『小夜曲を聴きながら』
著:内神
春の夜の空気は「こってり」していました。私はそんな空気に誘わ れるように外に出ます。濃密な空気です。何かがプチプチと弾けるよ うな気配です。 それは、もしかしたら、生命の息吹なのかもしれません。 こんな都会の地でもこの空気を感じることが出来るのが不思議でし た。昔、と言っても数年前まで私が住んでいた群馬の片田舎ならとも かく。 風が、暖かな風が、どこか高い高い空の上で巻き起こった優しい手 が、田舎からこんな空気を運んできたのかもしれない。そんなことを 考えながら管理人さんに挨拶をし、アパートを出ます。 こんな夜は、自分の意識が、考えが、古風になります。私の実家は 春の神を祭り、私はそこで巫女をつとめました。だからでしょうか。 …いえ、本当の理由は少し違うのでしょう。でも、春は私にとても近 しいものなのです。 行く先は小さな公園。 桜の開花は5日前。丁度今日の風に花吹雪が舞う時期だと思ったか らです。 思っていたのとは全く違いました。 うわあああああっ………………………。 うわああああああっっっ…………………。 風が、一声、歓声のように吠えるごと。花が、舞います。白とピン クと桜色の嵐。想像し得ない美しさ。 一際置いて風が強く吹き付け、私は長く伸びた髪を抑えました。少 し切りにいかなくちゃ。そんなことを思いながら。 その時…………。 微かな音が聞こえました。 花吹雪の向こう、人がいます。微かな人影。すらりとした体型。長 身です。 柔らかな音が聞こえます。それはどこかで聞いた歌。確かに、彼の 喉から生まれる音。でも、何かの楽器のよう。 昔々、恋人の家の窓の下。 奏でられた愛の歌。 彼がいます。始めて出会います。でも、昔から、知って、いました。 私は、長い髪をなだめるように押さえながら、少しだけ泣きそうに、 花びらが踊り終わるのを待ちます。小夜曲を聴きながら。 彼女はくるりとシャーペンを回す。人差し指と中指の間。飾り気の ない銀のシャープペンシル。 今は夜中の一時。良い子はみんな眠る時間だ。 つまり、受験生以外は。 ひどく、億劫だった。咲夜は勉強が出来る。天才型でも努力型でも ない。強いて言うならその中間。やればやっただけ、その結果が形に なって返ってくる。そんなタイプ。 だから、勉強自体はそんなに嫌いじゃない。新しい知識を学ぶのは 楽しいし、単調な作業も苦痛じゃない。 でも……。 時々、ふっ、と考えてしまう。人間って何なんだろう? 私は何故 ここにいるんだろう? って。こんな事を両親に話しても無駄。 「若いとき誰でも一度は悩むもの」 って言われてしまうのが落ち。でも、その若いときの気持ちを大抵 の大人は忘れてしまった。あの身を焦がすような感情と、突き上げて くる衝動を。 しかも、咲夜の場合、それは急に始まった。月のモノが来るように なってから。人よりずっとずっと遅めの初潮を迎えてから。体が悪か ったわけではない。理由は…? と聞かれたら遺伝としか言いようが ない。父方、本家の女性は皆そうだったらしい。 その鬱は強烈に咲夜を引きずり下ろし、同時に奇妙な高揚感を与え る。つまり………何というか………私が、私であって、私じゃなくて、 でも、それでも私で…………。一体感と隔絶感。その矛盾する二つが 嵐のようにくるくる回る。未整理の感情に思考が千々に乱れる。 「今年の春神事、どうなるんだろ」呟いてみた。 初潮を迎えれば成人の儀。本格的に巫女としての修行が始まるのが 普通。でも、この地は少し違う。 群馬の外れ。天気予報で、「山沿いの地方は雪になるでしょう」と 言われて、外を見る。大雪が降っている。そんな小さな町。 取り柄と言えば美人が多いことくらい。 でも、ここに住む人は生粋の日本人じゃない。大昔から住んでいる けど、日本じゃないどこかの血を引いた人達。手持ちぶさたな手の中 で、小さな手鏡をもてあそぶ。鏡の中、自分を見つめる瞳は、蒼。 私たちの神事は他と少し違う。初潮を迎えた巫女は最後の神事を行 い、町を出る。それから………子をなすまでは戻ってこれない。 しかも、奇妙なことに咲夜は神話について何も知らない。咲夜だけ じゃない。町の人も誰も知らない。それどころか宮司の父も知らない 節がある。 理不尽だな。と、思う。 「別に出てく必要はない」父、母は言う。でも、咲夜は東京の大学へ 行きたかったし、町に住む年寄り達の目も気になった。 だから、自分で決めたこと。 なのに、暗く沈む気持ちを抑えきれない。 水底に沈殿する泥のように気持ちは積もる。あの奇妙な躁鬱がかつ てないほど強く咲夜を捉える。 その時。 微かな、音が、聞こえた。 さくら さくら 野山も里も 身わたすかぎり かすみか雲か 朝日ににおう さくら さくら はなざかり 冬。もっとも春に近く、縁遠い季節。そんな中響き渡った音は、不 思議と暖かかった。声なのか、楽器なのかも分からない不思議な音。 時として音楽は他の何よりも雄弁になる。 安定する自分。音の中、守り、守られる自分がいる。 二回ほど繰り返すと音は即興へと移り変わった。 価値観の転換、解放。そしてイメージの奔流。 桜の花。舞う彼女。幸福、暖かな笑み。信じられないほど美しい立 ち姿。 彼女は、私で。私は、彼女で。 毎夜聞こえる音に励まされ、咲夜は志望の大学に合格する。 空気が暖かい。今まで引き延ばしてきた引っ越しが、明日行われる。 今日が最後の神事。 心は落ち着いていた。静謐な水面のごとく。咲夜は独特の白装束を 着て、舞台にあがる。小山の中腹に作られた宮。時は深夜。月光の下 開けた眺望に、桜の海が視界を埋める。 彼女が浅く息を吸うと同時、何かに呼びかけるように音楽が始まる。 笙に似た楽器と、笛、小さな和太鼓。そして彼女は舞い始める。春神 事。春の神を祭り、降ろす為の神事。 咲夜の奥で何かが切り替わる。「理解」が変化する。 舞ながら思う。いえ、………思います。 今までどうして気付かなかったのでしょう? これは1人舞ではないのです。対手がいる筈なのです。足をゆるや かに動かし、手を差しのばします。この手の先には、あなたがいる筈 なのです。 朧気ながら舞の流れが分かります。「私」はさらわれ、彼との間に 子をなします。 どれくらいの時間がたったのでしょう。いつの間にか私は舞終わり、 奏者たちが1人、また1人とふもとに向けて階段を下りて行くところ でした。これから先は私と、彼女だけの儀。私は宮の中に向かいます。 そこで、口伝伝承の儀が待っています。 濃密な闇の中。そこには父方の祖母、先代の巫女がいる。咲夜に背 を向け、暗闇をじっと見つめている。息を整え、開口一番、咲夜は言 った。 「私は、贄として捧げられたのですね」 「今じゃぁ、昔のことを知るもんは誰もおらん」 唐突な質問に、祖母がゆっくりと答える。 「形骸化した慣習が残るだけじゃ。そして慣習は感情に縛られとる。 だから長々と続いておった………。すまんことをした」 祖母は咲夜に深々と頭を下げる。その時、咲夜には分かった。誰も 神話を知らない理由。 祖母が………もしくは、更に昔の巫女が……神話を隠したのだ。こ の奇妙な業を断つべく。 「わしゃあ、大学でここの習わしを調べた」 ポツリと祖母が言う。 「この地に伝わる話は、典型的な季節の神話に極めて近いものじゃ。 この地に女神がやって来る。名もなき女神。春の神にして豊饒の神。 その女神が、この地の主。冬の男神に見初められ、さらわれる。彼女 は子供が出来た時、始めて一時的な帰省を許される。時が来ればまた 彼女は男神の元へと帰っていく」 言いながらこちらに向き直る。 「この話から幾つかのことが分かるものじゃ。四季に対する神性の付 与。つまり、農耕があったのじゃろ。そして、常春のような暖かな場 所から渡ってきたこと……。これの意味が分かるかえ?」 「農耕があったと言うことは、定住していたと言うこと。つまり、常 春の地から追い出されたと言うこと……」 「その通りじゃ。儂らの祖先がこの地に来たのは、好きこのんでのこ とではないじゃろ。誰が住み慣れた地を離れるものか」 渡り来た、地を追われた彼らがこの新天地で生きていく。血を守る ため閉鎖性を保ちつつ、生きていくために外との関係を保たなければ ならない。異邦人故の疎外と誇り。追われた者故の恐怖。そんな中、 神同士の婚姻の神話が作られる。 男神は彼等にとり、異者の象徴。女神は贄。子をなすことにより男 神を彼等の枠に入れる。 「もしかしたら、この地の権力者に、女性が見初められ、それが神話 になったのかもしれん。総ては想像の内じゃ」 祖母は目を閉じる。その表情からは何を考えているのか想像もつか ない。 そして、総ての神事が終わる……………。 胸の中からにじみ出る感情。蘇る現実感。そして………そして私は 微笑んだ。 「お婆ちゃん、私嬉しいの。こんなこと言っても信じられないかもし れないけど、私、嬉しいのよ」 祖母は一瞬見開いた目を、すぐまた細め、 「そうかい、そうかい」と言った。とても小さな声だった。消え入り そうな声だった。だが、その中に咲夜は安堵の響きを感じた。 祖母には祖母の思いがある。私には私の思いが。 「そうなの」 奪われた彼女。さらわれた彼女。でも、その気持ちはどうだったの だろう? 結ばれないはずの思いが成就した喜びに輝いていた。そう 思う。いや、確信する。 だって、彼女は笑っていた。染み入るような明るい笑顔で。 私は階段を下りる。ぼうっ、と光る月明かり。 桜の下をゆっくりと歩く。奇妙に浮き立つ気持ち。その足が軽やか にステップを踏み始める。妖精のように、女神のように。散る花の中、 胸を占める切ない思いに答えるかのごとく。 闇の中、月光の下、どこからともなく聞こえてくる小夜曲を聴きな がら。 <了>