「文学横浜の会」

 読書会

評論等の堅苦しい内容ではありません。
小説好きが集まって、感想等を言い合ったのを担当者がまとめたものです。

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2016年07月04日


横光利一

「春は馬車に乗って」「機械」

担当(遠藤)

【選んだ理由】
短編で、切れのある作品を選ぼうと本屋で物色していた時に、林修氏著の『「今読みたい」日本文学講座』に横光利一の「機械」が取り上げられていた。

横光利一とは
フローベルに大きく影響された新感覚派(新しい試み、実験的作品)の作家。

■会員からの感想

【春は馬車に乗って】
・横光利一の私小説である。赤裸々に表現している。
・新鮮な比喩(直喩、隠喩)を駆使している。
・夫婦の会話に味わいが感じられる。大切な妻をいかなるように守るか?

・敢えて無機質に会話を成り立たせている。
・残酷、一方的な観察眼。
・感情や抒情に流されない。

・性格の表現がない。しかし伝わってくる。
・同じ結核文学《堀辰雄「風立ちぬ」》と比較すると、短いためか陰鬱さは無い。
・宗教的、掴みにくい。

・タイトルがいい。
・人間が描けていない。
・美醜(びしゅう)の感覚。

・フローベルと酷似、英語に直すと分かりやすい、日本人の文章ではない。
・一つの表現を見出す事は一生の仕事である。
「一生の仕事に、松の葉がどんなに美しく光るかって云う形容詞をたった一つ考え出すのだね」

【機械】
・読みにくい。
・テーマがよくわからない。
・文壇の中心におり、研究者が多い。小林秀雄、サルトル等にはもてはやされるインテリ文学。

・心理描写が巧みである。
・活動写真(チャップリン映画)の様。
・実験的作風(新感覚派と呼ばれるゆえん) 。

■自分の感想

【春は馬車に乗って】
自伝的小説。
小島キミ(同人仲間・小島勗の妹)である。同居後キミは1925年(大正14年)6月に結核を発病し、 翌年1926年(大正15年)6月24日に逗子の湘南サナトリウムで23歳の生涯をとじた。二人は戸籍上婚姻しておらず、 キミの死の1か月後の7月8日に入籍をした。

胸を患い、臥せっている妻を看病する彼。
妻は体の不調から精神面で不安定になっており、事あるごとに彼に食ってかかる。
彼は自分の仕事の事などで理屈を述べるが、妻には理解されない。

死を前に、いがみ合うこともあるが、やがてお互いの存在の大事さに気付いていく。夫婦のあり方を生々しく感じさせる。最後スイートピーが届き、表題の形に収まるあたりは、「予定調和」の色合いが強いが、お互いの会話内容が一つ一つ作った言葉で無い事に読者に様々な事を考えさせてくれる秀逸作品である。

【機械】
様々なキャラクターが登場し、それぞれが疑心暗鬼になっており、暴力や暴言を交わす事もあるが、基本、 全員が「善人」である。金に関して杜撰で、幼稚な社長であるが、従業員は皆、憎めない存在として慕っている。 唯一の取り柄は赤色プレート製法を生みだした技術である。

腕力のある軽部は社長との関係性を崩されないために、 あらゆる手でそれを邪魔しようとする者を排除する事だけに存在意義を感じている。 最初標的は私に向けられるが、やがて後から入ってきた屋敷に向けられていく。

この屋敷においても、不審な行動を取るが、いまひとつ掴みどころのない男である。 機械のように明瞭な基準で正確に善悪を計ってくれれば良いが、人の感情だけは常に変化し、善悪の判断も目まぐるしく変わる。 目で見てすぐにわかる「暴力」と、心の中にある「無関心」を天秤にかけてみても、どちらがどの程度悪を孕んでいるのかは分からない。

本作は、現代においても変わらない普遍的テーマを題材にしている。
 

以上 遠藤 記

◆次回の予定;
  日 時;9月3日(土)17時半〜
  テーマ;「私の叔父さん」連城三紀彦
  担当者;藤村さん

  8月の読書会はありません。

(文学横浜の会)


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