(前回までのあらすじ) なんだかんだ書いてきたが要はやる気だ。
結局ここに戻ってきてしまった。 文芸越人だろうがQBOOKSだろうが、システムの所為にしないで前向きにやれば技術はついてくるし、巧くはなって行くんだよね。始めて出会う日本語があれば調べるし、興味がわけばどうにかして文献を繙けばいい。だとすれば、わざわざ勉強会をする意味がどこにあるのか。終了。
ほら、こいつがいつもの袋小路ですよ。 そうじゃないんだ。そうじゃないんだよ姐さん!
「勉強会」と銘打ったのは、そこに教養を身につけるためであります。じゃあ教養ってなんですか。それは知識の引き出してあります。マニアックな知識を頭に叩き込むのではなくて、目の前の事象において「この件については、あの編に当たればいいんぢゃないの」と、それが教養なんでしょ。マニアックな情報がほしければ必要に応じて幾らでも調べりゃいいんだもの。専門用語で「カタロギアの知」といいます。今で云う「カタログ」脳。 このカタログの品目をそろえるために「勉強会」は必要になりますやね。なにかしたいが取っ掛かりが無い、というのが最大の行動抑止力なんだわなぁ。 海外旅行に行きたいがスーツケースが無い。スーツケースを手に入れたいが部屋が狭いので旅行が終わったあと置き場が無い→挫折、という流れに対して、スーツケースのレンタルショップてのがありますよ。これだって、レンタルショップという単語がカタログに無ければ行き着かない。で、レンタルショップを探すのにもタウンページという手段がカタログに無ければそれっきりだしね。
そう、勉強会は「教養」を増やす場でありたい。 ここまできた。
じゃあ、じゃあ、じゃあ、じゃあ、ジャージャー麺。
問題Aに対して、言及している文献をおのおの持ち寄って出来る範囲で紹介しあう、ということでいいのか。文献はなんであってもいい。むしろ、学究畑の人間のものに加えて、どっかのファッション雑誌でエビちゃんが恋愛について語っていた、でもいい。手塚治虫ファンだったら、手塚の漫画にこういう部分が会った、でもいい。ひとつのお題についてそれぞれが自分の出所来歴に応じてネタを持ってくることで、自分のカバーしていないジャンルに触れる、というところでいいのか。
だとすりゃー、これっていわゆる大学のゼミだよな。 うーん。 つまり大事なのは、全く別の考え方や思考回路に触れまくることなのであります。私の人間関係で、私の来し方であっても、まだ触れていない思考回路やものの考え方というのは当然いくらでもあるわけで、そういうのに触れると感動してしまいます。残念ながら、理解できてしまうというのは、安心すると同時に面白くないというのがある。結果が予測できてしまう物語は面白くないわけでね。
なんかこう、掴めてきた。
以下、これからの問題としては ・どこで集まるか ・いかに問題提起をするか
の二本になるのかな。問題がハッキリすれば、あとは各自が自分の持ち物を披露すればいいだけの話だ。
さて、次の手は。
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