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彼岸録

ときどき、12歳以上推奨。心して御覧下さい。


高校演劇論。 2011年07月21日(木)

 なんだか月例報告のようになりつつある。
 今日は台風六号ことマーゴンのおかげで気温が一時的に25度くらいまで下がった。ふだんは33度くらいなので昨日今日だけもんのすごく涼しくなった、ということである。あとで読み返す用。

 宇田川先生との共著『高校演劇論。』が昨日いよいよ発売となりました。Amazonとかでも取り扱っていますので、もし宜しければお求めください。

 んーと。
 宇田川先生が高校三年生の時にオードリーの二人も高三でいて(当然、面識はない。本稿とは関係がない)、アタシの友だちというのが演劇部ばかりで、今度公演をやるから→へぇ、じゃあ、っていうんで観に行ったのが「夢幻版川の流れの中」でした。で、ふーん、へぇー、ほぉーってなったんだけど、実は印象に残っているのは最後に死んだはずの本城が殺しに来るところで、実はその後の『閻魔』のほうが印象に深い。『閻魔』は友だちがいっぱい出ているということもあったけど、善悪を決められずに爆発する閻魔も、銃で打たれてゆらっと倒れるサラリーマンも、まぁ結局は「面白かった」のであった。そこで「知り合いが活躍している」以上の楽しみがあるとすれば、視聴覚教室という舞台の上に「非日常」を生み出す手腕が良かったんだろうな。演劇とか小説とかってアンリアルを目の前に展開するものだって、今だって思っているフシがある。

 そういう魔術的な要素に当時の高校生であったアタクシなんかはハマっていった、のであろう。観念の創作とでもいいますか「あの雰囲気」を創れるヤツぁ偉かった。アタシも自分で色々作ってるから、「あの感じ」は自分なりに持ってた。がゆえに偉かった。

 「あの、感じ」なんだよな。おっさんになるとなんか手放しちゃうもんなんだけど、いや、手放してないんだ。今こうやって思い出すと、まだ思い出せる、ということは、単に表に出さないというだけなんである。

 なんで表に出さないかというと、「あの感じ」は誰にでも共有できないものであることを成長するに連れて思い知るからです。まぁ、社会人としてはそれでいいのかも知れないけど。ただ、「あの感じ」の感じは、いまだにもってる。分かりにくいかもだけど持っているものです。

 何の話だったか。

(30日追記分)

 そう、で「あの感じ」というのが話の鍵で、「あの感じ」で生きるクリエイターはゆくゆくは褒められない。それはいわば、同様の共通項を持った送り手と受け手が要ることで成り立つニッチな藝なんだからして、例えば私立の高校って、同じくらいの年代で(あたりまえだ)、学力で、親の収入で、っていうところで初めて共通の感覚を持っている部分ってあると思うん。金銭感覚とかもそうじゃない。

 この「共感覚頼り」の状況から、「公に賞をもらう」藝にするためにはどうしたもんかなぁ、というのが聞き手としての、あたくしながしろの使命であったと思います。つまり、マイナーからメジャーへのターニングポイントは何処ですか? という話です。

 Amazonでバカ褒めのレビューが付いてありがたい限りです(30日現在)が、聞き手側の感触からすると「公だ」という意識の有無だといまなら結論づけられます。つまり、身内感覚でない、読者に倚りかからない、仕事。
 宇田川先生もやっていることの要素はサイコパスの時と大して変わらないんですが、でもたしかに、書くものが「個人的な事情」ではなくなりました。その辺だと思うな。純文学は個人的な葛藤みたいに思われるけれど、でも、そこでどうにか公に(この場合は、学校演劇という「公」として)意識を置けるかどうかみたいなことが必要なんじゃないかと思ったのであった。


 聞き手および編集としては、単に高校演劇関係者だけが読んで楽しむものを作ったつもりはありません。そうじゃなくて、一人のクリエイターが、試行錯誤をして対外的な評価を得るに至ったプロセスについての例示はできたんじゃないかなぁ、って、思うわけです。

 まだまだ発売中です。
 みんなよろしく。


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