「文学横浜の会」
「掲示板」の内容
評論等の堅苦しい内容ではありません。2020年12月12日
「火花」又吉直樹
<「掲示板」に書かれた内容>
又吉直樹『火花』の感想 投稿者:篠田泰蔵
これまで、テレビの漫才やコントの優勝を競うコンクールのたった一本のコントの爆発的面白さで、
以後ずっと気に掛け続けている芸人が結構いる。
そんな時には、ウェブで配信されている動画も見て他のネタを見漁ることもある。
但し、気に掛けると言っても劇場に通う程のコアなファンとは全く比べ物にはならない。
むしろ普段は、偶々お笑い番組を見ていて気に入っている芸人が登場した際に注視する程度のことである。
腹を抱えて涙が出るくらい笑うことが偶にあっても夢中になるほどではない。
大衆性が強過ぎるとでも言うのだろうか、やはりテレビはテレビである。
筆者としては適度な距離感で接してきたと思っている。そして筆者と同様に、
一億のほとんどの人が、テレビやウェブを通して、
大なり小なりお笑い芸人の面白い芸によって日常的に笑わされていることは間違いないであろう。
そのことは、見方を換えれば、お笑い芸人が生き残る為には、コアなファンからごく一般的な人に至るまでの多様な大衆に、
いかに遍く好評を受けなくてはならないかを示している。
よく言われるところの、芸術と芸能の違いが想起される。芸術と異なり、芸能の場合は、
どんなに独創性があったり奇抜であったりしても、そしてコアなファンが付いたりしても、
概して広範な一般大衆を置き去りにし過ぎた芸風では生き残れない。つまり食べていけない。
お笑いは、独創性と大衆性との妥協点の頃合いを見つけることにこそ妙技がある訳である。
当然と言えば当然の話なのだが、本書では、最初から最後までそのことが大きな主題になっているように窺える。
ある意味とてもメジャーなテーマにも関わらず、作者は、果敢に、大胆かつ丁寧に、取り組んでいる印象を受けた。
まずもって、そのことに拍手を贈りたいと思う。
さて、『火花』が脚光を浴びた頃の今から五年前、しばらくの間、
元々お笑いで人気者だった作者の又吉氏が異様なほどテレビに露出していたのを覚えている。特にNHKが凄く、
各種ドキュメンタリーに加えて冠番組が長く放送されていた、
その幾つかを筆者も見ている。それによって作者の様々なプロフィールを知ったが、当時最も凄さを感じたことは、
お笑い芸人と小説家の両方の大きなジャンルの仕事に対して、本当に寸暇を惜しんで、極めて勢力的に、
真摯に、取り組んでいる姿であった。
今回初読の『火花』の概観的な第一印象も、やはり同様であった。極めて勢力的に、真摯に、
取り組んでいる証が詰まっているように感じられたのである。
その長所は幾つも浮かんでくる。思い付くままに列挙していきたい。
第一に、非常によく人間を観察していることが分かる。神谷に対する人物洞察の豊かさに加え、
作者の分身の要素が大きいと推測される徳永の内面描写が精緻である。
第二に、作者が非常に読書家であることは夙に知られているが、実際、
文章技術が豊富な読書量に裏打ちされていることが伝わってくる。
第三に、貧乏ネタにとても臨場感があるなどの例のように、芸人の駆け出しだったり不遇だったりする時期の様子が、
とてもリアリティを持って描かれている。
第四に、圧巻である終盤の引退前の最後の漫才を始め、作者自身の得意のジャンルであるお笑いネタを、これでもかと、ふんだんに盛り込んでいる。しかも練りに練られていて、どれもクウォリティが高い。そのことによって極めて独自性の高い小説にもなっている。
第五に、矜持でもあるのだろうが、他のジャンルには中々観られない芸人の世界特有の赤裸々な覚悟、凄みというものが見事に描かれている。このことは人間を描くことこそが最重要な文学においてアドバンテージとなっており、小説を益々面白くさせ、否が応でも評価を受けざるを得ないものにしている。
第六に、難読な漢字などがほぼ見られないし、努めて分かり易さを大切にしていることが伝わり、
文章にも小説全体にも虚飾めいたものが感じられない。つまり読者への配慮が行き届いており、
取り組みが非常に真摯である。
第七に、主要登場人物が少数に絞られていて、分かりやすく読み進められる。
こうした点にも日本の近現代の名作文学をよく読み込んでいることが解るし、何度も繰り返しになるが、
真摯さが伝わってくるのである。一見地味だが、筆者はこの長所を特に買っている。
第八に、思いきり笑わせる場面がちりばめられている一方で、辛く哀しい場面も多々盛り込まれていて、
振り幅があり、ドラマ性が豊かである。
第九に、分かり易い側面を持つと同時に、謎めいた箇所も散見されることである。名作文学の多くがそうであるように、
謎めいた箇所があると、物議を醸し出し、結果的に小説の格調を上げる。
この件について典型的な一例を挙げておきたい。それは最終盤の神谷の豊胸手術である。本文を読む限り、
あくまでも過激なボケということになっている。つまりLGBTの気配は微塵も語られていない。
しかし手術までするというのは、現実の一般的社会ではほぼLGBTの人が行うと考えるのが常識ではないだろうか。
因みに、もしバイセクシャルならば同居女性がいても何ら不思議ではない。
いや、むしろ神谷はそうした女性に愛想をつかされているのだから男としてどうなのかという疑問も有している。
以上について、だからどうということではない。しかし、もし神谷がLGBTだったとするならば、ある種のどんでん返しを生み、小説がより一層の文学的な重厚感を持ってくる効果が生まれる。
なぜならば、破滅的で最後は大借金までしている神谷の抱えている闇が、いよいよ理解の範疇を超えてくるからである。
そして同時に、そのことをも包括して憧れ続け、根の部分で温かな眼差しを向けてきた徳永と本書の作者又吉氏が、いかに崇高なまでの優しさを有していることか、ということに繋がってくるからである。
第十に、主要登場人物を通じて、独創性(または芸術性)と大衆性との妥協点の頃合いをどうするかについての苦悩が
一貫した小説のテーマ、基軸になっていて、小説に重み、深みを与えている。
以上の一方で、非常にハイレベルの小説に対して不遜な気もするが、敢えて一つだけ短所と感じたことを述べる。
女性の描き方についてはやや実在感が乏しく一辺倒な気がした。神谷と同居する女性が二人登場する中で、
終盤に登場の由貴についてはかなり脇役的なので人物描写が少ないのは仕方ないとして、
前半の真樹については登場場面が多く、徳永も非常に気に入っている様子なのだから、
もっと性格についての奥行き感を表現して欲しいところであった。
真樹の仕事は、元々がカラオケのバイト、次にキャバクラ、
そして実は仕方なく風俗嬢をしていたという設定になっているが、会話等から読み取れる限りの性格は、
繊細でひたすら優しい、まるで清純な乙女のようで、やや一辺倒な印象を受けた。
そもそも仕方なく風俗嬢をやっているとされる事も蓋然性が乏しく思われた。風俗嬢への寄り添う気持ちは分かるし、
そういう型があって然るべきなのかも知れないが、それならばそれで、
一般的に風俗嬢が持つネガティブなイメージとのギャップを埋める、
もう少し奥行きのある丁寧な人物描写が欲しいところであった。
長所、短所については以上である。
芸術と芸能の違いについて前述したが、芸術の場合は複雑多様である。やはりほとんどの場合、
経済が絡むことは変わらない訳だからファンが必要で、芸能と共通する側面も多々ある。
しかし、芸術はコアなファンさえいれば生き残ることは可能である。そこは大きな違いであろう。
それに、極端だが、無名だったり評価されていなかったりする芸術家が亡くなってから見直される例のように、理論上は全くファンがいなくても芸術活動それ自体は成り立つ。だから、細々と他の仕事で食べて行きながらでも芸術は可能である。
作者は、その芸術の有するところの言わば品格めいた特性が、お笑い(芸能)にも当て嵌まるのではないか、
ということを最終盤において投げ掛けているように、筆者には読み取れた。
本書の最後で、お笑いを引退してしまうことを徳永が神谷に伝えた際に、
神谷が「……何をやっても芸人に引退はないねん」と言い、徳永も「ありがとうございます。
……どんな環境に行っても、笑いで、ど付き回していきます」と応えている。
この部分は、「お笑いにも芸術的な側面が十分にあるのだ」という作者の矜持にも似た主張、投げ掛けが見られ、冒頭からの本書テーマの行き着いた先として格調の高い見事な締め括りである。
何となれば、他の仕事をしていてもコツコツと続けていけば芸術が成り立つのと同様に、磨き上げてきたお笑いのセンスを何らかの形で活かしていけるのであれば、そこにお笑いは息衝き続けるのである。
そのことは、敷衍して、お笑いを含むあらゆる芸能、
延いては芸術やスポーツ等のあらゆる文化的ジャンルの専門的仕事を断念せざるを得なかった多くの徳永のような人たち、
即ち淘汰されていった人たちに対するエールともなってくる。
2020,12,7記 篠田泰蔵
「火花」感想 投稿者:佐藤直文
一次選考では書出しとラストだけをまず、チェックするという。熱海の沿道を擬人化した書出し、
ラストが豊胸手術のなされた美しい乳房を揺らす男。凝りに凝った描写は評価できるがラストの胸には嫌悪感があふれた。
ちょっとしたグロテスクは味であるがあまりにもひどい。
作者のサービス精神が過剰で人におもねることになってしまったと思う。
漫才では巨人阪神が好きだが、この小説は前半から後半まで、ダレたところもあるが、
二人の漫才を小説にした面白さがあった。笑いに人生をかける生活が新鮮だ。
漫才の笑いは二人のズレ、勘違い、ドタバタを取り出し、やさしさとみじめさで包んで、ちょっとした安堵や、
希望で終える形式が好きだ。
何故か、ラストは三島由紀夫の肉体を連想させた。過剰サービスは漫才から来たものかとも思いました。
、
火花の感想 投稿者:成合 武光
今回読み終えて「太鼓の太鼓の御兄さん」という声が、今も聞こえています。
これが「火花」の理想であろうと思います。3年前に読んだときは、漫才の掛け合いだけのようだと思った。
渋谷からの電車の中で読んだのもあろう。、疲れていたからかも知れませんが、しんどいと思った。
最後まで読んだかどうかも覚えていませんでした。今回読み直して、感動しました。素晴らしい作品です。
著者の漫才人生をすべて語っていると思います。
太鼓をたたき続けてきたその苦しみと、その苦しみの中から得た言葉が、多くの人に共感を呼び起こしたのだと思う。
ツツコミとボケの意味を考えるのは疲れますが、その言葉の世界を創るのは、火花を散らしての闘いだと。
貸してくれた傘を差す。誰もがしていることですが、言われてみると、心温まります。いい本でした。
『火花』は今回パスします。 投稿者:川島照子
今回の読書会『火花』はパスします。
私もこの作品が芥川賞を取ったときに、一応読んでいるのですが、とても自分とは異質な感じがして、
頭にも心にも入ってきませんでした。
今回、再読のチャンスかもと思いましたが、心身ともに余力がなくて、読み返そうという気力が湧いてきません。
また元気なときにチャレンジしてみようかと思います。
石野さん、ごめんなさい。
火花 投稿者:藤村格至
花火、火花、スパークス。そして小説のタイトルは「火花」。
登場人物のキャラクター設定、物語の展開等、本作品に対する感想は読者によって相当異なるものと思われる。
小説の冒頭、熱海で開催された「人間の生み出した物の中では傑出した壮大さと美しさを持つ花火」大会の片隅で、無反応で通り過ぎる人々を相手に、ベニヤ板を数枚重ねただけの簡易な舞台の上で漫才を演じる「スパークス」。
小説の最後は再び「花火大会」の場面。企業が打ち上げた壮大で美しい花火の後に、一個人が打ち上げた地味な花火に対して群衆の心に芽生えた小さな「火花(スパークス)」が、万雷の拍手と歓声として表現されている。
本作品は、壮大で美しい「花火」と対比させ、独特の才能に恵まれながら、一瞬で消える「火花」のように華やかな表舞台から姿を消していく多くの芸人の心の機微を、硬質な文体で表現した物語と捉えることもできる。
しかし一方で、「花火」のような壮大さ・美しさは望むべくもないが、何気ない日常の簡易な舞台の上で「神谷」と「徳永」との間で繰り広げられる「火花」散る会話、渦巻く感情の突沸を、かなりの痛みを伴いながら描いた物語と捉えることもできる。
漫才という芸の世界のとば口で激しい「火花」が散っている。
『火花』を読んで 投稿者:山口愛理
『火花』の単行本刊行時に立ち読みした私は、書き出しで少し戸惑った。
「熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残りを夜気で溶かし、
浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている」とある。文学的だなとは思うが、
ここは擬人法にしなくても「〜浴衣姿の男女や家族連れで賑わっている」で十分なのではないか。
そんな引っ掛かりを抱えて帰ってから読み始めたのだが、
物語が進み後半に入るにつれてすっと文章が頭に入ってくるようになり、以降は一気読みだった。
天才的で奔放だが意外と小心な面もある神谷と、自分が凡人ではないかと迷いを抱えながら神谷を慕う徳永。
二人は独特で繊細なセンスで繋がり信頼し合っている。漫才という場が真剣勝負であることを、
現役の著者でなければ書けない筆致で描いている。
相方との最後の漫才のシーンを経て、芸人を辞める徳永。借金を背負っても、売れなくても、
なお新しい何かを掴もうとする神谷。どんな道を選んだとしても、成功でも挫折でもない世界で、
自分の生き方を貫こうとする二人が潔かった。
ちなみに、神谷が豊胸手術をする下りの是非は芥川賞選考委員会でも意見が分かれたらしい。私はあってもいいと思ったが、これに反応する徳永がやけに普通すぎて説教じみているのは気になるところだった。
私は映画版『火花』を観ていないので何とも言えないが、NHK衛星放送のドラマ版『火花』は凄く良かったと思う。
先ず神谷役の波岡一喜がはまり役。徳永役の林遣都は初め綺麗すぎて表情が乏しいなと思ったけど、
それが徳永なんだと思えたし最後の方の漫才もうまかった。
ラストシーンもほぼ小説のままで、冒頭と同じ熱海の花火の下で、
はしゃぐ二人から引いていくカメラワークも秀逸だった。
「火花」感想 投稿者:金田清志
以前、読んだ時の感想は
お笑い芸人が多くのテレビ番組に出てくるようになったのはそれほど昔ではない。
テレビへの出演頻度が多くなると、そうした世界に憧れる若者が増えるのは自明の事で、競争は益々激しくなる。
外部からは一見安易な世界に見えるが、
この小説ではお笑いタレントの独特・特有の世界の中で藻掻く若者達を見せてくれた。
この作品はお笑いタレントブームによって注目を集め、話題になった作であるのは間違いない。
多くの若者がお笑い芸人を目指すが、成功するのは限られた一部で、多くは挫折するのだが、
つまりこの小説ではお笑い芸人を目指した若者の挫折を描いており、
普通の人間が生きて行く上では異質、別次元でものだと思う。
最も、若者の情熱はどんな時代にもあり、何に情熱を傾けるかはその時代のブームにもよるだろう。
「火花」は現代のお笑い芸人を目指す若者の情熱を見せてくれたのだと思う。
そういう意味では青春小説のようにも思えた。
又吉直樹『火花』の感想 投稿者:上条満(山下)
まず、第一に感じたことは、この作品は私小説を方法化した小説であること。芸人が芸人のことを画のであるから、
私小説的手法がもっとも効果的だと作者は考えて、自覚的に私小説を方法化することを意識して書いたのだろうと思った。
私小説の方法化によって、文学的リアリティを確保できたし、読者の関心を集めることもできた訳で、
これに成功したことが芥川賞の受賞に繋がったのだと思う。
ただし、作者はこの作品が私小説として読まれないように、虚構を組み立る努力を払っているようである。
「神谷」という芸一筋に生きる破滅型の人物を設定して、
この「神谷」と「僕」との交流と断絶がこの小説の核になっているが、
これらの人物には、私小説を方法化したときには必要不可欠であるとも言えるモデル隠しの努力が払われている。
二つ目には、この作者の文体の重厚さである。この作品の文体は、日本的自然主義文学の伝統を引きずった、
ユーモアの欠如した重苦しい文体になっている。これは、たとえば、
同じように芸能界に生きるミュージシャンの恍惚と悲哀とを、
ヨーロッパ的な上品なユーモアのある軽快な文体で描いたカズオ・イシグロの『夜想曲集』と比較すると、
その差は歴然としている。
こういう重厚な文体で200枚以上も書き続けるのは、相当強靱な体力と粘着質的な拘りがないと無理だろうと感じた。
再び火花 投稿者:浅丘邦夫
又吉さんは、外見とは別に、内面は相当したたかと思いましたね。太宰のある作品、人間失格だと思うが、
100回読んだという。私は多感な青年時代、太宰を読んで、その魅惑的な魅力に、取り憑かれそうになった。
破滅的、敗北的な。こりゃいかん、自戒して太宰から、距離を置くことにした。
しかし、火花を読み、映画劇場を観て、太宰の破滅的、敗北的な傾向は、全くない、見られない。
むしろ反対だと思えた。太宰の良い面だけ吸収したんだな、大したものだ、したたか、立派と思いましたよ。さすが。
火花を読んで 投稿者:藤本珠美
少し前になりますが、お笑い芸人ピースが注目され始めたとき、又吉直樹さんが文学好きということで、
取材されている番組をみたことがあります。又吉さんはその時、本は2千冊読んだと話されていましたが、
好きな作家はとたずねられると、太宰ですと即答だったのが印象に残っています。
太宰治は、テーマは本当に重いと思うのですが、作品の中にかなりおかしい、笑わざるを得ない文章がたくさんあり、
まじめにきちんと読もうと毎回思いますが、やはりおかしくなってきます。
お笑いの中で、一世を風靡するジョークやセリフがあっても、少し時間がたつと、
それはさほどおかしくならないものですが、太宰治のおかしさ、面白味は長い時間を経ても、
やはりおかしくて笑ってしまう。たぶん奥さんと子どもたちとの、質素な毎日の暮らしでも、
おかしなことを言っては家族を笑わせていたのでしょうか。
話をもとにもどすと、『火花』という作品はとてもおもしろかったのですが、同時に軽やかな文章で、
哲学を語っているように思いました。
それは前半は、天才肌の芸人、神谷との交流のなかでの、お笑いという芸についての哲学のように思ったのですが、
後半へ至る中で、神谷と主人公との関係のなかで、人間そのものについての考察がなされ、
主人公のなかで解き明かされてゆくいろんな疑問が、哲学書みたいに、そしてわかりやすい哲学書みたいに読めて、
とてもおもしろかったです。
一番印象に残ったのは、ネットへの書き込みを気にするかどうかというくだりで、主人公は気になると言いますが、
神谷の誹謗中傷する人も、もしかしたらそうして一晩やりすごしているのかも知れないという一言でした。
そこには罪を犯してしまう人への、人間的なやさしさがあるような気がして、感動的な一文でした。
又吉さんは芸能人のひとりであり、この小説のなかでも、この主人公はおそらく又吉さんご自身に限りなく近く、
そして主人公は有名な芸人になりつつある。韓流スター、日本の俳優、いろんな人たちが、
よくない噂をたてられて、自ら命をたってゆくことへの、悲しい感情ということがあり、
誹謗中傷することのなにがそんなにおもしろいのかとも思いますが、それは犯罪だと思いますが、
やるせなさをどこへもっていけばいいのかわからない人がいて、命を絶つ人への、罪を犯す人への、
二重の悲しさがある。神谷の一言にそんなことを考えました。
本当に哲学書のように思ったのですが、わかりやすい哲学書のほうが、重い本のような気がして、
哲学書は本来はとてもシンプルなように思うのですが、この小説にもしそういうエッセンスがあるのだとすれば、何度も読んで、その本質を知りたいなあと思います。
的外れな意見になってしまいました。
この小説が出版されたときから読みたかったのですが、なかなか読むことができませんでした が、、今回、読み、
味わう機会をいただき、感謝いたします。ありがとうございます。
「火花」感想 投稿者:清水 伸子
ずいぶん以前に1度読んだ時はそれほど印象深くはなかったのだが、今回読み返してみて、
いい作品・好きな作品だと思った。
前半の神谷の漫才論の理屈は分かりにくかったが、文章を楽しみながら読み進むうちに小説の世界に引き込まれていった。
好きな女性のひものようになって暮らして結局破局し、
後輩に常におごり続けながら1千万もの借金を作ってしまう"あほんだら“そのものの突き抜けた生き方をする神谷。
彼にあこがれながら、決してそんな風には生きられない自分を冷静に見つめ続ける徳永。
この二人の間に通い合う愛としか呼べないような感情、
だからこそ正面から向き合おうとするときにはじける火花のような激しさが好きだ。
そして漫才の世界で生き続けて行くことの過酷さを知るほどに、そこで生きようとする彼らの思いに胸を打たれた。
昔、関西の劇団に研究生として所属していた頃まわりにいた仲間たち…アルバイトをしながら役者を目指し
キラキラあるいはギラギラしていた…の事を思い出した。
又吉直樹 「火花」を読んで 投稿者:遠藤大志
ここのところ石野さんが又吉直樹に嵌っているようで、映画好きの集いでも彼の「劇場」がテーマに挙げられ、また文学横浜第52号でも彼の作品と映画との関係を論じた「文学作品と映像化」が寄せられた。
そのいずれも携わり、自分もまた又吉直樹という作家&漫才師に傾倒した1ヶ月を送った。
又吉直樹という作家を自分が一言で語れば、漫才師や劇団員という才能(タレント)によって生き抜く世界の光と影を確かな文章力で語れる人物ということである。
多くの人間が憧れはするものの、いざ自分がその世界に紛れ込みたいとは思わない。それは何故か?
一か八かの世界で、恐らく成功できないと思うからだろう。そういうことからすると、この世界に飛び込もうとする人間は、相当な自信を持っているか、身の程をわきまえない勘違い野郎のどちらかとなる。
本作「火花」の主人公徳永は後者だと思う。
そして神谷は前者だろう。
気後れする徳永は、才能の塊の神谷に憧れ、弟子になりたいと言う。そこから全く対照的な二人の10年間の付き合いが始まる。
漫才師の神谷や「劇場」の永田はその世界でしか通用しない、異端児である。
神谷は借金に塗れ、好きな女を幸せにするよりも、漫才の事を優先する。
永田も、劇団の事が最優先であり、好きな女を真剣に愛することはできない。
又吉直樹という作家は、こういった異端児がもの凄く好きで、憧れているのである。
すなわち、又吉は徳永そのものである。又吉の視線、視点、考え方がそのまま火花に投影されている。映画では菅田将暉が徳永を演じていたが、イメージは又吉の方がしっくり合う。
やがて、神谷は自らの才能にブレが生じ始め、胸にシリコンを入れ、本来の自分の「べしゃり」や「間」の面白さを喪失させていく。師匠と仰いだ男は、単なる借金取りに追われ、逃げ、自己破産し、男女と化してしまうのである。今度は徳永が神谷を救う番である。
二人ともにプロ漫才から足を洗った形だが、素人漫才大会に出ようと盛り上がる。
ここでは肩に力を籠めなくてもいいし、客の反応に一喜一憂しなくてもいい。そして再び「笑い」について純粋に取り組めるのである。
最後に、映画版の神谷は桐谷健太が演じていたが、ドはまりで、関西弁や言い回しはドラマで観る桐谷以外イメージできないほど相似している。
又吉直樹には次作で「普通の世界」の人間を描いて欲しい。彼が普通の世界の人間をどのように表出させ、描き切れるのか? それにより吉本後援芥川賞の汚名をそそげるかが掛かっていると思うのである。
火花 投稿者:浅丘邦夫
芥川賞の作品を読んでつくづく思うことがある。新しさと売れそうな、この二つだ。火花は、このさ、と、な、を完全に満たしている。作者は、太宰が大好きらしい。私は太宰を意図して避けた。太宰病に感染しそうだったから。作者は、太宰のある作品を百回読んだという。抗体を作った。敗北的なところは捨てた。彼の映画、劇場を観て、つくづくそう思った。漫才には、ボケとツッとコミの二役がある。ツッコミは誰でもできる。ボケは難しい。味が必要た。日常会話で、さりげなく僕がツッコミ、師匠に受けさせた。会話に温かい流れを作っている。良いところだ。
12月読書会「火花」 投稿者:石野夏実サトウルイコ
12月読書会テーマ 又吉直樹「火花」 2020.12.5 担当 石野夏実
<「火花」を選んだ理由>
新しい方も増えましたので自己紹介を兼ねながら少し書きますので、お付き合い下さい。
会員になり、約9年になりました。入会してしばらくすると、年に一度ほど読書当番が回ってきまして、自分が当番になる時は、芥川賞受賞作or受賞作家の他作品から選ぶようにしました。経済や政治の本(専門書ではなく新書の類い)の方が好きで、小説は今でもそれほど多くは読まないからです。ですから、当番を契機にその作家について色々勉強しようと思いました。過去に、丸山健二、中上健次、重兼房子、西村賢太、村上龍、町田康、永井龍男、中村文則を取り上げました。芥川賞作品に拘る理由は、日本の純文学であること、長編ではないこと、瑞々しい文体と個性に触れられることなどです。新しい発見と共感は、私の読書の最大の楽しみでもあります。
ということで12月の読書本は、又吉直樹の芥川賞受賞作「火花」にしました。受賞したのが2015年(第153回H27年上半期)ですので、もう5年以上経ちました。私は芥川賞が発表されるとそれが掲載されている文藝春秋の特別号を買うことが時々あります。作者や内容に興味を持った時です。
又吉の「火花」は前評判も高く、さっそく9月特別号を買ったのですが、一度サーッと読んだだけで終わってしまいました。元々、漫才にあまり興味が無かったため、場面のイメージが膨らまなかったことが一番の原因だったと思います。
その「火花」が破格のベストセラーになり、翌年、Netflix(米国の定額動画配信サービス会社)で10話連続、9時間近くのドラマが作られました。そのドラマをNHK編集版で観たのですが、俳優、映像、音楽、演出全てにおいて、あまりにも面白く素晴らしかったので、改めて原作を読み直しました。
又吉が太宰が大好きで心酔していることも知りました。現役時代の漫才のyou tubeを何本か観ましたが、家庭教師や学校話がネタの下品さがない良質の漫才でした。
この夏、「文横映画好きの会」では又吉原作の行定勲監督作品「劇場」の発表当番になり、忘れていた又吉の小説に再び向き合うことになりました。ドラマ「火花」(DVD5枚)と映画「劇場」(Amazon primevideo)を傍らに置き、今回の文横52号は「文学作品と映像化」という随筆に挑戦しました。映画の会、同人誌、読書当番、合計三度の発表の場を得ることになり、今年後半は暮れまで又吉一色になってしまいました。
<又吉直樹プロフィール>
またよしなおき=1980年6月2日生まれ、40歳。大阪府寝屋川市出身。高校時代までサッカーに打ち込んでいた。大阪のサッカー名門の北陽高校卒。70〜80人いるサッカー部に所属し、体は華奢ながら足が速く持久力もあった。2年生からトップチームに入り、3年時にはスタメンで副キャプテンを務め、インターハイにも出場した。卒業後は吉本総合芸能学院(NSC)の東京校に入学。23歳でNSCで同期の織部祐二とお笑いコンビ「ピース」結成。下積みが長く30歳くらいからやっと売れるようになった。吉本興業東京本社所属。「火花」で第153回芥川賞受賞。小説として「火花」「劇場」「人間」(毎日新聞連載後、単行本)等。随筆は「東京百景」「夜を乗り越える」等。
<あらすじ>
大阪出身で東京の事務所に所属している漫才コンビ「スパークス」の徳永は、まだ新米で20才。その徳永の「僕」の語りで物語は進行する。相方は中学からの同級生、山下。
夏のある日、ふたりは熱海の花火大会に漫才の仕事で呼ばれて、瓶ビールケースの上にベニヤ板を並べただけの簡易舞台に立った。横からの音を拾わないマイク。ほとんど通行するだけの花火大会の観客。むなしく最悪の夜だった。
その会場で、4才年上の大阪の事務所に所属している漫才コンビ「あほんだら」の神谷と知り合いになった。
徳永は、神谷の型破りで強烈な個性に圧倒された。帰りにその神谷に飲みに行こうと誘われ、芸人の先輩もいない小さな事務所の徳永は、初めてのことで嬉しかった。徳永は神谷に心酔し弟子入りを申し込んだ。神谷は承諾し師匠になったが、その条件は神谷の伝記を書くことだった。
1年後、神谷と大林の「あほんだら」は上京し、これ以後、神谷のいいところもダメなところも間近に見ながら20才からの10年間を過ごしていく徳永であった。
「スパークス」は、少しずつ人気も出てテレビにも出られるようになったが、長くは続かず、出演していた番組も打ち切りになり、徳永は自分の漫才の限界を冷静に受け止めるようになっていた。コンビを組んでいた山下は、結婚を機に漫才からの引退を徳永に伝えた。ふたりはコンビを解消し、徳永も芸人を辞めることにした。ふたりの最後の引退舞台の掛け合いは、一世一代の会心の出来栄えだった。神谷は涙を流しながらひっそりと客席から見届けていた。
その後も、神谷と大林の「あほんだら」はいちども売れることはなく、神谷は借金を重ね逃げ回り自己破産をし事務所も首になっていた。
徳永が、下北沢の不動産屋の営業マンになってから1年が過ぎた。ひとりで飲んでいると神谷から携帯に連絡が来た。
久しぶりに会った神谷は胸にシリコンを入れ巨乳になっていた。悪気はなくキャラ的に面白いだろうという単純な理由からだった。
*引用::p144相変わらず風景に溶け込めない神谷さんに引き摺られ、僕達はその場から切り取られた空間の中で、そこにある乳房を憂い、十年を越える季節を思い、ぼやけた焦点の定まらない視界のまま、一瞬とも永遠とも思える間、周囲を憚らずに咽び泣いていた。
正月休み、徳永は神谷を誘い熱海へ温泉旅行に出かけた。熱海では、1年を通して何回か花火大会がある。旅行の夜にも、花火が上がった。10年前に初めて一緒に行った居酒屋を再訪した。旅館に戻り素人参加型の「熱海お笑い大会」の参加ポスターを見つけた神谷はどうしても出たいと言い出し、部屋に併設の露天風呂に浸かりながら漫才を作る。
旅館の受付で借りたボブ・マーリーはエビシンゴノビーオーライ(Everything`s Gonna Be Alright)と世界に向かって歌い続けている。神谷は全裸のまま「徳永、とんでもない漫才思いついたぞ」と美しい乳房を揺らしながら飛び跳ね、やかましいほどに全身全霊で生きている。頭上には泰然と三日月があり、その美しさは平凡な奇跡だ。
生きている限りバッドエンドはない。僕達はまだ途中だ。これから続きをやるのだ。(終)
<感想>
小説は最初の数行で読者の心をつかまなければならない。。それには、導入に相応しい最適な語句と最高の表現を駆使し、読者を誘わなければならない。。と又吉は思っていると感じた。実に硬派な純文学の人である。私はこの「火花」の練りに練った書き出しが好きである。
|