「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2022年01月19日


夜叉ケ池 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2021年12月22日(水)14時45分8秒

 戯曲を読み、ついで三池崇史演出の演劇を観、さらに篠田監督、玉三郎主演の映画を観、又、本に戻っています。日常世界と非日常世界をパラレルに渾然、融合させて進行させる技は見事です。村上春樹や、宮沢賢治も、日常世界と非日常をパラレルに描くが、ひと味、違います。芥川が立証主義の精神が20世紀を毒していると言ったが、その通りです。今は、目に見え、手に触れ、証明される以外は事実としない。私は目に見えない、手にさわれない、立証出来ない存在を信じます。妖怪を、妖怪の心を信じます。夜叉ケ池の龍神伝説を信じます。

大きな水、ちっぽけな人間(「夜叉ヶ池」感想) 投稿者:中谷和義
投稿日:2021年12月27日(月)15時48分59秒

 美しい水が人間の愚かな行為によって牙をむく。人間は傲慢さを捨て、自然の声に謙虚に耳を傾けなければならない。

夜叉ヶ池は、福井・岐阜県境の山奥に実在し、「岐阜県の名水50選」にも選ばれている美しい池。泉鏡花の戯曲「夜叉ヶ池」で、竜が潜む場所とされるのにふさわしい神秘的な景観だ。

物語は、池を水源とする清水の近くに住む晃の「水は、美しい。何時見ても……美しいな」というセリフから始まる。妻の百合が晃の旧友・学円に地名の由来を告げる「(清水は)細い流でございますが、石に当たって、りんりんと佳い音がしますので、この谷を、あの琴弾谷(ことひきだに)と申します」という一節も、心地よい。

この頃、ふもとの村は日照りに苦しんでいた。清水は途切れることなく流れるが、村人は夜叉ヶ池の水底にいる竜の「毒」があると怖がって飲まない。代わりに雨乞いのため、村一番の美女を夜叉ヶ池の生け贄に捧げようと百合に襲いかかる。叔父の神官・宅膳が「村第一の美女を取って裸体に剥き、黒牛の背に、鞍置かず、荒縄に縛める」と迫る場面は、宅膳がもともと百合に下心を持っていたこともあってとてもエロチックだ。県の代議士・鉱蔵が「いやしくも国のためには、妻子を刺殺して、戦争に出るのが、男児たるものの本分じゃ。(略)俺なぞは(略)何時でも生命を捨てるぞ」と言いながら、晃に鎌を突きつけられると「わあ」と思わず退くシーンは、現代でもありそうなことで思わず笑ってしまう。

村は結局、日に3度、鐘を鳴らすという竜との約束を破って洪水にのみ込まれる。月が輝く中、学円が一人鐘楼から水に向かって合掌し、物語は閉じる。

2021年7月には大雨の影響で熱海市の逢初川上流で大規模な土石流が発生し、26人が死亡した。土砂の崩落の起点付近で基準を大幅に超える量の盛り土が造成されていたことが被害を大きくしたと指摘されている。

私は1996年から3年間、熱海に住んでいた。熱海は山が海に迫り、急斜面が多い。問題の盛り土はまだ始まっていなかったが、土砂崩れが起きやすい地形であることに変わりはない。しかし、当時は土石流を心配したことはなかった。いま思えば警戒すべきだったし、先人が残したシグナルも実はあった。なにしろ住んでいた場所が川の近くで、「清水町」という地名だったのだから。

夜叉ヶ池」感想 投稿者:金田清志
投稿日:2021年12月27日(月)18時37分54秒

 読み終えたので忘れないうちに書きます。

泉鏡花の作品はよんだ記憶はあるのだが、全て忘れている。だから自分としては初めて読んだ作家と同じ気持ちです。

読んだ最初の感想は「ある地方の言い伝え」に基づく奇譚をもとに、六ヶ村の民を助けんがために「夜昼三度打つための鐘楼を守る」との迷信、川の氾濫や日照りに悩まされる土着民の「噴飯ものの生贄」の思想、との争いのようにも取れるが、物語はそんなに単純ではない。

物語は、偶々、萩原晃が立ち寄った鐘つきが住む小屋で、鐘撞の弥太兵衛の死に立ち会い、た鐘撞の謂れを聞き、そして鐘つき小屋の百合に心を魅かれた晃は鐘撞に身を投じている。
が、ある日かつての同窓であった山沢学円と再会し、物語は動き出す。

この戯曲では、古来から日本の山間各地での過酷な自然災害に対する「迷信や儀式」に対する人間の愚かさ、或いは我が身をも顧みぬ人間の崇高さを著わしてもいる。

作品の中では百合は俗世の人間だが、しかし平行して描かれている化け物(幻想的な)世界の白雪姫と何やらつながりがあるように思え、晃自身も化かされているように思えて仕方がない。

鉱蔵(県の代議士)のセリフ(69頁)が面白い。作者の社会に対する批判なのだろうか。

以上、雑駁な感想ですが、面白く読みました。

金田

夜叉が池 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2021年12月28日(火)10時04分41秒

 坂東玉三郎の百合、白雪姫二役は圧巻だった。オーラというが、さすがと言うか。田畑智子も悪くなかつたが、役者が違う。古来、戯曲は、演ずるためにある。レーゼドラマという読むための戯曲もあるが。19世紀、西欧では、戯曲のト書きか発展して、小説が生まれた。長く戯曲が本流だった。日本の源氏物語を例外として。そんな想いで、玉三郎の演ずる百合、白雪姫を観ていた。泉鏡花が玉三郎の演ずる百合、白雪姫を観たら、どう言うだろうか。

夜叉ヶ池を読んで 投稿者:遠藤大志
投稿日:2021年12月28日(火)10時35分59秒

 本作、最初は青空文庫で読み進めたが、文語体で詳細な意味が理解できなかったため、途中で諦めた。
 白水銀雪氏が現代語に訳したKindle版を購入し、読み進めた。
こちら非常に分かりやすく、面白く読めた。

 一言で言うと、芝居で観賞したら面白いに違いないと思う。
 泉鏡花は頭の中でどのような役者がどのような芝居をするのかをイメージしながら書き進めたのだろうと容易に察しがつく。

 場面の切替時の緞帳の上げ下げ、人物の登場シーン、照明、音楽が後半のクライマックスで最大になるように演出されている。役者が観客を前に訴えかけるイメージが目に浮かぶ。
特に萩原が村長や代議士、ヤクザ、相撲取相手に演説をぶるシーンは観ている観客に訴えかけ、観客が同意、賛意を表す格好の見せ場である。

 百合が自害し、後を追うように萩原も鎌で自ら命を絶つ。
鐘は無残に転げ落ち、それと共に空はみるみるうちに暗雲が立ち込める。
ここで雷が轟き、激しい雨が全員に降りかかる。瞬く間にあたりを洪水のような水が埋め尽くし、押し流していく。
町の人々が次々ともがき苦しみながら、水に呑まれていく・・・

 本小説は現代でも農作物の豊作や災害回避を願う祭りや習わし、伝統行事として連綿と続いている中の一つの例である。
 その昔は多かれ少なかれ神や仏に祈りを捧げ、時にはこの百合のように捧げものとして奉納されたケースもあったのだと思う。
 未だにそれを信じて真顔で犠牲を払うことを良しとする地域があると聞く。
 そういった意味では、本小説は人間が神や仏に助けを乞う以上、今後も連綿と続いていく人類の末路なのかもしれない。

夜叉が池 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2021年12月29日(水)16時30分11秒

 各地に存在する伝承や伝説にはそれなりの真実がある。住民達の切なる願い、想い、戒めなどの結晶だろう。泉鏡花は、伝承を美しいロマン溢れる物語に仕上げた。ファンタジックな物語だ。池の龍神の化身、白雪姫、更に分身の村娘、百合。晃は伝承の調査に来て、百合(坂東玉三郎)の虜になる。ミイラ取りがミイラになる。私だってミイラになります。溝口監督は、名作、雨月物語の監督だから、このような作品は、得意中の得意、ロマン溢れれる素晴らしい作品となった。

夜叉が池 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2021年12月29日(水)23時35分27秒

 クライマックスの凄まじさ。村娘の百合(坂東玉三郎)は鎌で死ぬ。萩原晃は、鐘の撞木の縄を切り落とし死ぬ。鐘は、もう誰も突く者はない。するとどうだ。閃電来たり、奔流溢れ、村は水底に。人間どもは、皆死ぬ。白雪姫(坂東玉三郎)は、喜びの声上げる。姥、嬉しいな、人間は、皆、魚に、はや泳いでいます。ハハハハ、田螺、どじょうも見えまする。私は恋しい剣ヶ峰にいくよ。皆おいで。

夜叉が池 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2021年12月30日(木)11時43分28秒

 戯曲は、古来、すべて喜劇か悲劇に、二分されて来た。と、される。それ以外は無かったとされる。しかしこの戯曲は、それ以外に思える。喜劇でも悲劇でもない。第三の分野に思える。不思議な色彩の作品に思える。いや、悲劇であり、喜劇でもあり、両者あり、實に不思議、グラデーション。それとも、私の不見識なのか。きっと、そうなのだ。教えてください。

夜叉が池 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2021年12月30日(木)10時39分10秒

 この戯曲、なんとみる。ハッピーエンドなのか、アンハッピーなのか、それともシニシズムなのか、いやいや、そんなレベルの作品ではなさそうだ。天上から、はるか地上のくだらない、人間界を見下ろした作品なのか。泉鏡花の謎めいた高笑いか。

夜叉が池、感想2 投稿者:金田清志
投稿日:2021年12月30日(木)18時29分6秒

 浅丘さんの視点、成程、と思いました。

よく判らないのですが、この戯曲で、恐らく日本のアニミズムに根差したと思われる森の精霊と言うか化け物の世界が平行的に書かれていますが、これがなくても舞台は成り立つのに、何故書かれているのかぼくには解らないのです。

化け物の世界の白雪姫と俗界の百合とが関連付けられていればと読み進めても、そんな接点は読み取れません。 それが謎なのですが、ぼくの中ではどうしても百合が俗界の人物とは思えないのです。

この戯曲が喜劇化か悲劇なのかは、恐らく演出家がこの化け物の世界をどう理解し演出するかによるのでは、とも思います。

訂正 投稿者:金田清志
投稿日:2021年12月30日(木)18時33分41秒

 上記投稿

「喜劇化か」 ー>「喜劇か」

 に訂正。

夜叉が池 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2021年12月31日(金)22時44分37秒

 百合と白雪姫の関係を鏡花は何も書いていないが、百合は白雪姫の分身の設定と思いますね。玉三郎は二役で、イメージぴったり。釣り鐘が落とされ、さらに百合まてが死ぬと龍神白雪姫は怒り狂った。奔流は村を水底に、数百人の人間は一人残らず皆殺し。ジェノサイド。更に踏んづけるように、田螺、どじょうを泳がせ、ハ、ハ、ハ、と楽しそうに笑う。尋常の怒りではない。ここまで現代作家は書きませんね。読者の批判が怖い。まるでマゾですよね。龍神がかくも怒り狂うのは、分身の百合が殺されたからこそ、と思います。

「夜叉が池」を読んで 投稿者:山口愛理
投稿日:2022年 1月 5日(水)16時02分42秒

 本作品がどうのと言うよりも、戯曲というものを読むことがほとんどないので、作品についてどう評価していいのかわかりません。が、柳田邦夫や水木しげるの織り成す世界に興味はあり、読みながら頭の中に舞台を描くことができたので、私の脳内劇場はそれなりに完成しました。

戯曲なので舞台上で演じられることを前提として書かれているのだと思いますが、歌舞伎のような舞台装置や照明、書き割りなどがあればかなり面白く観られると思います。映画や舞台も私は観ていませんが、幽玄の世界をかなり感じられるのではないでしょうか。

が、私はやはり小説派なので、この機会が無ければ読みませんでした。ちなみに幻想をキーワードにした時、多分この戯曲はオーソドックスなのだと思います。村上春樹や森見登美彦や村田喜代子は現実と幻想世界をシームレスに何度も行き来することで、より深い読後感を読者に与えているのではと個人的には思います。 (すみませんが、泉鏡花の他作品については読んでいないのでよくわかりません。今後折を見て読んでみたいです)

訂正 投稿者:山口愛理
投稿日:2022年 1月 5日(水)16時06分39秒

 柳田邦夫→柳田国男です。

「夜叉ケ池」感想 投稿者:石野夏実
投稿日:2022年 1月 5日(水)17時52分37秒

 泉鏡花作 戯曲「夜叉ケ池」 感想  2022.1.5 石野夏実

 泉鏡花(1873=明治6年〜1939=昭和14年)が、1913年(大正2年)に発表した戯曲である。夜叉ケ池の竜神伝説を題材とし、ノーベル文学賞を1912年に受賞したゲアハルト ・ハウプトマンの「沈鐘」(1897)が、元ネタといわれている。
 wikiによれば、初演は新派で1916年に本郷座で上演された。
1978年以降は演劇集団「円」をはじめ、数々の劇団で公演されたり映画化もなされた。
宝塚では2019年に「龍の宮物語」という名で上演。
100年を経てもなお公演されるのは「絵」になりやすい恋物語と、自然と人間との共存の関係性やダイナミックにイメージを発展させることができる多様性かと思う。

 映画を先に観てしまったので、どうしても玉三郎が二役を演じた百合と白雪姫のヒロイン達に目がいってしまうのであるが、百合と白雪姫の関係は、白雪姫はとても百合に好感を持っていて、ひょっとしたら、お姉さん?。。。なわけはないと思いますが。。。

 演劇集団「円」の上演時も2004年の三池崇史演出のPARCO劇場版も一人二役をしていなくて別々の女優が演じているので、解釈は別人でいいのかもと思いました。
ただし、映画は玉三郎の一人二役演じ分けが大前提でした。全く別の個性を演じ分けることに挑戦したのかもしれません。

 以下、映画を見ての感想です。

 泉鏡花原作「夜叉ケ池」1979年公開松竹 篠田正浩監督感想
 2021.12.8   石野夏実

 次回1月の読書会テーマ本が、泉鏡花の「夜叉ケ池」になった。これを原作とした映画や舞台も有名であり、読んでから観るか観てから読むかと決めかねたが、何度か目にしたことがある白塗り玉三郎の女形の姿が目に浮かび、今回は篠田正浩監督の映画のほうを先に観ることにした。

 この映画は、主人公の百合と白雪姫(夜叉ケ池の主の竜神)を坂東玉三郎が演じていて、当時は、玉三郎の見事な二役ぶりと夜叉ケ池の白雪姫の妖艶な美しさが話題となっていた。

 映画の公開は1979年、今からおよそ42年前の作品である。玉三郎が1950年生まれで今年71歳になるということを知り驚いた。もっと若いと思っていたからだ。

 79年の公開時は、玉三郎の20代最後の年であった。玉三郎といえば、歌舞伎界にあって若さある美しさが評判であった。「夜叉ケ池」は、玉三郎のための映画といっても過言ではあるまい。この映画の百合の相手役の晃には加藤剛、その親友学円に山崎努とあれば、映画を先に観て良かったと思ったほどである。

 音楽は冨田勲のシンセサイザー。美術は粟津潔と朝倉摂、特撮監督は矢島信男。どの担当もこの映画を盛り上げるのに欠かせなかったその道の第一人者である。監督と玉三郎の意気込みが十分に伝わる総合的な映像美であった。

「夜叉ケ池」の話の内容は映画と戯曲では、大きな場面も小さな場面も少々違うが、戯曲のラストは舞台が想像され美しい終わり方であるし、映画は映画らしく、それぞれ良かったが、映画のクライマックスのほうが特撮も入りダイナミックで見応えがあった。

 湖にまつわる竜神伝説は、水の国の日本であれば、各地に色々ありそうでもある。日照りの雨乞い生け贄の話もよくある話だと思うが、人々が自然に対する畏怖を忘れ無残な行動に走る時、全てを失う大災害が起きるのは、今も昔も同じであろう。

 ふた組の恋物語も、こちらが恥ずかしくなるほどの情熱が伝わってきた。玉三郎が演じたこともあるが、泉鏡花の文章からも十分に伝わって「凄いな恋する心は」が、一番の感想です。

『夜叉ヶ池』感想 投稿者:阿王 陽子
投稿日:2022年 1月 5日(水)19時08分56秒

 まず、この夜叉ヶ池を選んでくださって幹事のかたにお礼申し上げます。さて、最初、岩波文庫の泉鏡花の原文を読み始めたのですが、途中でよくわからなくなり、Kindleにある現代語訳で読み、それでも白雪姫のあたりがよくわからなくなり、アマゾンプライムに映画があったので、そちらを見て、なんとか世界観を感じられました。以下、感想です。

(1)映画版の加藤剛演じる晃が精悍で、りりしく、玉三郎演じる百合に惚れているのが、どきどきするぐらいに色っぽく感じました。若い頃の加藤剛は砂の器や忍ぶ川の時もそうですが、とてもカッコが良くて惚れ惚れしました。目の中に星があるみたいな、キラキラした瞳に、さわやかな笑顔、素敵な声。若い女性なら、いや若くなくても、女性なら、いや、男性も、この加藤剛の晃には恋してしまうんじゃないでしょうか。
そして神官の娘の、百合を演じる玉三郎が、性を超えた美しさで、特に所作の美しさはさすが重要無形文化財、と思います。肉体の女性より理想的な女性の美しさ、というかしなやかで、かよわそうで、はかなげで、守ってあげたくなるような、いとおしさにあふれていて、最初あれ?と思ったキャスティングでしたが、徐々にそのキャスティングの妙に実に納得しました。
山崎努の山沢学円は、晃の友人で、晃を連れ戻したかったのですが、村人たちが百合をいけにえにする動きになり、なんだか巻き込まれてしまう。山崎努があまり変わってなくて、喋り方も演技も昔からシリアスな感じだったのだな、と思いました。この山崎努がいるから、加藤剛がひきたつのかな、とも思いました。

ストーリーは、人間の愚かさに怒った夜叉ヶ池の主である白雪姫が、最後百合と晃の死、そして鐘をつかなくなったことから、正義の鉄槌を下すかのように村里を水の底に沈めてしまう、といったストーリーで、昔の伝記みたいな、楳図かずおや古賀新一のホラー漫画みたいな、話で、最後の水の底に沈むシーンが圧巻でした。

戯曲や現代語訳で理解できなかった鯰入、鯉七、蟹五郎のあたりは映画化で白雪姫という夜叉ヶ池の守り神である蛇に仕えるナマズ、鯉、蟹、と、理解。頭の中でディズニーの人魚姫アリエルとその仲間が出てきましたが、、、。でも、、百合が人形を抱いて子守唄を歌うあたりがちょっと意味不明で、これは私が子守唄や人形遊びをしない時代の人間だからなのかな、と思ったり、また、この人形遊びは、この物語に泉鏡花がホラー要素を加えたためなのかなとも思ったりしました。舞台にしたら映えそうなシーンだと思います。
また、原作の最後で、鐘ヶ淵となった村里を見て、白雪姫が「お百合さん、お百合さん、一所に唄をうたいましょうね。」と言ったところが、白雪姫と百合の関係性をさしているとも思われたのですが、映画で玉三郎が百合と白雪姫を二役演じてるので、ああ、分身なんだな、あるいは化身なんだな、と理解しました。

ただ、白雪姫が鐘ヶ淵に村里をしてまで、つまり水の底に沈めてまでして会いたかった剣ヶ峰の恋する相手が何者なのかはわかりませんでした。相手がいるのか、あるいはいないのかもしれません。

以上、あまりまとまった内容の感想にならなくて申し訳ありません。ただ、年末年始休暇に戯曲、現代語訳、映画、そして戯曲を振り返り、なんだか楽しく過ごせました。ありがとうございました。

夜叉ヶ池 追記 投稿者:阿王 陽子
投稿日:2022年 1月 5日(水)20時00分4秒

 すみません、書いたあとで、川の蛇が白雪姫というのがあまり腑に落ちなくて、調べたら竜神と映画の紹介にありました。その昔の竜神信仰だったんですね。映画の中で蛇が体にからみついていた、と百合を表現するとこがあり、蛇かと思い違いをしてしまいました。失礼いたしました。

泉鏡花『夜叉が池』に寄せて 投稿者:和田能卓
投稿日:2022年 1月 6日(木)14時18分25秒

 鏡花ファンとして、今回課題本として取り上げてくださったこと、感謝に堪えません。(以下、常体にて失礼)

 手元にある鏡花関係資料の中に本作品を論じたものが無いか、参考文献目録を見渡してみたら一件あった。短編作品『国貞ゑがく』を論ずる参考として購入した、小林輝冶『水辺彷徨 鏡花「迷宮」への旅』(2013、梧桐書院)中の『「夜叉が池」考』がそれで、小松和彦氏の解説https://spac.or.jp/culture/?p=160と相まって、作品の素材や背景を知るのに与って力がある。

 独立した作品論が一本しか見つからないのは意外だった。もとより戯曲『夜叉が池』には、その奥底に夜叉が池伝説としての蛇婿入り譚があり、エピソードとして水神・沼神の文使い、百合の肌に鱗、沈鐘伝説、・・・いうまでもなく白雪姫の異形の眷属たちが登場していて、じゅうぶん近代民俗文学として再論する余地があるように思える。が、小林説以上の成果は期待できないのかもしれない。

 篠田正浩監督作品『夜叉が池』とユーチューブにある『抄本 夜叉が池』も観たが、前者の脚本化の手法、後者の文字どおりの抄本化の方法に学ぶところがあった。

『夜叉ヶ池』感想 投稿者:林 明子
投稿日:2022年 1月 6日(木)22時51分34秒

 こういう世界のある物語は好きです。6月の読書会で取り上げられた平野啓一郎の「一月物語」同様、「夜叉ヶ池」というひとつの世界の中の話なので、不合理とも思わずその世界に入って楽しみました。
戯曲ということで、特に、鯉七や蟹五郎、鯰入、妖のいろいろがどんな姿(衣装)で演じているのか想像するのは面白く、演出のセットまで勝手に思い浮かべてみました。

また、印象に残る台詞の数々。
「僕、そのものが一条の物語になった訳だ。魔法つかいは山を取って海に移す・・・・木の葉を蛙にもすると言う」
演劇の雰囲気を盛り上げていく。
「我が性は自由を思う。自在を欲する」
「花は人の目を誘う、水は人の心を引く。」
これらはいつの時代でも変わらぬ人の思い。
神官や村会議員たちが押し寄せてくるところから、場面は慌ただしく不穏な展開になり、劇のクライマックスにつながっていく。

恋するあまりに人間との約束を破ろうとする白雪の身勝手さが、竜神という神にしては、あまりにも人間っぽく、幼く、少し笑えてしまって・・・。
思えばギリシア神話に出てくる神々も、神様のわりには自由奔放で喜怒哀楽が激しかったな・・・と思い出した。
白雪という竜神もギリシア神話も、人間が作り上げた話であるため、いかにも人間らしい神になってしまうのは致し方ない、と考える。
もしくは、白雪姫は神というよりは霊的な存在であり、人知を超える水霊として元々凶暴な性質なのかもしれない、とも考える。
ひょっとしたら、神々は人間たちの信仰が厚く祈りが深いために、「夜叉ヶ池」の白雪のように人間によって行動を縛られているのだとしたら・・・と考えると神様もけっこう大変なんだなと同情に似た気持ちも湧き上がってきた。

龍神信仰をモチーフにした、あやしく、美しく、災いといったまさに「妖」の物語で、最後、人間たちが死ぬのではなく(ある意味、人間としては死であるが)、魚になったというところも「妖」を最後まで全うした結末であると思った。

「夜叉ヶ池」を読んで 投稿者:清水 伸子
投稿日:2022年 1月 7日(金)07時51分27秒

 青空文庫からダウンロード、プリントアウトして読みましたが、かなり読みづらくて3回読み返し、それでも物語の世界を楽しめたというより、何とか私なりに理解できたかなというのが正直なところです。

 冒頭の部分では百合も晃も白髪で、どうもそれは鬘らしいのですが、わざわざ白髪の鬘を被る意味が何なのか分かりませんでした。

 この戯曲の中には白雪姫と若旦那、百合と晃の二つの恋が描かれています。一方はどれほど多くの人の命を奪ってでもという激しい恋、もう一方は互いを思いやり相手のためには自分の命を投げ出すような恋。でも私には、白雪は昔生贄にされて恋人と引き離された女性たちの化身ではないかと思えてなりません。だからこそ、白雪姫は百合だけには心を添わせるのではないかと。

 私は映画も舞台も観ていないのですが、悲劇のようでありながら海の生き物が擬人化されて出てくるような喜劇的要素もあり、最後には白雪姫の見せ場で盛り上がり、死んでしまった晃と百合が幸せそうな姿を見せるなど、観客を惹きつける要素はふんだんにあるように感じます。玉三郎が百合と白雪姫をどう演じたのかを観てみたいと思いました。

夜叉が池 投稿者:成合 武光
投稿日:2022年 1月 7日(金)09時42分40秒

 『夜叉が池』の感想    成合武光

横浜文学の皆様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

『夜叉が池』、これはやはり舞台で演出される方がよい。見どころがあると思う。舞台では映画と違って演じるそれぞれの人、登場する諸々の人、物の動き、会話が、同じ人間(観客)の呼吸や間とちょうど良く合わさっていく。その間合いに観客の想像も膨らんでゆき、物語が完結してゆく。

そのように思ったのは、若いころに見た学芸会や村芝居の舞台が直ぐに浮かんできたからです。成人になるにつれ、劇場での劇の鑑賞はほとんど機会がなかった、懐の貧欠が一番の理由ですが。テレビでの演劇の鑑賞のほうが多い。歌舞伎で空を飛ぶ演出などのニュースもありました。それなどを想像すると、この『夜叉が池』は迫力も大きく、見ごたえがあるように思ったのです。

神秘な場所や物事には、いろいろな伝承があるのもうなずけます。そのように想像するのも、人間のこの世の理解の仕方であろうと思います。伝承の中に泉鏡花は自分の思いを込めたのでしょう。・義理の重要性・愛の力・我欲など。

現代的にはアニズムの領域となるのでしょう。物語を楽しむということにおいては、愉しみ甲斐のある物語だと思いました。物語の中に深い真実がある。皆さんがそれを感想に述べられているようですから、付け加えることもないかと思います。 紹介がなかったら、読む機会はなかっただろうかと思います。感謝しています。

1月8日のリアル読書会は、この掲示板で代えさせてください。

2022年1月7日

夜叉ヶ池 泉鏡花 投稿者:佐藤直文
投稿日:2022年 1月 7日(金)16時42分53秒

読んでみたいと思っていましたが、実際にはなかなか手に取ることのない泉鏡花でした。

今回、取り上げて頂いたことを感謝いたします。

読んで、不思議な世界の連続で楽しく読みました。登場する者たちの奇抜さ、思いがけない展開に驚いて、面白くてワクワクしていました。舞台が「現代」と設定されていますが、百年前の現代は大正で、自分の祖父母の若かりし頃です。私の生まれ育った村にも伝説があります。15世紀のこと、暴れ川である皆瀬川の下流域の姫が上流域の若殿に嫁ぐとき、川の龍神が婚約を破棄した見返りの天罰として姫の輿入れの船を襲いさらった。その菩提を弔うために婿殿は龍泉寺という寺を建てた。以来、姫が、水を治めている。日本人は貿易等を例に、契約は律儀に守る、だから、信用があると言われています。こういった伝説が「契約を守る」日本人をつくった一面があると思います。

この劇は、そうした伝説の物語ですが、叔父による姪いじめ(今でも子殺しあり)、文学士と若い華族の友情、村のために鐘を守る善意の者に、さらに無理を強要する有力者たち、百合と白雪の友情(女性に選挙権はなかった)、などが、劇的に絡んでいます。約百年前の世界と現代を比較する余裕はありませんが、鏡花の劇は新鮮で刺激的でした。

夜叉ヶ池 を読んで 投稿者:太田龍子
投稿日:2022年 1月 8日(土)15時02分57秒

 夜叉ヶ池ははるか以前にたしか映画で見て、その後に原作を読み、今回は何回目かの再読です。かなり忘れてしまっていましたが。最初に映画で見た時の感想は「ヴィジュアル重視の脚本かな」という感じで、あまりストーリーには惹かれませんでしたが、玉三郎が奇麗でそれだけで十分という印象でした。そして「セリフが言いにくそう」と思いました。映画でも結構原作通りにセリフがついていて長台詞が文語調なので聞いただけではぴんと来ないところもあります。鏡花の文章自体はとても好きですが役者さんは大変だろうなと思いました。文章で読むとファンタジックな情景が絵画的に描き出されていてセリフも印象深くてよいなと思います。これを期に鏡花全集に再挑戦してみようかと思います。ありがとうございました。

鏡花の父、清次について 投稿者:太田龍子
投稿日:2022年 1月 9日(日)11時10分44秒

 篠田様 皆様

昨日はありがとうございました。
金工の帯留が好きで少し集めたりしているので、いただいた鏡花の資料に載っていた錺職だったという父上が気になり、調べました。
以下の資料に廃藩置県前の加賀藩細工方として「泉清次」の名前がありました。

file:///C:/Users/hf7n-/Downloads/JPE000017_069.pdf

手元のコレクションに銘「光弘」と入ったものが2点あり、同資料に17世紀後半、五代藩主綱紀時代の工人リストに鈴木光弘という銀細工師が載っていますのでこの方の作品かと思います。
泉清次の工名「政光」と一字かぶります。
親戚かなと思いましたが、金工師も工房などの系統があり、「光」の付く細工師も何人かいるようなので親戚ではなく同門のような関係かもしれません。

銘:光弘 銀工 梅の帯留 https://www.instagram.com/p/CRbbldijBm2/

同じくとんぼの帯留
https://www.instagram.com/p/CRbbQsvjJcm/

些細なことですがおかげさまで鏡花についてまた少し興味が増しました。
https://note.com/ryoko_ohta

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