「文学横浜の会」

 読書会

評論等の堅苦しい内容ではありません。
小説好きが集まって、感想等を言い合ったのを担当者がまとめたものです。

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2019年03月04日修正


武田泰淳

「ひかりごけ」

担当(篠田泰蔵)

『ひかりごけ』に出合った経緯

 武田泰淳(1912〜1976)の短編小説『ひかりごけ』(1954年発表)を読んだのは、1992年4月公開の熊井啓監督映画『ひかりごけ』を観たのが切っ掛けであった。

 今は閉館してしまったが、新宿区歌舞伎町1丁目にあったTOKYU MILANOビル内のミニシアター、シネマスクエアとうきゅうでの上映であった。もう約27年も前のことなのに当時のことをよく覚えているのは、飢餓に苦しむ、究極に追い込まれた人間のカニバリズムを扱った非常に重いテーマの映画を観終わって外に出た途端、飽食と猥雑の極みのような街が現れ、その懸隔があまりに峻烈だったからであった。

 この映画は、筆者の鑑賞歴中、最も感銘を受けた作品の一つとなった。監督の熊井啓(1930〜2007)と主演の三國連太郎(1923〜2013)に対する崇敬の念が決定的となった作品でもある。

 その為、鑑賞直後に原作を読むと同時に、熊井・三國の両者への関心から、旧作映画のビデオ化隆盛の時勢に乗じて熊井監督の多くの作品を鑑賞。さらに、(年代順に)『善魔』『ビルマの竪琴』『異母兄弟』『荷車の歌』『破戒』『王将』『無法松の一生』『越後つついし親不知』『飢餓海峡』『にっぽん泥棒物語』『神々の深き欲望』等々の三國出演で巨匠が監督した古い映画を鑑賞し、次から次と感銘に咽んだ記憶が懐かしい。また、それ以降、熊井の『映画と毒薬』等の著作や三國の親鸞関連の著作も読んできた。

 三國連太郎が2013年に亡くなった際、マスメディアが盛んに追悼し、代表的な出演作が紹介されていたが、なぜか『ひかりごけ』が取り上げられるのを観ることがなかった。三國68歳という比較的晩年の出演作であったこと、なおかつ単館上映なので観ている人が相対的に少なかったこと、テーマが重過ぎて取っ付きにくいことなどがマイナー扱いされた理由として推測できる。

 しかし、三國の各種評伝を読み、三國自身が監督した映画『親鸞 白い道』を観たり著作を読んだりし、さらに新旧の三國出演作品を網羅的に鑑賞してきた者としては、若い時から数々の巨匠監督からオファーを受け、質の高い演技指導を与えられてきたことに加え、自らの努力によって演技力を磨きに磨き上げてきた三國の、集大成の一つこそが『ひかりごけ』であり、同時にそれが三國の最高傑作の一つであることを疑わない。

 実は、その裏付けになることが当時発行の『ひかりごけ』の映画プログラム『Cinema square Magazine No.96』に記されている。多くの名作を生み出してきた熊井であるが、『ひかりごけ』は特に思い入れがあって、構想から28年を経て作り上げた映画であることが記されており、その熊井はキャスティングについてのインタビューの中で、「主演は三國さんでなければ成立しない」とまで述べている。また、共演の名優田中邦衛にして三國を評して「ライオンの前で芝居をしているみたいだ」と言わしめている。そして当の三國は、本人インタビューの中で、「私自身、『飢餓海峡』以来、こんなに燃えたものはないですね」と述べているのである。因みに、『飢餓海峡』での名演技は広く知られているところである。

 実際、映画の早い段階で登場する、三國演じる船長がリアルに食人を行なうシーンは、実に迫真的で、筆者の知る限り、他のどんな役者も演じることが思い浮かべられないほどであった。苛酷な幼少期を過ごし、悲惨な戦地に赴いた世代であり、「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の親鸞・浄土真宗の思想研究をライフワークとしていた三國だからこそ可能な、他の追随を許さない演技と思えてくるのである。

 因みに、武田泰淳は、その著『私の中の地獄』(1972)によると、法然開祖の浄土宗の寺の子として生まれ、父親を尊敬し、19歳の頃、増上寺で修業し、小僧都(しょうぞうず)という僧侶の位を得ている。法然、親鸞が緊密な師弟関係にあったことからすれば、武田泰淳と三國連太郎との間に思想的連環があったと言っても過言ではないのである。しかも、悲惨な戦地を生き抜いてきた点においても両者は共通している。

 また、熊井啓監督について記すと、一般に社会派で知られているが、その括り方では明らかに狭過ぎると筆者には感じられる。確かに『帝銀事件 死刑囚』『サンダカン八番娼館 望郷』『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』『日本の黒い夏─冤罪』のような巨大権力の暗部を鋭く暴き底辺に生きる人への優しい眼差しを感じさせる社会派的な作品も多いが、例えば井上靖原作の『天平の甍』『千利休 本覺坊遺文』の2作における日本の伝統美や人間心理の内奥を深く探究した作品、遠藤周作原作の『海と毒薬』『深い河』『愛する(原作は『わたしが・棄てた・女』)』の3作のように深い宗教的思索を底流に感じさせる作品がある。

そうかと思うと木本正次原作の『黒部の太陽』のような大掛かりなスペクタル風作品があり、三浦哲郎原作の『忍ぶ川』のような純愛作品もある。そして以上挙げたどれもが一級の映画ばかりである。実際に多くの作品がキネマ旬報日本映画ベストテンに選出され、その内3度も1位に輝き、また内外の映画賞にも多数受賞している。

 その熊井は非常に長期に渡って武田泰淳の小説『ひかりごけ』を映画化する構想を温めてきただけあり、取り分け洞窟内の場面と法廷内の場面の二幕の戯曲部分においては、かなり高い精度で原作に忠実で、武田泰淳の創作意図をできる限り再現しようとしていたことが伝わってくる。つまり、熊井が最初から「彼しかいない」と抜擢した三國の船長役の迫真の演技は、そのまま武田泰淳が表現しようとしたことでもあると見做してよいと考えられるのである。

 小説『ひかりごけ』は、映画『ひかりごけ』によって再脚光を浴びることとなった。粗っぽい捉え方をさせて頂くならば、武田泰淳から熊井啓へ、熊井啓から三國連太郎へと橋渡しされて、表現媒体を新たにしつつも、『ひかりごけ』の主題が忠実に再現されていき、人々に大きな感銘を与えることに繋がったと筆者には思えてくるのである。

 なお、以下参考として付加しておきたい。小説『ひかりごけ』は二幕に渡る戯曲がメインとなって構成されている為か、映画化だけでなく、舞台化やオペラ化もされてきた。例えば1955年に劇団四季で浅利慶太(1933〜2018)の演出によって舞台化され、それ以後何度か再演されている。同2009年4月の自由劇場公演の舞台を2010年1月8日にNHKによって放映されたものを筆者は鑑賞している。

 また、2006年3月に演劇企画集団THE・ガジラで鐘下辰男(1964〜)脚本・演出によって舞台化され、下北沢スズナリで公演されたものを筆者は直接鑑賞している。

 いずれも、抽象化もしくは省略化した舞台上で、原作の意図を果敢に表現しようとした意欲的な作品と捉えることができた。

 以上の経緯の通り、映画、演劇等と、媒体を変えて表現が試みられ続けており、鑑賞する側としても尽きない関心を与えられ続けてきた『ひかりごけ』の、原点となる小説を、今回の読書会テーマにさせて頂いた。

武田泰淳『ひかりごけ』について

 小説の前半の紀行文で記されていて、小説の題材ともなる、実際にあったペキン事件の史実の真相を知るのに最適なのが、ノンフィクション作家合田一道(ごうだ いちどう)(1934〜)によって1994年に相次いで出版された『裂けた岬』(1994/4)と『知床に今も吹く風』(1994/11)である。映画『ひかりごけ』公開から2年後に出版されているので、多分に映画に触発されていたことが窺い知れる。

 しかし、合田は、映画公開より以前に、実際に難波して食人を行なった船長に、亡くなるまで15年の歳月をかけて断続的に取材を続け、他にも多くの関係者に取材をしており、50年経った事件の真相を長い間追い求め続けていたのである。以下、この二著作を参考にさせて頂く。

 合田は、第1弾『裂けた岬』でその真相を明らかにした。しかし、その反響を見ると、合田の意図に反し、真相を捉え違いしている人が非常に多いことが分かる。誤って記録されていた羅臼村郷土史、同じく誤った当時の新聞報道、さらにフィクションのはずの小説『ひかりごけ』の中の戯曲部分を、そのまま鵜呑みにしている人が多いことが分かったのであった。この点について、現在も小説に書かれたことが真実と誤解や混同した感想などが見受けられる。合田は、それらの風評に応ずる形で、すぐさま第2弾『知床に今も吹く風』を出版している。こちらの巻末には、資料として船長の遭難から食人、逮捕、裁判、出所までの軌跡が記載されている。

 船長が亡くなるまで15年に渡って合田に語ったことに嘘が無い限り、『裂けた岬』と『知床に今も吹く風』に記されていることが真相に最も近いものだと言える。しかも、これほど生前の船長を丹念に取材した資料は他に存在していない。そして船長が、例えば「…どんな裁きでも受けると決意していた…わしが人を食ったのは明らかなんだから…」、「(出所後)…何度死のうと思ったか分からない…」、「…人間の資格のないまま人間の社会を生きている…」等々の数多くの証言を知る得る限りにおいて、その人柄に落ち度は感じられず、内容の信憑性の高いことが筆者には頷けた。

 こうした真相は、『裂けた岬』の本の表紙に記されていることを引用させて頂くと簡潔である。それによると、「太平洋戦争中の1943年、日本陸軍所属の徴用船が真冬の知床岬で難波。七名の乗組員のうち、生き残った船長と少年シゲの二人は、氷雪に閉ざされた飢餓地獄を体験する。四十数日後、シゲは力尽きて餓死。食糧のない極限状態のなか、船長はついに、シゲの屍を解体して「食人」する。遭難から二か月後、ひとり生還した船長は、「奇蹟の神兵」として歓呼されるが、事件が発覚すると「食人鬼」として指弾されることになり、懲役一年の実刑を受けた。人の道にそむく「罪」を背負った船長が、人間として生き続けることの苦悩を語った。事件から五十年、初めて明かされた真実」と記されている。

 小説『ひかりごけ』の後半の二幕の戯曲部分は、作者・武田が入手した羅臼村郷土史などの史実を題材にして作られたフィクションである。合田は、前記の通り、S青年が記述した羅臼村郷土史には誤りが多いことを指摘している。特に最後の箇所で、S青年自身の想像としながらも、最後まで見つからなかった3人の乗組員を船長ともう一人が喰った可能性もあるのではないかと記されていることで、錯誤・風評を招きかねない状態になっている。しかし、羅臼村郷土史に誤りがあったとしても、フィクションである小説を創作する上において何ら問題がある訳ではない。むしろS青年自身の想像によって武田が触発されたのではないかと、合田は推察している。

 従って、たとえ羅臼村郷土史の記載内容に誤りがあったとしても、小説前半の紀行文に記されている史実と同後半の戯曲との差異を比べることが、どう脚色して戯曲にしていったのかの作者の文学的意図を読み解こうとする上で有効となる。

 現に、第一幕の戯曲の始まる直前に、作中の「私」が「…この読者にあまり歓迎されそうにない題材に、何とかして文学的表現を与えなければなりません。私はこの事件を一つの戯曲として表現する苦肉の策を考案致しました。…」と記しているように、武田は、「自分が入手したところの史実」=「紀行文に載る史実」から離れた文学的表現を試みようとしていることを明示している。

 以下、小説『ひかりごけ』前半の「紀行文に載せた史実」と、二幕の戯曲部分との差異を比べていく。

第一幕の洞窟内の場に関して。
第一に、徴用船の難破の年が、史実では1943年だが、戯曲では1944年である。

第二に、生き残って避難した乗組員が、史実では二人だが、戯曲では四人である。

第三に、避難して過ごしていた場所が、史実では知床半島突端に近いペキン岬(「裂けた岬」という意味)の漁師が夏場に利用する番屋だが、戯曲では知床半島東岸中腹部の羅臼町近くにあるヒカリゴケの群生地のマッカウス洞窟内である。

第四に、食人の態様が、史実では生き残った二人のうちの船長がもう一人の餓死した後に行うだけなのだが、戯曲では四人四様で、最初に一人(五助)が餓死。その際に残った三人のうち二人がそれを食人し、しなかった一人(八蔵)がやがて餓死し、残った船長と西川の二人がそれを食人。その後、船長が西川を殺害して食人。船長だけが生還という経緯である。

第五に、史実に無くて戯曲に特有なのが、食人した人間の首の後ろに光の輪が現れて、食人していない人だけにそれが見えることである。

第二幕の法廷の場に関して。
第六に、紀行文においては、船長が西川の餓死した後に食人した旨の自白があったこと、死体毀損及び死体遺棄の罪名で刑に服したこと、判決が付記されていないので検察側の判定が紹介できないことについて記されている。この点に限って合田の『裂けた岬』についても参照にすると、そもそも史実では非公開なので傍聴人はいないこと、そして被告人の船長が最初から死体損壊の犯罪事実を認めていたので審理はスムーズに進行していることが記されている。それに対し戯曲では、食人行為について検事から糾弾され、裁判長、船長を含めて主に三者間のやり取りが描写されている。傍聴人も存在している。最後に裁判官、検事、弁護人、群衆の首の後ろに光の輪が現れる。上記やり取りの最中に幕が下りるので判決は不明のままである。

 この前半の紀行文に載せた史実と異なる部分にこそ、武田が「何とかして文学的表現を与えなければなりません」と記しているところの中身を知る手掛かりがある。以下、武田の文学的意図について探りたい。

 徴用船の難破の年を一年ずらしているのは、読者がペキン事件と結び付けたがることを見越しての、「この戯曲はペキン事件とは別物である」ということの明示、宣言と読み取るべきであろう。難破後の避難場所をペキン岬の番屋ではなくマッカウス洞窟内にしたことによって、それがさらに明確になっている。

 そして、生き残った乗組員を二人ではなく四人にすることによって、戯曲で展開していくような洞窟内の見事なドラマが生み出されていく。ここで武田は、四人四様に表現し、絶望的な飢餓状態におかれたからといって誰もが食人を行うとは限らないことを明示している。特に五助が餓死した後の八蔵の様態はとてもヒューマニスティックでさえある。他の二人が五助を喰っていても、そして自分が餓死するのが分かっていても、五助と約束したから喰わないと意志を貫き通す。因みに映画では八蔵の家で待っている家族の様子がオーバーラップされて愁嘆場を一層深めている。そして八蔵は餓死。

 残った西川と船長にも大きな温度差がある。八蔵の肉が尽きてしまい、いよいよどちらか先に死んだ方が喰われる状況になって、西川は弱気に絶望的なことばかりを口にする。対する船長は助かることのみを考えている。そして殺されるのではないかと疑心暗鬼になった西川が、船長に喰われるくらいなら海にはまって死んだ方がましと、洞窟から出ていこうとする。

その際、西川=食糧を失うのを恐れて追いかける船長の放つ言葉が極限の深刻さを通り越して滑稽にさえ感じられる内容となっている。一幕目の幕切れの段でもある船長の言葉は「何もそったら、ムダなことしるこたねえだ。どうせおっちぬなら、ここで死ねや。な、後に残るもんの身になってみろや」であり、「西川よ。待てや。そったらもってえねえことするもんでねえだ。西川よ、待たねえか。俺をひぼしにして何になるだ」である。

因みに映画での船長役の三國の、この難しい極限中の極限の場面での熱演には本当に感嘆した。この後、西川に対する殺害が暗示されるように、船長が西川の屍をひきずって舞台に登場することとなる。作者・武田は、洞窟の場では、生き残ろうとする一点において船長を徹底的に惨忍に描こうとしているのである。熊井、三國の結晶である映画においても、それは忠実に表現されている訳である。

 究極に追い込まれた際、人道を重んじるが故に餓死する人もいれば、船長のように食人を厭わず、徹底的に利己的になり、最後は(映画では過失気味な)殺人を犯してでも生き抜こうとする人もいる。その中間的な人もいる。そうした中で船長のような人間を一体どう考えればよいのかが読者にも問われている。その前提を押さえることが肝要で、その上で第二幕、法廷へと場が移る。

 法廷の場では、一転して、船長がどこにでもいる普通の人間のように思える存在であることが前提になっている。ト書きでも、第一幕とは別の俳優が演じることがのぞましいとされていて、悪相を失ってキリストの如き平安のうちにあるとまで記されている。そして前半の紀行文の案内人として登場する地元の中学校長と顔が酷似していることが何よりも大切であると記されている。

その校長は、やさしく恥ずかしそうな微笑をたえずたたえて、自然や人事に逆らうたちではなさそうで、おだやかで陰気でない人物と描写されている。因みに、映画において熊井は、三國に二役を演じさせることによって実現させているし、三國は見事にそれを演じ分けている。

 この法廷の場では、実に謎めいた発言や出来事が起こる。そしてその答えを作者は明示していない。三つほどの重要と思える謎について考察したい。

 謎の一つめは、検事が当初何も喋らなかった船長に無理に心境を述べさせようとすると、船長は「私は我慢しています」と言うことである。以後繰り返し、我慢していると言い続け、検事と会話が噛み合わない状態が続くのだが、何を我慢しているのか確信的・深層的なことは示されていない。

 但し直截的には、船長自身が述べているように、いろいろなことへの我慢であり、それは、「私は死刑になっても、当然だと思っています」と罪を認めている前提ではあるけれども、裁判が自分に無関係のような気がしている為の我慢であり、洞窟での食人等の日々についての我慢ということが、その中身といえる。ただ、「いろいろのことを我慢している」ことから、ここに作者の文学的意図が暗示されているようにも捉えられる。何度も船長に「我慢している」と語らせていて、少なくとも作者は読者に、船長が深層的に他に何を我慢しているのかを考えさせようとしているかのようである。

 その際、悪天候の中を徴用として船を運行させられたことや、そもそも戦争に巻き込まれたことに対して「我慢している」と捉えることもできる。確かに、それが無ければ難破も食人も無かったのである。それゆえ反戦に結び付けることが可能となってくる。しかし、単に反戦だけを表現しているのではなく、作者は、戦争を引き起こした国家などに象徴される強大な権力全般の各種横暴というものに対して、半ば気付かずに是認してきた(作者本人を含む)大衆の愚かさ・絶望の方をむしろ強く表現したかったものと、筆者には思えるのである。

 その裏付けとして、前記した武田の著作『私の中の地獄』の中で、武田は、「自分がどうなるかということは、どんな頭のいい、どんな良心的なひとでも見通すことはできない。たとえ真面目に突きつめて考え、これが正しいと信じて行動していても、とんでもないむごたらしい罪のなかに落ち込んでいくことだってあるわけで、……それにしても戦争を憎む衝動の根源にも太平ムードの軽薄さがはたらいているんじゃないかと疑いたくなる瞬間があるのも事実で、これもまたひとつの貧困でしょう」と記している。

また別の箇所で、「私は、かつての体験をふりかえって、どうしても自分自身を信用することができない。人間がおい込まれた生活条件によって、どんな非人間になりかわるかも知れぬという不安から、はなれることができない……」と記している。

 謎の二つめは、弁護人から「不幸なめぐりあわせさな」と同情の言葉を掛けられた際、船長は「私は自分を特に不幸だとは思っていませんよ」と述べている箇所である。この言葉の真意も理解しにくい。

 ここでは、大局的な見方が働いていると筆者は解釈する。前記したように、難破も食人も、徴用が無ければ、あるいは戦争が無ければ、有り得なかった訳で、その元凶、徴用や戦争が誰の身にも降り掛かっていた現実がある以上、自分だけが特に不幸とは言えなくなる。

 謎の三つめは、食人した船長の首の後ろに光の輪が見えるはずなのに、裁判官、検事、弁護人、群衆にはそれが見えず、逆に彼らの首の後ろに光の輪が現れることであり、その意味することである。

 難破後の避難場所を、実際に幻想的な薄い緑色の光を放つ「ひかりごけ」が自生するマッカウス洞窟内にしたことと、食人した者の首の後ろに光の輪が見える設定にしたことは、武田の素晴らしいアイディアであった。洞窟の場で、八蔵が、昔からの言い伝えとして、「人の肉さ喰ったもんには、首のうしろに光の輪が出るだよ」と語っていた現象は、洞窟の中に自生しているひかりごけによる偶然なのか、それとも本当の出来事なのか、不思議なところだが、実際に起きることになる。

 法廷の場で、船長は、食人した自分の首の後ろには光の輪が見えるはずだと訴えるのだが、誰もそれが見えない。見えない人は食人していることになってしまう。そして、逆に法廷内の人々の首のうしろにおびただしき光の輪が密集してひしめく状態になる。この最後の3〜4ページこそが、この小説の圧巻の場面であるが、なぜそうなったのかについて、作者は全く触れていない。感動を呼ぶ場面であるが、その解釈は読者の想像に任される形になっている。

 裁判官、検事、弁護人、群衆の本人たちが実際に食人していたとは解釈しにくい。強いて言えば太古の先祖にまで遡れば食人が行われていた可能性も高い訳だが、殊更その事だけを表現しているとも思えない。やはり、暗喩として解釈するのが妥当と筆者は思う。

 ここでも謎の一つめの考察で記したことと同様のことが言える。裁判官や検事は強い権力を持ち、正義を振りかざす。群衆はそれを鵜呑みにしがちである。確かに船長は自分でも認める通り一定の罪を犯したが、強大な各種権力が必ずしも正しいとは言えないのである。鵜呑みにしがちな群衆は尚更である。そして、歴史が証明している通り、そうしたことの究極として、悲惨な戦争が生じたり大量殺戮が起こったりするのである。それは食人に匹敵するかそれ以上の大罪となる。首の後ろの光の輪にはそういうことが暗喩されていると解釈でき、そこに武田の文学的意図があるものと筆者は考える。


以上 篠田泰蔵 記

◆次回の予定;
  日 時; 2月 3日(土)17時半
  テーマ;「星々の悲しみ」宮本輝 、
      

  

(文学横浜の会)


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