Innocence/無垢  by 登子

<2>

午前1時。眠れない。
何がこんなにオレを苦しくしているのか――
わかっている。ヴォーカルのケンが、兄貴にくちづけなんかしたからだ。でも、それだけならなんでもない。あの時、兄貴がケンに返した、甘く切ない微笑。――兄貴は男に抱かれるかもしれない――いや、抱かれているかもしれない――唐突にオレは確信した。
ああ、でも――なんでそんなことを想像をする? なんでオレが動揺する? オレは何を望んでいる――?
それは禁じられた世界じゃないか。あってはならないことなんだ。
だけど・・・だけど・・・・・・もう認めるしかない。オレは兄貴にあんなふうにしたいと思っている。そして、あんなふうに兄貴に、腰に手を回されたい――それがたとえ、許されない行為だとしても・・・・・・。

オレが胸の底に、長い間沈めてきた渇望、封印してきた欲情が、目を覚ますのがわかった。朧げなそれが、脳裏で鮮明な像を結ぶ。ひとつの具体的な衝動として。

オレは兄貴を抱きたい――。その細い腰を抱きよせて、その長い足に指をすべらせ、その赤い唇にくちづけて、その白い胸に顔をうずめる――
恋してることくらいは、とっくの昔からわかってた。だけど兄貴は男だ。しかも兄だ。
オレの想いは神聖なものだと、プラトニックなものなのだと、思いこんできた。自分で自分を誤魔化してきた。

遠い記憶の中から、初めて知った「ときめき」の感触が、鮮やかに蘇える――。

あれは小学校4年生のときだったと思う。学校から帰ると兄貴の部屋からギターの音がこぼれてきた。中学生になってギターを弾き始めた兄貴。
その日も、きれいなメロディが廊下を流れてきた。引き寄せられるまま、そっと近づいて、軽く扉を押す。
隙間から目に飛び込んできたのは、兄貴の華奢な白い指と、ギターの音色に感応する横顔。伏目がちの目に長くかかるまつげの影。わずかに開いた唇。旋律が高音部分にさしかかったところで、あえぐように顔を上げて、まぶたをゆっくり閉じた。

「ときめく」というのはこういうことなのだろう。
頭の芯から下半身へ、そしてつま先にかけて、ジーンと鈍い疼きが走る。呼吸が一瞬止まった。心臓が、いつもより早い鼓動を打ち始める。

「あれ、英二、お帰り。おやつあるよ」
オレの鼓動が伝わったかのように、兄貴が振り向いた。一瞬、間をおいて、微笑んだ。オレだけに見せる、柔らかな微笑。でも、発せられた言葉は「おやつ」だ・・・・・・。
「いらない! そんな子どもじゃない!」
「おやつ」の単語で現実に引き戻されて、思わず叫んで走り出した。
「あれ〜英二、変なの〜」
こっちの気持ちなど知る由もない兄貴が、のんびり言い返してるのを背中で聞いた。

オレは自分の部屋に飛び込んで、ベッドに体を投げ出した。
天井をにらみつけた。自分の気持ちが自分で受け止められずに混乱してることだけは、子どもなりにわかってる。
目を強くつぶった。つぶればつぶるほど、細くて白い指と憂いた横顔が、繰り返し脳裏を反復する。白い指が、頭の中でどんどん大きくなっていく。オレの魂を絡めとるように……。たまらなくなり、ひざを抱えて頭を埋め、耳をふさいだ。

眠ってしまったらしい。気がついたら、西日が長くベッドの渕まで伸びていた。
ドアがゆっくり開いた。
「英二、寝てるの? おやつ食べようよ、一緒に」
のんきな兄貴の声だ。ああ、でも優しい声。
「・・・・・・うん!」
目をこすり、立ち上がって、兄貴に擦り寄った。あの白い手を後ろから握る。
「何だよ、子ども!」
そういって握り返してくれた兄貴の手はしんと冷たい。その感触に、またドキドキが始まりそうなのを必死でこらえながら、キッチンに向かう兄貴の後を追った。

そうだ。あれからずっと、オレは兄貴に恋してる――。

だめだ。眠らなきゃ。部屋を暗くして、オーディオに手を伸ばした。何か聴いて気を紛らわせよう。その時だった。
「英二―-」
声と同時にドアが開いて、兄貴が入ってきた。さっきタクシーの音がした。兄貴だったんだ。
「何で帰っちゃったの? 打ち上げ、一緒に来ると思ってたのに。ドラムのこと、ジュンヤにいろいろ教えてもらえばいいかなって思ってたんだよ・・・・・・演奏見たでしょ? どうだった?」
酒の匂いがした。兄貴、酔ってる。頬がわずかに赤い。
ふらつく足取りで、ベッドに近づき、崩れるように腰を下ろした。
「飲んでるの?」
「ちょっとね。だって打ち上げだもん」
上機嫌だ。
「・・・・・・演奏、かっこよかったよ」
ぶっきらぼうに伝えた。それが精一杯だ。
「ほんと、うれしい」
幸せそうな声を上げると、どさっと後ろに倒れて寝転がってしまった。
「兄貴、だめだよ。こんなところで寝ないで」
「でも、何で来なかったの? 待ってたのに。みんな知ってるでしょ。友だちとどっかいったの? 帰ってもいいけどさ、一言声かけてくれてもいいんじゃない」
今度は、すねてる。
「いいからさ、ほら、起きて」
今、これ以上兄貴といては、気持ちはますます整理のつかないものになる。とりあえず、兄貴を部屋に帰そう。オレは無意識のうちに兄貴の手を取りひっぱった。

――その手に触らなければ、よかったのか。そのままほっといて、オレがリビングのソファで眠ればよかったのかもしれない。でも、オレは、迂闊にも兄貴の手に触れてしまった。

指先から感電するように、熱い煽情が、全身を駆け抜けるのがわかった。
手を取られた反動で、兄貴の瞼が薄く開く。黒目がちの瞳が、こぼれるように俺をとらえ、絡みついてきた。その瞬間、オレは夢中で兄貴を抱きすくめていた。
突然のオレに行動が理解できないかのように、兄貴がもがく。抗って何か言おうと動きかけた唇を、オレはオレの唇で、きつくふさいだ。
信じられないくらいの官能が、脳裏を貫く。―-ああ、オレはもう止まらない。

もともとオレのほうが腕力は強い。おまけに兄貴は酔っている。組み敷くのは容易かった。
驚愕の表情が目に飛び込む。
「英二、何するの! なに考えてんだよ! ばか! やめろよ」
「やめない」
オレの声は、自分でもびっくりするくらい落ち着いていた。
「・・・・・・ふざけてんの? おかしいよ! やめてよ。お願い、やめて」
兄貴の拒絶は、想いに油を注ぐ。
「だめ。絶対、やめない。・・・・・・兄貴、いつも男とキスするんだろ。今日みたいに。もっと他のこともするんだろ!」
「!?」
「男に抱かれたことあるんじゃないの? 誰? バンドのメンバー? オレの知ってる人?……ちがうの? ・・・・・・いやだ・・・・・・ほかの男に抱かせるくらいなら、オレが兄貴を抱くんだ!」
「おまえ、おかしいよ」
「おかしくなんかない、ずっと前から、こうしたかったんだ・・・・・・! 今日わかっちゃったんだ」

シャツのボタンを引きちぎった。ライブで着ていたやつだ。汗の匂いが残っている。
胸がはだけ、白い肌が薄暗い闇に浮き上がる。
オレは、オレのしたかったように、その胸に躊躇なくむしゃぶりついた。
唇を這わす。脇から横腹にかけて、激しく吸いたてた。長い足に指をはわせ、繰り返し撫で付ける。

兄貴の手をとると、思い切って自分の股間に押し付けた。
「もう、こんなになってる。兄貴のせいだ。自分でも止められないんだ。ずっとずっと、兄貴しか見てない。知ってたでしょう。兄貴以外を好きになれない!」
「英二・・・・・・自分でなに言ってるかわかってるの!? だめなんだよ、こんなことしちゃ!」
「そんなの・・・・・・ウソだ、兄貴とオレは特別なんだ!」

どんな確信があって、そう言ったのかわからない。だけど、そのときオレは、啓示でも受けたかのように、自分たちは特別なのだと、直感した。
兄貴にも、そのことをわからせてやる――体験したことがないほどの激しい衝動が、オレを支配している。

兄貴の革のパンツに手をかけた。迷うことはなかった。
下着に手を入れて、ペニスをつかんだ。
嫌がる兄貴を両足でおさえつけて自由を奪い、下半身に唇を這わせる。やめない、絶対に。暗闇に、オレのくちづける音だけが猥雑に響く。
やがて、執拗な刺激で硬くなり始めたそれを、口に含んだ。こんなことができるなんて、思わなかった。こんなことをして、自分が感じるなんて思っても見なかった。
だけどその行為は、オレを芯までとろけさせるようなエロチックな気分にさせた。

兄貴がわずかにのけぞるのがわかった。少し感じ始めている。
さっきまで、抵抗してオレを押し返そうとしていた手が、あきらめたかのように徐々に力を失っていく。拒否の仕草が空をきる。
やがて、その手が夢中で兄貴をまさぐるオレの髪に向かって伸びてきた。

軽くなでられた。正気が戻った。
「兄貴?」
「英二、ホントに俺が好き?」
「好きだ。ずっとずっと好きだった。知ってるでしょ。何度でも言うよ」
「英二・・・・・・わかったよ。いいよ、なら、好きにして・・・・・・」
おもわず顔をもたげ、兄貴を見つめた。
「知ってたよ、おまえが小学生のころから、その目がオレばかり追っていたのは。こわくなるくらい澄んだ目で、オレのことばかり見てた。いつかおまえも大人になって、その目に映るものも変わっていくんだと思っていたけど、おまえの目は小学生の時のままの色で、オレを映し続けていたね。純粋に、まっすぐに―-その瞳の色は、あまりにもイノセントだった。そんなおまえを見ていると・・・・・・こんなふうになる日が来るかもしれないと、ちょっと思った。でもね、怖かった。いけないことだと思ってたし・・・・・・」
何かを思いあぐねるように、ひとつ息をついた。
「・・・・・・おまえの想いはもう止められないね……オレが育ててしまった想いなのかもしれない。おまえがそれを望むなら・・・・・・オレは共犯者になってあげる」
そしてあの、ステージの上で見せたものと同じ、嫣然とした笑みをオレに送った。

オレは、兄貴を強く抱きしめた。兄貴の骨が折れてしまうかと思うほどに抱きしめた。
そして唇に、甘いキスをした。甘く長いキスをした。兄貴の舌が、オレの舌を優しく摩ってくれる。
オレは、初めて知った。こんなにも甘美な幸福感が、この世にあることを。

ひとしきり酔いしれると、オレはオレの思いを果たすため、再び兄貴を刺激した。
もう、兄貴は逃げない。押し寄せる快感に身を任せだした。
小さく嗚咽を漏らすその唇に、何度もキスを浴びせながら、新たな性感帯を探し求める。
「おまえのも・・・・・・」
潤んだ目で、オレの股間に手を伸ばす。いま兄貴に触られたりしたら、オレもはもう行ってしまいそうだ。
「だめ、オレのは触らないで、オレのは・・・・・・敏感なんだ――」苦し紛れのオレのいいわけに、兄貴が微笑する。
「(笑)英二、やっぱりまだ子ども」
小悪魔みたいな目をして、手を伸ばしてくる。
「だめ、兄貴が先!」
再び下半身にくちづける。封じたはずの兄貴の手が、それでも俺の股間まで伸びてきて、オレをもてあそぶ。行きそうになるのを抑えながら、兄貴の体に、兄貴を感じさせることだけに、没頭しようとした。
兄貴の口から、熱い吐息がもれるのが聞こえる。ひとつ聞こえるたびに、オレの股間は兄貴以上に感じてしまう。

もう、持ちこたえられないかもしれない・・・・・・その時、兄貴の背中が放物線を描くように、ゆっくりとせりあがるのがわかった。呼吸の速度が速くなり、太ももが軽く硬直し始めている。兄貴が達するかもしれない――迷わず唇に力を込める。兄貴は小さく叫び、そして恍惚のうめきをもらした。
それを待っていたかのように、オレも兄貴の手に包まれて射精した。

けだるいうづきが腰に残る。
兄貴は、息がまだ荒い。かばうように背中にすりより、後ろから抱きしめた。
汗ばんだ首筋にほおを寄せる。オレより一回り小さな体。オレが兄貴の身長を追い越したのは、去年だ。
兄貴の腕が、俺をあやすように、うしろに伸びてきた。
「英二・・・・・・いったね?」
「うん」
「気持ちよかった?」
「すごく・・・・・・言葉にならないくらい」オレは感動を込めて答えた。
「兄貴は?」
「良かったよ、良かったけど・・・・・・」
「けど? けどってなんだよ!」
「もっとうまくなってね。まだ子どもだからしょうがないね」
鼻歌でも歌いだしそうな気配。さっきまでの抵抗はなんなんだ! 再び兄貴を組み敷く。オレを見つめる目が、余裕で笑ってる。
「兄貴さ、そんなこと言ってもいいの? もっとうまくなっちゃうよ。そのうち、オレ以外と寝れなくなるよ? オレはそうなりたいけど・・・・・・。もっとすごいことしても、いいの?」
大人ぶって放ったつもりの言葉に、兄貴はにやにや笑うだけ。つられて、オレも照れ笑いをこぼした。勝ち目はない。そして大切な兄貴を再び抱きしめる。

でも、なんて不思議なんだろう。オレたちは兄弟で、こんなことになりながら、オレの心にはどこを探しても、恥ずかしさは見当たらない。罪悪感という言葉なんて無縁だった。オレたちはほんとうに、特別なのか――。

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