「文学横浜の会」
読書会
評論等の堅苦しい内容ではありません。2011年11月05日
横光利一「上海」、「微笑」
(1)『上海』について
(岡部は担当者として熟読したので、
1925.5.30の死傷者も出た上海市ゼネスト事件の具体的な場面や当時の列強に食い散らかされようとしている
上海の情勢が首尾良く描かれている、
日本人の登場人物たちの恋愛模様や彼らがその社会情勢に飲み込まれて不安にかられて行く様などが巧みに語られているなど、
この長編を十分に楽しむことが出来たが、しかし)読みにくい長編を選択したのは適切さを欠いたかもしれない。
反省!
(2)「微笑」について
もしそれが成功したら苦しい戦況を一変させるかもしれないという願望。
しかし研究は絶対的に秘密裏になされねばならないから憲兵が四六時中数学者の周りに張り付いているという状況。
しかし気分転換のため趣味の俳句の会への出席は認められている。
一方では、数学者の時折の奇怪な言動は彼が天才であることを表すのか、それとも、正気でないことを示しているのか、等々。
スリルとサスペンスに満ちた短編であることは確かだが、こんにちの観点からみて、
この作品が我々にどの程度に感動を与え得るかに関しては意見が分かれた。
(3)新感覚派について
例えば、小林秀雄は彼の「機械」を、篠田一士は「微笑」を高く評価している。
しかしこれら両評論家の時代から既に半世紀経過しようとしている。
本日の読書会の出席者の読後感想から察するに、こんにちの大抵の読者は長編『上海』をスラスラとは読むことは出来ないだろう
(もしくは、少なくともスラスラと読む気にならないだろう)。
また短編「微笑」からも、恐らく当時の読者よりは、感動を与えられることは少ないだろう。
どちらの作品も、テーマは興味をそそるものだが、読みにくくしているのは新感覚派の凝った文体・文章のせいだ、という可能性がある。
もしそうだとすると、我々に投げかけられているのは、
両評論家の有していた(文芸作品の)評価基準と我々がいま持っている評価基準は一体どのように違ってきたのか
(我々の進歩または退化の可能性も含めて)、という問題なのかもしれない。
以上、岡部、記
(文学横浜の会)
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