「文学横浜の会」

 読書会

評論等の堅苦しい内容ではありません。
小説好きが集まって、感想等を言い合ったのを担当者がまとめたものです。

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2017年12月13日


ジョルジュ・サンド

「愛の妖精」

担当(篠田泰蔵)

ジョルジュ・サンド作品を選んだ経緯

 今回選んだ作家ジョルジュ・サンドは、筆者が子供の頃から断続的に、作品や評伝に接する機会があったり足跡を辿ったりした作家である。

 はるか大昔の少年の時に、児童向け世界文学全集に掲載されていた『愛の妖精(プチット・ファデット)』に出合ったのが最初であった。当然ながら、その時は作家について何も関心を持たなかったのであるが、田園を舞台にして、お転婆で器量がなく身成りも粗末な少女が次第に魅力のある女性になっていくという、思春期の若者たちの純愛と成長をテーマにした面白い作品であったという読後の印象は覚えている。

 この機会に、その本を引っ張り出してみたのであるが、『愛の妖精』だけで26点もの挿絵が挿入されていて、朧気ながら大昔の記憶が甦るという恩恵に浴することができた。因みに全集内の各作品の挿絵は、どれもクウォリティが高く、後年、美術の道に進んだ筆者に何某かの影響を与えた気がしてならない。

 大人になってサンドのファンが多いことや存在の大きさに気付き、また少年の時に読んだ『愛の妖精』が児童向けに大幅に短縮されていたことを知り、岩波文庫版を読む。大人が読んでも、ほのぼのとして心癒される作品であることが改めて分かり、たちまち惹き込まれ、続けて『フランス田園伝説集』や各種評伝を読む。

 その時にサンドが女性の活躍の場を開拓した草分けであることや、詩人、作曲家、彫刻家等々、多くの芸術家他との愛の遍歴を持った女性であることを知る。

 その凡そ10年後、スペインを旅行した際にサンドと作曲家ショパンとのいわゆる愛の逃避行の先、マヨルカ島のバルデモッサに立ち寄った。ショパンはこの地で『雨だれ』を生んでいる。筆者は、この時に二人が過ごしたカルトゥハ修道院を中心にした古い街並みの美しさに魅了されて風景画3点を生み出したと同時に、サンドの魅力を再認識することになり、その後、余韻に浸る如く『冬のマヨルカ』や評伝を読み耽った。

 それからさらに18年も経ってしまった現在、サンドへのオマージュとして、また児童向け世界文学全集に対するオマージュとして、さらには、偶に田園を舞台にした純愛小説を読書会のテーマにするのも乙ではないかと思い、著作の中で最も愛されている『愛の妖精』を選択させて頂いた。

『愛の妖精』について

 今回、児童版の『愛の妖精』を初めて読んだ際のことが脳裏に甦った。子供の当時は未熟だったこともあり、全く素直に作者の術中に嵌まるような形で読み進んでいったことが思い起こされたのである。

 すなわち、ファデットの登場の仕方が、大変不幸な境遇で、魔女的で、器量が悪いし服装がみすぼらしく、言葉遣いが乱暴で態度も品がない為、作中の双子の少年たちや村人たちが感じるのと同様、初めての読者は最初、魅力が感じられないと思われるのだが、それは作者の目論見通りと言えるのである。

 ファデットはまるで野生児のようでヒロインとは思えないほどに謎であるし、村中から悪い噂をされ、とてもネガティブな印象の状態がしばらく続く。

 やがて双子の兄シルヴィネが行方不明になった際に、ファデットが双子の弟ランドリーに手助けをするところから二人の関係性が始まる。その時、ファデット14歳、ランドリー15歳。

 ランドリーはまだファデットを不信の極みのように思っている。それが、小説の3分の1を過ぎた辺りで、ファデットがランドリーに2度に渡る手助けをした見返りに村祭の際のブーレ踊りの相手をするように約束を取り付けるところから大きく動き出していく。この時ファデット15歳、ランドリー16歳である。

 親密になり始めの頃、ランドリーに指摘されて素直に従い、見違えるほど身なりを整えるようになる。徐々に魅力的存在へと変貌していき、ランドリーが惹かれていくのと同様、読み手としてもファデットにどんどん魅了されていく。そうなると読み終わるのが惜しくなっていく。

 この小説は、読者もが欺かれるほどに、一人の少女と双子の少年たちのそれぞれが、思春期から大人へと向かう時期に掛けて大きく変貌を遂げていく愛と成長がテーマとなった物語と言うことができる。

 従ってファデットとランドリーの変貌こそが核になっているのだが、それは主要登場人物に限られたことではない。例えばファデットに終始不信感を持ち続けている双子の両親が、最後には完全に虜にされて、進んでランドリーとの結婚を望むほどになるし、村人たちが受けていたネガティブな印象も覆されている。

 また、ファデットと生まれつき足が不自由な弟ジャネーは、母親の理不尽な出奔が原因で、不幸な境遇にあるが、育てることになった祖母のファデー婆さんは、非常にケチで、ガミガミうるさい割に子供の衣服などの世話が行き届いていなかった。しかし、実は薬草の効能等々について物知りなことを利用してお金を貯めていて、亡くなると孫たちが苦労しないようにと大金を遺していたのであった。村人からは魔女扱いされ、嫌われる存在であったのだから、これも一種の変貌と言える。

 そして最後の牙城、双子の兄シルヴィネまでもが、ランドリーを取られて凄く嫌っていたファデットに対して、終盤では心の病気を治癒されることをきっかけに魅了されてしまうし、心優しくもひ弱で神経過敏だったはずなのに、最後の最後になって進んで兵隊に入隊し、やがて立派な地位に就き最高の勲章まで貰うことになることが後日談のように記されている。そこにも大きな変貌が表現されている。

 なぜ人々が変貌していったかと言えば、偏にファデットの力によるもので、それは、当初表面的には分かりにくかった心根の優しさや真っすぐさであり、やがてファデー婆さん以上に物知りになるほどの賢さであり、人一倍強い信仰心であることなどを意味する。それが中盤から終盤にかけて随所にちりばめられている。例えば、ランドリーに対し、親切に牛飼いに役に立つ知識を授けているし、器量良しで男たちにちやほやされている少女マドレーヌとの仲をわざわざ取り持とうとさえした。また、シルヴィネに対しては、兄弟愛が強過ぎて三角関係のようになり、心の病気になってしまった際、ファデットが自ら犠牲となって一旦村を離れる決意をするし、戻ってきた後にはシルヴィネの病を見事に治癒させてバルボー一家を喜ばせることとなる。因みに、この治癒の際、ファデットは深い信仰心に基づく神秘的なまでの方法を施している。

 以上、変貌の物語ということが、筆者なりの解釈として、この小説の根幹となる特色であるが、その他にも幾つかの魅力的な特色がある。

 その第一に、田園風景が舞台になっていることである。臨場感のある田園風景の描写が非常に多く散見できるのは、作者サンドの郷里、フランス中部のノアン付近が舞台となっているからである。因みに、1848年2月革命後の反動の巻き返しによる6月鎮静化が起こり、熱烈な共和主義者サンドが幻滅してノアンに引っ込み、人々を慰めるような温和な田園小説を執筆することになったのは周知の通りである。

 第二に、心理描写が大変巧みなことである。例えば序盤、サンドの手助けによってシルヴィネを発見したランドリーは、気落ちしているシルヴィネの心理を深く読んで、大変細やかな気配りのある対応を見せているが、その際の心の動きがとても丁寧に描写されている。それ以後も同様に精緻な心理描写が随所に見られる。特に、表面に出る動きと内面の心理が異なる思春期特有の心理描写が非常に多く見られる。

 第三に、キリスト教信仰が土台になっていることである。度々祈るシーンが登場するし、ランドリーがファデットに惹かれていく要素の一つは、自分以上の敬虔な信仰心に敬意を感じたからであった。また、ファデットがシルヴィネの心の病を治癒した際、神様が治す力を授けていると記述されている。さらに、ファデットの博愛精神が随所に表現されている。足の不自由な10歳下の弟ジャネーに終始目を掛けているし、最終盤、ランドリーとの結婚の際、むかし悪口を言われた人たちに「仇を恩で返す」べく、立派な配りものをし、その後、村の貧乏な家の子供たち、不幸せな子供たちのために役に立つ施設を建てている。

 第四に、恋愛描写が卓越していることである。これこそがサンドの真骨頂で、最大の特色と言ってよいかも知れない。特に誰もが通過するが薄らいでしまいがちな思春期の恋愛の純然とした描写は見事としか言いようがない。その代表的な例が恋人同士の語らい部分におけるページ数の掛け方の多さである。例えば、ブーレ踊りの後、ランドリーが石切り場の奥で鳴いていたファデットを見つけて語らう場面である。二人はお互いに言いたいことを言い合って、疑念が氷解していき、その後ランドリーはファデットにどんどん惹かれていくことになるのだが、この場面だけで岩波文庫の26ページ分を費やしている。原稿用紙に換算すると48枚前後である。そして、その後の日曜の礼拝後の牧草地で、ランドリーはまるでオペラのアリアのようにファデットへ想いを訴える。その際ファデットは喜びで気を失う。正気が戻ってからも本心は相思相愛同士なのに甘やかなる押し問答が続く。また、終盤のファデットが村を一旦出ていく際、ランドリーが途中まで追いかけてきて語らう場面も秀逸で、ファデットの真意を語る部分が、これもまたアリアのようである。それまでずっと突っ張ってきたファデットは、実は13歳の時からランドリーだけをずっと想ってきたことを涙ながらに告白する。

 第五に、19世紀中頃のフランスの風土が随所に良く表れていることである。上記ファデットが真意を語る場面で、二人は初めて(石切り場の時とは異なる)本当の恋人同士としてのキスをするのだが、小説の5分の4まできてようやくである。現代の読者からすれば貞節過ぎるにも程があると言いたいところであろうが、正にキリスト教の強い影響下、貞節が非常に尊ばれた風土や時代背景が知れて面白いのである。

 なお、『愛の妖精』をライトノベルやハーレクインや少女マンガと似ていると感じる感想を目にすることがあるが、それはもちろん逆である。『愛の妖精』が発表されたのは1849年である。明治改元の19年も前である。因みに日本の近代小説の嚆矢と言われる二葉亭四迷の『浮雲』の発表が1887年であるが、その28年も前のことである。『愛の妖精』は発表以後、多くの小説家に影響を与え、礎になってきた。そして今日も古典的名作として息づいているのである。

 さて、物語は大団円の終局を迎えているかのようである。確かに主要登場人物に限ってはそうかも知れない。しかし、登場人物の全てが最後、良い人で納まっているかと言えばそうではない。悪は厳然と描かれているし、それは最後まで善に転じていない。明確に悪く描かれたままの登場人物が少なくとも二人存在する。

 一人はファデットの母親である。ジャネットを生んですぐに浮気が理由で家を出ていってしまうので、ファデットたちは置き去りにされた格好で、それが原因で非常に可哀想な幼少時代を過ごすことになる。

 もう一人はマドレーヌである。ファデットと対照的な存在で、器量は良いが性格が悪く、多くの男性にもてるのだが長続きしない。醜悪だったのが、ファデットとランドリーがしばらく秘密に付き合っていた際、それを偶然見つけて、村中に悪く言い触らしたことである。マドレーヌはその後も良く描かれていない。

 『愛の妖精』は、古典であるがゆえの宿命で、その古めかしさをネガティブに捉える向きもあろうかと思われる。また、ハッピーエンド仕立ての点、子供向けの要素が色濃い点、宗教色が強過ぎる点、

 やや説教臭いように思われる点なども同様に思われる。従って評価も様々であろう。実際、読書会の参加者もそうであった。

 筆者は冒頭にも記したように、未熟だった子供の頃に受けた感銘が想起されたことも手伝って、つくづく思った。『愛の妖精』は、半ば童心に立ち返って、素直な気持ちで読むべき小説であろう。


以上 篠田泰蔵 記

◆次回の予定;
  日 時;1月13日(土)17時半〜
  テーマ;「スティル・ライフ」、池澤夏樹

  担当者;杉田さん

(文学横浜の会)


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