JOURNAL #1
01  23  2001 ISSUE
HP開設から今日で1周年。
あっという間だったような気がします。
今日は、気温がかなり下がっっていて、こういう日には手がかじかんで、原稿用紙も冷たい。
先日、JUNE出版部というより、JUNE創刊の編集者佐川さんと、対談しました。
J・ガーデンのこれからを、前向きに話そうという企画だったけど、私も佐川さんも、思いっきり思い入れしながらも、色々巧く行かない事ってあるよね、というリアリストなので、前向きというか、むしろ、正面ムキという、全然違うベクトルになりがちで、ちょっと困りました。
(特にガーデンガイドの編集さんはとても困ったと思う。)
ただ、物を発信すると言うことにプロの目で、そして変わらぬ熱情を持って、尚且つ幾ばくか冷めて、JUNE(だけでなく漫画界や、アート全般を)にアンテナ向けてくれている人が身近なのは嬉しいし幸運。
そのJUNE出版部から多分JUNEクロニクルというタイトルの本が出ます。
何故か座・SAIYUKIが、96頁も再録されています。
単行本を、買い損ねた方、傑作選になっているので、是非ご覧下さい。
Belneの、コメディというのも珍しいのですが、高島田くんは、私の中でも、なかなかお気に入りのキャラクターです。そしてこれは、佐川さんとBelneの、かなり熱のこもった共同作業の作品でもありました。
JUNEなので、内容はJUNEです。
因みに、嘗てのハードコアJUNEな作品群、(ひとでなしの戀人など)の方が、クロニクル向きではないか?と思うかたも多いと思うのですが、さすがに、80年代前半の作品を、21世紀の雑誌形態の本に再録するのは憚られ、それなら、そちらは、今後新作で新たなJUNE作品を描こういうことにしました。
勿論JUNEという言葉に、愛着も拘りもありますが、所詮JUNEからは、ちょっと(どころではないくらい)離れているマンガ創りではあります。
ともあれ、クロニクルな一年になりそうな、2001年。
やっと1歳になった、HPともども、これからもBelneと、Belne's Loveシリーズをよろしく見守ってください。
JOURNAL #2
01  27 2001 ISSUE
今週のインプット
篠原烏童さんのマンガ
今日は、篠原烏童さんの、週末に会いましょうを、読み返していました。
篠原烏童さんは、ずいぶん前に、私の読者の方から進められて読み出したのですが、天体規模の意志と、個人の精神性とが、リンクしている感覚を、非常に見事に作品にする方で、深い共感を感じながら読んでいます。
人と、人との関係は、一通りの色彩ではなく、澄みきったり濁ったりしながら、自分と、自分以外の人との間を、ようやくポジティブな方向に向けてゆくもの。
私は、繊細で美しく、尚かつかっこいい篠原烏童キャラの、その多彩さに驚きながらも、およそ完全性さえ備えたその人の内奥にある、深い苦しみと、世界に対する透明な絶望を感じて、なお、重い魅力をその作品に感じるのです。
篠原さんの作品に登場する、「悪」は、単純な悪者ではなく、権力や、欲望や、人が誰でも持ちうる、人間社会独特のひずみの暗喩的なキャラクターになっています。
篠原烏童さんの作品を読むとき、人間社会へのシンプルな恐れとともに、あくまでも、人間側に立っている作者の視点に、哀しみと、同義の暖かさが存在しているのを確認して感慨を覚えます。
週末に会いましょうのラストを、少しはらはらしながら(篠原さんは、自分の主人公達にしばしば苛烈な運命をお与えになるかたなので)読み終えて、ああ、青空みたいな作品だなあと思ったのです。
ネムキでの次回作もとても楽しみです。
朝日ソノラマ
週末に会いましょう
等、文庫及び単行本多数
新書館
ファサード 等

朝日ソノラマのサイト
ネムキ
JOURNAL #3
02  26  2001 ISSUE
Belne's Love裏話
Belne's Loveを一旦終わらせて改めて新しい21シリーズとして始めてみて、ひとつ気が付いたことがある。それは、自分が、「まんが」という表現方法を、大変愛しているということだ。
Belne's Loveは、様々なテーマをその長尺の作品の中に抱え込んでいる。
私が多分、生まれたときに感覚として知っていた何か、作品にしようとするとたちまちにして変質してしまいまるで、指で触れたとたんに豊穣の様々をミダス王の黄金に変質させてしまうかのような、どう書いても書き表せないのではと思わせる何か。
それを、どうにか他人の掌の中に腑に落ちるように投げ入れると言う作業がBelne's Loveであるように思う。
それ故に、同じ感覚、シンパシーを持つ読者へ訴えるものは、作品が生まれながらにして持ち得た一つの利点ではあった。それとともにまた、シンパシーを持たない読者にも何とか、何が書いてあるかを理解していただけるように描けるまで、拙い努力を重ねてきたつもりである。
あいまいな自我の結実にも似たBelne's Loveを、出来うる限り自分の求めたイメージに近い姿で形に出来たのも、「まんが」と言う手法の恩恵の賜物である。
「まんが」でなければ、Belne's Loveは成立しない。
絵と文字が、ビジュアルと意味を表し、書き文字が音さえ表してくれる。ライブの熱を生々しく白黒の画面が伝えてくれる。
Belne's Loveは、よく、「これは漫画じゃない」と言う評価を貰うことがある。曰く詩であると、或いは散文に似ていると。
けれども、私にとって、Belne's Loveはあくまで「まんが」である。
「絵」と「言葉」の、両方があって、時空間を創造する、「コマ割」があって、やっと、Belne's Loveの世界をイメージ通りに伝えることが出来るのだ。
Belne's Loveを書くこと。それを読んで貰うこと。Belne's Loveの作者である作家になること。
それが、プロになった頃の私の夢であった。
「まんが」と言う表現がそれを叶えてくれた。
(じつはその夢が完全に叶えられたとは思っていない。Belne's Love本編は私にとってとても理想的な形で一応の区切りをつけることが出来たけれども、私が描きたいBelne's Loveの物語はまだまだ魂の中で誰かに読んでもらえる事を夢見ながら待っているのだから。)
誰の魂の中にも密かに物語が眠っているような気がする。たまたま、わたしは、それを、外に表したいと、強く強く願ったに過ぎない。自分の絵の拙さが我慢できない事もあった。書いても書いてもイメージ通りに運ばぬドラマに苦しんだこともある。けれど、この物語を貴方に語りたくて語りたくて、死ぬほど語りたかったから、こうやって形にすることが出来たのだと思う。
「まんが」という表現方法はその、自分の熱を転写するにはとても向いている手法だと今現在も本当にそう思う。
誰の魂にも密かに物語が眠っている。それは、もしかしたら誰にも表現されないまま眠っている物語なのかも知れない。
ふと、私は思うことがある。
Belne's Loveを私が描くのは、貴方の中の密かな、眠る物語が、少しく揺れ動いてはくれないかと。
声に共振する音叉のように。
2001年2月26日 Belne

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