「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2021年11月11日


トーニオ・クレーガー感想 投稿者:遠藤大志
投稿日:2021年10月17日(日)15時02分40秒

 今回初めてトーマス・マンの著書を読んだ。
河出文庫(平野卿子訳)で読んだわけだが、読みやすく、2度読んでも面白かった。

 主人公のトーニオはマンの自伝的な要素が多く盛り込まれていると言われている。
彼のハンスへの愛情に似た思いは届くこともなく、また共有されることもない。
そして2年後インゲに恋をするが、片思いのまま、気持ちを告げることもなく自然消滅していく。

 彼は愛情を封印し、孤独の世界で詩や小説に自らの存在意義を見出し、そこで活躍していこうという決意する。
30歳になったトーニオはリザヴェータという心の内を語れる女流画家と話す。
彼女から「あなたは(芸術家ではなく)普通の市民に過ぎない」と宣言され、一人旅に出る。
故郷リューベックに立ち寄ると、そこには元名士の家柄はすっかり忘れ去られ、終いには指名手配中の詐欺師と間違えられてしまう。そして初恋の男女に似た?幻想のふたりに出くわす。

 そこでトーニオは14年という月日を経ても、その関係性や自分の立ち位置が何一つ変わっていないことを実感させられ、リザヴェータに手紙を書く。その中で、自分は何一つ変わることができないが、あくまで市民気質を保ちながらもっといい作品を書いていくつもりだと誓う。

 本小説はトーニオの内面小説である。
他人と共感し合い、友情や愛情を高めたいという欲求は人間が本来持っている気質である。
だが、それを実感することは叶わない。ましてやこの理屈っぽく、頑固で偏屈な性格では尚更のことである。
そして諦め、自らの世界に没頭し、文学という虚構の世界で存在価値を見出す。
トーニオは正にトーマス・マンそのものなのではないだろうか?
彼が唯一その胸の内、胸襟を開いて語れるのは、やはり世間離れした芸術家リザヴェータしかいない。

 逆の言い方をすれば、リザヴェータがいたおかげでトーニオは救われ、戒められ、発見し、作家として生きていこうという決心がついたのだと思うのである。
芸術家(文章を書こうとする者)は少なからずトーニオのような心のずれを感じた経験があるのではないだろうか?

(テーマ)
 この、マンが描く芸術と日常的現実の相克を、会員の方々はどう受け止めるかをお聞きしたいと思います。

 難しいテーマだと思います。
自分という存在(気質)を浮かび上がらせているものとは何か? という事ではないでしょうか?
自分の事は自分が一番わかっている。
だが、人から見ると全く逆に映っている。
そんな事ではないでしょうか?

自分が自分を見る目、他人が自分を見る目その重なり合う部分が自分そのものであり、重なり合わない部分はエゴであったり、自分自身を守ろうとする自己防衛本能ではないでしょうか?
特にトーニオやリザヴェータみたいな人間は頑固で偏屈である為、その重なり合う部分が少ないため、自分の目と他人の目の部分が大きい。
ギャップが大きいと言える。

そんな人間は他人と巧く共感し合えない。
リザヴェータはもはや諦めている(極めている)。
トーニオはまだその共通部分(共感部分)を大きくできるのではないかという期待と未練が残されている。
そういう事ではないでしょうか?

トニオ・クレーゲル 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2021年10月17日(日)19時10分53秒

 トーマス・マンと聞くと、甦るものがある。昔、我が尊敬する新進作家たちが、こぞってトーマス・マンを推奨し、話題とした。当然私の書架にもトーマス・マンが並んだ。私は幾度も開き読みかけたが、終に読み通すことが出来なかった。思索的で高踏的と思えた。マンは、言うまでもなく近代ドイツ文学の巨峰だ。旧約聖書からの作品も多い。この度、再会の良い機会を頂いだ。案外、親しみ易さを感じた。この度は、読み通すことが出来るだろうか、

「トニオ・クレーガー」桜井晶子訳、感想 投稿者:金田清志
投稿日:2021年10月23日(土)18時47分33秒

 まずトーマス・マンの名前は知っていましたが、読んだのは初めてです。

 読み終えた最初の印象は、まず出だしで戸惑いました。
 主人公のトニオが幼友達の男(ハンス)を「愛している」とあり「なんだこりゃ」、今風に言うと同性愛?

 翻訳物は作者の解釈を通して読みますから、原文はどうなのか、との疑念を抱きながら、次の章では少し成長した主人公が女(インゲボルク)を愛している、と内容で、どんな小説なのか判りませんでした。

 読み進めていくうちに、作者はトニオと女友達リザヴェータとのやり取りを通して、作者の文学あるいは芸術についての考え、悩み、思いを述べている作なのかな、っと感じた。

 例えば、主人公の父が亡くなり、母が再婚して実家が崩壊して主人公は作家の道を志して苦悶している場面では、

「良き作品は悪しき人生の重荷の下でしか生まれないことを。充実した生を生きる者には創造などできないことを。そして、全身全霊で創造者たらんとする者は、死者でなければならないことを。」

 と述べている。

 また、主人公は女友達(リザヴェータ)との会話で、

「〜僕の友達といったら、悪魔やコボルト(妖精)、地底の怪物や、見ているばかりで口を開かない幽霊どもばかりーーーつまり、文学者ばかりなんだよ。」

「僕たち芸術家がなによりも徹底的に軽蔑するのは、人生を謳歌していながら、機会があればときどきは芸術家になることもできるなんて信じている素人だよ、」ここで言う「素人」とは「一般人」と言いかえてもよかろう。

 等と、主人公の芸術・芸術家あるいは文学・文学者に対する、思いが述べられている。

 主人公は女友達に、
「あなたはね、道を誤った一般人なのよ、」と言われる。

 主人公は故郷を経由して父の血に繋がる北方への旅に出て、すっかり変わってしまった実家をみて過去を振り返り、ハンスやインゲボルクに似た人物にも出逢う。
 主人公はこの旅で次のような思いに至ったことをリザヴェータ宛に手紙で送る。

「一般人は確かに愚かです。〜 平凡なものたちのもたらす喜びへの憧憬以上に甘く、価値のある憧憬などないーーそう感じてしまうほどに深い、運命によって否応なく定められた芸術家としてのあり方も存在するのだと言う事を。」

 と述べている。主人公の芸術家としての思いや悩みは吹っ切れたのではないだろうか。

「マンが描く芸術と日常的現実の相克を、どう受け止めるか」

についてだが、難しいですね。

この作品のぼくなりの理解が正しいかはおいて、そうかも知れないな、と思う。
偉大な芸術家にはそれぞれの現実あるいは人生に対する相克があり、その大きさが作品を生むに違いない。

芸術とはなんぞや、との答えもそれぞれだろうが、平平凡凡と生活している人から優れた作品は生まれそうもない。

そういう小説読みもあるだろうが、楽しさ、面白さ、未体験への興味、等々も小説読みの楽しさだ、
といまのぼくは思っている。

トニオ・クレーゲル 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2021年10月24日(日)12時16分18秒

 トーマス・マンについて、以前からある一つの思いがある。芸術家は、1代にして成らずと言うこと。彼の持論と思う。マンの生い立ちでもある。マンは富裕な商家に生まれ育つた。祖父が創業し、父が受け継ぎ成功し、やがて解散する。3代目にならないと芸術家は育たない。その主張が強い。その記憶が強く残っている。

したがってマンの小説は、チマチマしたテーマ小説ではない。人生そのものが小説なのだ。それも3代に亘っている。ブツテンブローグ家の人びと、だ。トニオ・クレーゲルは、青春小説だが、マンの前半生そのもの。人生そのものがテーマだから、そのつもりで味わえば良いのではないか。その時その時、トニオ・クレーゲルが、何を思い、行動したか、壮大な人生論だ。壮大な芸術論でもある。

トニオ・クレーゲル 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2021年10月25日(月)15時35分26秒

 トーマス・マンは、スケールの巨大な作家だ。人の一生のみならず、三代に亘って描く。ブツテンブローグ家の人びと、だ。マンの信奉者、北杜夫や佐藤愛子らは、影響受けた作品を次々発表した。楡家の人びと、血脈がそれだ。小説を、人生の切り取りとして描かない。民族の、或いは家系の、結果、一部と捉える。トニオ・クレーゲルは、青春小説だが、ブツテンブローグ家の、ヒトリの青春と思う。

トニオ・クレーゲル 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2021年10月25日(月)23時36分51秒

 ご存知と思いますが、因みに言いますと、北杜夫の、楡家の人びとは、斎藤茂吉を頂点とする斎藤家の家系についての三代記、三代目が杜夫。血脈は、佐藤紅緑を頂点とする佐藤家の三代記、愛子は三代目、彼らは、ある同人誌の仲間で、当時、トーマス・マンを盛んに論じた。発表時、二作は、共に世評が高かった。杜夫と愛子は、トニオ・クレーゲルの立場と、私は思っていますが。二作は、マンのブツテンブローグ家の人びと、の影響作品とは、周知のこと。

『トニオ・クレーゲル』を読んで 投稿者:藤本珠美
投稿日:2021年10月31日(日)11時57分37秒

 とてもおもしろい小説でした。
さまざまな性質が混在しているような主人公トニオ・クレーゲルが、14才の頃愛していたハンスと、16歳の頃のインゲボルク。
二人はトニオが素晴らしいと思う世界を拒否はしないが、受け入れることなくまっすぐな道をあゆんでいる。そしてトニオも、この二人が自分の愛する世界を素通りして平然としていられる人間であると知っている。
芸術、表現というものが宿命であるトニオと、そうでない愛する二人。

冒頭、トニオがハンスによいと思った本について語ろうとするとき、ハンスと標準の合った少年にその機会を奪われそうになるシーンがありましたが、微妙な心理描写が素晴らしいと思った。この部分は、この作品の中心になっている気もする。
また女友達との会話は、わかるような、わからないような、という感じでしたが、ラストシーンで、トニオは芸術を宿命としない人間も愛していて、そしてハンスとインゲボルクがまず第一に美しいということを、何度も表現しているけれども、圧倒的な美というものは、芸術から与えられる感動と同じく大きなものだという考えなのかなとも思いました(思い違いかも知れませんが・・・)。トーマス・マンは偉大すぎて読んだことがありませんでしたが、本当におもしろい作品でした。紹介していただいてどうもありがとうございます。
もうひとつ、トーマス・マンの生きた年代をみると、ニーチェがあり、ワーグナーがあり、作品中にも二人の名前が出てきますが、ナチス台頭との関連が言われるこの二人について、亡命して表現活動を続けたトーマス・マンがどのように感じていたのか興味を持ちました。
ウィキペディアでみてみますと、トーマス・マンもニーチェも、ワーグナーに熱狂したが、ニーチェは途中でワーグナーからはなれている。芸術作品の素晴らしさは、その根元とする思考と離れられるのではないかと思ったりもしますが、いつの時代もこのテーマは大きいものだと思いました。

トニオ・クレーガー(浅井昌子訳)を読んで 投稿者:山口愛理
投稿日:2021年11月 3日(水)17時44分58秒

 トーマス・マンは初めて読んだが、なかなか引き込まれた。

少年時代のハンスとインゲボルクに思い焦がれる様子が、美=健全な精神=普通の人という、トニオの渇望や憧れとして描かれていて、それでも高みにある文学の世界に踏み出そうとしているトニオの葛藤が痛いほどわかる内容だった。感受性が豊かで傷つきやすいトニオの内面が痛々しいほど伝わる。

長じて小説家となり、理解者である友人リザヴェータとの会話を経て、ドイツの自分の生まれ故郷を経由して北欧に向かうトニオ。元通りではなく変わってしまった生家や故郷。
そして再び登場するハンスとインゲボルク(のような普通の人々)。その明るく健康的なダンスシーンを暗闇から覗き続けるトニオ。この構成が、そのままトニオの心理描写となっていて、とても興味深かった。

この小説を読んで、太宰治が小説『葉』に引用したポール・ヴェルレーヌの「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」という言葉をふと思い出した。また小説『黄金風景』の内容にも少し通じるものを感じた。
普通で健全であることが幸せとわかっているのに、そこへ行きたくない、行けない苦悩。自分が選ばれたものであるという崇高な自意識。洋の東西を問わず、小説家にはすべて(文学少年・少女も含め)、そうした葛藤があるのかもしれないと思った。

わたくしも、また・・・ 投稿者:和田能卓
投稿日:2021年11月 5日(金)12時11分31秒

 11月読書会担当者・中根さんの、

トーマス・マンは、「自分の心に最も近い作品」とする本作品で(但し、これには懐疑的な見方もある)、主人公のトニオ・クレーガーに自らを投影させて、「自分は市民的な幸せを得ることができない」と吐露し、芸術家と一般市民の二つの世界に揺れる心情を描出している。

この、マンが描く芸術と日常的現実の相克を、会員の方々はどう受け止めるかをお聞きしたいと思います。

について、具体的にお答えすることはいたしませんが、作品の終わりに置かれたトニオ・クレーゲルがリザヴェータ・イヴァーノヴナに書いた手紙の中ごろ、「私は二つの世界のあいだに立っています。そのどちらにも安住の地をえません。だから多少生活が面倒になるのです」(高橋義孝訳、新潮文庫『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』118頁)を我が身に引き寄せてみるとき、したたかな共感を抱かさせられざるを得なかったということだけ、記しておきたいと思います。

トニオ・クレエゲルを読んで 投稿者:石野夏実
投稿日:2021年11月 6日(土)11時53分46秒

 トオマス・マン「トニオ・クレエゲル」(実吉捷郎訳)感想
 2021.11.6 石野夏実

 今月の読書本を、昭和27年の岩波文庫が低本のkindle無料本で読んだので、訳が少し古臭く大げさなのは仕方がなかったが、ちゃんとした新しいものを買えば読み方も感想も違ったものになったのだろうか。

 そもそも、過剰な自意識からくる(偽りの)自信喪失、自身が持ち得ていないものへの異常な憧憬、見えているだけの表面的な「美しさ」に対する偏愛。これが14歳の頃のハンスに夢中になっていたトニオ。美少女インゲボルグは、トニオが16歳の時に好きになった異性の女の子だ。インゲへの思いも描写も恋する少年の立場からきちんと書かれているのでバイセクシャルだったのだろう。(作者自身も結婚し6人の子供がいたそうなので、トニオと同じと思われる)

 中ほどは、リザベタという女性画家の家での問答。リザベタは聡明で、単刀直入にトニオの評価を下す。「あなたは横道にそれた俗人。踏み迷っている俗人」

 秋になりトニオは「風を入れに逃げ出し逐電しにデンマークへ旅行に出ます。13年ぶりに故郷(訳では発足点)にも立ち寄ります」とリザベタに告げる。

 最後は、旅に出てからの話。リザベタが、必ずくださいねと約束した彼女宛の手紙で終わる悟りの境地の独白。

 自己の精神の多面性の容認は、北方的な父の気質(几帳面で憂鬱)と母の外国的な血(情熱的で官能的で衝動的なだらしなさ)の混合のものとの自覚が生じてからのものであるが、その認識により偏執から解放されて、もっと大きな「愛」にたどり着いた。

 旅での収穫は、すべてを許容する、それでいいのだと思うことでとても生きやすくなったトニオ・クレエゲルであったのではないだろうか。

※そんなにグタグタ理屈っぽく悩まなくったって、どんな人もそれぞれに感情があり感受性は研ぎ澄まされていて、他者が思うよりずっとデリケートなんだよってトニオに言いたいわ、と思いました。他者を一面で評価するのは傲慢だよとも言いたい。それに、生きて生活していること自体、誰もが俗人だよ。揺れ動く心を書くことで文学は生まれるんでしょうけど。

 最後に、マン原作の「ベニスに死す」(ルキノ・ヴィスコンティ)が大のお気に入りの女友達がいますが、私には公開された当時も今も、あの狂気を理解容認することはあっても、好みからいえば好きな映画とはいえませんでした。偏執だと思い「美」って何なの?と思ってしまうのですが、マンもビスコンティも、描かずにはいられなかったのでしょう。それが性(サガ)と呼ぶものなんでしょうか。

 理屈っぽいドイツ人気質は、哲学も文学も音楽も最高級のものを生み出した。マンは1875年に生まれ1955年に亡くなるまで80年の生涯、まさにドイツ人らしく己の「生」と対峙し生き切ったと思う。

 提出が遅くなりました〜。マンを調べていたらワイマール時代に行きつき、ヒトラーとマンの関係が興味深くて、ハマってしまいました。それとトニオ時代辺りまでのワグナー、ベニス時代のマーラーも聴いたりなんかして、横道にそれ過ぎましたが、読書の機会がなかったら、それらもなかったでしょう。有難うございました。

トーニオ・クレーガー 投稿者:成合 武光
投稿日:2021年11月 6日(土)19時57分36秒

『トーニオ・クレーガー』の感想  成合武光

『トーニオ・クレーガー』の紹介ありがとうございます。また、提案された理由「マンが描く芸術と日常的現実の相克をどう受け止めるか」を知り、嬉しく思いました。と同時に『眼差し』が、以前より少しわかったような気がしました。

質問への回答と同時に感想です。
答えは、「呪いです」。

この一文に、この読書会で以前取り上げられた本の一節を思い出しました。本の題名、作者は忘れました。その本の提案者にお願いします。思い出されたら教えて下さい。これは、私の感想ですから、「呪いです」と同じではないかもしれません。同じように思った一文です。それは、「・・生まれた(受身形)復讐だ」です。

「・・同じように成長し、君のように・・そんなことをしても意味がないだろう‥」「知ることを宿命づけられた・・ハムレット・・」とも。
余福に「・・間に合わせ、欠乏、諦め、というのが人間の宿命なのである・・」(『すげ替えられた首』)とも教えられました。

トーマス・マンを知りませんでした。しかし、よく耳にした名前だと、よくよく考えたら思い出しました。「機関車トーマス・・」でした。生きましょう、トーマスのごとく?

ホテルのベランダからの描写、ハラハラドキドキしました。

「あなたをそんなに悩ませている問題の回答というのは、あなたは、芸術家でもなんでもなく、市民ということです」
この言葉で結びとします。蛇足に一言、「諸行無常、一切皆苦」。
ありがとうございました。                    2021 11/06

トニオ・クレーゲル 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2021年11月 7日(日)10時15分51秒

 芸術家は三代目にして立つ。マンの持論です。家系は大河で、芸術家は、大河の中に生ずる一粒の真珠。大河は日常であり、芸術家は非日常、相克は当然。と言う、ドイツ人らしい頑固な思想、と思います。

浅丘様〜ヘルマン・ヘッセ 投稿者:石野夏実
投稿日:2021年11月 8日(月)09時49分0秒

 いつも貴重なご意見を有難うございます。マンとヘッセは同時代のドイツを代表する作家だと思うのですが、高校で習った「車輪の下」のヘッセの方が身近です。ヘッセへのお考えがあればお教えくださいm(_ _)m

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