海王記(3)


1941年6月29日 北海道 恵庭陸軍機動演習場

 ようやく夏色を見せ始めた馬追丘陵をすぐ南に望む原野に、ディーゼルエンジンの
轟音が響き渡っている。
 ゆるやかな起伏を乗り越えるように土埃を蹴立てて驀進しているのは、中島自動車
苫小牧工場でロールアウトしたばかりの新型戦車の試作車だ。
 悪評高い九七式までの日本戦車の標準形だった達磨型のシルエットとは一線を画し、
直線的だがシャープな印象を見る者に与えるスタイル。現在は単にC-3とだけ呼ばれて
いるが、制式化の暁には一式重戦車と名付けられる予定だ。総重量30トンを超える重
量級の車体に420馬力空冷ディーゼルエンジンを搭載し、整地において最高時速35kmを
発揮する。主砲として搭載されたのは、40口径76ミリ砲。元は海軍艦艇に搭載されて
いた高角砲だ。九八式で成功した高射砲からの流用ということで、二匹目の鰌を狙っ
たものだ。
 ──と、突然C-3の速度ががくっと落ち、足回りから白煙が噴き出した。
「中止! 作業中止!」
 悲鳴とも怒号ともつかない叫び声がして、作業服姿の男たちがわらわらと動きを止
めた戦車に駆け寄っていく。一部の者は消火器を持ち出したが、幸い火災は発生しな
かったらしい。

「また変速器かい?」
 実験主任の傍らで、そろそろ中年に片足を突っ込もうかという歳の中佐が尋ねた。
「えぇ、面目ない話です」
 主任は弱り切った表情で答えた。
「ま、無理もないさ。気にする必要はない。何しろ、九八式より10トンも重い車体な
んだから。足回りに掛かる負担もそれだけ大きくなる算段だし、機関の出力が上がっ
た分いろいろ不都合も出るだろう。今はまだ試行錯誤の段階だ」
 一つ一つ解決していけばいい、と中佐は笑った。主任が恐縮した表情で頭を下げる。
(そう、今まで他の部分に不都合が出ていないのが有り難いくらいだ。この戦車は、
一日でも早い実用化が急務なのだから……)
 中佐──第七師団隷下、第六戦車連隊第二大隊長の西竹一中佐は、心の中でそう付
け加えた。八九式中戦車に始まる一連の戦車生産の系譜によって、日本の車輌工業技
術力はここ十数年の間に目覚ましい進歩を見せたが、イギリス、アメリカ、ドイツと
いった諸外国に比べれば、その実力はまだ格下もいいところに過ぎない。中国への輸
出市場では、現在九八式砲戦車がイギリスのクロムウェルと激しいシェア争いを繰り
広げているが、そこに盟邦ロシアのT-34がもうじき加わるという噂もある。ますます
厳しい状況となっていく戦車市場を切り抜けるためにも、高性能で信頼性に優れた戦
車の開発が待ち望まれていた。
 二人の目の前では、擱座していたC-3が日立製作所製の8トントラクターに牽引され
て引き上げていくところだった。



7月12日 東京 外務省

 梅雨明け前の最後の一雨とばかりに梅雨前線が活発化している。この日の関東地方
は朝から強い雨が断続的に降り続いていた。NHKのラジオニュースによると、神奈
川県全域と千葉県南部に大雨洪水警報が発令されたとの情報だ。ニュースはさらに、
練馬の第一師団に災害出動待機が発令されたとも報道していた。
「嫌な天気だよ、まったく。ただでさえアメリカのほうがキナ臭いせいで、こちとら
気が滅入りそうだってのに」
 対米課の樋口嵩文次長は、頬杖をつきながら窓の外を一瞥してぼやいた。机には、
ロンドンタイムスの日本版が広げられている。一面記事は、ワシントンで行われてい
る日英米三国国交調整交渉の経過を三段ぶち抜きで報道していた。ここ一週間ばかり
の各新聞のトップ記事は、どこもこんな調子だ。
 日露戦争が終わった頃から兆候は見えていたが、ここまではっきり日英と合衆国の
関係が険悪になったのは、共産圏戦争が終結してからのことだ。戦争中にフィリピン
周辺の海域が封鎖されて以来、パーチ事件、太平洋非武装条約違反、対中国共産党武
器支援法、さらにはフィリピン人民解放戦線が日本製武器を保有していた事実が発覚
するなど、日英同盟と合衆国の関係を悪化させるような事件が立て続けに起こってい
る。おまけに、合衆国が隷属市場化を狙っていたロシアは、いちはやく手を伸ばした
日英の草刈り場も同然の有り様。満州・朝鮮に続いて大陸利権がこの調子では、先方
の機嫌が悪くなるのも無理のない話ではある。
 さらに元を辿れば、日露戦争の戦時債務の返済の時点から、日英と合衆国の関係に
はケチがついていた。40年越しのカネの恨みは深い。対米課にとっては、ここ数年は
胃が痛くなるような出来事ばかりだった。

 この天気のせいか車で移動する人間が増えているらしく、外務省前の道路は朝から
渋滞していた。もっとも昨今では、丸の内から新橋に至る官庁街の道路は、渋滞や交
通事故が起きていない日のほうが珍しい状態となっている。この現状を打破するべく
市の中心街を幾重にも取り巻く環状高速自動車道路を建設しよう──さらに、東京湾
沿岸から市内を網羅する高架道路を造ろうというものまで──という計画もあったが、
建設省と運輸省の縄張り争いが激しいらしく、そこに陸軍と大蔵省まで絡んでいると
あって、まだ具体的なプロジェクトがスタートしたという話は聞かない。
 その間にも、一般へのモーターリゼーションは恐ろしい勢いで広がっていた。「日
本のビッグ3」と呼ばれる三菱自動車、中島自動車、ロールスロイス・ジャパンの三
社に、東洋工業、ダット、三沢、川崎自工、浜松、住友自工、石川島、愛知自動車、
渡辺製作所などの中小メーカーを加えた国内自家用自動車市場は、10年ほど前から異
常なまでに過熱した販売競争の渦中にあった。駅という駅には新車の販促ポスターが
貼られ、鉄道やバスの吊り広告、新聞の折り込みチラシ、ラジオ番組のコマーシャル
といった宣伝メディアもフル操業状態。価格競争もとどまる所を知らず、去年の秋に
中島が発売した「昴」三六型など、大学生でも無理をすれば手が届く値段がつけられ
ていた。これの爆発的な売れ行きを見た各社が一斉に小型車部門に参入した結果、日
本の自家用車保有層の底辺は広がるばかり。今では借家暮らしでも車はあるという家
庭が増え、借家の車庫設備も充実しつつあった。メーカー各社は、現在20歳となって
いる自動車運転免許の取得年齢下限を18歳に引き下げる(女性の免許取得者数も爆発
的に増大中だった)よう、関係各方面に圧力をかけているらしい。一度流行に火がつ
くと猫も杓子も、という日本人の民族性もこのブームに拍車をかけていると一部の経
済学者は分析していた。

(自動車普及も大いに結構だが、それを支えるガソリンの半分以上をアメリカからの
輸入に頼っている現実に、みんな気づいているのかね……)
 樋口はふと不安に駆られた。近年日本は、石油輸入の中心を国交に不安のあるアメ
リカから英領ボルネオやシベリアに切り替えるべく、交渉や開発を進めている。だが、
その努力が効果を発揮し始めるには、まだ数年の時間が必要だった。そして、最大の
石油輸入先であるアメリカとの関係はここ数年で急激に冷えきっており、いつ輸入が
ストップしてもおかしくない状況だ。その結果発生するであろう“石油ショック”と
でも言うべき混乱──あまり想像したくはなかった。

 結局、国交調整交渉は双方の意見が食い違ったまま平行線を辿り、なんの成果も得
られないまま8月9日に決裂した。



8月12日 シンガポール セレター軍港

 駆逐艦「テネドス」を露払いにしずしずと入港してきたのは、純白の塗装に船体を
輝かせた二隻の巨艦だった。港内の艦艇が汽笛を一斉に鳴らして歓迎の意を表する。
ところが、各艦の歓迎ぶりとはうらはらに、極東艦隊司令部の表情は冴えなかった。
「新戦力は有り難い限りだが……本当に役に立つのかね」
 イギリス海軍極東艦隊旗艦「キング・ジョージY世」の艦橋で半信半疑といった様
子で呟くトーマス・フィリップス司令長官。
「まぁ、ハッタリにはなるでしょう。なにせ、カタログデータ上ではロイヤル・ネイ
ビーの最有力艦ということになっていますから」
 パリッサー参謀長も散々な言いようだ。
 「チャレンジャー」「チーフテン」。
 去年の秋に竣工してこの7月に実戦部隊に編入されたばかりの、ピカピカの新鋭戦艦
だ。排水量50000トン、全長250mの巨体に40センチ砲を12門搭載し、最大戦速27ノット
を誇る。その艦が、なぜこれほどまでに鬼子扱いされるのか。
 その答えは、両艦の辿った数奇な運命にある。
 この2隻は、もともとソ連海軍戦艦「スヴォボードナヤ・ロシア」「オクチャブルス
カヤ・レヴォルチャ」として建造されたものなのだ。スカゲラック海峡海戦の損失を
埋める有力な戦力として建造が進められていたのだが、進水直後に共産圏戦争が終わ
ってしまったのだ。普通ならば戦時賠償艦として他国に引き渡され、射撃標的艦とし
て撃沈されるか屑鉄として売却されるのが関の山だった。ところが、終戦後に両艦は
日英両国
の進駐軍によって確保され、そのままレニングラード港内に留め置かれたのだ。そし
て翌年ソ連海軍が解体された際に、両艦は買収という形でイギリス海軍に転属し、
「チャレンジャー」「チーフテン」と名を変えて各種艤装を英海軍式に改めた後に、
極東艦隊に配備された。(ちなみに、このとき旧ソ連海軍将兵や造船技術者など多数
の海軍関係者がイギリスや日本へと留学している。彼らは、のちに新生ロシア海軍再
建において大きな力となった)
 そんな具合であるから、英海軍の将兵がこの2隻に対して不信を抱いているのは仕
方のないところではある。なにしろ、共産圏戦争でボロ負けを喫した陸軍国ソ連で建
造されたフネだ。どんな不具合があるかわかったものではない。
「確かに、平時の軍艦はそこにいてなんぼだからな。当面は彼女らは浮いているだけ
で結構かもしれん──おっと、さすがにこれは言い過ぎだな。なに、当面の仮想敵は
フィリピンのアジア艦隊だ。そう使えん戦力ともなるまい」
 苦言を隠し切れないフィリップス長官。それがまるで別世界の出来事であるかのよ
うに、港内の艦艇の甲板上では将兵が互いに敬礼を交わしていた。



10月31日 東京 内閣総理大臣官邸

 そろそろ冬の足音も聞こえて来ようかという季節だというのに、今年の太平洋高気
圧はやたら去り足が遅かった。10月中旬を過ぎても関東から東海・近畿に至る太平洋
岸では長雨が続き、最高気温が25度を超える日も珍しくなかった。そこへもってきて、
今度は台風だ。紀伊半島の先端を掠めるように東進する台風20号は、強い勢力を保っ
たまま関東地方を直撃するコースに乗っていた。近畿・四国地方の一府五県に、暴風
雨・大雨・洪水・高潮といった各種警報が発令され、それは東海地方に拡大する様相
を見せている。一部では、既に山崩れや川の増水などで死者が出ているという情報も
流れていた。

 この日の首相官邸は未明から慌ただしい雰囲気に包まれていた。外務省や内務省、
通産省、運輸省、さらには陸海軍の要人を乗せた大型リムジン・中島「太陽」が何台
もひっきりなしに乗りつけては離れを繰り返している。車を降りた閣僚やスタッフ達
は続々と官邸の中に消えて行く。早くも報道陣待機所には、察しのいい記者連が詰め
始めていた。
 やがて、集まっていた人々が三々五々官邸を後にする。その顔は、沈痛な表情を崩
さないもの、苦虫を噛み潰したようなもの、血の気が引いて顔面蒼白なもの、今にも
泣き出しそうなものと様々だったが、ひとつだけ共通点があった。明るい表情をして
いるものが一人もいない。
 だが、取材陣の質問に対して、人々は一様に口を噤んだままだった。記者連の不満
がつのる中、最後に現れた近衛文麿内閣総理大臣が短いコメントを残した。
「詳しいことはまだ発表できる段階にはありません。ただ言えるのは、皇国は未曽有
の国難を迎えつつあるということだけであります」
 記者たちは、発言の真意を掴みかねている様子だった。なおも質問の声が飛び交う
中、近衛首相は夕刻に再度記者会見を開くと約束すると会見室を後にした。
 その後、近衛首相は木戸外務大臣と執務室で3時間以上に渡って会談していた。そ
の意味するところを世間が知るのは、翌11月1日の朝のこととなる。



11月1日

「米国、日米通商航海条約破棄を通告」
「日米・英米国交事実上の断絶へ」
「在米邦人・英人資産凍結さる」
「ル大統領『日英へは武力行使も辞さず』」

 翌朝の新聞のトップ記事は、衝撃と共に全国を駆け巡った。これまでの日米の動き
の中で市井の注目を集める事件といえば、せいぜいが豊後水道を監視していた米アジ
ア艦隊所属の潜水艦「パーチ」が領海侵犯を理由に国東沖で拿捕されたパーチ事件く
らいのものだったのだ。だが、これまで大きく報道されてこなかった40年に渡る水面
下での数々の対立の積み重ねは、合衆国内に深刻な日英に対する不信を植え付けてい
た。合衆国政府は既に、日英両国に対しては武力制裁も辞さずという強硬姿勢を固め
ていた。日米・英米戦争が事実上避け得ない情勢となったという現実は、日英両国の
政府・軍関係者を打ちのめした。

 一方、日本国内では大混乱が起きていた。大手商社や船会社、石油販売会社、自動
車会社といった貿易・石油関連企業の株価は軒並み暴落し、一部では中小企業の倒産
や取り付け騒ぎまで起きた。人々が殺到した小売店頭では燃料や日用品が買い占めら
れるというパニックが全国各地で見られた。政府は民需用のみならず軍用の石油備蓄
の一部まで切り崩して放出することで、なんとか混乱の収拾を図ったが、一度火の着
いた混乱を収拾することはついに出来ず、11月8日、宮中に参内した近衛首相は対米
外交における自らの失策と不明を天皇に詫びると、世情の混乱を招いた責任をとって
内閣を総辞職した。
 翌9日に組閣の大命が下ったのは、米内光政予備役海軍大将。同日開かれた御前会
議は、対米強硬論と避戦論が衝突してのっけから紛糾したが、最終的には対米開戦も
やむなしという方向で結論がまとまった。
 もっとも、米内首相を始めとする避戦派はどうにかして日米協調の道を模索しよう
という試みを諦めたわけではなかった。



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