Innocence/無垢  by 登子

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中央線の駅から数分、裏通りのうらぶれた5階建てビルの地下に、ライブハウスはあった。
地下に向かう階段をビルの脇に見つけた。
階段の降り口の壁に、そのライブハウスの看板。年季の入った黒いパネルに、すすけたピンクのアルファベット文字が浮かび上がっている。横に、今日の出演バンドの貼り紙がべたべたと並んでいた。
兄貴のバンド名を認めると、オレは階段を駆け下りた。重い鉄の扉に体重をかけた瞬間、BGMにしては音量の大きすぎる派手なメロディが、耳を劈いた。

この前、ライブハウスに来たときは、兄貴と一緒だった。
アマチュアロック界でちょっと評判になっていた、そのスリーピースバンドの演奏を聴きながら、兄貴はバドワイザーを、オレはオレンジジュースを手に、「全然、センス悪いじゃん!」なんて囁きあったっけ。
高校に入ってドラムを始めたオレに、兄貴は何かにつけて世話を焼いた。

結構、勉強ができたオレが、兄貴に影響され追っかけるように、ドラムを始めたのを、おふくろも親父も、快くは思っていなかった。
兄貴も、もともと成績は悪くはなかったけど、音楽を本格的にはじめて徐々に学年順位を落とした。大学の志望校も、高校一年のときからスリーダンクも下げて、やっと受かった有様だ。おまけに単位が取れなくて、留年まで重ねている。両親に対し、ちょっと後ろめたい気分もあったのだろう。
「英二、ドラムは気分転換になっていいと思うけどさ、大学受験サボっちゃだめだよ」
「平気、平気。ちゃんと理系に入って、おふくろ安心させるからさ」
ドラムは性に合った。リズムのパタンはいくつもこなせるようになっていた。もう、いつでもバンドに参戦してやるって気分。でも、それは大学に受かってからだ。その時はまだ、オレはちゃんと理詰めで考えていた。

兄貴のバンドのライブを見るのは初めてだ。ライブハウスでの演奏は3回目だって言っていた。友だち誘っておいでといわれたけど、なんとなく一人で見たかった。
ドクターペッパーを注文して、混み合う人ごみをかき分け、ステージ右端のテーブルに陣取る。タバコの煙が狭いフロアを覆いつくし、スモークでも焚いたみたいに、低い天井に向かって靄っている。ここでなら、いっか――オレも親に内緒のタバコに火をつけた。

8時。会場の照明が落ちた。ギターのうねる音色が鼓膜を刺激する。
パッと明るくなったステージには、兄貴の姿があった。

兄貴、化粧してる。
白い肌が、いつにも増して白く、唇が赤くなまめかしい。
ヴォーカルのケン、ベースは確かユースケ、ドラムはジュンヤ。みんなも化粧していた。でも化粧のせいだけじゃない。ステージに立つ高揚感が、彼らを別人のように大人っぽく見せた。
女の子たちから嬌声があがる。一曲目は、兄貴の曲だ。少し哀愁のあるメロディーラインに激しいドラムとベースが絡み、独特の雰囲気に仕上がっていた。
ベースは少し荒っぽい。ヴォーカルは力み気味か。ただ、それを補って余りあるのはルックスだった。フォトジェニックだ。これなら、アマチュアとしては結構人気になるだろう。オレは冷静にバンドを観察した。“かっこいいバンド”の評判を聞きつけて集まってきた女性ファンが、フロアの大半を占めている。

中でも兄貴は、格段にいかしてた。
人よりも低めに持つギターのポジションが身長に対してピタリと決まっている。黒地に赤い花柄のブラウスが細い体躯に映える。うつむき加減の演奏スタイルが憂いを誘い、リズムを取る脚の動きが美しい。ギターをなぞる指先はしなやかで、歩くと少し振れる腰がエロチックだ。顔にかかる髪を汗が滴る。
時間とともに兄貴に向かって視線が集中していくのを、いやおうなく感じた。
兄貴に向かう視線の熱っぽさを、オレはちょっと自慢に思った。
退屈な曲もあったが、曲のよしあしはお構いなく、客は盛り上がり、狭いライブハウスの中はどんどん温度を上げた。

4曲目を終えたとき、兄貴は客席に向かって余裕の投げキッスをした。さすが、兄貴。やってくれる。大きな悲鳴がこだます。
会場の反応のよさに、バンドのアクションも激しさを増した。
兄貴もめちゃくちゃ楽しそうに狭いステージを左右に動いた。曲間にもメンバーとアイコンタクトを交わす。
客のボルテージが上がる。演奏のテンションも上がっていく。バンドはまるで生き物のように、4人がひとつになってオーラを放ちだした。

見ているうちに、オレの胸がチクリとした。
オレの入っていけない世界に兄貴がいる。バンドという特殊な連帯感の中で、兄貴がオレの見たことのない種類の輝きを放っている。兄貴のことは、オレが一番知っていたはずなのに……急に兄貴が手の届かないところに行ってしまいそうな気がして、ざらついた不安がくすぶった。
打ち消すように、音楽に集中する。つまらない考えを頭の片隅に追いやった。
やがてオレの手足が少しずつドラムの動きを刻みだす。目をつむってロックのリズムに身を任せる。そうだ、オレもやろう。そして兄貴と一緒にステージに立とう。あんな兄貴の隣にいたい――。決意が形になるのを感じた。

気がつけば、いつの間にかラストソングだ。曲がファイナルを迎えると、待ち構えていたかのように、フロアからアンコールの大合唱が沸き起こる。
ヴォーカルのケンがうれしそうな雄たけびを上げ、アンコール曲をスタートさせた。
ケンは憑かれたようにシャウトする。兄貴の曲じゃないが、これも悪くない。

間奏が始まった。兄貴のギターがスローな流れを作り出す。
その時、トランス状態のヴォーカルがうつろな視線を兄貴に送った。旋律に乗って、そのまま兄貴に向かってふらふらと近づいていく。そして、いきなり兄貴を抱きすくめて、唇を捕らえた。瞬間の出来事だった。
演奏が乱れる。あちこちから奇声が上がる。
驚愕するオーディエンスの前で、するりと兄貴の手が、ケンの背中に回された。なまめかしく抱きとめる。優しいキスをケンに返す。
隣の女の子たちが息をのむ音が伝わってきた。そしてオレは見た。口づけを終えた兄貴の唇が、嫣然と笑みを形づくるのを・・・・・・。

それは、ほんの短い時間だったかもしれない。だが金縛りにあったように、オレは動けなくなっていた。まぶたには、兄貴の艶かしい微笑が焼きついていた。じんと唇がしびれだして、頭の中からすべての音が、こぼれ落ちてゆく。
やがて、ふたりの体が離れて演奏が再開されても、もうオレの耳にメロディが届くことはなかった。

曲が終わったことを歓声で知った。
興奮でごったがえすフロア。オレははじかれたようにきびすを返すと、ステージに一瞥もくれず、外に飛び出した。
駅まで走った。津波のように湧き上がってくる動揺で、息が上がった。

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