表現主義の色濃い「紫烟荘」が東京にたてられたころ、すでに都市への労働人口集中は始まっていた。それは棒給生活者という、新しい社会層の住宅史の始まりでもある。
さらに終戦後、420万戸もの住宅が不足していたという事実が、昭和住宅のひとつの出発点となる。まず、量が問題だったのだ。そのことは、住宅建設の工業化・商品化という道筋を用意する。建築家も量の問題に積極的にかかわり、技術の進歩は着実にそのラインをサポートしてきた。しかし、池辺陽による立体最小限住宅ですら「中流」のイメージでとらえられたところに、当時の貧困があった。
封建的な「家」に対し、近代的な機能主義の思想に輝いていた建築家たちは、質の高い小住宅を着々と生みだしていった。そんななかでDKという空間が準備され、住宅公団が設立されると、モダンなイメージをともなった2DKなどの団地が量の不足を解決する先頭に立つ。
やがて高度成長期には、多くの建築家の関心は、小さな個人住宅から公共の「都市」へと移っていく。ただ、篠原一男が「住宅は芸術である」と言ったように、住宅でこそ密度の高い「建築」という質が表現できるという思想は脈々と流れ続け、個性的で多様な今日の住宅建築を生みだしている。
しかしなぜ、経済大国とよばれるようになっても、望ましい住宅が手に入らないのだろうか。それはおそらく、通勤時間と予算との相関関係のなかにしか住宅を見出せないサラリーマンの、住まうことに対する想像力の問題であると同時に、土地の神話をも含めて、住まいに関わるすべてが産業化されるという構造ができあがったためだと言えるのではないか。そうなると建築家の名前も、たんなるブランドに過ぎなくなるかもしれない。
どうもサラリーマンの住宅は、昭和という時代を経て、住まいをめぐる無限運動の起動へと打ち上げられてしまったようだ。
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