■ fC5:創作論I
|
2006年07月26日(水)
|
前回の詩論IIをまとめると「才能もねえのに詩なぞ書くな」ということになるけれども、そう取られると半分ははずれなので、ちょっと別の角度から書くことにしました。 まぁ、あくまでも筆者ながちろの了見。
結論から言えば、こういうことだ。
本当は、創作なんぞしないほうがいいんだぜ。 でも、やらないわけにいかないから、努力するのだ。
この辺は非常にあたしなんぞも頭が固いですから。や、だからといって第一次産業が一番偉くて、芸を売るのは賤業だ、とか、そう云うことではありません。そういう面についてはまた別の機会にしたいのですが。
つまり、表現なぞ、しなくてもいいのです。
わかっていて、云わないのが、あたしゃ一番美しいと思うんだ。創作というカテゴリーの中で人生の意味だの、美だの文明だの死だの生だのを声高に語っている一方で、農家で働く人は自分の身体でそう云ったものを体得しておるのです。仕事一辺倒の人だって、いろいろな経験の上で実感として、そういった概念を体得しているのです。それを創作者というのが概念化して、あーだこーだ。芸術は崇高。崇高? ばーかばかばーか。
云ってみりゃあ、ただのおしゃべりだろう? 物書きが発見するようなことは、多くの人がみんなわかっていることです。お前になんぞ云われなくともわかっとるわい、ということばっかりです。 しかし、創作者というのは、表現せねばならないという業を背負っていると考えます。業だとしょっている、というのであれば「ビョーキ持ち」でもかまいません。
だから、そのおしゃべりを、いかに有効利用しようか、というのが創作者の努力だというわけです。小説書いて人に読ますよりも、家の掃除をしたほうがなんぼか役に立ちます。評論をつむぐよりも、風呂の掃除をした方が、家族は喜びます。 じゃあせめて、役に立つ方法を考えようや。
そもそも創作をすることが崇高だというのが、根本的な間違いなのです。創作は、そのほとんどすべてが鑑賞されるといっていいでしょう。 じゃあ、鑑賞されるなら、せめて、人の役に立とうや。
これが、全てです。
|
|