海王記(6)





1941年12月9日 真珠湾

 巨大な艦隊が湾内を埋め尽くしていた。対日侵攻作戦案──いわゆるオレンジ・プ
ランによって策定された計画に従って出撃準備を進めて来た艨艟達だ。合衆国海軍最
大の兵力を誇る太平洋艦隊のほぼ全力が、この一点に集中されていた。大艦巨砲主義
を提唱した先人たちがまさに夢にまで見た光景が、ここに広がっている。
 戦力の中核を成すのは、第一次・第三次両三年計画で建造された32隻の戦艦。これ
に、空母4隻、巡洋艦23隻、駆逐艦80隻が付き、兵員輸送船、病院船、タンカー、給
糧艦、給兵艦から工作艦、敷設艦、果ては浮ドックに至るまでの大小の支援艦艇と、
それを護衛する旧式駆逐艦群を加えた総計350隻(うち戦闘艦艇139隻)に及ぶ大艦隊
が、日本の委任統治下にあるマーシャル諸島を目指す。戦闘部隊は低速・中速戦艦や
拡大装甲巡洋艦を中心とする第1任務部隊と高速戦艦・巡洋戦艦や偵察巡洋艦を中心
とする第2任務部隊に分けられ、それぞれ決戦砲撃と遊撃の任を与えられている。
「全艦隊、補給作業・出港準備共に完了しています。いつでも出撃可能です」
 ウィリアム・スミス参謀長の報告に、第1任務部隊を直率するハズバンド・キンメル
太平洋艦隊司令長官は大きく頷いた。
「よかろう。出港は明朝0600、既定の方針に従ってマーシャル諸島沖に進出。邀撃に
現れるであろう日本艦隊を撃滅し、これを攻略する」



 艦隊前衛の駆逐艦群が一斉に汽笛を鳴らし、勇躍航進を開始した。全て、艦齢5年
以下の大型新鋭艦ばかりだ。岸壁に鈴なりになった将兵達の歓声と、軍楽隊が奏でる
演奏がそれを追いかける。
 それに続くのは、航行隊形で前衛中核を務めるアストリア級装甲巡洋艦。重武装化
が進む日英の装甲巡洋艦群に対するべく補助艦艇の極限と言えるまでに肥大化した満
載排水量23000トンの巨体が、他を圧するかのように出港して行く。
 そして、第2任務部隊が動き出した。ブルックリン級拡大偵察巡洋艦の一隊を露払
いに、司令官ウィリアム・パイ中将が座乗する旗艦「ミズーリ」の45000トンの長大
なシルエットが滑るように進み始める。「ミズーリ」の艦橋でパイ中将がこちらに向
かって敬礼する様子が、総旗艦「オハイオ」からも見て取れた。「ミズーリ」に続い
て、5隻の姉妹艦とヨークタウン級、レキシントン級の巡洋戦艦群がその後を追う。
 最後に、キンメルが直率する第1任務部隊の番が回ってきた。露払いのノーザンプ
トン級装甲巡洋艦に続いて先陣を切るのは、三次に渡る三年計画で建造された全ての
戦艦の象徴とも言えるメリーランド級4隻。これに続いて、その拡大発展型であるサ
ウスダコタ級6隻が錨を上げ、一番最後に旗艦「オハイオ」をはじめとする4隻が出港
に掛かった。
 ある意味、軍隊と言うものが人々の感性に提供しうる最高の情景。
 旗艦の艦上で、キンメルは得意の絶頂にあった。
 合衆国海軍史上、これほどの大艦隊の総指揮をとるという栄誉を得た指揮官は一人
もいない。その大艦隊を率いて、いずれ劣らぬ世界三大海軍の一角と雌雄を決する一
大決戦に挑むのだ。相手は、対馬沖、そしてジュットランド沖で伝説的な勝利を収め
てきた栄光の戦歴を誇る大日本帝国海軍。これを見事打ち破れば、フランシス・ドレ
イク、ホレイショ・ネルソン、東郷平八郎、そしてジョン・ジェリコーといった偉大
な先人達の末席に自分が連なる事も夢では──
(──偉大な先人?)
 そこで、キンメルははたと気付いた。
 なんてこった。全員敵国の提督じゃないか。
 まぁ、合衆国海軍は南北戦争からこの方まともな戦争らしい戦争を経験していない
から、当然と言えば当然ではあるが。
 ならば、なって見せるまでだ。合衆国海軍史上初にして最高の、世界海戦史に名を
残す歴史的名将。そして、彼ら日英の名将達を超える栄光を手にして見せる。
 キンメルの決意は固い。



1941年12月13日 カロリン諸島 トラック環礁

 かつてロシア帝国のバルチック艦隊を対馬沖に迎え撃ったとき、根拠地・呉軍港に
集結した連合艦隊の主力艦は戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻に過ぎなかった。
 それから40年の歳月を経た今、内南洋の中央を占める大環礁に、建軍以来最大の戦
力が集結していた。
 その数、戦艦32隻、空母6隻、巡洋艦36隻、駆逐艦58隻。日本中の正面戦力をかき
集めて編成された総計132隻の大艦隊だ。米艦隊と比較して巡洋艦が多い気もするが、
このうち16隻は嚮導駆逐艦も同然の5500トン型だから、戦力価値ではほぼ同等とみて
よい。
(どうするよ、おい)
 眼前の大艦隊を目にして、第一水雷戦隊司令官の山口多聞少将は未だに自分の目が
信じられないでいた。彼が少尉に任官してから間もなく20年が過ぎようとしているが、
連合艦隊の全力が一堂に会するのは彼の記憶にある限りこれが初めての筈だ。ここに
集まった戦力のほかには、日本が保有する一線級水上戦闘艦艇は、シンガポールとセ
イロンに残置された各一個水雷戦隊に過ぎない。文字通りの総棚ざらえである。
(本当に揃っちまったぜ……)


 20世紀前半の日本の国防の根幹を成したと呼んで差し支えない八八艦隊計画。この
一大建艦計画のルーツは、日露戦争にまで遡る。強大なロシアの国力の象徴であった、
英本国艦隊に匹敵する一大勢力・バルチック艦隊。これを破った海軍の戦艦部隊は、
一躍国防の主役の座へと踊り出た。
 いつの世も英雄はさらなる栄光を期待される。日本海軍もまた例外ではなかった。
 彼らは、戦前自分達に下されていた評価を忘れてはいなかった。
 圧倒的劣勢。
 戦う前から決めつけるかのように囁かれていた敗北の観測。
 二度とあのような惨めな思いは御免だった。
 そして1904年、海軍が満を持して議会に提案したのが、当時保有していた主力艦群
の代艦を含む最新式一等戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻から成る戦隊を中核に据えた建造計
画だった。
 だが、この時期は丁度、世界の主力艦の様相が大きく変化しつつあった時代である。
その潮流に流されるかのように、当初“平時としては多少予算額が過大”というレベ
ルに収まる筈であった計画は、どんどん肥大化して行った。
 まず、「ドレッドノート」の出現を見た翌年の1905年、計画は弩級戦艦8隻、大型
装甲巡洋艦8隻と改められる。
 さらに翌1906年、計画は弩級戦艦8隻、弩級装甲巡洋艦8隻に上方修正された。
 超弩級艦「オライオン」が登場した1907年には、30000トン級戦艦8隻、27000トン
級巡洋戦艦8隻という案が国会で審議されている。
 そして1908年、極大とも言える案が提出された。16インチ砲搭載戦艦8隻、同巡洋
戦艦8隻を3年で揃え、以降全艦の艦齢を8年以内に保つよう代艦の建造を進めるとい
う途方もないものだった。
 さすがに危機感を覚えた議会は海軍に対し建艦条件の緩和を求め、結局完成案では
第一期建艦を向こう16年間で完了し、以降8年おきに1クラス4隻の代艦を建造すると
いう多少は大人しい案に落ち付いた。だが、既存の旧式艦もそっくり残存するこの計
画では、保有量が極大に達した時点での国庫に占める海軍予算の割合は、実に五割に
迫ると見積もられていた。正気の沙汰ではない。
 ところが、1920年代も終わりに差し掛かると、世界経済は妙な方向に転がり始める。
 合衆国の第二次三年計画に端を発したいわゆる造船景気とでも言うべき大好況は、
まずアメリカ国内の重工業に計り知れない恩恵をもたらした。これに引きずられる形
で繊維・食品工業が伸び始め、やがてそれは海外へと波及して行った。
 日本もまた、この好景気の恩恵にあずかっていた。僅か10年足らずの間に国民所得
の水準は2倍以上に跳ねあがった。必然的に、国家予算というパイの大きさも増大す
る。当初国家予算の四割近くを占めていた海軍予算の比率はどんどん減少して行き
(もっとも、好景気はインフレーションも伴っていたため、当然ながら正比例と言う
訳には行かなかったが)、気が付いたときには二割五分を超えるかどうかというとこ
ろにまで辿り着いていたのである。
 ついでに言えば、この予算規模拡大の恩恵にあずかったのは海軍だけではなかった。
 陸軍は、それまで二の足を踏んでいた機械化師団の創設に踏み切る決心をつけた。
 鉄道省は、かねてから構想していた都市間高速幹線鉄道網の整備に乗り出した。
 運輸省は、輸出産業としての性格を持っていた戦車生産を起点に、国内向けの自動
車産業とその市場を開拓しようと躍起になっていた。
 外務省は、当時構想が進められていたシベリア移民政策を本格的に実行に移すだけ
の下地造りを行う余裕が出来た。
 建設省も、セクト化が好きな官庁にしては珍しく逓信省と結託し、交通・通信・生
活インフラの大々的な整備に手をつけ始めた。まぁ、これに関しては予算規模を確保
せんがための公共事業もずいぶんと多かったが、それでも何がしか国民生活の向上に
対する寄与があったことは確かだ。
 しかし、この大規模予算増額で一番面目を施したのが当の大蔵省であった事は言う
までもないが。
 ただ、比率が落ちたとはいえ陸海軍合わせて国庫支出の三割以上を軍事費が占める
という状態は、あまり健全な財政とは言えなかった。現に議会では、イギリス東洋軍
が増強されつつある今どうして軍拡が必要なのかという声も出た。
 だが、大筋では議員達は軍拡に目を瞑る姿勢を見せていた。なんと言っても、国家
予算の規模はこの10年で倍以上に膨れ上がった。その中で軍事費の比率が落ちている
ということは、民生に廻す予算はそれ以上の比率で増加している──すなわち、議員
達の地元に落ちる金も増える──と言う事であり、それはそれでめでたい。なにより
当時、日本はその後背に共産圏という潜在的侵略勢力の脅威を直接受けていた。確か
に満州と朝鮮ではイギリス軍が頑張っているが、彼らとて日本本土までは守ってはく
れないのだ。ある程度の軍拡は──どの程度をある程度と言うのかは別にして──許
容されるべき必要悪だった。

 ともあれ、山口の目の前には、日本がその国力を限界近くまで振り絞って整えた洋
上決戦兵力のほぼ全力が遊弋していた。
(だが)
 山口は思った。
 日本が総力をあげて建造した大艦隊にしても、合衆国が保有する海軍戦力に比較す
ればほぼ半分にしかならない。1910年代末以来天井知らずの経済成長を遂げてきた合
衆国の工業力は、それほどの兵力を平時において維持する事に、何ら痛痒を覚えてい
ないのだ。

 前世紀末にイギリスが掲げた二国標準主義は、今では合衆国がその忠実な実践者と
なっていた。彼らは、当面の仮想敵である日英──世界第二位と第三位の海軍に一国
で以って対抗できるだけの決戦兵力、つまり60隻の戦艦を保有していた。1920年以来
10年おきに繰り返された海軍三年計画。そのたびに次々と竣工していく米戦艦の群は、
日英の海軍にとって長年の懸案だった。こちらがいくら戦艦を建造しても、合衆国は
10年のスパンで一気に追い付いてくる。戦艦16隻を始めとする大量の艦艇を平時体制
のもとですら僅か三年間で調達してしまう造船能力は、いまや年間1000万トンに達す
る勢いだと言う。かたや日本はようやく300万トンをこえた程度。
 おまけに、合衆国は一国よく二国を相手取るという自信過剰の権化のような本家の
コンセプトに付き合うほど無邪気ではなかった。かれらにはフランス・ドイツ・イタ
リアという世界第四位から六位の海軍を擁する味方がついていた。旧式艦が多いとは
いえこの3ヶ国だけで保有戦艦は合計53隻。今のところドイツやイタリアとは開戦して
いないが、フランスだけでも直接対峙するイギリスにとっては頭の痛い相手だった。
 フランス海軍が保有する戦艦は大西洋と地中海をあわせて20隻。うち半数は艦齢
10年以内の新鋭艦だ。英海軍も本国・地中海合わせて24隻の戦艦を展開させてはいる
が、それらは各地の拠点に分散配備されている。おまけに大西洋の戦力の運用は、
戦艦16と言う分厚い陣容を誇る合衆国大西洋艦隊の動向に左右される傾向が強かった。
かといって、彼らは極東艦隊──1937年に“ステーション”から“フリート”に昇格
していた──からこれ以上戦艦を引きぬくわけにもいかなかった。極東艦隊の守るシ
ンガポールは、今や大英帝国が保有する権益の中で最大となった東アジアからインド
洋への唯一の出口なのだ。そして合衆国は、指呼の距離にあるフィリピンに巡洋艦多
数を中核とした有力な艦隊を貼りつけることによって、常時無言の圧力を掛けつづけ
ていた。さらに、開戦間近となった今、そこには戦艦6隻が追加されている。シンガ
ポールには天城級巡洋戦艦を中核とする日本海軍第四艦隊も派遣されていた(日本は
アジア全域における海洋通行の安全を保障することにより、東南アジア沿岸地域に対
して少なからぬ影響力を保持していた)が、合衆国太平洋艦隊が出てくれば、彼らは
そちらへと駆り出されてしまうことは明白だ。結局王立海軍の勇者達は、四つの海に
広がる自国の領域を、その面積に比してあまりに少ない戦力で守らねばならないのだ
った。

 そしてそれは、王立海軍の忠実な一番弟子に対しても言える事だった。日英同盟が
その経済水域、すなわち勢力圏とする海域のなかで日本が担当するものは、日付変更
線以西の太平洋全域及び東〜東南アジア全域、さらには東インド洋にまで及ぶ。
 これだけの広大な領域を一国の海軍力で賄うというのは、なみの苦労ではない。


(その海軍力の大半をこの一戦につぎ込むんだから──)
 山口は、武者震いを感じた。こりゃ負けたら一大事だ。



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