「文学横浜の会」

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評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2020年10月17日


「外套」ゴーゴリ

担当(川島)

外套 投稿者:浅丘邦夫 投稿日:2020年10月 5日(月)15時03分10秒

 ペテルブルグ市民の立場から、太った一匹の子豚を突進させて、憎っくき警察署長をひっくりかえしたり、幽霊が威張った有力者の襟首掴んて、外套奪ったり、クライマックス最高でした。ゴーゴリさんありがとう。痛快、痛快。

ゴーゴリ『外套』の感想 投稿者:篠田泰蔵 投稿日:2020年10月 5日(月)06時09分32秒

 ゴーゴリには多少の縁がある。最初は子供の頃に読んだ児童向け文学全集の中に所収されていた『隊長ブーリバ(タラス・ブーリバ)』(1834)である。活劇的要素が強い作品であると同時に、紆余曲折の末にコサックが祖国ウクライナを解放する内容で、今思えばゴーゴリの内奥にあるとされる愛国心、保守的志向が現れた作品だったと思える。

次の出合いは、ベルリンコ―ミッシュオーパーの、確か2004年またはそれより少し前の来日の際の、ショスタコーヴィチ作のオペラ『鼻』を鑑賞した時である。原作がゴーゴリの『鼻』(1835)。舞台上にとても大きな鼻の着ぐるみだか張りぼてだかが登場していたシーンにインパクトがあって今も脳裏に焼き付いている。

因みにショスタコーヴィチについては、クラシック音楽に夢中になった若い頃に、ソロモン・ヴォルコフ著『ショスタコーヴィチの証言』(1979)を読むなどして一時関心を持ったことがある。それによって、国家の圧力によって本当に追求したい音楽が発表できず、諸作品の中には皮肉や反体制が反映されたものが多々あることを知った。そのショスタコーヴィチは、ゴーゴリの熱烈のファンだったようで、オペラ『鼻』を作るまでに至った。

なお、芥川龍之介がゴーゴリから受けた影響も大きかった。同一タイトルで、しかも内容も類似性のある『鼻』(1916)を発表し、夏目漱石から絶賛され、出世のきっかけともなった。

それほど重要な位置付けにある、このゴーゴリの『鼻』は、荒筋的なことは割愛するが、不合理で前衛的な作品で、それでいて喜劇性の一貫しているのが特徴で、様々な解釈がなされてきた。同じ不合理小説カフカの『変身』(1915)より80年も前の発表であり、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』も1924年発表なので、『鼻』は、その前衛的要素の早熟性に鑑みると驚嘆に値すると言わねばならないであろう。

7年後に発表された『外套』(1842)は、『鼻』と同様、シュールで不合理で前衛的である。そして、やはり共通しているのは喜劇的要素が多分に含まれていることであろう。

しかし、『鼻』と比べて主人公の行く末自体には差異がある。『鼻』では無くなっていた鼻がいつのまにか元に戻って主人公が陽気に美しい女を追い回すことになるのに対し、『外套』では主人公アカーキーが死んでしまうのである。

だが、それで終わらなかった。アカーキーは幽霊となって暴れるのである。そうなると、一見、死という悲劇が逆転して、どこか喜劇性を生み出す展開となる。その点では、やはり『鼻』と似た構造とも言える。

実際、現代の日本人には聊か理解しかねるように思われるのだが、おそらく当時のロシアでは笑えるような展開が随所にあったものと考えられる。

つまり、一方で下層階級の貧しく劣悪な社会を冷厳に風刺しながら、もう一方で喜劇性をふんだんに帯びさせていたと考えられるのである。

そこでは、前述のショスタコーヴィチと類似した、体制からの圧力や検閲を逃れる為の煙に巻く手法が存するものと捉えることも可能であろうし、また、ペテルブルクの都市の下層階級や下級役人のような、酷くしみったれた貧しい人々に対して、完全に突き放し切ることはせず、うら悲しさの中にある寄り添い、同情、温もり感が小説全体に滲み出る効果を生み出しているものと捉えることもできるのではないだろうか。

ところで、『外套』の末尾で、有力者である勅任官の外套を剥ぎ取った後にアカーキーの幽霊が出なくなったのだが、しばらく後、遠くの地域でまた官吏の幽霊が現れるようになったとされ、それがアカーキーとは異なり、「遥かに背が高くて、すばらしく大きな口髭をたてていた」と最後の最後に結んでいる。

この幽霊の正体について、ネットを調べてみると二通りの解釈があり、筆者自身、どちらなのか確信するに至らなかったので、リアル読書会参加者の方々に尋ねてみた。

まず、その解釈の一つは、その幽霊は勅任官から奪った外套に満足したアカーキーの自信を取り戻して変身した姿とする捉え方である。 もう一つの解釈は、その幽霊はアカーキーではなく、外套を奪われつつ亡くなった別な人の幽霊という捉え方である。世の中にはアカーキーのような不幸な境遇の人が他にもいるとする解釈である。

すると、前者と考える人もあれば後者と考える人もいて、出席者の間でも意見が割れた。改めてゴーゴリの解読の難しさを思い知らされることとなった。

筆者は、どちらかと言えば6対4くらいで前者の可能性が高いと考える。 その理由は、後者だと矛盾が生じるからである。それは、「背が高くて、すばらしく大きな口髭をしている」ことは地位や権力や金持ちの象徴なので、そのような人にとっては外套の一着を剥ぎ取られたくらいでショックを受けて病気になって死んでアカーキーのように化けて出る必要などあるだろうか、という疑問である。しかもこの幽霊が「官吏の」と限定されていることや、後日談を最後の最後に付け加えていることも意味ありげで、前者と想像させる効果を生んでいるように思える。

以上、『外套』は、初読だったし、ゴーゴリについて上記の通り、様々な考察をする機会が与えられて非常に有意義であった。

2020,10,5記  篠田泰蔵

ゴーゴリ 外套 投稿者:遠藤 投稿日:2020年10月 4日(日)18時14分44秒

 1842年(日本 江戸時代 天保13年)今から236年前の小説である。 今回は青空文庫で読んだ。

ロシア文学先駆けの小説で多くのロシア作家に影響を与えた。ドストエフスキーは、「我々は皆ゴーゴリの『外套』から生まれ出でたのだ」 と言っている。

この外套は極寒のロシアに於いては必需品であり、身を守る物であり、ファッションの代表である。
何度も修繕をはかり、継ぎ接ぎだらけになっていてもなかなか新調する覚悟が生まれない。それは当時のロシアの下級役人の収入ではよっぽど切り詰めないとできない一大決心が必要だったからである。
何度も修繕がはかれないか折衝するが、断られ、諦め、80ルーブリの外套を新調することを決意する。

なんの楽しみもない日常に於いて、外套を新調するということは、嫌が上でもアカーキイ・アカーキエウィッチを興奮させる。
新しい外套を着ていった日は、職場の人間が祝杯を上げようという盛り上がりみせる。

普段全く目立つことが無く、どちらかと言うとうだつが上がらないアカーキイ・アカーキエウィッチが主役になった瞬間である。
不幸にも、その大事な大事な外套がその帰り道で盗まれてしまう。

警察署や有力者を頼って外套を取り戻そうとするが、下級役人の訴えを真剣に取り合ってくれる人間はいない。
そしてアカーキイ・アカーキエウィッチは恨みながら死んでしまう。
ここからが、この小説の新しいところである。

亡くなったアカーキイ・アカーキエウィッチは幽霊と化し、道行く人から外套を追い剥いでいく。
そしてとうとう、無礼な態度を叱責した有力の元に現れる。有力者はアカーキイ・アカーキエウィッチの事を少し思い出していたのだった。
そしてアカーキイ・アカーキエウィッチは有力者の外套を奪う。
高慢な有力者がそれを機に態度を改める。

「勧善懲悪」とは少し違う。「驕れる者は久しからず」が近いだろうか。
極寒のロシアと当時の貧しさ、娯楽の無さにおいて、わずかな楽しみでもそれがその人の人生を左右するものという教訓を覚えた。

外套 投稿者:佐藤直文 投稿日:2020年10月 4日(日)17時51分5秒

 178年前、1842年に刊行という。日本の天保期、飢饉が続いて大塩平八郎の乱もあったころだ。面白い部分もある小説ではありました。「帝政下のペトログラードに下級役人がいて、書写それも高級官僚宛ての物が生きがいという精神異常者は社会的に冷笑の対象となり、外套を通して事件が起き、これ以上ない卑屈な中に死んでいく。死んだあと、幽霊となって、自分をいじめた者達に復讐をするという笑い話」と受け取った。

 ドストエフスキーは影響を受けたという。読み始めた「カラマ―ゾフの兄弟」における登場人物の心理描写の連続、性格異常の興奮気味の登場人物といった所が類似している。ただ幽霊の話は出てこないと思う。

 幽霊の話は日本では上田秋成「雨月物語」があり、円朝の落語も受けた。

 現代では村上春樹の小説にも魅力ある幽霊がよく登場する。

 これからの小説はもっと、幽霊が活躍していいと思う。大変参考になりました。

外套 投稿者:成合 武光 投稿日:2020年10月 4日(日)10時51分37秒

『外套』 縦社会日本という言葉を聞いたのも、ずいぶん前のような気がします。上位下達はどこの世も変わらないもののようですね。軽い気持ちからの冗談もありますが、いじめ、になる。社会のひずみの犠牲者がいる。貧しい者の恨みは、幽霊になるほかにない。幽霊にするしかない。哀れな話です。長官も幽霊になる。されてしまう。というのが救済である。ここまでは喜劇。だが、長官の幽霊は、拳骨も見せる。下級官吏に味方しているともみえる。味方させていると読む時、やっと、本を閉じられる。そんな感想を持ちました。

ゴーゴリ『外套』読後メモ 投稿者:和田能卓 投稿日:2020年10月 3日(土)13時14分31秒

 結末近く、外套を求めて現れる幽霊に興味を抱きました。深い恨み・因縁がある相手だけでなく、それ以外の者の前にも出現する幽霊。妖怪の特性(化けて出る時と場所・対象を選ばない)を持っている幽霊。巡査に襟髪をつかまれて取り押さえられそうになる、実体を持つ幽霊。これまで幽霊、なかんずく日本の幽霊について抱いてきた印象とずいぶん違うものなのだな、と感じました。この「実体性」がゴーゴリ独自のものなのか、当時のロシアの人々共通のものなのか、機会があれば、ロシアの資料で調べてみたいと思います。

ゴーゴリ『外套』の感想 投稿者:上条満(山下) 投稿日:2020年10月 2日(金)11時20分59秒

 ほぼ半世紀振りに読み返してみて、今回は短篇小説の構成という点で非常に勉強になった。

 構成を起承転結で考えてみると、まず、起の部分は、アカキー・アカキーウィッチ(下級官吏)の人となりとその生活状態の紹介。

 承の部分は、外套を作らざるを得なくなって、苦労してお金の算段をして外套をあつらえて披露するところまで。

 転の部分は、強盗に外套を奪われて、それを取り戻すために有力者(勅任官)に訴えに行くが、さんざん待たされたあげく、却って有力者から怒鳴り散らされてしまい、アカキー・アカキーウィッチは病気になって死んでしまうところまで。

 結の部分は、アカキー・アカキーウィッチを怒鳴り散らしてとまったことを有力者が少し反省して、妾のところに行くときに、幽霊となったアカキー・アカキーウィッチに出会い、着ている外套を奪われてしまい、その後は、部下を怒鳴らなくなった、というもの。 整理してみると、起承はアカキー・アカキーウィッチの言動が中心、転結は有力者の言動が中心に書かれているのがわかる。前半は下級官吏の心理状態、後半は勅任官(高級官僚)の心理が描かれている、ということになる。わざと前半と後半の焦点をずらしてあるとも言える。このことが、小説に深みとリアリティを更に与えていると思われる。

 更に言うと、転では、強盗に外套を奪われるということと、勅任官に下級官吏が怒鳴り散らされるという具体的な一連の事件が起こり、結では、勅任官の心の中の変化という心理上の事件が起こる、という二重に事件を持ってきている。具体的な事件と心理上の事件とを重層的に配置することで、更に作品に深みを与えている。転と結で、それぞれ一つずつ事件を配することが肝要であることを学んだ。

 つまり、作品の構成において、一つの事件だけ起きないと、転までしか展開できていないことになり、結に至らないということである。

 ただ、若い頃読んだときには、結の部分である勅任官の心理上の事件の方にはまったく注意が行かなかったが、今回は、この部分こそ、ゴーゴリがこの作品で強調したかった人間の性だったのかも知れない、と考えるようになった。

 以上が感想です。

ゴーゴリ「外套」 投稿者:藤本珠美 投稿日:2020年 9月30日(水)05時01分12秒

 とてもおもしろい小説でした。

質素で謙虚な生き方をしてきたアカーキイ・アカーキエヴィッチが、必要に迫られて(もう手直しできないと言われて)、外套を新調し、そのあたたかさにも、着心地にも、美しさにも嬉しくなる。普段、夜出歩かないアカーキイが、夜のペテルブルグの輝きに気づいたり、それまでの生活に特に不満はなかったものの、新しい喜びを知るのですが、外套はすぐにうばわれてしまう。

ロシアというと、大きくて寒いイメージがあるのですが、人間的にあつくるしいくらいのパッションを持つロシア人像も感じています。アカーキイが、外套を新調したという、同僚たちにとっては信じられないことであるとはいえ、パーティーに招待したりする、大げさな反応とか、ユーモラスなところなど、ロシア人というのはおもしろいなあと、一括りにはできないけれども、思いました。

ゴーゴリは、ユーモアと愛情を持って、アカーキイを描き出していて、彼をとりまく一見居丈高な人々にも、やさしさがあるということも描いている。アカーキイのような人物は、世の中には結構いると思う。彼のような、目立たないけれども清潔な個性には、好感を持ちます。またロシア文学は、あまり読んでいませんでしたが、文学のなかで、大きな存在なのだなあと考えたりしました。この小説はこれから何度も繰り返し再読するつもりです。ありがとうございました。

ゴーゴリ作 外套 投稿者:金子瑛子 投稿日:2020年 9月29日(火)21時38分20秒

 ロシア文学はあまりなじめないので、熱心に読破したことは今までありませんゴーゴリ作品は題名を少々知っているほどで、読破したことありません。今回良い機会を得た事に感謝します。ロシア語から日本語への翻訳の効果というか、結果にも大変興味をもちました。特に、背景になる社会、そこでの人間生活の在りようなどは書かれている時代が十分に現代離れいるうえに、帝政ロシア期の下っ端官僚の生きざまが原点なので、これを理解しないとこの本はある意味で楽しめるものではないとかんじた。が、作者ゴーゴリのアイロニーに満ちた人間観察、特に下級官吏社会に絞った観察と表現がおもしろかった。時代、背景が変わっても、人間社会での格差というものはおのずから在るもので、それが、このロシアでの下級官吏たちの暮らしざま、そこから生ずる価値観、人生観、そして日常生活の表現に皮肉ーアイロニーたっぷりに描かれており、強く引き込まれた。文体も、選ばれ、使用されている語彙も抜群であり、さすが、文豪作品と打たれた。内容的な鑑賞より、このゴーゴリという作家の文章回しに圧倒され、感服し、感激したと言うべきかもしれない。

特に文庫版60P中の「あのありふれた1匹の蠅をさえ見逃さずにピンで留めて顕微鏡のしたで点検する自然科学者の注意すら惹かなかった人間―――屈辱的な嘲笑にも甘んじて耐え忍び、何一つこれという事績も残さずして墓穴へ去りはしたけれどーー、はたとえ,生きる日の最後の際であったにせよ、それでも兎も角、外套という形で表われてその哀れな生活を束の間ながら活気づけてくれた輝かしい客にめぐりあったと・・・。この文章で作者があらわさんとした、厳粛な人間に対する批判、非難、あきらめ、揶揄のすべてが凝縮されていると感じた。

一般的な日常的な行動や、生き様を描いたものでない、一人ひとりの力ではどうにもならない、ロシアの冷徹な、身分社会をも強くまじまじと連想しうる表現の文体と構成に大変感動した。あのロシア革命の原点はこのような深甚たる思いの中でい築かれていたのかもしれないとふとおもった。

[外套」 投稿者:清水 伸子 投稿日:2020年 9月29日(火)15時53分59秒

 主人公は、外見も官位もぱっとしない万年九等官の役人アカーキイ。来る日も来る日も書類の清書という地味な仕事をしており、若い役人たちにからかわれても、一つの書き損じもなく仕事に専念している。しかし、ひどくからかって仕事を邪魔したときのみ『放っておいてくださいよ、どうして僕をいじめるんです?』という。これらの文句やその声音には不思議な何かが込められており、それを聞いた若者のその後を一変させる。そして、「かくも多くの残忍さが人の心に存在し、かくも多くのひどい粗暴が、教養高き繊細な上流社会や、さらにはああ!気高く誠意にあふれていると世間が認める人にさえ潜んでいるのを見るにつけ、幾度も体を震わすのだった」(P.12〜P.13)

 また「彼ほど自分の職業を生きがいとした人間はおそらくいないことだろう。…彼は情愛を込めていた。この清書という仕事の中に、彼は何だか多彩で楽しい自分の世界を目にしていたのだ。…」(P.13)

 これらの表現を通して、一見さえない人物と見えるこの主人公に作者が寄せる共感が漂ってくる。そのアカーキイが新しく外套を新調するのがどれほどのことだったのか、そしてそれを奪われ取り戻そうとする彼の気持ちがどのようなものだったのか訴えようとしても警察署長は見当違いな質問を浴びせかけ、役所の上官のある重要な人物は、幼なじみに自分の地位権威を見せつけようとして、長時間待たせたあげくに叱責して追い返してしまう。アカーキイは打ちのめされ、吹雪の中をふらふらと歩いて帰ったことが原因で熱病を患い急死し、幽霊となって、あらゆる人から外套をはぎ取っていく…。

 しかし、アカーキイを死に追いやる直接の原因となったある重要な人物も単に非情な人物ではない。叱責して追い返した後に後悔の念にかられ、一週間後に部下を使いに行かせ、いまの様子と何か手を差しのべられることはないかと聞こうとしている。時すでに遅いのだが、登場人物を単に善悪で切り捨てずそれぞれの背景や別の側面も描いていることが、作品の質を高めていると感じる。

 この重要人物の外套をはぎ取った後、アカーキイの幽霊は姿を消すが、なぜかまた別の幽霊が現れるようになる最後の部分も印象に残る。

 アカーキイに起こった出来事は単に彼だけのものではない、この社会では他にも起こりうる出来事なのだということを暗示しているのではないかと私は思った。

 とても読み応えのある作品だった。

「外套」感想 投稿者:石野夏実サトウルイコ 投稿日:2020年 9月28日(月)14時36分52秒

 あらすじは川島さんがきれいにまとめられていますので、感想など。。(など。。には、会えば話したであろう雑談などを少し書いてみました〜)

 ロシアと名の付くものでは、料理、バレエ、音楽、文学(書いたもの順)が好きで、特別枠で絵画はカンディンスキー、映画はタルコフスキーが大好きです。ロシア人の凄さ=頑丈そうな体躯、精神力の強さは、あの厳冬の地が育んだものと思っています。

 モスクワとペテルブルグのどちらが寒いのか?わかりませんが、両地とも9月末頃に雪が降ることもあるらしく(めったにないとは思いますが))、真冬はマイナス20〜30℃になることもあるらしいです。ただし、この二つの都は、都である所以、広大なロシアの他の厳寒の地に比べればおそらく過ごしやすい土地だと思います。

「外套」ですが、ロシアでなければ書かれなかった題材でしょう。無視されたり嘲笑の的になったりしていても、日常がうまく回っている時は、他者を相手にせずとも、己の見つけた小さな幸せ、満足の中で日々を過ごしていくことができるのでしょうが、いったん何かが起きた時、その何かは日常を破壊し大きな不幸を呼び寄せてしまう。何も悪いことをしていないのに、誰にも迷惑をかけていないのに。善良であるが故、人々に振り回されたアカーキイ。あげくの果ては最後の頼みの綱の有力者に、逆に恫喝され気が遠くなってしまった。外套もないまま、大吹雪の中を意識朦朧で歩いて帰り、扁桃腺を冒され高熱を出し亡くなった。可哀想すぎるアカーキイ。ここまでは、やりきれない非情な物語である。死んだアカーキイは自分の訴えを足蹴にした関係者の外套を奪う幽霊になった。

幽霊の話がなかったら暗いだけでしたが、よく言われる落語みたいな「外套奪い幽霊」話で、溜飲が下がりました。

「外套」を読んで 投稿者:金田 投稿日:2020年 9月28日(月)07時03分6秒

 昔、若かりし頃読んだ筈だが、すっかり忘れて、初めて読んだ、と変わらない。
ロシア文学は人名が長ったらしく、登場人物が何人も出てくると辟易した記憶がある。

「外套」の概要は省略して、人間の営みはいつの時代も変わらぬものだと思わせる。
官僚組織の底辺で藻掻く人間と権力を持つ人間、或いは特権意識にあぐらをかく輩との攻防は時代は変われど、と言う事か。

この短編は主人公が古びた外套の修理をしようとする事から面白みを増し、
当時の世相を皮肉り、主人公の内面を抉りながら巧みに描いた、当時としては画期的な作品だったのではないか。

ドストエフスキーが「我々はみなゴーゴリの外套から出た」と語ったそうだが、納得。

改めて読み返すと、人間の本質は変わらぬものだと思わせ、
このような作品が100年以上も前に書かれた事を思えば、如何に衝撃的であったか。

併載されている「鼻」とともに、日本の文芸界にも大きな影響を与えた作である事は間違いない、と思った。

読む機会を与えてくれて感謝!

金田

10月読書会ゴーゴリ作「外套」レジメ 投稿者:川島照子 投稿日:2020年 9月23日(水)07時34分55秒

【「外套」について】

 主人公アカーキー・アカーキエビッチは、ペテルブルグのある官庁に勤める50歳を過ぎた下級官吏である(万年九等官と表現されている)。浄書の仕事に喜びを感じ、身だしなみなどには、注意を払わない。人に軽んぜられても気にせず、つつましい生活を送っている。

 ある日、通勤の折に寒さを感じたアカーキーは、外套がかなり古び、すりきれて外套としての用をなさなくなっているのに気づく。それでもアカーキーはなんとか繕うことで済まそうとするのだが、仕立て屋のペトローヴィチに押し切られてしまう。

 日々のお茶代やろうそく代を節約し、思いがけない賞与の増額もあって、なんとか仕立て代をひねりだすことができた。

 しかし、ようやくできあがった外套は、初めて着たその日の晩に追いはぎに略奪されてしまう。上司が外套の新調のお祝いにと招いてくれたパーティーの帰りであった。

 アカーキーは追いはぎ現場近くの交番の巡査にすぐさま訴えに行くが、翌日、区の受け持ち巡査のところに行くようにと追い払われる。下宿の女主人には、巡査などではなく、区の警察署長のところに行くように言われて翌日、足を運ぶが、何度も追い返されたあげくに「なぜそんなに遅く帰ったのか」と問いつめられ、アカーキーは当惑し、落胆して生まれて初めて役所を休んでしまう。

 翌日出勤したアカーキーに、同僚がある有力者に頼むよう助言する。しかし、その有力者は自分の権威をみせつけたいがために、アカーキーの序列を飛び越えた依頼を恐ろしい態度で叱責する。

 恐怖で意識が遠くなったアカーキーは、吹雪の中をさまよい歩き、のどをはらし、高熱を出し、病状を悪化させて、うわごとを口にしながら、息を引き取ってしまう。

 アカーキーが死んだあと、ペtルブルグのあちこちで、夜な夜な官吏のような風体をした幽霊が、外套を引っぺがして奪い取っていくという噂がペテルブルグ中に広まる。

 アカーキーの死の原因となった有力者も、アカーキーの死に良心の呵責を覚えながらも、少しでも気分を晴らそうと友人たちとの夜会に出かけ、愉快な気分で愛人のもとに行こうとする道すがら、アカーキーの幽霊に襲われる。有力者は自分から外套を脱ぎすて、一目散で家に逃げ帰る。

(感想)

 私が初めて外套を読んだのは、もう30年ちかく前であるが、この短さのなかに、下級官吏の貧しさと哀しさ、いつに変わらぬ官僚や警察などの怠慢を描き出しているのに、驚き感動した。

 ドストエフスキーが「我々はみなゴーゴリの外套から出た」と語ったというのも最もである。

 時代がいまいち判然としないが、わずかにナポレオンがロシアに侵攻したあとであるということがわかる。

 アカーキーが死んだあと、幽霊が出没するのは、復讐劇としてほっとする部分もあるが、時代をはっきりさせないことと合わせて、検閲を通りやすくするためとも考えられる。

【ゴーゴリ(1809〜1852)について】

*1809年、ウクライナのソロチンツィ村に生まれる。
 父親は小地主貴族であった。
 母親は16歳でゴーゴリを出産。宗教的神秘主義者で後にゴーゴリが神秘主義に傾倒していく原因とも思われる。

*1828年19歳で、サンクトペテルブルグに移り、下級官吏の職を得る。この間の経験が、「外套」などのペテルブルグものに生かされている。

*1834年25歳のときに、ペテルブルグ大学の世界史担当教授に任命される。開講の辞を聞いたツルゲーネフらに、大きな感銘を与えるがその後の授業は学生を退屈させ、自分も苦痛を感じたので
*1835年12月いっぱいで退職。

*1836年、上流階級の迫害にいたたまれず、外国に出発。このあと、諸外国を遍歴し、半亡命生活のような生活を続ける。

*1843年34歳くらいから健康状態がすぐれなくなり、精神的にも危機感を強めている。そのせいか、宗教的なものに接近するようになる。

*1852年、狂信的な神父に文学活動の放棄を迫られ、神秘主義的な傾向が増大し、自分の作品が神を冒涜するものと思い込み、「死せる魂」第二部の原稿を焼却したあと、断食に入り、2月21日に悶死する。

*作品
 「タラスブーリバ」、「狂人日記」、「鼻」、「検察官」、「死せる魂」など。
 ・「検察官」は戯曲で、ある地方都市にペテルブルグからおしのびで検察官がやってくるという情報から街に巻き起こるどたばた劇で、ゴーゴリの名声を高めた。

 ・「死せる魂」はプーシキンからテーマを与えられた作品で、農奴制に切り込んだ作品である。
  チチコフという男が、死んだ農奴の名簿を地主から格安で買い取り、それを担保に銀行から金を借り、土地を買って地主になろうというのである。魂というのは、ロシアでは、農奴という意味も持つチチコフが出会う地主たちの死んだも同然の魂という意味合いを持つ。

 第二部で、ゴーゴリはチチコフの改心とロシアの再生を描こうとしたが、ゴーゴリの現実をよく写し出す目には、再生するロシアは見えなかったようで、第二部はうまく行かず、焼却されてしまい、あまつさえゴーゴリは悶死してしまう。

(文学横浜の会)


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