ギブソン・ギターの歴史~アメリカの多様性を体現したギター・メーカー

 1896年に楽器工房を開いたオーヴィル・H・ギブソンは、C.F.マーチンとは異なり、ヴァイオリン属製作に使われる削り出しの手法で、1800年代末にアーチトップギターの製作を始めています。

「ギブソン」というブランドネームは、「聞く人によって最初に思い浮かべる楽器がそれぞれ異なる」とも言われ、とても広範囲のフレット楽器を製造してきており、ギブソン社は、「アメリカの多様性を体現したギター・メーカー」とも言えます。

レス・ポールのようなエレクトリックギターを思い浮かべる人もいれば、ジャズ系の演奏者はL-5のようなフル・アコースティックのギター、また、フュージョン系なら335のようなセミ・アコースティックギターが印象に残っているだろうし、他にもF-5などのマンドリン、マスタートーンなどのバンジョーが頭に浮かぶ人もいるでしょう。フラットトップのアコースティックギターについても、豪華なSJ200から廉価なスモール・ボディのLスタイルなど幾つものスタイルが存在します。「音楽家のギター」と「民衆のギター」の二つの特性を併せ持つギター・メーカーとも言えるかもしれません。アメリカのアコースティックギターの歴史において、マーチン社と双璧を成すギター・メーカーがギブソン社です。

 

 ⅰ) 趣味の楽器製作から始まった「ギブソン」~オーヴィル・H・ギブソンと削り出しのギター

 ギブソンの創始者オーヴィル・H・ギブソンは、イギリスからの移民である父ジョン・ギブソンの子として1856年ニューヨーク州シャトーゲイに生まれました。

 若い頃、ミシガン州カラマズーに移り住んだオーヴィルは、店員や事務員など幾つかの職業を転々としたといいます。楽器演奏と木工製作の個人的な特技から、1870年代にオーヴィルは楽器製作を開始しました。趣味として始めた楽器製作は、1894年に本職に移行し、ヴァイオリン製作を始め、1896年に工房兼ショップを開設しました。C.F.マーチンの創業から63年後に「ギブソン」は個人工房として始まりました。

 この時代、世はマンドリン・ブームで、オーヴィルの製作の中心はマンドリンであったといいます。それまで、一般的に使用されていた丸い背面のナポリタン型の音や音量、デザインには満足していなかったと言われます。また、バンド等の演奏で丸い背面の楽器は持ちにくいという欠点もありました。そこで、オーヴィルが考え付いたのが、ヴァイオリンの構造と技術を応用し、胴の音量を増大させることと、当時、人気のあったアール・ヌーボーのデザインを取り入れることでした。このコンセプトが最大限に表現されているのが、スクロール(渦巻き状)の装飾と3つのポイントを配したフローレンタインと呼ばれるモデルであるそうです。

 ギブソンのギターは、マーチン・ギターと初期の楽器において特徴がはっきりと異なっています。当初からマーチンは平らな表面板のギターを作っていたのに対して、ギブソンは削り出しによるアーチトップ(当初はくびれの部分も削り出しだったという説もある)の構造になっていました。ヴァイオリンの製作法であり、職人の聴覚の熟練も必要で手間がかかると言われる製作方法です。材料の入手方法も、ヨーロッパのヴァイオリン製作のように古い建物の解体物や家具から調達することで乾燥条件のよい材料を得ていたといいます。

 個人製作の楽器工房としてスタートしたギブソンですが、1902年10月11日、地元のビジネスマン5人の出資により、「Gibson Mandolin Guitar Manufacturring Co.Ltd」として有限会社に発展しました。パン屋跡を工場としたギブソン社において、その後のオーヴィルは、ギターの製作にも経営にも関わることはなかったといいます。(1909年にオーヴィルはギブソン社を去っているとする文献もあります。)ギブソン・ブランドのネーム・ロイヤリティを受けつつ技術指導等をするだけで、1918年8月21日、ニューヨークのオグデンバーグで60余年の生涯を閉じました。ギブソン社は、社名変更や改組を進めて、「Gibson Mandolin Guitar Company」として会社規模を拡大していきました。

 

 ⅱ) マンドリン・ブームの到来~名器ロイド・ロアーのF5とアーチトップギター

 先述の通り、1900年代初旬にマンドリン・オーケストラ・ブームが起こり、ギブソンはマンドリンを主力として製作していました。一方で、STYLE-Oという削り出しで楕円形のサウンドホールを持ち、胴の下部、ボディエンドから弦を引っ張る構造のアーチトップギターや、それよりやや小型のLシリーズ、ハープギターのSTYLE-Uなどを製作していました。STYLE-OやSTYLE-Uの、胴のくびれより上の部分アッパーボウトには、ギブソン社のフラットマンドリン同様の独特のスクロール(渦巻き状)の装飾が見られました。この頃のギブソン・アーチトップギターはマーチン社に先んじて、既に12~15フレット・ジョイントのギターを製作していたといいます。

 ちなみに、私が、現存する幾つかのSTYLE-OやSTYLE-Uを弾いた感想としては、澄んだ透明感のある素朴な音で、平たい表面板のフラットトップのギターに比べて倍音はかなり少なく感じました。

 その後、ギブソンは1909年に工場を新設し、バンジョーの製作に力を入れていくことになります。

 オーヴィル・H・ギブソンが死去した次の年、1919年にマンドリン奏者で音響技術者のロイド・ロアーがギブソンに入社します。ロイド・ロアーは、ヴァイオリン等の構造を取り入れて、ギブソンのギターに大きな影響を与えました。フラットマンドリンの名器と言われるF-5を作成し、1922年には、F型サウンドホールを初めて採用し、その後、ジャズギターのスタンダードとなったアーチトップギターL-5の開発を行いました。ロイド・ロアーは、1924年にギブソン社を去っていますが、彼の功績はとても大きいと言えるでしょう。

参考まで、ギブソン社を去ったロイド・ロアーにより「ViVi-Tone社」から最初のエレクトリック楽器「エレクトリックダブルベース」が世に送り出され、それを契機に、1931年には、ハワイアン向けのギターではあるものの、最初のエレクトリックギターと言える「フライングパン」がリッケンバッカー社によって作られることになります。1936年には、ギブソン社初のエレクトリック・スパニッシュ・ギターES-150も発表されています。その後、1930sのギブソンスーパー400やLシリーズにピックアップが搭載され、一般に広まっていきました。ジャズギタリストのチャーリー・クリスチャン(1916~1942)が、1936年頃、バンドのなかでギターソロを弾くことをこころざし、アコースティックギターのボディにピックアップを付けたギターを使い始めたという逸話もあります。ハウリングの起こらないソリッドギターを初めて商品化したのは、ギターやアンプの製作家だったレオ・フェンダーで、1949年に発表したフェンダーエスクワイヤーが、第1号のソリッドギターとされています。弱音楽器であったギターは、その後のエレクトリックの発展の中で、バンド演奏等で大きな位置を占めることになります。

 

) 多様性を生む様々な開発

 エレクトリックギターの開発にも積極的だったギブソン社は、1921年にウッドワーカーのテッド・マクヒューにより、アジャスタブル・トラスロッドとハイト・アジャスタブル・ブリッジも開発しています。特にネック調整のためのアジャスタブル・トラスロッドは、パテントが切れた1980年代にマーチン社も採用するなど、世界中のスチール弦アコースティックギターに使われるようになった画期的なシステムだったと言えるでしょう。また、アジャスタブル・ブリッジは、多くのエレクトリックギターのブリッジの基となったことは勿論、好みは分かれるもののギブソンアコースティック特有の一つの音のジャンルを創り出すことにもなりました。

 1926年には、ギブソン初のフラットトップギターのL-0とアーチトップ仕様から転じたL-1を発表。1928年には、ニックルーカスモデルを製作。1929年にL-2、1932年にL-00を製作。仕様も次々に変更されていきます。

 

) ハワイアンブームとギブソンHGシリーズ

 1929年、ギブソン社は、ハワイアン・ミュージック・ブームに合わせてHGシリーズを発表しました。座った奏者の膝の上にギターを横置きにして演奏するラップスタイルに合わせて、ナット(ネック部で弦を支える部分。牛骨等で作られる。)の高い仕様のHG-20・22・24を発売しました。HG-22・24には、一般的なサウンドホール以外に、四隅に4つのF型サウンドホールのある独特のボディを持っていました。一般に、表面板の穴の面積が広いほど、明るい音になる傾向があるので、ハワイアン・ミュージックには馴染んだ作りのギターだったと考えられます。特にHG-24については、14フレット・ジョイントで、後のJシリーズの基となるラウンド・ショルダーと呼ばれる大きな胴を持っていました。

 全米で大流行していたハワイアン・ミュージックを演奏するためのスライドギターには、当初は通常のスチール弦フラットトップギターが使用されていましたが、やがてボディを大型化したスライド専用のギターが用いられるようになりました。そんな中、1927年にナショナル社から発売されたリゾネイターギターは、スライドギターのトップとして人気を博していました。このギターのネックは12フレット・ジョイントでしたが、そのボディシェイプは、ギブソンの後のラウンド・ショルダーのボディに酷似していました。ギブソン社は、スライドギターとして人気のあるナショナルのリゾネイターギターの胴の形状を参考にしながら、独自のスライドギターをデザインしたと考えられます。

 マーチン社のドレッドノートタイプのネック・ジョイントが、12フレット・ジョイントのギターより、2フレット分、胴を切り取ってフレットを増やす設計をしていたのに対して、ギブソン社のHG-24は、指板を2フレット分、上に異動することで14フレット・ジョイントのギターをデザインしたといいます。結果として、ギブソン社のラウンド・ショルダーのギターの方が、マーチン社のドレッドノートタイプのギターより、全長を同じにして作成するなら胴の容積が大きくなります。「リッチでディープでウォーム」と言われるギブソン・ラウンド・ショルダーの音が、この胴によって作られていきました。

 1934年には、ハワイアン・ギタリストのロイ・スメックの協力でロイ・スメック・ステージデラックスとロイ・スメック・ラジオグランデを発売し、ハワイアンブームの絶頂期を迎えることになりました。その後も1937年に後継のHG-00やHG-センチュリーが作られましたが、ハワイアンブームが去ったことで、2年余りでロイ・スメック・ラジオグランデとHG-センチュリーは製造中止し、1945までに全てのハワイアン・モデルが生産中止しました。

 以前、私はロイ・スメック・ラジオグランデを弾いたことがありますが、明るい独特の音色で、やはりハワイアン向けに限られるギターという印象を持っています。

 

 ⅴ) ギブソン・フラットトップ・ギターの台頭~ジャンボモデルとスーパージャンボSJ200の開発

1933年にシカゴ100年祭を記念してリリースされた指板の美しいL-センチュリーや、HGシリーズの後継器種のHG-00等の発売を最後に、ギブソン・フラットトップは大型の14フレットモデルを作り始めます。

1934年、一般のスチール弦ギターとしては、ギブソン社初のラウンド・ショルダー・ボディ(マーチン社ドレッドノートタイプより丸みを帯びた形状の胴)で14フレットのジャンボを発表。続けて1936年に、その後継のJ35を弾いてモンロー・ブラザーズが活躍。同じ年にマーチン社のドレッドノートを意識し、パワフルな音を目指したという名器アドヴァンスト・ジャンボも発売されています。その後、ジャンボモデルは、1938年のジャンボ・デラックス、1939年のJ55の発売など、多くのモデルが作られていきました。

一方、1937年には、カウボーイ・スターでカントリー歌手であるレイ・ウィットリーのためにスーパージャンボモデルのSJ200を製造しました。このギターはギブソン社で最も豪華なギターとしてラインナップされました。

当時、レイ・ウィットリーとギブソンのガイ・ハートがマディソン・スクエア・ガーデンのロデオ会場で会談しました。レイ・ウィットリーは、その時、「超ファンキーで、超カントリーなデザインのギターを作ったらどうか?」と提案したといいます。ガイは、それを実現するために、レイをギブソンのカラマズー工場に招き、デザイナーと協議の上でプロトタイプを作ることになりました。12月に第1号機が完成し、レイに贈られた。ヘッドには貝で“CUSTOM MADE FOR RAY WHITLEY”とインレイを装飾されていました。ピックガードは削り出しの高級アーチトップギター、スーパー400の材料を使い、ムスタッシュ・ブリッジと呼ばれる透かし彫りの入ったブリッジに、弦ごとに調整の出来るブリッジ・サドルが取り付けられていました。レイのSJ200を見た著名なカントリーシンガー達は、こぞってSJ200を注文したといいます。

 

) 第二次世界大戦とギブソン~時代に翻弄された名器J45の製作

第二次世界大戦の始まった1942年に有名なJ45を発売。戦争の影響で、従業員及び資材の確保が困難になり、J35・J55・SJ100などのラインはすべてストップしました。代表格となっていたSJ200も1943年には製造中止となってしまったといいます。

それらに代わる廉価版としてL-00、LG-2、サザンジャンボ、そしてJ45が製造された。特にJ45は、もともとスチューデント・モデルとして、学生でも購入しやすい廉価版ギターとして開発されたといいます。

戦争の影響で、J45は様々な仕様の変遷を余儀なくされました。1942年のJ45は、J35の面影を持ち、初期のものはネック補強に金属のトラスロッドが入っていましたが、金属不足から、間もなく黒檀材に変更されました。1943年になると表面板に使われていたスプルース材も不足し、4枚板で作られるようになりました。ネックのつなぎ目のブロック材も、以前はマホガニー材が多く使われていましたが、ポプラ材が使われたりしていました。4枚板の表面板は、見てくれが悪かったらしく、その部分に黒のストライプでデザインしてあるものもあります。表面板も裏板もマホガニー材の一枚板で作られているものもあります。全てのJ45に濃いブラウンのサンバーストと呼ばれる塗装がされているのも、材の色をなるべく目立たせないことが目的の一つだったとも言われています。1940年代のJ45のヘッドには、“ONLY A GIBSON IS GOOD ENOUGH”という言葉が入っています。これらはバナー・ヘッド・モデルと呼ばれるが、戦時中、特別な装飾等できない中で、自分たちの作ったギターに対する「自信やプライド」を表現することで、コストのかからない装飾を工夫したとも言われています。

また、1942年には、J45のナチュラルフィニッシュバージョンと言われ、シンガーソングライターの草分けとして著名なジェイムズ・テイラーが使用したJ50の発売も始めています。

そして、戦時下の1944年には、シカゴ・ミュージック・インストゥルメンツ・カンパニーがギブソン社を買収しました。戦時下に作られた不遇のJ45であるが、その音色、音量は、現在のスチール弦アコースティックギター以上のものがあると感じています。ストローク奏法の似合う、とても泥臭い「民衆のギター」とも言えますが、弾き方次第でとても繊細な音にもなるギターです。

 

) 第2次世界大戦後のアメリカン・ミュージックとギブソン社の発展

 第2次世界大戦後のフォーク・ムーブメントは、ギブソン社のギター製作の種類と製作本数もマーチン社同様に拡大していきます。1946年より、表面板の平らなフラットトップギターの最高器種SJ200は、J200と名前を変えて、仕様変更しながら再生産されました。1951年には、その廉価版で「名作」とも言われるJ185が作られました。戦時下に作られたスモール・ボディのLG-2は、1946年にLG-3、1947年にLG-1と次々にラインナップが加わりました。これらは1958年のLG-0の後は、1962年からB-25に始まるBシリーズに受け継がれることになります。B-15等は最も手に入れやすいギブソン・ギターとして親しまれ、ブルースのフィンガーピッキングなどを好む奏者に使用されました。

 エレキギターのレス・ポール発表の前年、1951年にCF100Eというエレクトリック・アコースティックギターが作られましたが、1954年には、ビートルズのジョン・レノンの愛用したJ160Eが発売されています。ラウンド・ショルダーの胴にP90シングルサイズ・ピックアップを装着したエレクトリック・アコースティックギターです。ビートルズのリバプール・サウンドを再現するには、このJ160Eの音が必要な曲も多くあります。

 私見ですが、1950年代のギブソン・ギターは、勿論、器種の傾向はそれぞれだが、重く響きの良いギターが多い印象があります。J200やJ185など、弾いていて気持ちの良いギターが多いと感じています。

 1960年代に入ると、ギブソン社初のスクエア・ショルダー(マーチン社のドレッドノートに似た胴の形状)のハミングバードとダヴが発売されました。1960年発売のハミングバードに装着されているハチドリの彫り物を施した大型のピックガードは、遠くからでも存在感があり、真っ赤なボディは非常に印象的です。1962年に発売されたダヴのピックガードは、白鳥貝で鳩をあしらった美しく派手なデザインも、世界中で知られるようになりました。また、J180のエヴァリー・ブラザーズ・シグネチャー・モデルは、左右対称な髭のような大きなピックガードが印象的です。このピックガードは、ドン・エヴァリー自身によるデザインだといいます。1960年代ギブソンの特徴は、ビジュアル化と言えるでしょう。

 1960年代のもう一つの特徴として、アジャスタブル・ブリッジを装着したギブソン・ギターが主流となったことが挙げられます。アジャスタブル・ブリッジは、1956年からオプションで取り入れられていますが、ブリッジ側の弦高調整をアーチトップギターのブリッジのように、両端の2本のスクリューによって弦を支えるサドルを上下する画期的なものです。しかし、弦に直接触れているサドルと、表面板に貼られているブリッジとが、2点のスクリューのみで繋がっていることになり、弦振動が表面板に十分に伝わらないという欠点がありました。この頃のギブソン・ギターを弾くと、低音も高音も響きがよくないものも多いのですが、ガシャガシャと鳴る独特の音が人気を博したため、この時代のほとんどのギターにアジャスタブル・ブリッジが装着されています。しかし、アジャスタブル・ブリッジは、1969年に廃止されることになります。

 1970年代に入るとフォーク・ソング・ブームの衰退が起こり、マーチン社と同様に、ギブソン社もアコースティックギターに氷河期が訪れます。ギブソン社の時代への対応は、シカゴ・ミュージック・インストゥルメンツ・カンパニーからノーリン・カンパニーへのギブソン社の売却であると同時に、マークシリーズの開発などの革新的な技術改革でありました。

 その後、1986年には、立て直しに失敗したノーリン・カンパニーから経営陣が再び変わることになります。ギブソン社は、モンタナ州ボーズマンのフラットマンドリン工房フラット・アイアンを取得し、地元の優れたギター製作家であるレン・ファーガソンをカスタムショップのマスタービルダーに加えて現在に至っています。