[避難所体制のスタート]
1995年1月17日
○避難所の開設
○衣類の配布(体育教官室の私物、備品などすべて)
○遺体の安置・搬送(教員の自家用車で体育館から区役所へ)
○重傷者の病院への搬送(教員の自家用車で)
○倒壊家屋より生存者の救出、遺体の搬出
○避難所への誘導(グラウンドから体育館へ)
○東灘警察署より避難者の受け入れ
○学校事務室を仮本部とし、緊急電話の設置
○学校備品の毛布・布団をすべて避難所へ配布
学校に到着すると、宿直代行員の方により、学校の開放が既になされており、近隣の多くの住民が学校に避難していた。上記のような対応に追われて、一日が過ぎていった。当日出勤した教員は10名であった。行政からの指示は何一つなく、停電したまま、不安な夜を迎えた。その時、避難者数は1,000名を超えていた。そして、深夜になり、救援物資として、毛布200枚とコッペパン300個が届く。避難者のすべてに配布するだけのものがなく、毛布は深夜に、コッペパンは翌朝に配布した。その時の避難者の表情は忘れられない。