「文学横浜の会」
「掲示板」の内容
評論等の堅苦しい内容ではありません。2021年09月07日
読書会のまとめ 『マイ・ロスト・シティー』 S・フィッツジェラルド
この作品が心に残ったのは、NHKドキュメンタリー『映像の世紀・第3集・それはマンハッタンから始まった』(平成7年度版)からの影響が大きい。
かねてから、アメリカ現代文学の持つエッセンスには、大きく「負ける」ということと、「感傷的」ということとがどこかにあるような気がしていた。
この『映像の世紀・第3集』では、新興国として世界の中心になってきたアメリカ合衆国が、どこまで登りつめ、そして頂点に立とうとする寸前に、虚しさへと堕ちていかなければならなかったのかが語られている。ここに描かれるアメリカを体現する作家の一人がフィッツジェラルドではないかと思う。
ボブ・ディランがノーベル文学賞を授与されたときのコメントで、「自分がアメリカ文学の流れのなかにいること」について語っていたが、アメリカはよくヨーロッパ人に言われるようには、歴史も文化も薄いわけではなく、あるいは薄かったからこその文化も必ずあると考える。
2019年のクリスマス・シーズンの東京は、きらびやかだった。美しかった。
東京駅の前の通りから、物静かではあるが煌めくデコレーションの光がつづき、私が関東に出てきた三十年前よりも、ああ東京は本当に成熟した大都会になったんだなあと感慨深かった。そしてあと半年すれば、オリンピック・パラリンピックが開催され、東京の煌めきは頂点に達するのだと思った。
けれどどこか不安めいた感情が、私のなかにはあった。
松本清張のドラマ、映画をみていると、(悪事をおこなって、ではあるが)頂点に登りつめようとする人物は、あとほんのすこしで手に入れられたはずの場所から、直前で転がり落ちる。なぜなのかわからないが、彼の作品はそういうパターンがものすごく多い。
私が2019年の12月、東京である不安な感じをおぼえたのは、(東京は、悪事をおこなったわけではないが)このまま頂点へいけるのだろうかということだった。
しかしこのとき、コロナ禍を想像できたのは、いたとしてもほんの一部の人たちでしかなかったと思う。
そしてそれから一か月もせず、テレビニュースのほとんどが、コロナのことになった。
なぜあのまま、オリンピック・パラリンピックへと頂点へ向かっていけなかったのか。
こういった感覚は、アメリカ文学、殊に若くして自分の欲しかったものほとんど全てを手に入れて、それでもなにかに急がされるような状況のなかに生きて、そしてヨーロッパ式の虚無ではなく、「アメリカの虚無」のなかに沈んでいったフィッツジェラルドの作品によくみられるもののような気がする。
『華麗なるギャツビー』を読んでいないので、登りつめていくアメリカの人々の、その姿はわからないのだが、フィッツジェラルドの後半の人生は、虚しさ、絶望感が、作品によくあらわれている気がする。
世界大恐慌のあとの作品として、『マイ・ロスト・シティー』『ジャズエイジのこだま』などの随筆がある。また短編小説のなかにも、このエッセンスは多くみられる。ある怖さ、世界大恐慌がアメリカのこの作家にもたらした人生の転落、精神の荒廃、そういったものごとをよく描いている短編小説として、『失われた十年』という作品が、個人的には特に心に残る。
世界大恐慌により、負けをはじめて知り、挫折していく人々の感覚を、この『失われた十年』は、数ページのなかに、「恐怖感をもって」描いた作品だと思う。殊に、その登場人物たちの立ち位置が、世界大恐慌を経験したがいま立ち直りはじめている人物の目をとおして、この怖ろしい体験のなかで異空間に逃げ込んだ人物が描かれており、そこもまた印象的である。
NHKドキュメンタリー『映像の世紀・第3集』で引用されるのは、フィッツジェラルドの文章では、『マイ・ロスト・シティー』、『ジャズエイジのこだま』からなのだが、
自分が若くして欲しいものすべてを手に入れた人間であり、これ以上幸せにはなれないのだと感じる一文、世界大恐慌に向かいながら、何かの不安を感じながら、でも浮かれ騒ぎをやめられなかった人々(おそらくその浮かれ騒ぎも、すでに空虚だったのではと推測するが)が、空を飛んだリンドバーグについて、空という逃げ道があったのかと虚しく考えるという一文などが、このときの人間の心理、そして感覚を深く表現していると思う。
そして、この絶望感から逃れるために前を向くということではなく、この虚しさに浸りきる、その生あたたかいやさしさがフィッツジェラルドの作品にはある気がしており、けれどもその逃げ道も、したたかなしっぺ返しをしてくることがある、そこも描かれている気がする。
ヨーロッパの虚無は「頽廃」であり、アメリカの虚無は「負けたあとの虚しさ」であると考える。1950年代くらいから、今現在も描かれ続ける、「アメリカン・ニュー・シネマ」の作品によくみられる感覚ではないだろうかと思う。
『マイ・ロスト・シティ』をテーマにしたきっかけは、アメリカ文学のなかに立ち現れる、「むなしさ」「はかなさ」「やさしさ」をひとつのテーマとして考えてきたことにもよるが、2016年、ボブ・ディランがノーベル文学賞を授与されたときのコメントの内容によるところも多い。
「学校の教室で教えられ、世界中の図書館に置かれ、敬意を込めて語られてきた文学の巨匠たちの作品には、常に深い感銘を与えられた。そのようなリストに名前を連ねることになったことは、まったく言葉で言い表せない思い」という内容が含められているが、アメリカ文学の流れのなかには、「ロストジェネレーション」、「ビート二クス」(アレン・ギンズバーグ、ケルアックなど)、また音楽と共に詩の側面で評価が高い「オリジナルパンク」(パティ・スミスなど)、といった文学もあり、そこになぜか「負けたあとの虚しさ」、そこから堕ちてゆく、荒廃していくエッセンスが存在するような気がする。そしてその逃げ道として、「やさしさ」「ゆるされること」があるような気がしている。この部分について、自分でも掘り下げてみることを続けたいと思う。
「堕ちてゆくとき」に闘いつづけることだけでなく、ぬるまゆい「やさしさ」に逃げ道を見出しても良いのではないか。そこで安らいでも良いのではないか。しかしそういうとき、最もやさしいものとして、人間に近づいてくるドラッグ、アルコールなどは、ある一点からシビアな態度を人間に対して現わしてくる。フイッツジェラルドはそこから這い上がれなかった作家かも知れないが、そこには彼のあまりにも早すぎる成功があり、そして成功者としての彼の中に、すでに「虚無感」があったのではないか。この作家の特徴として、『マイ・ロスト・シティ』に含められたこの一文はなにか大きな虚しさを、読者に与えるような気がしている。
皆様の貴重なご意見、ご感想を、どうもありがとうございます。
9月4日のリアル読書会でも、いろいろな発見がありました。
フィッツジェラルドの作品の持つ、「怖さ」みたいなものがずっと心の中にあったのですが、今回の読書会で、作家本人が主人公であると思われる作品も、誰か作者以外の登場人物に語らせる、という構成が多いというご意見が多くあり、私がフィッツジェラルドの作品に感じてきたこの「怖さ」は、そこから表出されている感覚かも知れないと、新たな考え方、とらえ方を教わった思いでいます。
石野様、宮脇俊文さんのホームページをご紹介いただいて、どうもありがとうございます。とても興味深い内容でした。
本当に多くの貴重なご意見に、感謝しております。
どうもありがとうございました。
読書会資料
『ジャズ・エイジのこだま』からの引用
1927年の春、ある明るい,見なれぬものが光を放ちながら大空を横ぎった。同世代の若者とは全く無縁だと思われるミネソタの一青年(リンドバーグ)が英雄的なことをしたのだ。そして、しばらくの間、人々はカントリー・クラブやもぐり酒場に望遠鏡を据えて、古い最良の夢を思い出した。空を飛ぶことに逃げ道があるかもしれない。わたしたちの倦むことを知らぬ精神は果てしない大空にフロンティアを見つけるかもしれない。だがその頃までに、わたしたちは、かなりのっぴきならぬところまできていたのだ。しかもジャズ・エイジは進行していた。だがわたしたちはみな、もう一度機会をもつだろう。
『マイ・ロスト・シティー』からの引用
もうひとつだけこの時代ではっきり覚えていることがある。私はタクシーに乗っていた。車はちょうど藤色とバラ色に染まった夕空の下、ビルの谷間を滑るように進んでいた。私は言葉にならぬ声で叫び始めていた。そうだ、私にはわかっていたのだ。自分が望むもの全てを手に入れてしまった人間であり、もうこの先これ以上幸せにはなれっこないんだということが。
1896年 ミネソタ州 セントポール市に生まれた。両親は共にアイルランド系の家系。
ゼルダとの出会い
アラバマ州モントゴメリー付近のキャンプ・シェリダン滞在中に『ロマンティック・エゴティスト』の執筆を開始。
1919年2月、陸軍を除隊するとキャンプ滞在中に出会ったゼルダ・セイヤーと婚約。
ニューヨークで広告代理店に務めコピーライターとして勤務した。しかし彼の生活力に疑問を抱いたゼルダは婚約を解消してしまい、7月に勤務先を退職し、セントポールの両親の家へと戻る事になった。
セントポールでフィッツジェラルドは家の一室にこもり、『ロマンティック・エゴティスト』の推敲に心血を注いだ。書き上げられた作品はスクリブナーズへと送られ、その価値を認められた。
翌1920年3月に『楽園のこちら側』と改題され出版されると、この作品は高く評価されると同時にベストセラー入りした。4月には再び婚約していたゼルダとニューヨークのセント・パトリック大聖堂で結婚した。1921年には娘のフランセスが誕生。
ジャズ・エイジ
1920 『フラッパーと哲学者(英語版)』Flappers and Philosophers
フラッパーのイット・ガール女優クララ・ボウ。美人でグラマーというより、なんとも言えず醸し出される色気が、「それ=it」と表現された。
1920年代は間違いなくフィッツジェラルドが最も輝いたときだった。
しかし、内容が明快で多くがハッピーエンドであったこれまでの短編と大きく違った重厚なストーリーは、支持層であった若い読者にはあまり歓迎されず、フィッツジェラルドが期待したほどの売上にはならず、彼は落ち込んだという。『グレート・ギャツビー』は、1930年代には絶版になった時期すらあり、名作として不動の評価を受けることになったのはフィッツジェラルドの死後10年以上経ってからであった。
この頃、執筆の合間をぬってヨーロッパへ旅行している。パリや南仏のリヴィエラでは、アメリカを抜け出してきたアーネスト・ヘミングウェイ 1899 - 1961 らと出会っている。またヘミングウェイの作品への、助言などもしていたという。
フィッツジェラルドは小説を書くことに関しては真面目な人間であったが、ニューヨークの社交界におけるゼルダとの奔放な生活を満たすほどの収入は得られなかった。そこで彼は、日刊紙や雑誌に短編小説を書きまくり、自身の小説の映画化権を売って生活費を稼ぎだしていた。彼は生涯にわたって金銭的なトラブルに悩まされており、しばしばマクスウェル・パーキンスなどの編集者から原稿料を前借りしていた。
大恐慌以降 ― ハリウッド時代
1931 『ジャズエイジのこだま』
1920年代の終わり頃から4つ目の長編に取りくみ始めたが、生活費を稼ぐ為に収入の良い短編を書かざるを得ず、執筆は遅滞した。
1932年にゼルダはボルチモアの病院に転院し、フィッツジェラルドは一人で家を借りて長編小説に取り組み始めた。この作品の主人公である、若く将来を約束された精神科医ディック・ダイバーは彼の患者であった富豪の娘ニコルと恋に落ちる。不安定な妻に翻弄され転落していく主人公を美しい文章で描いたこの作品は、『夜はやさし(英語版)』と題して1934年に出版された。しかし恐慌下のアメリカでフィッツジェラルドは既に過去の人となっており、作品の売り上げは芳しいものではなかった。絶望から次第に彼はアルコールに溺れるようになっていった。
1930年代後半のフィッツジェラルドは、借金の返済とスコティーの学費を稼ぐためにシナリオライターとして映画会社と契約しハリウッドに居住した。ただ、これは脚本書きとしての技能というより、映画界がトーキーへの移行期で脚本家を多く必要としていた事や、過去の功績を買われての部分が大きかったという。仕事の合間をぬって短編小説そしてハリウッドを舞台とする長編小説を書きためていった。
東海岸の療法施設で生活するゼルダとは疎遠になっており、スコットは愛人シーラ・グレアムと生活していた。この時期、彼は自身のことを「ハリウッドの雇われ脚本家だ」と自嘲していたという。一方ユダヤ系イギリス人のシーラは、名家育ちのゼルダと対照的に孤児院で育ちながらも、美貌と才能を武器にして無一文から成り上り、渡米後にハリウッドスターのゴシップを新聞に執筆していた売れっ子ゴシップコラムニストだった。ゆえに晩年は、かつてはアメリカの頂点にいたベストセラー作家が、金銭的には恵まれてはいるものの物書きとしてのポジションは底辺であるゴシップコラムニストの愛人シーラに経済的に養われるという状況であった。
死去
アルコールが手放せず、健康状態が悪化していたフィッツジェラルドは心臓麻痺を何度か起こした。最後の小説を執筆中の1940年12月21日、フィッツジェラルドは再び心臓麻痺をおこしグレアムのアパートで死亡した。
最後の長編は未完成のままに終わった。ウィルソンは彼が書きためていたプロットを整理し、1941年に『ラスト・タイクーン』として出版した。
ゼルダはノースカロライナ州アッシュヴィルの療養施設に入所していたが、1948年に起きた施設の火事によって亡くなった。ふたりの遺体は現在メリーランド州ロックヴィルの墓地に埋葬されている。
『ノーベル文学賞を受賞することは、わたしがこれまで想像も予測もし得なかったことでした。学校の教室で教えられ、世界中の図書館に置かれ、敬意を込めて語られてきた文学の巨匠たちの作品には、常に深い感銘を与えられてきました。そのようなリストに名前を連ねることになったことには、まったく言葉で言い表せない思いです。
わたしの行動のすべての中心にあったのは、わたしの「歌」でした。わたしの「歌」があらゆる文化を超えて多くの人々の人生に居場所を見いだしたように見受けられることに感謝しています。世の中には400年経っても決して変わらないことがあるものです。「わたしの歌は文学なのだろうか?」そう自分に問うた機会は今まで一度もありませんでした。したがって、スウェーデン・アカデミーには、まさにその「問い」について考えるお時間を割いてくださったこと、そして、究極的には、このような素晴らしい「答え」を出してくださったことに感謝しています。』 Bob Dylan
マイ・ロスト・シティ 投稿者:成合 武光
マイ・ロスト・シティ 読後感想
素晴らしい感性と才能、能力のある作家のようです。羨ましいですね。作品はこの一冊しか知りませんので、感想も想像です。見当違いがあるかもしれません。勘弁してください。
紀伊国屋文左衛門は最期に何と言ったか知りません。杜子春の最期は母の所に帰って行った。敦盛は「見るべきものは見つ」と。信長は敦盛を好んだ。
作者と親しいと言われるヘミングウエイ、「海と老人」の老人は、海を見ている。「ロスト・シティ」はニュヨーク。・・なにか近いものがあるような気がしました。
宝くじに当たると、人生が変わる。人間が変わる。と聞きますが、一度でいいから当たって欲しい。羨やましい。・・凡人には遥かな夢です。
この一冊だけでは、定年退職者の手柄話のようだ。とも、青春の見果てぬ夢物語のようにも想いました。「祭りの後も風情あり(徒然草)」とも言うようです。
マイ・ロスト・シティ 投稿者:石野夏実サトウルイコ
9月読書会本「マイ・ロスト・シティ」感想
スコット・フィッツジェラルド作、村上春樹訳の文庫本「マイロスト・シティ」を2か月近くも手元に置いたまま、今月に入って最後の同名エッセイだけを読むことが出来た。
実は「文横映画好きの集い」で管理人氏がフィッツジェラルドの代表作「グレート・ギャッツビー」映画題名は「華麗なるギャッツビー」(2013年ディカプリオ版)の感想を7月中旬に書かれていたので、1974年のレッドフォード版を映画館で観てはいたが、こちらも観てみたいと早速プライムで鑑賞したのであった。そして、その後さぼって感想も書かずに今日にいたる。
1920年代の豪華絢爛バブルの宴の乱痴気騒ぎが、ある日突然音を立てて崩れ落ちたのは1929年秋、株価の大暴落から始まった。色々なものを読むと世界大恐慌はすでにその予兆があったと思うが、破滅するまで降りられないのは人の業である。
1920年からの10年間がフィッツジェラルドが最も活躍し脚光を浴びた時期であり、それは大恐慌前のアメリカの10年間と見事に重なる。
村上春樹の序のエッセイは読みやすくフィッツジェラルドへの愛があふれていた。
出来上がったばかりの最新かつ最高の摩天楼エンパイアステートビルの頂上から見たNYシティは、果てしなく続くビルの谷間ではなく四角の先端を見渡せるただの街。私=フィッツジェラルドは、思い出だけを残して失ってしまった蜃気楼を思い嘆くだけである。マイ・ロスト・シティ、そのままマイロストシティ。
今、拾いました&一読の価値あり=原作者スコット・フィッツジェラルドってどんな人?──成蹊大学教授(日本フィッツジェラルド協会前会長)宮脇俊文さんに聞いた | GQ Japan
「マイ・ロスト・シティ」感想 投稿者:清水 伸子
村上春樹のフィッツジェラルドに関する前書きのような文章がとても興味深かったです。そして、この作品を読み終わった後には、物悲しさと共に、キラキラと光る何とも言えぬ美しさが心に残りました。
『マイ・ロスト・シティ』について 投稿者:山口愛理
1979年、村上春樹のデビュー作に驚愕した私は、当時彼の志向を追ってレイモンド・チャンドラー、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガット、トルーマン・カポーティなど、彼お薦めのアメリカ小説を読み漁った。1981年に出たスコット・フィッツジェラルドの『マイ・ロスト・シティ』ももちろん読んだ。だからこの本を読むのはほぼ40年ぶりになる。
正直に言って、カポーティは即座に私を魅了したのだが、フィッツジェラルドはそうでもなかった。カポーティの文体や巧さに比べ、フィッツジェラルドは素朴すぎる感があった。それでも『偉大なるギャツビー』の中の、対岸にいる彼女に思いを寄せるギャツビーの姿には妙に惹かれるものがあったのを覚えている。
ロスト・ジェネレーションと呼ばれるこの時代の若い作家たちの中にあって、フィッツジェラルドはゼルダと共に濃く短い私生活と文筆生活を送った。その実生活そのものが『マイ・ロスト・シティ』に表れている。文化の華開いた狂乱の1920年代から30年代のニューヨークやパリ。その華やかな生活を描く筆は意外と地味で素朴で実直だと感じる。それは虚構とも言える世界を、ひとつ突き放した時点から俯瞰しているからではないだろうか。それこそが優れた小説家の持つ視点だと言える。
40年ぶりに読み直してみて、ここに収録されている小説のすべてが良いと思えた。じわっとした味わいの残る小説群だ。40年前の懐かしさもある。当時コピーライターをしていた私は忙殺される仕事の合間に村上春樹の小説や翻訳本に癒されていた。そして数年後ニューヨークを訪れ、ハドソン川を渡る船の上で自由の女神を観ている時、大好きなビリー・ジョエルの『ニューヨークの想い』が船内に流れるのを聴いた。そんなことも蘇った。
文横ではほぼ唯一のハルキストと思っている私だったが、翻訳者とはいえこの本を課題図書として選んでくれて嬉しく思う。
S・フィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティー』 感想 投稿者:金田清志
まず、フィッツジェラルドという作家は知りませんでした。
「掲示板」を開いて多くの書き込みがあり、読んで参考になりました。
今回のテーマは「マイ・ロスト・シティー」という事で、
このエッセーを読んだだけでも、担当者(藤本さん)が取り上げた理由(2.から5.)で述べている、「繁栄から虚無へ」の構図、或いは虚無感がにじみ出ているように感じました。
当方、作者の作品はここに載っている短編以外は読んでいないのですが、「マイ・ロスト・シティー体験」(村上春樹)を読んで、なんとなく作者の作風が判ったような気持ちになります。
余談として
担当者(藤本さん)が取り上げた理由(1.)で、
成程、面白い視点と思いました。
日本の場合は「敗戦」とは言わずに「終戦」と言いますし、総括どころか責任も有耶無耶で、何事も「まぁまぁ」。
『アルコールの中で』に。 投稿者:和田能卓
チビチビ与えられたり、瓶に少量を渡されたりしても、酒が酒を飲んでいる状態では足りない、とても満足できない。大量に大量に、大酒を気が済むまで、頓死するように眠り込むまで飲みたい。飲み続けて死ぬなんて考えもしない。とことん飲んで、もう躰が酒を受けつけなくなって猛烈に吐き、強烈に下痢し、心身ともに絶望を感じて二度と飲むまい、と誓っても、またそれを繰り返す。
その間、もし傍らに誰かがいるというならば、それも辛抱強くあたたかく接してくれたなら、酷い連続飲酒は止まり、生命・精神の危機から彼は脱せるだろう。
体内から完全にアルコール分が抜けるまでの長い日々。食べ物を見ただけで吐き気を催すだろう患者。ベッドに倒れ込んだまま死体のような彼を責めず、寄り添って優しく世話を見、甘えさせたならば・・・彼も立ち直れるのに・・・彼女には、もっともっと忍耐が必要だったのだ。
マイ・ロスト・シティー 投稿者:浅丘邦夫
藤本様
killersですから、同じと思いますよ。
「マイロストシティ」読後感 投稿者:金子えい子
この本が今回のテーマと知らされた時、正直驚いた。
今をさること30年前1990年頃、私はこの町にしばしば出かけ、貿易業らしきものを営んでいたからである。
都市工学的に言えば、素晴らしい理想の元で、理想の具現、具象化として建設された近代都市であったが、それを心底享受し、暮らした人たちがいたのかどうかわからず、今だもって不可解なのである。その当時はすでに第2次世界大戦もアメリカの大勝利に帰し、好景気で、多民族(実際数多の流民、異国籍者のるつぼ)が暮らし、それなりの秩序はあったろうが、敗戦国日本の商人としては、決して長くとどまりたい、まして暮らしたいなどとはこれっぽっちも考えたことはなかった。
その街中にあって、時流に乗り、うまく泳いで、泳ぎ切った人も集団も沢山あったろうが、この作品の著者のようにうまく処せず、苦しんだ人達も数多あったはずであろう。
作者は作家として成功する前に、経済的にも苦しい生活をすごしてきた中で混乱、猥雑な成功者の中から、じっと移り行くNYの様を見続けていて、エンパイアステートビルに象徴される繁栄の致命的な誤謬を感じ、しかしそこから逃れることもできず暮らしている己の姿に、ややもすれば、皮肉な批判を課して、NYを見つめる心境がおもしろく描かれている。
金子瑛子マイロストシティ
マイ・ロスト・シティー 投稿者:浅丘邦夫
藤本様、調べますと、バートランカスター主演、ヘミングウェイ原作とあります。藤本様、おっしゃる通りですから。
マイ、ロスト.、シテイ 投稿者:浅丘邦夫
藤本様
バートランカスターのは、存じませんが、よく演劇にされます。一幕ものです。短編でも短い方です。昔、私の所属していた、アマチュアの小劇団でも、取り上げたことがあります。
読書会に向けて・・・ 投稿者:藤本珠美
ヘミングウェイの『殺人者』は、文学横浜の会の読書会でテーマになった『殺し屋』と同じ作品なのでしょうか。
フイッツジェラルド 投稿者:浅丘邦夫
悲しさ、正、寂しさ、誤り、
フイッツジェラルド 投稿者:浅丘邦夫
フイッツジェラルドからは、大都会のなにかしら哀歓を感じます。華麗と喪失、ラブとロストの側面に。ヘミングウェイからは、おっしゃるように、大自然の何かしら寂しさを感じます。ひと言も、寂しさなどの言葉などないのに、以前、読書会でヘミングウェイの殺人者を取り上げました。ハードボイルドですか、殺される運命を一人待つ、しがないボクサーの話しですが、言いしれぬ寂しさが漂っています。ひと言も書かれていないのに。
「マイ・ロスト・シティー」 投稿者:藤本珠美
ヘミングウェイは大好きな作家です。
『マイ・ロスト・シティー』S・フィッツジェラルド著を読んで 投稿者:遠藤大志
この作家の代表作「華麗なるギャッツビー」を大学時代に読んだことがある。ちょうど1980年代日本はバブルの絶頂期にあり、人々は浮かれており、1922年の華やかなニューヨークを舞台に絶頂期と没落を疾風のごとく駆け抜けたジェイ・ギャツビーの人生が描かれていた著書に、バブルの崩壊を連想させた。
時代は半世紀以上離れているものの、何となくその時の日本の姿と重なった。
本著『マイ・ロスト・シティー』S・フィッツジェラルド著 村上春樹訳の冒頭に村上の「フィッツジェラルド体験」なる章があり、そこには当時のニューヨークの有様が書かれている。
『1920年のニューヨークは「世界の誕生を思わせるような虹色の輝き」に溢れていた。 |