりそうなほど熱い。
 微風の吹きぬける旗艦空母「コア」の空気は、のどかだった。少なくとも、甲板上
では。


 ここにひとり、不機嫌な男がいる。「コア」の飛行甲板の真下に設けられた艦橋で、
窓から外を見ながら、ぶすっとした表情をしている。いまに始まったことではない。
この船に乗るようになるずっと前からこうだ。
「何度も言うがな、ミッチ。ああ、何度でも言ってやるとも」
 空母部隊の指揮官、ウィリアム・ハルゼー少将である。艦長にして友人でもある、
マーク・ミッチャー大佐に向かって愚痴を並べていた。
「戦闘部隊が持っている能力で、まず何よりもいちばん大事なのは何だ? 機動力だ
ろう。こんなことは、ちょっと物理をかじった中学生にもわかることだぞ! なら、
戦闘単位のなかでもっとも機動力の高い飛行機は、もっと整備がすすめられて当然じ
ゃないか。それなのに、ウチのお偉方ときたら、どうだ! 口をひらけば、出てくる
言葉は『大艦巨砲』、『艦隊決戦』だと! おかげで建造ドックの中身は時代遅れで
役立たずのうすのろ戦艦どもばかり、空母といったらこんな商船も同然のポンコツし
かないときたもんだ。いったいぜんたい何を考えてやがるんだ!」

 「ブル(雄牛)」というニックネームから誤解されることも多いが、ハルゼーは本
来、頭脳明晰で決断力と闘志にあふれた優秀な指揮官である。但し、ありあまる決断
力と旺盛な闘志の副作用というかなんというか、彼は非常に血の気の多い一面をもち
あわせており、あたりはばからぬ上層批判は日常茶飯事。マスコミとの舌禍事件も、
何度となく引き起こしていた。アナポリス(海軍兵学校)で一期下のチェスター・ニ
ミッツ少将が、早くも次期太平洋艦隊司令長官と目されているのに、彼が未だにこん
なところでくすぶっているのは、これによるところが大きい。
 もっとも、兵は拙速を尊ぶハルゼーにしてみれば、空母部隊の指揮官が自分にもっ
とも適任のポストだ----という自負があるため、彼は現状にもそこそこ満足はしてい
たが。
 問題は、艦隊決戦主義に凝りかたまった合衆国海軍の戦略方針にあった。ハルゼー
のいうとおり、彼の旗艦「コア」を含む合衆国海軍の空母は、じっさいの問題として
ロクでもない船ばかりなのである。


 もとはといえば、第一次世界大戦中の1916年、北海はジュットランド半島沖で
発生したひとつの海戦が、すべてのはじまりだった。
 この海戦は、それまで現存艦隊主義をつらぬいて主力艦隊を温存してきたドイツが、
陸戦の行き詰まりを打開しようと討って出て、対するイギリス本国艦隊もそれに呼応
して出撃したのが、その発端だった。はじめのうちは偵察巡洋艦を中心に始まった小
競り合いは、あっという間にエスカレートし、しまいには双方の主力戦艦部隊までく
り出して、のべ300隻近い大艦隊が激突する一大決戦となったのだ。
 結論からいえば、ドイツの目論見は完全な失敗に終わった。それどころか、彼らは
この戦争そのものをうしなった。海戦序盤こそ、防御に欠陥をかかえていたイギリス
巡洋戦艦部隊を散々にたたきのめして、おおいに意気上がったドイツ艦隊だが、援軍
として派遣されていた日本の40センチ砲搭載戦艦「長門」をはじめとする、イギリ
スの誇る新鋭高速戦艦部隊につかまるともうだめだった。隊列ごとドイツ艦隊に斬り
こんだ「長門」以下の戦艦部隊は、38センチ砲、40センチ砲といった、ドイツ側
よりもはるかに口径の大きな主砲を、これでもかと撃ちまくった。
 第一撃で旗艦「フリードリヒ・デア・グロッセ」を司令長官ポール大将ごと葬られ
たドイツ艦隊は、そのまま潰乱。乱戦の中で8隻の戦艦と3隻の巡洋戦艦を失った彼
らは、次席指揮官シェーア中将の指揮のもと、ほうほうの体でキール軍港に逃げ帰る
ことしかできなかった。
 海軍の大敗北は、陸軍をふくめたドイツ帝国全体の戦争遂行意欲を、その根底から
揺るがした。彼らが、国家として、民族としての威信と誇りにかけて、莫大な資金と
労力をそそいで建設した艦隊は、たった一日半の間に壊滅してしまったのだ。
 膠着状態にあった西部戦線が崩壊し、国境地帯まで押し返されたドイツが講和を申
し出たのは、それから4ヶ月後のことだった。

 第一次世界大戦は、それまでヨーロッパを舞台に行われた数々の戦いと大差ない結
果に終わった。本来この戦争は、オーストリア・ハプスブルク帝国内の民族紛争が発
端となって始まった戦いであり、植民地体制の先進国と後進国は、それに便乗する形
で戦端をひらいたに過ぎなかったからだ。
 結局ドイツが失ったものは、海外に持っていた植民地と西ポーランド、3400万
金マルクの戦時賠償金、それに海軍の主力艦の半分に留まった。
 ただし、事実上の条件付き降伏という結果に、ドイツ皇帝の権威は著しく失墜した。
この後、ドイツ帝国における国家公務の大半は、皇帝ヴィルヘルム二世の手を離れて
国民議会の手にゆだねられ、国名もワイマール=ドイツ帝国と改められることとなる。
 一方、もとから屋台骨のかしいでいたハプスブルク帝国は、この戦争で完全に息の
根を止められた。
 主戦正面でドンパチが始まったものだから「すわ、総力戦ぞ」と勘違いして、あり
ったけの国力を東部戦線につぎ込んだロマノフ朝ロシアも、有利に戦争を進めていた
にもかかわらず、自業自得ともいえる革命で内部崩壊した。
 だが、この戦争が世界に及ぼした直接的な影響は、せいぜいがこの程度だった。

 問題は、戦争終結のきっかけとなったジュットランド海戦だった。これが世界の列
強にあたえた影響は、深刻なものだった。巨大戦艦多数を含む大艦隊同士の決戦で戦
争が終わってしまったものだから、「艦隊決戦に勝利した者が戦争を制する」という
戦訓が生まれたのだ。
 艦隊決戦に勝利するために必要なものは、強力な戦艦である。強力な戦艦とは、す
なわち攻防走の三要素をすべて充実させた高速戦艦だ。
 双方とも、旧式戦艦は、足が遅かったために、海戦の結果に対してロクな貢献がで
きなかった。
 イギリスの巡洋戦艦は、攻撃力と速力は申しぶんなかったが、装甲の薄さが致命的
な弱点となって、ドイツの巡洋戦艦の砲撃で次々と轟沈した(実際、わずか15分間
に3隻を喪失している)。
 ドイツの巡洋戦艦は、防御力と速力は合格点だったが、砲力が弱く、対38センチ
砲弾防御をほどこされた高速戦艦の装甲を撃ちぬけなかった。
 結局、攻防走のいずれの要素が欠けても、艦隊決戦において真に強力な艦とはなら
ないのだ。「高速力こそ最大の防御」ととなえた巡洋戦艦の生みの親、ジョン・フィ
ッシャー英第一海軍卿も、ジュットランド以降自説をあらため、「高速力こそ勝利の
第一要因」としている。強力な高速戦艦こそ、新時代の海軍の担い手にふさわしい。
そして、より強力な砲をより多く積み、敵戦艦を圧倒する。そのために、戦艦は日々
巨大化をかさねていった。
 各国は、より強力な戦艦をもとめ、常軌を逸したとしかおもえないような一大建艦
計画を、矢継ぎばやに実行にうつしていった。悪いことに、ほとんどの大海軍国には
それを可能とするだけの経済力がそなわっており、しかも20年代末から30年代前
半にかけての全世界的な好景気が、それに拍車をかけたのである。
 但し、「可能」であって、「余裕がある」わけではなかったのが、空母にとっての
ケチのつきはじめだった。莫大な費用がかかる高速戦艦の建造資金を捻出するために、
各国は補助艦艇の予算を次々と切りつめていった。真っ先にその槍玉にあがったのが、
空母だったのである。
 もともと空母は、艦載機の能力についての疑問から、どの国でも戦力としては期待
されていなかった。そこへもってきて、ホワイトヘッドをはじめとする航空魚雷の実
験が、次々と失敗に終わったことで、各国海軍の航空機不信は頂点に達したのである。
 それでも日本とイギリスは、航空機のもつ急速展開能力と対地支援攻撃力に着目し
て、それなりの性能の空母を保有していたが……もともと速力よりも攻防性能を重視
する伝統があり、なおかつ大量の戦艦と補助艦艇を建造する経済力と工業力にめぐま
れていた合衆国にとっては、空母は「余った予算で適当に調達する雑多な艦の一種」
でしかなかったわけだ。
 現在合衆国が保有する空母は6隻だが、そのいずれもが、排水量七千〜一万トン、
速力18ノット、搭載機数20機前後というお粗末なものにすぎなかった。大西洋艦
隊の「ボーグ」「カード」にいたっては、予算をけちったあげく、既成の商船を改造
したもので済ませてしまった。合衆国が空母にもとめた役割は、搭載機を使っての索
敵(これすら、戦艦や巡洋艦の水偵による偵察よりも順位は低かった)と、敵の着弾
観測機の排除くらいのものだったのである。おまけに、空母自体の戦闘力は皆無にひ
としく、可燃物を満載しており、常に護衛をつけてやらねばならない。厄介者あつか
いされても仕方のないところではあった。ハルゼーが不機嫌になるのも、無理はない。

「しかし、今年度予算では大型空母4隻分の予算が計上されたそうじゃないですか」
 これは事実。合衆国海軍は、現在進行中の第三次三年計画をしめくくる補助艦建造
予算の一環として、16000トン級高速空母4隻の建造を予定していた。
「確かに予算はな。だが、最終的に完成する空母がどんなものかは、ほとんど決まっ
とらん。ヘタをすると、戦艦建造用のダミー予算に2、3隻ぶん食われちまった、な
んてことにもなりかねん」
 実は、ハルゼーの懸念にも一理ある。10年前の第二次三年計画の際、海軍はアラ
バマ級戦艦2隻分の予算を調達するために、33000トン級という常識はずれの大
きさの空母3隻(空母そのものは、要は鉄製の箱だから、建造費は安い)を建造する
計画を発表したことがある。これに慌てた日本は、対抗して39000トンの超大型
空母の建造に着手したが、合衆国の空母がダミーと判明した時点で工事は中止された。
「ずいぶんと悲観的ですね」
「君が楽観的すぎるんだ。なにしろ、これまでがこれまでだからな。まともな空母を
建造するノウハウすら、我が国は持っておらんのだぞ?」
「それに関しては、フランスから技術供与があるそうじゃないですか。それにF2A
の後継艦戦の開発も進んでいるそうですし、まだまだ我が軍は飛行機を見はなしたわ
けではなさそうですよ」
「そうであることを願うばかりだ……えーい、くそっ。暑いぞ。ハワイに置くつもり
なら、まともな空調ぐらいつけろっ」
 コストを安く上げるために、合衆国の空母は居住関連の設備をかなり省略していた。
冷房は、機関室など必要最低限の区画にしか装備されていない。当然、直射日光にさ
らされている飛行甲板直下の艦橋のような冷却効率の悪い場所に、冷房などあるわけ
もなく、ハルゼーやミッチャーをはじめ、艦橋要員の額には、玉の汗が浮いている。
夕暮れまでは、まだまだ時間があった。


1939年12月28日 広島県 呉海軍工廠

 この国が戦艦の自国建造をはじめてから、まもなく50年が過ぎようとしている。
当初から先進的な設計で世界の瞠目を一身にあつめてきた数々の戦艦の歴史に、また
あらたな一ページがつけ加えられつつあった。
「さすがにでかいな……」
 艤装岸壁に横づけされた巨体を見上げて、ひとりの将官が感嘆の声をあげた。純白
の第二種海軍軍装の胸には、桜のマークがついた海軍大臣認定のバッジがつけられて
いる。

 全長263メートル、全幅38メートル。これだけのスケールをもつ戦艦は、現在
世界中のどこを探してもいない。巡洋戦艦の中には、全長が260メートルを超える
ものも珍しくはなかったが、彼女らはおおむね、速力を稼ぐために幅を抑えており、
威容という点ではこの船の足元にもおよばなかった。
 それだけの巨体を与えられているからして、この船が搭載する主砲が尋常のもので
ないことは、容易に想像がつく。彼女の主砲は、18インチ砲----世界中でも未だに
日本海軍しか実戦配備していない、世界最大最強の艦砲だった。彼女----八八艦隊計
画第21号艦、「大和」----は、その世界最大の主砲を三連装三基9門搭載し、この
世に存在するあらゆる戦艦を圧倒することが期待されていたのだ。
 言ってみれば、大和級戦艦とは、日進月歩で巨大化の道をあゆんできた大艦巨砲決
戦主義の申し子たちの系譜に対して、日本が突きつけたひとつの最終回答でもあった
のだ。
 ……もっとも、その当事者達にしたところで、この巨艦建造競争がさらにとどまる
ところを知らぬエスカレートの一途を辿るとは、思いもよらなかったのだが。

 知らぬがゆえの幸せを謳歌している将官----嶋田繁太郎連合艦隊司令長官は、自ら
がこの戦艦の艦橋に立って敵艦隊を撃滅する幻想に、暫しのあいだ酔いしれていた。

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