「文学横浜の会」
「掲示板」の内容
評論等の堅苦しい内容ではありません。2021年07月05日
ダイヤモンド・ダスト 投稿者:成合 武光
『ダイヤモンド・ダスト』の感想 成合武光
物語作り(創作)に長けた作者だ、と言われる浅丘さんの感想に同感です。
文庫本p70「和夫の涙は・・松吉の顔を見る方がつらくなって・・」とあるのが私にはしっくりしない。読み物から借りてきたような語りがしました。とてもクールですね。
死が日常的になったとき生と死の狭間をどう考えるか。南木(作者)は鬱になったと語っています。医者であるだけ深刻だったろうと想像します。私も知人や身内の訃報が多くなってきたとき、今自分はどこにいるのだろうと分からなくなったことがあります。
マイク、松吉、悦子、妻の俊子、どの人物も劇的です。最後の壊れた水車の傍に倒れていた松吉、降るダイヤモンド・ダスト。歌舞伎や演劇での最後の舞台、緞帳が静かに降りてくる。大団円を思わせます。物語としても素晴らしい。
ダイヤモンド・ダストをテレビの画面で見たことがあります。とてもきれいでした。
2021、0703
「ダイヤモンドダスト」南木佳士、感想 投稿者:金田清志
以前この小説は読みました。上手に書かれているな、との印象しか残っていませんでしたが、今回改めて読んで、
上質な小説を読んだ読後感を改めて感じました。
ここに投稿された皆さんの読後感と同様な感想です。
以前に読んだ時にはどうしていきなり水車作りになるのか合点がいかなかったのですが、再読して、その背景も認識しました。松吉は廃線が決まった電気鉄道に客を呼ぶために、各駅に水車を作ろうとした事をマイクに話していたのだ。
この小説にはバブルに翻弄される地方が背景で、死、運命(或いは定め)、恋愛感情等が配置され、それらが川の流れのように自然に流れていく。
しかも深追いせず、淡々と運命の流れに任せるように。
それは多くの普通の人間の日常ではないだろうか。
『ダイヤモンドダスト』を読んで 投稿者:藤本珠美
登場人物のしずかな生き方、自分に与えられた運命をうけとめていくかのような生き方が、美しいと思った。
いま配置されている場所が間違っていると感じても、それはその存在の圧倒的な場所である。
主人公の、香坂への尊敬と反発、とても興味深かったが、どちらもしずかな感情の内にあることが、人間の変わらぬひとつの生き方のように感じられた。
ダイヤモンドダスト 投稿者:杉田尚文
夕刊で読む作者の随筆を楽しみにしている。今週のタイトルは「雨の露天風呂」だった。その一節、「山麓のホテルの露天風呂に入って、白樺の新緑を見上げた顔に雨が降ってきた。雨滴が湯面に無数の小さな柱を作り、波紋を広げている。むかし、他者の死に多く接する医療現場の最前線にいたころ、身内は常にこんな状態だったか」
作者の本は初めて読んだ。いつか読みたいと思っていた。
信州の別荘地に住む和夫の父松吉は、一握りの畑を売却しただけで、20年以上食っていける金を手にする。松吉は雑木林も売って電鉄の運転手を辞めヤマメ釣りを職業にしたが、岩場で転んで半身不自由になる。隣地の幼馴染、悦子は秋から冬はカリフォルニアに住み、春から秋を別荘地でテニスのコーチをして暮らす、この生活も、土地を売却して大金を得たからである。主人公の和夫は看護師で、病院で多くの死に直面しているからか、猫背で鬱気味である。再会した悦子に「陰気な歩き方」とからかわれる。幼時の薪を背負った悦子と、目の前のコート上の悦子が同一人物とは思えない。
春の雪解けのテニスコート上に現れた悦子は和夫にとっては、ジュリアナのお立ち台の女性のように元気一杯で生きる希望となる。バブル期の別荘地にふさわしく悦子は皆で水車を造ろうという。水車は松吉も夢見たふるさと創生を象徴しているようだ。冬、マイクと松吉が死に、悦子は去り、和夫は割れた水車を前に息子と立ちつくす。この小説は、バブルの崩壊を予知していたのかも知れない。芥川賞の選考委員の誰も知らなかったが、誰もが少し気になっていて厳冬期の水車の破壊の物語を選んだ。
本来の水車は動力機械だが、ここでは目で楽しむ遊具、観光資源らしい。
小生もよく覚えている。この小説が書かれた当時は、どうして景気がいいのだろうと不思議だった。それはやがて解った。昭和通りに面していれば、一坪一億円で土地は買われた。銀行はその土地を担保にお金を貸した。銀行員は成績のため、貸付競争を行う。不動産バブルの仕組みだった。バブルが崩壊し、多くの人が苦しんだ。最終的に公的資金が投入されて経済は息を吹き返した。
大蔵省接待事件、ふるさと創生、狂乱のバブル経済の時代である。横浜でも、みなとみらい、シーパラと各地で開発競争だった。その後今に続く、バブルがはじけ、不動産不況、景気低迷、リストラ、就職氷化期はまったく想像できなかった。
その後はバブリーな人は一握りで、多くの人は大なり小なり火傷を負った。
作者は当時の肺癌治療の医師で治療の甲斐なく死ぬ患者を見てきた。他人の死にストレスが蓄積する中で、発散させようと小説を書いたが限界を超え、受賞後、悲鳴を発し鬱病になる。
和夫の死に対する距離が近く、日常的に死があり、やがて自分も死んでいくという諦観に満ちていて、悦子を見る目は余裕がない。見られる悦子の目の描写はないが、和夫を病的であると感じて逃げ出したのであろう。厳冬期の別荘地での水車の修理より、とりあえずカリフォルニアでのデザイン教師の仕事を選ぶ悦子の選択は当然と思った。
バブル破綻後の今、和夫も息子と雨の露天風呂に入っているのだろうか。
以上
「ダイヤモンドダスト」を読んで 投稿者:中根雅夫
南木佳士の作品は今回が初めてです。医者が小説家として実績をあげている例は少なくないことは周知の事実ですが、「ダイヤモンドダスト」、「冬の順応」を読んで、南木の医者としての経験や知識は必ずしもストレートには顕在化せず、しかし医者としての立ち位置からの南木の内省や人の生死への問題意識が登場人物に反映されていることが強くうかがえる作品だと受け止めました。
事実、南木は、「医師としていつも死を見つめている。それに“慣れ”てしまってはいけない。残った人にとって人の死はどういう意味があるのか、改めて死を考えてみたかった」と述懐しています。また、「死んでいく人を身近に見る。それを暗くならないように書くのが基本。書くことで人の死とは、生とはを自問する」とも述べています。
読後感として、「ダイヤモンドダスト」も「冬への順応」も、いずれもある種の温もりを覚えるのも、南木の意図に沿った作品だからなのだと思います。
「ダイヤモンドダスト」感想 投稿者:石野夏実サトウルイコ
南木佳士作「ダイヤモンドダスト」感想
今回の読書本「ダイヤモンドダスト」は、芥川賞の節目である第100回受賞作品に相応しい無駄のない硬質な純文学の小説であった。
主人公は、保育園児のひとり息子正史を、右半身まひの父親松吉と共に暮らす中で育てる看護士の和夫。この一家は、2代続けて妻に先立たれ、男手で息子を育てた(育てている)男所帯だ。
正史の成長くらいしか楽しみがない日常の中で、隣家の幼馴染で高校まで同級生の悦子がアメリカから帰って来ていた。1年を日本とカリフォルニアで半年ずつ交互に生活する悦子は、おそらく地元では目立つ存在なのであろう。
脳卒中で倒れ3か月後に退院した松吉は、正史の送迎を再開していた。その様子を見かねた悦子は、正史の保育園の送迎を買って出た。その後、松吉は台所で脳卒中の再発を起こして再入院。悦子は食事の支度までしてくれることになった。
幼馴染という以上に互いに好意を持っている様子は、恋が始まる予感もしたが、そうは成らなかった。体が不自由な父親と就学前の息子、踏み切れない和夫の心情を素早く悦子は汲み取っていたのだろうか。あるいは彼女の方に事情があったのかもしれない。
これは最後の方でわかることだが、カリフォルニアに望んでいた就職口が見つかり戻ると言う悦子に「ちょっと待ってくれよ」とか「なんとかならないかな」と和夫は食い下がったが、悦子の決心は堅かった。
この地域は、大規模な別荘ブームに乗って、土地持ちの地元住民達(農家)は成金になる者も多くいた。悦子の余裕のある暮らしぶりも、それから来ているのだろう。
和夫が小4の時、看護婦であった母は、肝炎で亡くなった。(医療事故による劇症肝炎)地元電鉄の運転手であった松吉は、電気鉄道が廃止される時期に妻の死もあり退職した。 ひとりで和夫を育てながら、上手く別荘ブームにも乗り大金も手にしていたが、医学部を目指す和夫が高3の時、松吉は仕事にしていたヤマメ釣りの沢で足を滑らせ頭に大きな損傷を負い右半身が不自由になった。
早すぎる母の死から、頼りない人の命を相手にする仕事に興味を持った(文中のまま)和夫は、父の不慮の事故のため(文中=人の命の頼りなさのため)夢は崩れた。
松吉に後遺症は残り、医師志望の和夫は、自宅から通える医学部が近隣にはなかったので、進学をあきらめ、看護士になるため隣市の看護学校に通った。
和夫は地元の病院に就職し何年かが過ぎた。テニスの合宿で骨折し入院した東京の短大2年生俊子と知り会い、彼女が卒業した秋に結婚した。(俊子の20歳そこそこの結婚は、当時でも早い方だろう) 1年生の時にすでに俊子は、左腕の動脈周囲に悪性腫瘍が出来て手術していた。ひとり息子の正史が4歳になった秋、俊子の腫瘍は肺に転移していて、東京での化学療法も効果なく和夫の勤める病院に転院し20日ほどで亡くなった。
作者は、恋の描写はここでも大して書いていない。それよりも、死に向かう日々の中で俊子が語ったことの要約や、和夫の心情(妻が死んだというより死の予感に裏打ちされた短い人生を、それなりにしっかり生きた共同生活者が去ってしまったのだと和夫は思った。だから、時が経つにつれて悲しさが増した)と小説の中では書いている。
あとがきで実際には地方の病院に勤める医師である作者は「あるがままを受け入れ、無理をしない生活、簡素で平凡な暮らし、それは足が大地に根付いている地方の生活」と書いている。外面だけでなく、内面までそのようにありたいと願う作者にとって、書くという行為は、内面の浮き上がろうとする足を大地につけさせるための自己検証の作業だったとも書いている。
小説の登場人物で、小細胞癌で死にゆく宣教師マイクの存在は、大きい。同室に入院した松吉の人物像も浮き上がらせ、物語を読み進ませた。
自宅に水車を作る話は、松吉の最後の大仕事であり皆で作り上げ、それを見届け悦子は去った。
枯葉が積もる頃には支柱も芯棒も摩滅が進み気味の悪い音を立てだして、松吉の最期が近づいていた。
12月半ばの早朝、霜の下りた芝生の上での松吉の死と共に羽根板にまとわりついた氷の重みで芯棒が壊れた水車の哀れな最期。そこから舞い上がるダイヤモンドダスト。
水分が微粒子に昇華し立ち上がりキラキラと消えていった瞬く間の命。
生きて死んで命をつなぐ。死を受け入れながら「生」を生きる。与えられた「生 」を気負うことなく全うする。無常、諦観、、、思いつく言葉は、儚い。
「ダイヤモンドダスト」感想 投稿者:清水 伸子
ずいぶん昔、多分この作品が芥川賞を受賞した頃一度読んだ記憶はおぼろげだが、読後感は悪くなかった気がする。
今回改めて読み返してみたが、ストーリーとしては地味でサラッと読んだ一度目の感想は可もなく不可もなくといった感じだったが、感想文を書くために結局三回読み返し、その度に味わい深くなっていくことに気が付いた。
時代の移り変わりの中で、金銭的に豊かになった面と、その代償のように失ってしまったものが静かに描かれている。そして父松吉、息子和夫の二代に渡って妻を早く失い、黙々と男手だけで息子を育て仕事する日々の生活は一見同じように幸せ薄く単調に思える。悦子の存在が彩を添えるが、恋愛と言うほどの盛り上がりもなく、結局彼女はカリフォルニアにいってしまうのは、当然な気がする。悦子は自分らしく人生を切り開いていく力を感じさせるが、それに対して和夫は優しいものの自分の仕事や生活をより良いものにしていこうとする気概は感じられない。
松吉が倒れて入院し、同室になったマイク・チャンドラーという型破りな宣教師の存在が、死と生の意味を静かに教えてくれる。彼の言葉を通して松吉の人生…田舎の道をゆっくり走る電車の運転手…地味だがまっとうな人生が浮き彫りになる。そして松吉は水車を作ると言い出し、悦子も力を貸して家族全員で完成させる。水の力だけで回る続ける水車はやはり松吉のイメージに重なる。松吉は無意識に大切なものを家族に伝えようとしたのかもしれない。
最後の場面で芯棒が二つに折れた水車と松吉の死、そしてダイヤモンドダストは松吉の良く生きた人生をたたえるようだ。
南木佳士『ダイヤモンドダスト』メモ 投稿者:和田能卓
人の生き死にのモチーフが明滅するにもかかわらず、格別はげしい起伏を感じさせることなく、静かに展開するストーリーに好感を抱きました。
ところどころの医者らしい叙述に「やはりな」という思いが湧きました。しかし、医学部志望で進学を果たせず、看護学校に学び、現場で研鑽・経験を積んだ主人公を描き出すには相応しいものと納得できました。
悦子の少女時代の胸や現在の腿を目にする描写が出てきて、これらの妙なリアルさが、作品に花を添えていると思います。
終わり近く、和夫が悦子に「なんとかならないかな」と言っていますが、この言葉には、和夫の悦子に対する幼馴染としての思い、現況になっての再会に発した想いなどが重なっていて、心に沁みるものを感じました。
作者の南木佳士が勤務している佐久総合病院は1979年8月に福永武彦が永眠した場所で、本作品を読みながら感慨深いものがありました。
ダイヤモンドダスト 南木 佳士著 を読んで 投稿者:遠藤大志
今回藤村さんが幹事で、この南木佳士という作家と初めて出会うことができました。ありがとうございます。
医師が小説を書くとどうしても医学的見地から患者を見たり、作者はそんなつもりはないかもしれませんが、上から目線を文脈から読み取れてしまい、読み手も患者目線になってしまいます。
推測するに、作者が務めているのが長野県の田舎にある佐久総合病院だからかもしれません。
「ダイヤモンドダスト」ですが、長野の風土がストーリー全体をゆっくりと和やかなものにしています。
反面、いい人ばかりが多すぎて刺激がほとんどない。
もっと人がいいのが、悦子である。隣人の幼馴染であるわけですが、いくら独身で悠々自適な生活が送れると言っても、ここまで献身的に面倒をみるというのは恋愛感情が無いとできないと思います。が、そういうアプローチもなければ、最後失恋したわけでもなく再びアメリカに渡っていく。結局何が目的だったのか? と感じてしまうのは、都会に住む心が穢れた読み手の邪推だろうか?
本作の良さは、松吉とマイク・チャンドラーとの同じ病室内での交流だろう。
その話の核となるのが、ファントムと電気鉄道とのスピードの対比とそこから見える景色のそれぞれの良さだろう。水車を作るというのが最後の親子の共同作業であり、それは勢いよく回るが、霜が降りた朝、氷の力に負けたのか水車の芯棒が中心近くでふたつに折れている。そして松吉は息絶えている。そこにはその土地で見られるダイヤモンドダストが松吉の魂のように舞い上がっている。
多少の物足り無さを感じさせるものの、読後感は心温まる気持ちにさせてくれる小説である。
ダイアモンドダスト 投稿者:浅丘邦夫
(何かあったら、すぐ看護婦に言ってください)と、介護士の和夫がマイクに言う。しかしこれは普通は医師のいうセリフだろうと思う。このたぐいの、違和感は、随所に見られる。介護士の視点で書かれた作品だが、老練冷静な、医師の視点に思えてならない。終始、視点について私は、違和感が残つたが、気にするほどのことは無いのかもしれぬ。気にしないにする。
ダイアモンドダスト 投稿者:浅丘邦夫
松吉は寡黙な農夫だ。実行力があり、黙々と物事を完成させる理想的な男だ。マイクは末期がん患者だ。ベトナム戦争ではファントム戦闘機に乗ってミサイルを撃ったという。戦後は、自身の持っていている超小型ミサイルで、女を撃ちまくったという。こんなヤクザな自称宣教師が実在するだろうか。しかし、この二人は、妙にリアリティがある。対象的だが、実に印象的だ。生き生きしている。実に良い。作品全体が生きた。
ダイアモンドダスト 投稿者:浅丘邦夫
完成度の高い作品だと皆が揃っていう。私も、確かにそう思う。模範とすべき優等生の作品と私は確かに思う。芥川賞の中でも、完成度の高い方だろう。だが優等生のどこが面白いか。と、敢えて、ひねくれて問いたい。和夫という介護士の視点で書かれている。が、あれは教養の深い高度な医師の冷静な、客観的な視点だ。私の知る介護士は、皆もっと俗物だ。その代わり、人間味があって面白味があり、共感がある。作中で共感が持てたのは、父の松吉だ。それと、ヤクザな、宣教師のがん患者のマイク、あんないい加減な宣教師がいるのかな、しかし、人間味があってリアリティがあって、楽しかった。松吉とマイク、実にいい。
ダイアモンドダスト 投稿者:浅丘邦夫
老来、私は本はざっと読み、断片的に読み、又さっと読み返す。若いときのように、いつきにと言うわけにいかない。今回、南木氏は、医師で死を客観的に、又主観的に見つめる作家のようだ。前の平野氏は、生を超越的に見つめた。私とは何かを問い、分人主観を唱えた。恐ろしく対象的な二人。内容も、前は華美で、今度は、いぶし銀のようだ。私は死を、自称、分霊主義と捉えている。死ねば、霊は、霧のように散り、他と混じり合い、又集合する。その繰り返し。さて、ダイアモンドダスト、読み進もう。
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