地球ゴルフ倶楽部 パー4
ヘローコース 1番

われらが煌(きらめ)きのボビー・ジョーンズ


 セント・アンドリュースをこよなく愛した球聖ボビー・ジョーンズ。本名ロバート・タイア・ジョーンズが名誉市民の称号を受けるため、車椅子に座ってセント・アンドリュース市のヤンガー・グラジュエーション・ホールに到着したのは、1958年のことである。

 会場の内と外には、二千人を超える市民が溢れていた。颯爽(さっそう)とフェアウエイを歩き、機敏な動きで絶妙なショットを放ち、誰に対しても優しくなごやかに接したあのボビーが、いま車椅子に座っている。十九歳の若武者のころから彼を見てきた市民にとって、三十七年後のその姿は痛ましすぎる光景だった。

 老いも若きも、すべての人が目にいっぱい涙を浮かべ、うめくように叫んだ。「ボビー」「ボビー、お帰りなさい!」なかには両手で顔をおおい、その場に泣き崩れる女性もいたが、ボビーは人なつこい微笑で大勢の市民の手を握り、もみくちゃにされながら会場に入っていった。・・・

・・・ボビーは十七個のメジャー・タイトルを奪ったが、試合に勝ち続けている間にも、アトランタ工科大、エモリー大、ハーバード大を卒業し、機械工学、文学、法律の学位を取得している。  1925年の全米オープンでは、誰も気がつかないラフの中でアドレスしたとき、自分のボールがわずかに動いたと申告、みずからに1罰打を課して、ウイリー・マクファーレンに優勝をさらわれた。

 その行為は、優勝することよりも立派だと賞賛されたが、ボビーは「なぜ褒められるのだろう」といぶかった。「ゴルファーとして、あたりまえのこと。あなたは、私が、他人のお金を盗まなかったからといって褒めますか」 正直で温厚なこの知識人を、セント・アンドリュースの人々は熱烈に応援し続けた。・・・

・・・心にしみるスピーチを終えたボビーは、市長に車椅子を押してもらい、出口に向かおうとしたそのとき、誰が歌いだしたのかスコットランドの民謡「きみ、再び帰り来ずや」の小さな歌声が、片すみから湧き起こった。歌声はすこしずつ大きくなっていって、ついにはホール全体が壮大な合唱に包まれた。歌声は会場の外にまで広がり、老いも若きも涙を浮かべながらボビーに手を振り、「いつか必ず戻っておくれ。私は毎日、丘に続く道を眺めているから」と歌い続けた。

 大合唱のなかを、ボビーの乗った車は静かに走り、やがてコースが望める道端で止まった。かって熱狂的な歓声が津波のように押し寄せたオールドコースに、その日、人影はなかった。わが庭のように知りつくした一面の緑の起伏をいつまでも見続ける彼の横顔には、心がちぎれるほどの深い哀しみが漂っていたという。
 ボビー・ジョーンズは、ふたたびセント・アンドリュースに戻れなかった。

「ゴルフの虫がまた騒ぐ」夏坂 健著 
発行 (株)二見書房 1991年 より

規則18-2b.アドレス後に動いた球
 プレーヤーのインプレーの球がアドレス後に動いた場合(ただし、ストロークの結果以外の原因で動いたとき)、プレーヤーはその球を動かしたものとみなされ、1罰打付加とする。プレーヤーがスイングを始めた後に球が動き、しかもそのスイングを中途で止めなかった場合を除き、プレーヤーは、その球をリプレースしなければならない。

1番ホール(パー4)あなたのスコアは
・今までの自分のプレーのなかで、アドレス後に球が動いた場合1罰打付加してきた。・・・4
・動いたことはなかったが、そんなルールは知らなかった。・・・5
・動いたが、無視してきた。・・・6

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