2009.11.18







 

  痛みというよりは耐えがたい熱さなのだな。

 

胸に宿った銀の月に、ふとそう思った。

 

 

何も考えずに飛び出してしまった。

彼の背に迫る凶刃の元へ。

このタイミングは致命的だと頭では分かっていたけれど、止まらなかった。

 

禍月は白い光を残して瞬く間に(あけ)に染まり、刹那、砕け散っていく。

 

「ぁ…つ」

 

一…歩二、歩

 

自らを支えかねた足が無意識に歩を進める。

悪い夢のように言うことを聞かぬ体は、本人の意思を離れてゆっくりと前のめりになっていった。

 

 

 

自分のことが「済んだ」らそれで全て収まると、そんな風に思っていた。
そしてそれが「彼」の手によるものならば、それも良いかもしれないとも…。

 

 

それなのに…馬鹿だ、こじゅうろう…。

 

 

「…!」

 

 

ひう、と息を吸い込んだ途端生暖かいものが混じり、次の瞬間に激しくむせこんだ。

咳が止まらない。

そして大量の血。

吐き出すばかりで息を吸うこともままならず、ずるずると床に滑り落ちる体。

呼吸困難で震える指が何かを求め宙をかく。

胸を染める血はとどまるところを知らず、着物を鮮やかな赤へと染め上げていく。

 

急速に重くなっていく体。

その反面、「自分」を保つ輪郭はぼやけて、存在が限りなく空虚(うつろ)に軽くなっていく。

自分が自分でなくなってしまうような恐怖に、この身を傷つけた刃の痛みに縋り付いてでも、意識を保ちたいと願った。

 

 

 

「ぅ…ごほっ」

 

 

「梵天丸さまっ!」

 

 

・・・・・・・声がする。

 

ああ、まだこんなところに…。

自分を殺すはずの男が、一体なにをしているんだ。

 

耳に心地よい低い声が、こんなにも近くに聞こえるというのに、目の前に広がる闇が、急速に彼の姿をかき消してしまう。

 

 

小十郎が…見えない…。

 

「こ…じゅ…」

 

ごぼごぼと血を吐きながら必死に伸ばした腕を、体を、強く抱きしめられたような気がした。

 

「梵…」

 

 

伸ばされた指をすり抜けて、意識がずるりと落ち込んでいく。

 

なにもかもが色を失い、霧散していく…。

 

 

 

自分の、人としての輪郭が、とけていった。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もはや剣技とよべるような代物ではなかった。

ただ、目の前に現れる黒きものをなぎ払う。

体に染み付いた動きと本能のようなものに支配され、突き動かされている。


白いものをお召しでいてよかった。

 

頭のどこかでそう思う。

 

目も効かぬ、ままならぬ体でふるう刃は、少しずつ自分の抑制を離れ、まるで自分ごとではなくなってきていた。

目の前に誰が居ようが一切躊躇うことなく切り捨てる。

ただひとつ…ひとつだけを護る、それだけのために。人としての理性が曖昧になってきていた。

 

 

腹にうけた傷は確実に命を削っているが、それは今すぐではない。ここにいる敵をできるだけ倒し、つなげるだけの希望をつないでやろう。その位の時間なら、ある。

 

 

ギン!

激しい火花を散らして刃が重なる。

 

不思議と力負けはしない自信があった。

いったいどこにこのような力が隠されていたのかは謎だが、まさにこの時のために秘されていたというのであれば、惜しむこともあるまい。

 

じりじりと敵方の刃を押しながら、一瞬の動きで左に受け流し体を入れ替える。そのまま肘を突き上げるかたちで瞬時に刀を持ち替え、敵からの力のままに胸部へと刃を突き通した。

 

「っ!」

 

深々と刃を突き立てられて絶命した忍の、倒れかかってくる体を支えきれず、一瞬バランスを崩してたたらを踏む。

その隙を左右同時につかれ、咄嗟に左の死体(もの)を盾に蹴り飛ばした。

 

 

「ぐっ」

 

急激な動作に体がついてこず、激しく息をつく。

 

 

 

その背に、何かが、重く、当たった。

 

 

視界の端に一瞬見えた、小さな白い…手?

 

 

ずるずるとすべり落ちる嫌な重さが背中にかかる。

 

 

「梵てん…さま?」

 

確信に近い嫌な予感に言葉が震える。

 

 

ゆっくりと振り向きながら、自分の背によりかかるようにして倒れこんできた小さな体を抱きとめた。

 

着物を染めていく鮮やかな赤の色が、恐ろしい勢いで広がっていく。

子供の(おもて)は既に…。

 

助からない…。

 

 

目の前の事実に愕然とした。

ガクガクと震える膝が地へと落ちる。

 

 

「ぼんてん…さま…」

 

色を失った白い面に、唇に、震える指がそっと触れていく。

 

目を、開けてほしい。

もう一度、あの美しい黄金(きん)(いろ)を…。

 

 

「梵天…丸さま」

 

 

髪に、頬に、耳に、祈りのように唇を寄せる。

額に、瞼に…。

 

「…こ……じ」

「梵天丸さま!」

 

暖かな感触に、奇跡のように開いた瞳はしかし…。

 

震える唇が何かを言いたげに開きかけ、小さな吐息をもらした。

 

 

死の確信が重い実感を伴って小十郎をおそう。

頭の先から足の先までを吹き抜けていく冷たい何か。

 

彼を守ることだけで動いてきた体から、すべての力が抜け落ちていった。

 

 

「うっ、く…」

 

耐え切れずに腰が落ちる。

 

 

もはや…。

 

視線を落とす。

 

消えゆく命をつなぎとめる術はもうない。

こんなにも、

小さな主がいとおしい。

何もかもを押しとどめたい。

ずっと変わらぬままで…

 

責務と真逆な、ほんとうの気持ちが溢れ出す。

そのすべてがこの手から滑り落ちていく。

 

 

せめてこの小さな主の美しい(おもて)を汚されることだけはならぬ。

最後の望みで、子供の体を自らの下に覆い隠し、強く抱きしめた。

 

 

 

 

(あけ)に染まった長刀の柄を握りなおし、無情な刃を振りかざす忍の影が落ちる。

任務の終了を目前に、そこだけ露になっている瞳が酷薄な三日月を宿す。

 

振りかぶった切っ先。

 

 

次の瞬間

 

 

振り上げた刃を目掛けるかのように、炎を纏った巨大な梁が焼けて崩れる。

忍を押しつぶし、二人と男達の間には巨大な炎の柱が立ち上った。

手の施しようが無いほど燃え盛っていた屋敷は不気味な音を立てて軋み始め、屋根までを包み込む炎とともにゆっくりとゆがみ始めた。





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