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彼岸録

ときどき、12歳以上推奨。心して御覧下さい。


宗教の効用 2006年09月30日(土)

 やっぱり広末はいい、いいんだ。ながちろです。

 なんかこう、最近書いてないでもうしわけない。
 そもそもまともに日本語を吟味してどうにかしようという余裕や気持ちが失われている。ないのです。ちゅのも忙しいから、と一言で済ましてしまうのはアレですが、なんというか、土砂崩れがあって、どこから処理して行けば一番効率がいいか、というのに似ている。闇雲に掘っていったらどんどん頽れてくし。上から処理していくには足場を作らねばならないとか、そんなところです。

 丹波哲郎さんが亡くなって、なんだか非常に不思議な気持ちになったのです。和気藹々とした遺族の会見。ずいぶん亡くなった父には触られました、なんて息子の嫁。何か非常に気持ちがいいのは、まったく死を恐れる様子がないのがいいのです。宗教が、うまいこと機能している。

 だから、宗教家というのはこれでいい。なんで宗教があるか、それは結局死だとか、不幸だとか、事故だとか、自分ではどうにもならない不安を軽減するためにあるのです。これはどんな宗教でも同じようです。アッラーと契約する、阿弥陀仏が救ってくれる。そういう信仰がバックボーンになるから、人は不安から解消される。
 だから、科学でもいいんだよね。僕の未来は大きな生ゴミ、海の漂流物。これでもいい。とにかく、自分の中で、未知のものについて納得できれば、いいわけです。これをまあ、悟りという向きもあります。完全に信仰して死を恐れない兵隊になった一向一揆とか、
 そういう意味では、丹波さんはよかったのだな。さすが大霊界だわ。と思ったわけです。
 為念、べつに丹波さんの「大霊界」が好きなわけじゃないですぜ。最近よくわからねえ読者がいるから、一応書いておく。

風の兆候 2006年09月26日(火)

 風に兆候なんてあるのかね。
 わからないかね、あの一瞬に吹きすさぶ風にだって兆候はある。だがしかし、我々人的なるものの感覚では捉えられない。瞬間の、風吹く直前の1/2000の閾値によってのみ捉えうる現象なのだから。
 虫の声に耳を傾けよ。風切羽の旋律に耳を峙てよ。



……とかまぁ、なんでもなくて風邪の兆候。
 のどの奥が痒い。毎年恒例。
 急に寒くなりはべりしに、でも雨の中ふらふらと出かけたりする。しかたなく。で、やっぱり寒い。

 最近黙々と仕事か野球か大神のため、本当に書くべきこと、ないのです。逆に言えば仕事で四六時中書いてる。ゆえに、エネルギーを分散させたくない、というのもある。楽しいことばっかりではないよね執筆も。

 ようやく「締め切りに追われて大変なんすよー」ということをほざけるようになったらしい。
 えらい進歩だ。そのわりには遊んでるけど。

よせてあつめて・46 2006年09月23日(土)

 電話番号は0120、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや、やずや。ながしろです。

<21日>
 通販生活で買った「メディカル枕」を使って寝ているのだが、この枕は真っ白であるため、ナガシロバンリが寝るたびに汗が吸収されてだんだんと茶色っぽくなってきます。まだらです。で、まぁ、枕カバー(同じく純白)は洗濯しやすいのですが、枕本体はなかなか洗濯しづらい。でも、気になってきたので一念発起して洗面台に押し込みました。ぬるま湯と洗剤でぎゅうぎゅう押すと灰色だが茶色だかのばんり液が出るわ出るわ。
 で、適当に色が落ちたので(疲れたので)、天気もいいし、ベランダで干した、が、二日たってもまだ乾かない。まだぐっちょんぐっちょん云ってはるので、いたしかたなく、洗濯機に枕だけ回して、近所のランドリーに放り込みました。で、なんとかなった、と思いきや、今現在(三日後)もなんとなくじっとりしてる。枕は恐ろしいね。わけのわからない吸湿力。


<22日>
 床屋で頭を刈った。
 帰りに井の頭公園に寄ると、なんだか子供(3歳くらい?)と遊ぶお母さんが、何かに似ている。中学校のときに好きだった人に似ている、とおもったら、おそらく本人だったと思います。おそらくなので遠くから見るだけですが。確実であったとしても絶対に声をかけないでしょうが。
 でも、ショック。ショックじゃない。なんか、感慨、いやちがうな。あの当時から鑑みて「俺の目は間違っていなかった!」というか、うーん、へごもご。
 仮になんだったって、こっちには話すことなんざなんにもないんだからして。家族にだって言うことがない。


<23日>
 彼岸なので墓参りに行った。夏は拙宅の祖母が倒れたりでいかないでいたら、案の定植えた柘植も松も枇杷も金柑もにょきにょきよく生えている。ばっさり馘る。10pくらいの大きなコオロギやげじげじの群などが慌てて逃げていく。なかなかスペクタクルなり。


あーーーーー!
 不覚! 不覚! 不覚!


・桑田、巨人軍退団か
 いい、それでもいい。
 楽天で見たい。ノムさん拾ってくれないもんか。

ぴよぴよ 2006年09月20日(水)

 道端を歩いていて、なんかピヨピヨいってやがるなあと思ったら、小学生女子の三人組が下校途中だった。手にはホレあれです。変なおっさんオバハンやレディースアンド珍走団に襲われたときの防犯ベル。これを、小刻みにつけたり消したりしてる。そのために、ピヨ、ピヨ、と、まぁ、ヒヨコっぽいですが。
 でもそれじゃあ、役にたたんだろう。

 ああいうのはぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよと鳴るから「あ、もしかして異常なのでは?」と思うわけであって、普通にヒヨコじゃ可愛いだけだものなぁ。

 あああと、多分授業中に急に鳴らす子供も少なからずいるように思う。かまってもらいたくて。
 自分のことをかまってもらいたくて授業をつぶすスカタンというのは、世の中にはたんといるものであります。

華燭の典 2006年09月17日(日)

 あなたの街の世界遺産(失笑)ことながしろです。
 ここ最近の動向をまとめると、

・土曜→緊急の打合せがあって師匠のライブ行けず。
 「川端/雪国論」は惜しい。死ぬほど惜しい。
 往来座さんあたりがまとめてくれていないか。……なかった!

・色々と企画は動いている。
 でも、浮かれちゃあかんのやね。出来上がってからでないと不可ない。わかっちゃいても、あれもやるんだ、これもやるんだ、で喜んでしまう。
 まぁ、やらんことには、できんのやしなぁ。

・日曜→宇田川劇団見にII高。直雲と板東がいる。
 出し物は中学部「辛酸と炭酸」、高校部「華燭の典」。中学部を見て、あんまりにも脚本ホンがぐずぐずなので心配になる。稽古だけはそれなりにきっちりやっているので、生徒諸君の基本的な出来に救われたような作品だった。あれはひどい、ひどい、などと言い合う。中学生はいい。けなげに見える。
 結局だんだんとキャリアを積むごとに、やらねばならないことがどんどん増えてきて、充実した脚本が提供できなくなってくる、というジレンマがあると思う。今回も、中学部と高校部の脚本、それに学校の催しとしての脚本を仕上げていたようだ。なんかこう、ヤクルトの古田を見るようでありました。プレイング・マネジャーもやはり限界があるわけですわな。
 そんな空気の中で見たのか、それとも高校部に渾身の力を込めたのか、高校部「華燭の典」はえがった。29になった女性の結婚式直前の話。女性の父親は聾唖者で、女性が生まれる前に亡くなっているが、ちゃんと結婚式には喪服姿で、亡霊として控え室に座って、娘の様子、母親(妻)の様子、娘の友達との掛け合いの様子をじっと見ている。この父親役の表情がなんともいえなく、いいんだ。頼りないようで、影が薄いようで、でも、ずっと30年近く家族を見守り続けてきた強さというものがしっかり舞台上で現れている。30年前にいなくなった父親でも、ちゃんと家族の一員として家族の柄を彩っているのだ。もう、それを見るにつけ、泣けます。泣きました。だーかーらー。これが書けるんだよ。宇田川豪大は。それゆえに、高校演劇で終わって欲しくない、のです。でも、これだけ統率の取れた高校演劇を見続けたい気持ちもある。複雑な、感情。
 ただ、今回面白かったのは、いままで宇田川作品におんぶにだっこだった部員たちが、ちょっとずつ脚本から乖離していくようなところがあったことだ。例えば、宇田川脚本最大の持ち味だった長台詞が、今回に関しては決して有効なだけではなかった、ということだ。芸達者ぞろいの部員の中で、もっと部員が見たい、そのためにもっとセリフを絞って、「云わせる」のではなくて、役者を「見せて」欲しい、という感覚が芽生えたのであるよ。
 あきらかにかわりつつ、ある。もちろんよい意味で。

モドキ氏の帰還 2006年09月15日(金)

 ストローでホルマリンをぼこぼこするのはやめなさーい。ながつろです。

 家の者からはボツボツ聞いていたんだけれども、モドキ氏が帰宅しているらしい、というので車庫に見に行くと、いましたいました。いままで以上に不機嫌そうな顔で。
 どうも、暑かったから避暑してました、みたいな按配らしく。

 なんか、そんな感じだ。
 精神的にはなんとか再構築できそうだ。
 そう、自分は短期決戦型。
 無駄に仕事を引き伸ばしては、ならぬのだ。

 3ヶ月ぶりくらいに調子を取り戻しつつある。
 今の状態で、8月のライブをやり直したい。

断線寸前 2006年09月13日(水)

 見るものすべてが笑いに直結するそんな朝。ながしろです。なんだこのテンション。
 というわけで仕事にいってくる。

 やー。
 変な一日だった。なんだかしらんが動いたり止まったり。アタシのことです。JRのことではないですじょ?
 どうも最近、作業中に脳の動きが止まることがあるようです。で、手も止まってる。動きも止まってる。人と会話しているときはつながっていますが、ちょっとした瞬間に止まってる。信号が入り続けないと動かなくなるみたい。なんなんだろーね。
 今日もKO電鉄にのって行ったり来たりしたわけですが、といっても新宿から八王子までワーイとか云ってぎっこんばったんしてたわけではないです。日本語ってムズカシイ。ムズカシイのはお前の頭じゃこのヴォジャノイ! なんでロシアの水の精が出てくるの。
 帰り道にはにゃーん上水、もとい桜上水から(そのボケには限界があるだろう)慌てて乗り込むと、車両の中に「女性専用車両」とでかでかと書いてあって、見ると全員女性なのです。ヒィッ! 女の園怖いッ! などと思って20秒くらい固まったでしょうか。まー、なんつーか、女性らもこっちを訝しげに見ている(気がする)。で、慌てて反り見すれば(万葉集だね)、野郎の乗客様も普通にいらっしゃりやがって、安心したんですが。女性専用車両って、痛金ラッシュの時だけよね。だからいいの。あたしも今だけ女。もうわけわからんわオッチャン!

 なんかあの、使い古されたACアダプタのようです。ファミコンとかの。無茶な線の抜き方するから。
 そりゃあ、じーっと止まってたら、訝しまれても、仕方無い、よ、なぁ。

 古本センターで『柳宗悦 民藝紀行』松原岩五郎『最暗黒の東京』(ともに岩波)購入。明治時代の最下層の人々のルポルタージュとのこと、楽しみなり。

江古田駅前樽平寄席・第13夜 2006年09月12日(火)

初花「あくび指南」
銀瓶「蔵丁稚」
初花「祟徳院」

 あいにくの雨でお客様6人。ほぼ一見さん。
 階下は寄席と関係の無いお客様でワイワイ。

……もったいねーー!

 そのくらい、よかった。面白かった。
 あと、上方の銀瓶さんと動機という柳家一琴師匠もお客さんとしてお見えになりました。すごいね。
 すごかった。
 打ち上げもオモクロカッタ。

ぼんよりとした不安 2006年09月11日(月)

 なにもかもまとまらない。

 おかげで精神的に落ち込むことはありませんが、まとまりません。すっきりしません。史記は司馬遷。

・犬丸りんさん本人が一番まったりすべきだったんじゃないかなぁと思ったよ合掌。吉祥寺で14階のビルったらかなり絞られてくるぜ。候補が。

・犬丸りんさんといえば『なんでもツルカメ』でして、あのときの地味ーなイメージしかなかったんだけれども、おじゃる丸で出てきたときには、あれ、こういうキャラじゃ無かったよなあ、という違和感があったのは本当の話。『Missマーフィーの法則』なんかの挿絵を描いていて(今なぜか手元にある)、そう、こういうごちょごちょ好き勝手やっているスタイルが一番あってたんだろうなぁ、などと思うのでした。さくらももことの違いは、結局テレビに載せることについて、もしくは人の手を経て改変されることについて「商売」として前向きに取り組めるかどうかちゅのが大きな違いだったんじゃないかと。
 で、さくらさんなんかはどうしてもストーリーについては譲れないから、アニメでも脚本にちゃんと加わってるしな。この辺の折り合いのつけ方がうまかったと云えようかと思います。

 Qでもそうだけど、勝つ作品が仮に読者への迎合だったとしても、迎合しようとしてちゃんと読者にはまる、というというのは才能なのです。ウケようと思ってやってぜんぜん受けない、というクリエイターもどっさりおります。

 じゃあ、迎合する、というのはどういうことかというと、つまるところ一般多数の好みを理解している、がゆえに「出来る」ンだよね。それはやはり能力。

 だ、結局自分の好きなものは受け入れられないのだ、という苦悩と傷は遺ります。自分の好きなものや大事なものをどうにかして一般に受けないかと努力するのは、骨が折れるし、ある意味悲しい作業なのかもしれない。
 あたしなんぞ絵で個展なんかやったけど、いっぽうで「あんたの絵は見るとイライラする」と云われるわけです。悲しくなります。出来ることとやりたいことは常に違います。

 なんかこう、頭がまとまらないので、まとまったところはどんどんアウトプットしていくしか無いような気がしてきた。水だって掻きだせばいづれ無くなるしね。

 明日、樽平寄席です。ゲストは上方から、笑福亭銀瓶さん。鶴瓶師匠のお弟子さんです。

おまつり 2006年09月09日(土)

 ぢつは、生存とは、ペナルティーではないのか。
 一遍師はこの世はすでに救われた極楽であると釈いたが、じつはそう思うことで地獄を回避していたのでないか。
 さもなくば、宗教なる安全装置は、発生し得なかったのではないか。
 いわゆるアタクシの信仰する真言宗というのは、悟りに達するまでを9段階に分けて、はじめ5つを顕教、後ろ4つを密教と呼びました。でも結局それは、この世が地獄であるということを前提として、そこで受ける苦しみを少しでも軽減するために「悟り」というシステムを構築したのではないか。
 「悟り」というのは結局は、辛いことをやり過ごすために研究開発された処世のことであります。
 なんかこう、つながったのです。小生、バリバリのアンチクリスチャンなのは、結局バイブルにおける寓話性が「あるもの」として、前提として規定されているのがどうしても納得が行かなかった。仏教なんぞ、釈迦は前世も来世も「無い」と云っています。言い出したのは日蓮ですよアレ。悪いことをすると地獄に落ちる、いいことをすると極楽にいく、みんな宗教的な恐喝です。恐喝をするカルトをオカルトといいます。嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれる。嘘ぉつきやがれ。
 「前提を疑わせない」というのは物語の最大のパターンということです。アタシも使いますが、たとえば新宿西口のビル街に大きな玉袋がたれている、これ、たれていることを前提として話がすすんでいるわけです。ゴジラも、そういう生き物が存在する、ということを前提に生きています。
 じゃあ、同様に、人間は飯を食わないと死ぬし、寝ないと死ぬし、働かねばならない、というのも、究極には理由の無い理屈です。何故生きねばならないのか。子供を残すためか。そうぢゃないですよね。たまたま、それらしい理由のつきそうなイベントがあるだけに思えます。子供なぞ、いいんです。無理につくって不幸にするくらいなら、つくらないほうが、ましです。

 敬愛する宮武外骨という爺さんは「生きんがために生きるなり」と云っています。じつにいい答えだと思います。

 なんだかおまつりのはなしじゃなくなった。
 まぁいいや。焼酎ボトル半分あけて、眠くなったので、寝ます。



……おまつりのはなし、するか。
 いってきた。いつもどおりで、毎度安心する。
 そして、えもいわれぬ感傷だけが残る。

 なんなんない、なんにもない、まったくない。
 いいよもう。

沸点 2006年09月06日(水)

 文仁親王妃紀子殿下、親王御生誕を心よりお祝い申し上げます。


 皇族なのに帝王切開! というネタをG8校長に先にやられていてガッカリ。ながちろです。

 いまある仕事がなんとなくひとくぎりついたのでひとやすみ。あとは他人の目を入れて拡充を図りますのですじゃ。なんだよ仙人弁。

 最近沸点が低くて、というと、よく知る人はもともと沸点低いじゃん、と云われそうですが、そうぢゃなくて、低いんじゃないんだな。燃料の幅が広がったというか、つまり、「きーっ」となるストライクゾーン(微妙)が広くなったということであります。
 なんだろーね。いや、まぁ、思い当たる要因はいくつかあるのだけれども、じゃあそのイライラの原因はなんなんだんべ、ここ二週間くらい考えていて、要約すればこういうことだわ。なんというか、創るサイド(主観)と見るサイド(客観)のギャップがますますひらいているという結論に達しました。結局、自分の謳うもの、書くもの、創るもの、デザインするもの、もっといえば自分の思考回路。これらに関して自分自身で「はい駄目ー」という強い自己否定が常に付きまとうようになっております。じゃあ、なんで強い自己否定が発生したかといえば、それは色々な部分で忙しくなるにつれ、自分自身でOKとしているクオリティが保てなくなってきている、ということなのです。と、素人臭いこといってる。あ、でも、あるでしょう。これだったらお客さんは満足しねえよ、というものでも、他所との絡みで出さねばならない、という奥歯に物の挟まった感じ。
 世の人は、これを、素人了見だと、いいます。
 だがしかし、受け手が満足するという「目的」を考えたときに、この違和感があとあとの障害を引き起こすのは、よくわかっているわけです。

 つまりこの違和感の是非、なのです。
 モノ創る側の問題として、ですな。

 まぁなんか、自分なりの落としどころを見つけるまでは、駄目かもしれない。
 ので、しばらく、アレだわ。キーとか云う。

いつもずっとそんなかんじ 2006年09月03日(日)

 やぶきた茶のやぶきたってなんだい。Mです。
 調べりゃいいじゃん、というのは全う過ぎて面白みに欠ける。そもそも、調べりゃなんでも出てくるってのはツマンナイんだよねえ。
 つまりね、静岡の9割の茶農家が作っているのが、やぶきた。やぶを切り開いた茶園の北側に植えた茶樹から選抜したことで、やぶきたの名前が付けられたと言われています。だって。そう、そうですか。

 なんかこう、さぁ日記を書くぞと思うと腹立ちも喜びも何もかも頭からさらさらりんと流れ出ていってしまうようです。ボケかしら。ボケだとしたら、これはこれでストレス無くすごせるかもしれない。深く考えなければ。
 考えないというのは、平和なことだ。


 昼間は色々書こうと思ったこと、あったのよ。
 さっき「ウルルン」見ていて、印度の東洋医が「自分の器にあった仕事で満足しなきゃいかん」って云ってたけど、自分の器を自覚するのが一番難しいんでしょうがそりゃあ。

 なんかもう、まとめる気力も無いので、なし崩し的に、終了。

うー 2006年09月02日(土)

 うー。
 突貫工事中です。
 色々と。

 あ、トップの写真は前に日記に書いたとおり、中野駅前で一人でビラ配ってたメイドさんです。kikkiさんに似ている気がしなくも無くも無い。

 ま、そんなところです。
 何か面白いことがあったら、書きます。
 それではみなさん、ごきげんよろしゅう。


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