海王記(4)
この一ヶ月、日本の内外の情勢は急激に動き始めていた。
まず、国内では国家総動員予備令が発動されていた。対米戦が勃発する公算が大と
なったための処置だった。それに伴い、石油・米・嗜好品など物資の一部配給が始ま
っていた。今のところ、市民生活への影響は最小限にとどめる方向で配給制は実施さ
れていたが、流通・工業などへの影響は徐々に顕著となっており、発電量の制限から
電飾広告なども一部規制され始めていた。
また、合衆国が打ち出した対日禁輸措置によって石油の輸入量が減少し、あおりを
食って生じた株価の暴落のために業績不振に陥った一部の商社が倒産し、銀行の融資
が大量に焦げついて取り付け騒ぎが起きるという事態も発生した。
一方で、陸海軍では後備役の招集が始まった。各地で肉親や友人、恋人に見送られ
て出征する若者の姿が見られ、そうして招集された後備部隊と入れ代わりに南方へと
移動する連隊や戦隊の姿も増えた。
戦時の影は、着実に社会を覆いつつあった。
さらに国外に目を向けると、合衆国海軍に大きな動きが生じていた。太平洋艦隊所
属の旧式戦艦6隻をアジア艦隊に振り分け、大西洋から新たに新鋭艦4隻を廻航したの
だ。フィリピン海域封鎖を強化するための措置なのは疑いない。東シナ海から南シナ
海にかけての海域は、シンガポールのイギリス極東艦隊、第四艦隊、フィリピンの合
衆国アジア艦隊、蘭印のオランダ東洋艦隊と四つの勢力がひしめき合い、風雲急を告
げる様相を呈してきた。
また、連合艦隊は戦時編制への移行を完了し、来るべき決戦に向け内南洋の要衝ト
ラック環礁へと集結中を進めていた。その一方で、マーシャル・カロリン方面の民間
人の内地への疎開も始まっていた。
戦時に移行しつつあったのは日英米だけではなかった。合衆国と共にPASO(汎大西
洋安全保障機構)を結成するフランスも、合衆国との相互防衛条項によって戦時体制
に移行し、動員を進めつつあった。北アフリカでは、シリアのフランス軍とエジプト
のイギリス軍が一触即発の状況にあった。
また、共産圏戦争以降PASOとの協調路線を強めつつあった欧州枢軸連合各国も、急
速に日英露に対する外交態度を硬化させていた。
急速に戦時の空気が高まる中、米内内閣はなおも和平への道を模索し、対米交渉に
おける譲歩・妥協点を探っていた。
1941年12月1日 東京 内閣総理大臣官邸
冷たい雨が降っていた。移動性低気圧の通過に伴って寒冷前線が本州上空に大きく
掛かっており、それに大陸から張り出してきた寒波が重なって、東北五県から新潟に
かけての一帯では、この雨は昼前から雪に変わると予想されていた。
重く低く垂れ込めた雲が日光を遮っている。午前8時を過ぎたというのに、窓の外
の街並は薄暮のように暗かった。まだ雨こそ降り出していないが、気象予報によれば
今日の関東地方は朝方から雨が降り出し、群馬や甲信では雪に変わるところもあると
見られていた。
天候の影響を受けてか、首相官邸の空気もまた朝から重苦しかった。米内内閣の各
閣僚にとって、この一ヶ月というもの気の休まる日はなかったといってよい。
非公式の対米交渉を重ねる中で、日本は様々な譲歩案件を提示して国交の回復を図
ろうとしていた。だが、数々の譲歩に対して合衆国が見せる反応は、国際常識を無視
した強硬なものばかりだった。
もはや疑いを挟む余地はなかった。合衆国は、日英に対して戦争を仕掛けてくる。
それも──おそらくは年内に。
日英の政府首脳は戦慄した。仮に合衆国と戦端を開いた場合、場合によっては自分
たちは欧米列強のほとんど全てを敵に廻すことになる。味方はロシアのほかは韓国、
中国国民政府、タイなどアジアの一部だけだった。直ちに日英露三国合同の対策会議
がモスクワで開かれた。分析を進めるうちに、彼我の絶望的なまでの国力差が浮き彫
りとなった。
まず、基礎工業力が天と地ほども違う。粗鋼生産量だけを見ても、日米では15倍、
英米でも4倍もの開きがある。ロシアの工業生産はシベリアの一部を除くと未だ再建
途上であり、戦力のうちに数えられる状況にはない。これにフランス、ドイツ、イタ
リア、東欧諸国まで加えると、その差はさらに開く。
航空機生産力は日英の合計を用いてすら、対合衆国比1対7という開きがある(これ
は、オーストラリア・カナダなど英連邦各国の数字まで含めた場合の話だ)。
造船にいたっては、こちらが巡洋艦一隻造る間に向こうは戦艦を建造してしまう。
その中で唯一彼我の数値が伍するのが、資源埋蔵量だった。シベリアと英連邦諸国
の豊富な天然資源は、強大な工業力と相対する日英同盟にとって、大きな支えとなっ
てくれると思われた──それを活用するだけの時間的余裕があればの話ではあるが。
半月に渡る不眠不休の会議の末、結論が出された。まともに相手をしては、勝ち目
はない。短期決戦も難しい。極力こちらの消耗を抑えつつ敵戦力のみをすり減らし、
戦線を膠着状態に持ち込んで、その間に彼我の戦力差を互角に近づけて行くよう努力
を傾けるしかない。
現実には、そのようなムシのいい戦など出来る訳もなかった。つまり、日英同盟は
戦う前から敗北宣言を受けていたに等しかった。
夕方になって、首相執務室に一通の電信が届いた。一読した米内首相の顔面から血
の気が引いた。差出元は、駐米大使館だった。
窓の外では、雷を伴った激しい雨が轟々と叩き付けるように降っていた。
同日 ワシントン 合衆国国務省
<外交最終要求>
・合衆国は太平洋地域における国際関係の安定と平和、機会の平等を希求し、その
実現に対する障害を排除するべく日英露三国に対して以下の項目の実行を要求す
る。
1.中華国民政府への武器・経済支援の即時停止
2.シンガポール・セレター港の非武装化
3.中国大陸に展開する日英軍事顧問団および義勇軍の即時撤兵
4.日本人シベリア移民の引揚げおよび新規移民の中止
5.シベリア開発事業への合衆国資本受け入れ
6.内南洋地域および小笠原諸島における日本軍軍事施設の廃止と非武装化
7.台湾および香港の合衆国が認める中国正統政府への即時返還
8.日英韓露四国特待通商条約の破棄
9.大西洋地域におけるイギリス軍事力の大幅削減
・本文書に対する最終回答期限をワシントン時間12月8日午前0時とする。
・要求項目が満足されない場合、アメリカ合衆国およびフランス共和国は国際秩序
および平和維持のため、日英露三国に対し武力制裁を発動するものとする。
コーデル・ハル国務長官は、迷っていた。
彼はこれから、近代外交史上最も理不尽な外交要求として悪名を残すこととなる文
書を手交せねばならない立場にあったからだ。
無論それが、合衆国国務長官としての彼の務めではある。だが、外交官としての彼
の中の一面は、これから自分が手交する文書の内容に強い嫌悪を感じていた。
(これは、外交の自殺だ)
彼は思った。少なくとも、このような強圧的な外交要求を武力に訴えて通そうとす
るなど、近代民主国家の取るべき道ではない。しかも、この要求文は突っぱねられる
ことを前提として書かれたものだ。この文章の起草者──フランクリン・ルーズベル
ト合衆国大統領の狙いは、要求拒否を理由に日英露に対して開戦し、勝利することに
よって、講和会議の席でさらに有利な条件を引き出すとともに、競争相手である日英
の生産力を当分の間再起できないよう叩き潰すことにあった。
おそらくこの文書を手交することによって、その結果如何では合衆国は後代まで続
く悪名を歴史上に刻むこととなるだろう。仮に対日英戦で勝利を収めたとしても、そ
れは万民に称えられる正義の勝利とはなりえない。ハルは、祖国がそのような業を背
負うことがどうしても納得できなかった。
だが、彼は一国の外交を司る地位に立つ高官であり、大統領──すなわち、合衆国
民の意思と利益を代表する人物の意向を実現すべき立場にある男だ。大統領の意思
──すなわち合衆国1億8000万の国民の意思──を実現すること。それが、民主国家
の公僕たる彼の務めだった。
ワシントンは雪が降っていた。白く覆われた街路が街明りを反射し、夜半過ぎにも
関らず屋外は明るかった。国務長官公室の窓越しに外を眺めながら、ハルは平静を保
とうとするかのように深く息をついた。
公室のドアがノックされたのは、それから暫く経ってからだった。今夜ここを訪れ
る予定の客人は三人だけ──日本・イギリス・ロシア各国の駐米大使だ。
ゆっくりと開かれるドアが、ハルの目にはまるで地獄の門のように見えた。
12月7日深夜 ワシントン 国務省
「ミスター・ハル、今日は残念なお知らせを申し上げねばなりません」
長官公室に現れた野村吉三郎駐米日本大使は、疲れた表情でそう述べた。
彼の傍らには、イギリスとロシアの駐米大使が控えていた。彼らもまた、野村と同
じ表情を浮かべていた。
「ワシントン時間1941年12月8日午前0時を以って、大日本帝国・大英帝国・およびロ
シア・スラブ共和国連邦は、アメリカ合衆国に対し宣戦を布告します」
来るべき物が来た、ハルはそう思った。あれだけの要求を呑んだとしたら、日英露
の本国では今頃革命が起きている。現に、三国では最後通牒に対して世論が沸騰し、
新聞の投書欄には合衆国に対する断固たる態度を求める投稿が数多く寄せられ、国民
感情は急速に対米開戦に向けて傾いていた。日本とロシアでは、米大使館が抗議集会
のデモ隊に取り囲まれ、投石を受けた。イギリスでも、はっきりとした形には現れな
いものの、反米感情は明らかに高まりつつあった。
そして各国政府は次々に合衆国を非難する声明を発表した。近日中に何らかの動き
──それが対米開戦決定であることは疑いない──があることは確実な情勢となって
いた。
その結果が、今日この場で起きている事態だった。
「貴国の宣戦布告を了承した」
ハルは、苦虫を噛みつぶす思いで返答した。
基本的に、国家とは集団の利益代表体であり、その利益追求のためには何をやって
も許される。しかし、国家戦略とは長期的な視点で見た国益を考慮して立案されるべ
きものだ。政治的な背景があるとはいえ、武力を背景に他国を恫喝することが長期的
な利益を生む行為だとは、ハルには思えなかった。
「──過日手交された合衆国の最後通牒は、日英露の主権と基本的安全保障をその根
底から脅かすものと言わざるを得ません。よって大日本帝国政府は日本時間本日午後
二時を以って、アメリカ合衆国に対して宣戦を布告するものであります──」
(──米内光政内閣総理大臣、首相官邸会見室にて)
「──モスクワ時間本日午前八時を以って、我がロシア・スラブ連邦はアメリカ合衆
国と戦争状態に突入しました。トハチェフスキー大統領は、合衆国の理不尽な要求に
対しては、断固これを拒否するという強い態度を表明しています──」
(──国営モスクワ・ラジオ、臨時ニュース)
「──再三の我が国の譲歩にもかかわらず、アメリカの態度はついに翻ることはあり
ませんでした。よって我が大英帝国は、自国の主権と国防を維持するために、グリニ
ッジ標準時における本日午前五時、アメリカ合衆国に対して宣戦を布告するに至りま
した……この戦争が早期に終結することを願って止みません──」
(──ウィンストン・チャーチル英首相、BBCラジオの国会中継にて)
「──本日、1941年12月8日は悲しむべき日として歴史に記録されることでしょう。
我が国やフランス共和国の国際秩序と平和への努力は実を結ぶことなく、彼らは戦争
という最悪の選択に踏み切ってしまいました。今日、私は軍に対して日英露三国に対
する戦闘行動を命じました。民主主義の理念と正義ある平和が理解されなかったこと
は、大変残念です──」
(──フランクリン・ルーズベルト合衆国大統領、ラジオの炉端演説にて)
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