「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2022年03月07日


JR上野駅 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2022年 2月19日(土)20時01分46秒

 非常な労作と思います。今読み進んています。東京と言うことメガシティをJR上野駅から、一人のホームレスの男を通じて鋭く切り込んています。どのページから読んても迫力満点です。ただひとつ、終始気になる点があります。暗黙のタブーについてです。アメリカのタブーは、黒人差別ですが、日本のたタブーは、歴史的に畏れ多い方のことです。さすがに抑制の効いた文章で問題はありませんが、なんとなく、終始、気になりました。

JR上野駅公園口を読んで 投稿者:遠藤大志
投稿日:2022年 2月22日(火)09時49分40秒

 柳美里(ゆうみり)の小説は以前に数冊読んだきりで、それほど印象に残っていない。
今回読ませていただいて感謝している。
 本著は書籍帯にも大々的に宣伝している通り、「全米図書賞」を受賞し、30万部を売り上げたベストセラー小説である。

 2014年に刊行された小説を、今、多くの人が手にとっている。柳美里による『JR上野駅公園口』(河出書房新社)である。
 あらすじはざっとこういった内容である。
 福島県相馬郡(現在の南相馬市)出身、1933年生まれの一人の男の人生を通して、日本の戦後史が浮かび上がってくる。出稼ぎ労働者として上野駅に降り立ち、一度は帰郷するも再び上京し、ホームレスとなった彼の人生は2006年で終わる。その人生を通して、また、上野公園という空間が持つ歴史を通して描かれる、東京大空襲、1964年東京オリンピック。そして、男の脳裏に最後に浮かび上がる情景として示される、後に彼の故郷を襲うことになる2011年の東日本大震災。さらには、物語の終盤、2020年東京オリンピックの誘致を巡って、彼らホームレスの人々がより片隅に追いやられていく姿が描かれている。

 併せて柳美里自身が福島県南相馬市に住んでおり、 二〇一二年三月十六日からは、福島県南相馬市役所内にある臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」で、毎週金曜日「ふたりとひとり」という三十分番組のパーソナリティを務めている事があとがきに書かれている。

 このようなことから、「出稼ぎ」→「上野駅」→「帰郷」→「上野駅」→「ホームレス」→「東日本震災」の流れが、著者に並々ならぬ感慨と、書かずにはいられない衝動を起させたのだろうと推測する。
 では僕はどう感じたのかと言うと、正直今一つグッとくるものを感じることはできなかった。
著者の筆力は上手いし、読ませる力は十分以上あるのは言うまでもないのだが、どうしても馴染めない何かを感じてしまう。何故なのか?
@ホームレスが主人公であるが、著者柳美里がちらついて、実感を伴っている感じが伝わってこない。
Aなぜ主人公は再び上野に戻り、ホームレス生活に入ったのかが解せない。
Bホームレスの最大なる特徴は、見た物のみすぼらしさでもなく、寒さでもない。その耐え難い悪臭である。これに耐える(麻痺)することが本当のホームレスになった証拠である。
その辺の記載がないので、今一つ臨場感が湧かない。
Cアメリカから日本を観た場合は驚きや感動を覚えるかもしれないが、日本人にどこまで響くのかは疑問である。
D通行人や傍観人がホームレスに対して感じている偏見や悪口が聞こえてこない。

とは言え、良かった点も数多くある。
@主人公の方言による土着感が伝わってくる。
Aインテリシゲちゃんの発言で、歴史観や文化観が付加されている。
B天皇陛下と共に生きた足跡が浩一という名前や、行幸啓という行事で、対照的に描かれており、頂点と末端の社会階級の開きをまざまざと知ることができる。
守られるべき人と、守られない人とは何であるのかを考えさせられる。
C実際のホームレスに度重なる取材を実施し、最後まで書き上げた執念には驚嘆を覚える。
DJR上野駅公園口の新たな見方、感慨が読者に生まれた。

■お聞きしたい点(テーマ) 取材した事実をどのように作品化しているのか、分析をお聞かせください。特に、詩的な部分と具体的な写実部分との配分がどのような効果を上げているか、ご自身の創作経験も踏まえて意見をうかがいたいと思っています。

・取材した事実をどのように作品化しているのか、分析をお聞かせください。
→行動履歴や人流の流れ。行動パターン、ホームレスならではの危機管理に反映させていると感じた。

・詩的な部分と具体的な写実部分との配分がどのような効果を上げているか?
→回想シーンと現在(現実)との区別。
・詩的=回想
・写実部分=現在(現実)
にすることにより、過去の在りし日の幸せな家族の肖像が蘇る。
現在(現実)は守るべき存在を失った自己の虚無感が現れる。

JR上野駅 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2022年 2月23日(水)11時54分44秒

 この小説は私に取って謎だらけです。屋根を持つ人には屋根を持たないホームレスの気持ちわからないという。その通り。わからない。謎です。自立支援法や、簡易住宅、救済措置はある筈だが、なぜ過酷なテント生活を余儀なくされるのか、確かにわからない。皇族批判はともかく、天皇批判は、日本人にはタブーと固く思っていたが、抑制されているものの、言論の自由はもちろんだが、なぜ、日本人にタブーと思う聖域に、踏み込むのか。言論の自由と問題は無いとはいえ、私には謎です。

柳美里 JR上野駅公園口 感想 投稿者:阿王 陽子
投稿日:2022年 2月23日(水)17時02分36秒

 美術館や博物館のある上野公園のイメージが変わってしまった作品でした。ホームレスのかたについては普段こわい印象があり近づかないようにしていたので、この作品ではじめて、コヤや、缶集めなどをする実態を知りました。ホームレスになる前に、公的な生活保護や支援をなぜ受けられないのか、と思いましたが、そこまで公的な支援がまわらないのかもと思いました。

主人公、72歳のカズと、途中で亡くなったシゲさん、彼らを中心に、現在の天皇、昭和天皇、現在の上皇の三世代の天皇を、最下層である国民(臣民)が見つめているような、社会的な小説だと思いました。

でも、薔薇のくりかえしのところと南無阿弥陀仏をくりかえしているところが、いまいち自分には過剰な表現のように思われました。

自分の息子に浩宮さまの一文字、浩をとり、浩一と名付けたとありましたが、日本人がよく付ける名前の付け方で、在日の著者の柳美里だからこそ、そういった日本人らしさに敏感になり、日本らしさ、日本人らしさ、国民性、に敏感になって、こういった小説を書いたのだと思います。

最後、駅のホームのシーンはアンナ・カレーニナかと思いましたが、自殺してしまうのか、と、なんだか悲しくなったラストでした。

ホームレスが、今の世の中にまだいるのがとても悲しく、公的な支援を受けられて、温かい暮らしができないのか、と思いました。

山狩りの話は知らなかったのですが、恩賜公園なのに、国家権力によって社会の最下層である国民のホームレスを邪魔扱いして排除、清掃するのは、なんだか日本がやはり、権力国家で、戦争後、アメリカによってまた違った現代になり天皇を象徴だけとしたはずなのに、やはり天皇を頂点とした国家なのかもしれないな、と思いました。

文章は読みやすい文体でしたが、全体的に暗い内容で、読み終わった後の爽快感がなく、新聞記事の社会面をたくさん読んだあとのような、陰鬱感が残りました。

JR上野駅公園口 柳美里 投稿者:佐藤直文
投稿日:2022年 2月24日(木)17時45分47秒

 上野は55歳から69歳まで勤めた会社のあったところでJR上野駅浅草口を使っていました。しばらくして途中から階段に中年女性のホームレスが座っていました。ただ、昭和通り側を見て座っています。朝夕、通るたびに遠くから見て、何か安堵感を得ました。

確かに取材して書き上げましたという作品でした。著者の小説は初めて読みました。

主人公が、就職目前の息子の突然の死、妻の突然死を経験し、孫の足手まといにならないようにと上京しホームレスとなり、自殺する。この流れに違和感がなければ、「取材は成功」だ。が、安易に突然の死が続いて、ついていけない。さらに孫が大震災の津波に飲み込まれるという話です。たしかに人生は苦しみ悲しみの連なりだ。なぜ、こんなに苦労ばかりが重なって良いことが少ないのか。悲運をこれでもかと連ねる。

真宗の話はなるほどのエピソードと思いました。バラについては取材したからには書いておこうとしたとしか見えません。削除可能部分があると思いました。

もっと取材してほしかったのはホームレスの本音です。ホームレスという縄張りのある社会に入るときのボスとの絡み、自分の迷いと諦観にいたる経過を知りたいと思いました。

ムラの掟、利権、いじめなどがあるはずです。ホームレス同士の威嚇から怒鳴りあいの獣の喧嘩も目にしました。友人が泥酔して上野のベンチで寝た翌早朝、目を覚ましたら下着姿だったと聞きました。

エロ映画館の部分の描写は面白く読みました。こういった部分を拡げてほしかった。

昭和8年生まれの主人公が天皇の一字をもらい、浩一と名前を付けた設定のところはユーモアがあった。「山狩り」の描写は優れたノンフィクションを見たようで良かった。

時代と人間の切り結びに果敢に挑んだ熱意はかいますが、共感はできなかった。

JR 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2022年 2月25日(金)07時22分31秒

 ホームレスになるには、地域共同体から切り離され人々であつた。しかも上野公園に集まって来るのは、東北出身者が多かった、とある。p176.もしそうであるなら、政治や、行政や、NGOの責任と思います。しかし、続く文章に天皇の視線とか、権力が出て来る。天皇制の権力の今なをと続く。頭を傾げます。行政やNGOが、生活保護や、自立支援や、簡易住宅を、何度も丁寧に説明し勧誘していると思いますが。

「JR上野駅公園口」 柳美里 (河出文庫) 感想 投稿者:金田清志
投稿日:2022年 2月25日(金)19時04分47秒

 方言で書かれた部分は読みにくかったが、ホームレスとなった地方の貧しい家庭に生まれた主人公の物語として読みました。

 どうしてホームレスになったのかはそれぞれ事情は違うだろうが、多くは自分の過去を知られたくない、隠したい人たちもいる。そういう人たちは社会的な援助を嫌うとの事だが、この小説では何故ホームレスになったのかが謎だ。。

この小説では”個”としての人間を、「山狩り」と言うホームレスにとっては迷惑以外の何物でもない行事を通しての皇室の方々と、ホームレスをうさん臭く且つ迷惑そうに見つめる通行人(一般人)、この三つのに分けているように思う。

皇室の方々は通行人とは比べようもない”個”であり、ましてやホームレスはその存在を目に触れさせてはいけない存在としてある。

この小説ではそうした絶対的な”個”と対局にあるのはホームレスだととみなし、社会の中での個とはどういうものなのかと問うたのでは、とも思った。

この小説では様々な人間の格差が書かれているが、格差問題はホームレスと通行人との間にあり、通行人同士の間での事だと言っているようにも思う。

一読して未消化の部分と言うか、判然としないものが二つ。

一つは主人公が何故ホームレスになったのか?
 小説では息子や妻に先立たれ、一人暮らしを心配した孫の麻里が主人公と同居したのだが、
「二十一歳になったばかりの麻里を、祖父である自分とこの家に縛るわけにはいかない、と思った。」P122
と、家を出てしまうのだが、これだけでは説得力がない。

しかし、
「行き場のない閉ざされた自分の生〜」P148
「どんな仕事にだって慣れることができたが、人生にだけは慣れることができなかった。」P151
とあり、出稼ぎ等で職を転々とせざるをえなかった主人公は家では安穏としていられなかったのだろうか?

二つ目は主人公は自殺するような雰囲気で小説は終えるのだが、その動機が今一つはっきりしない。
 「山狩り」の最中、
「空を見上げ、雨の匂いを嗅ぎ、水音を聞いているうちに、いまこれから自分がしようとしていることをはっきりと悟った。」P158
 とあり死の決意をしたようだが…。

他方、
「暦には昨日と今日と明日に線が引かれているが、人生には過去と現在と未来の分け隔てはない。誰もがたった一人で抱えきれないほどの膨大な時間を抱えて、生きて、死ぬー。」P160
 と、東北大震災で孫娘・麻里の死と重ねて書かれているのは作者の思いなのだろうか。

JR上野駅公園口を読んで 投稿者:荒井 幹人
投稿日:2022年 2月26日(土)10時11分25秒

 感想
 読み始めてすぐ、主人公が死者であることがわかりました。
 少し読み進むと、主人公はホームから電車に身を投げて自死したのであろうとわかりました。しかし、主人公がなぜ浄土にいないのか、理由がわかりませんでした。
 この理由は、最後にわかりました。  とても残酷な終わり方でしたが、主人公の人生を描き切るには、このような終わり方しかなかったのだと思いました。

取材した事実をどのように作品化しているのか

 取材した浄土真宗の教義を理解した上での、作者の疑問を作品化していると思いました。

 「「浩一は浄土さ行ったんだべか?」妻の節子の呻くような声が耳を打った。」(河出文庫67頁)、「節子の体が震えだした。「菩薩となった浩一と、もう一回……もう一回話さいっぺか?」(70頁)は、作者の疑問を表現しているのではないかと思いました。

詩的な部分と具体的な写実部分との配分がどのような効果を上げているか

 「田圃……水張って、田植え終わったばかりの今年の田圃……」(161頁)から詩的な表現がしばらく続いた後に出てくる震災の描写は、取材に基づいて書かれていると思います。詩的な表現を、取材に基づく写実表現に一変させることで、心の準備もなく震災に見舞われる故郷の光景を見ることとなってしまった主人公の動揺が強調されていると感じました。

JR上野駅公園口 投稿者:藤原芳明
投稿日:2022年 2月28日(月)16時32分38秒

 はじめまして、藤原芳明と申します。
今回、見学者として貴会へ参加させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、さっそくですが、今月の標記課題作品を読んだ感想、幹事殿から出された討議テーマへのコメントを投稿します。

(1)作品の感想、討議テーマに対するコメント
 著者の柳美里は、ホームレスの人々に強い共感を寄せ、主人公(78歳の男)の心情を叙情的に、ときには詩的な文章で表現している。対照的に、この人々を置いてきぼりにした(と著者には感じられる)現代日本社会を、意図的にドライな表現で描写している。

 作品中、「まもなく2番線に池袋・新宿方面行きの電車が参ります、危ないですから黄色い線までお下がりください」というアナウンスが4回繰り返される(冒頭近くp10、途中p87、終盤近くp161、作品の末尾)。このことから、この作品全編が、自ら死を決意した主人公(彼はホームの線路側へむかって歩き出している)の、脳裏に明滅する過去の断片たちであると理解される。その中心は当然、主人公を打ちのめした過去の出来事、息子の突然死、妻の突然死、そして最後は3.11の震災による孫娘の死である。しかし、それらの記憶の合間には、たまたま耳に入ったのんきな主婦たちの会話や、バラの絵画展からの連想でよみがえったキャバレー嬢との記憶などもフラッシュバックされる。著書が作品をこうした構成にした意図は、主人公の脳裏に去来した回想のとりとめなさ、多層的な記憶の断片を、モンタージュ的に表現することだったのではないか。

 この作品をどう読むかは、読者が、主人公を一例とするホームレスの人々に対する関心、共感を、著者と共有できるか否かによるのだろう。

(2)ホームレスを題材にした別の作品 安部公房「箱男」
 柳美里のこの作品を読んで、思い出した作品がある。私が学生時代(40年以上昔)に読んだ安部公房の「箱男」(1973年)だ。本が手元にないので詳細は確認できないが、およそつぎのような作品だった。

 ダンボール箱を頭から腰までが隠れるようにすっぽりかぶり、箱に開けた小さな穴から外界を覗きながら都会をさまよう生活をはじめたある男、「箱男」の物語。彼は社会の決まりごとから完全に自由な存在であると同時に、社会のどこにも登録されていない、すなわち自分の存在証明をもたない人間。匿名であると同時に、誰にでも代替え可能な存在でもある。安部のこの作品は、カフカ的不条理のテーマを極限まで振り切ったアバンギャルドなもので、当時の私にはよく理解できなかった。しかし思考の迷宮にはまったような、それでいて心地よい読後感を記憶している。

 安部は、実際にダンボール箱をかぶったホームレスに出会い、衝撃を受けて、この小説の着想を得たという。柳美里の「JR上野駅」と安部公房の「箱男」では作風、テーマ、文体、すべてがまるで異なっている。ただ、柳美里が「箱男」を昔読んだことがあり、何かをインスパイアされた可能性はゼロではないと思う。それは「JR上野駅」の中に、例えばつぎのような一文があるからだ。「存在しなければ、消滅することはできない」(p37)

(3)感想まとめ
 自分ではどうすることもできない環境や個人的な不幸が重なって、本人が望まないのにホームレスにならざるを得なかった人々もたくさんいるだろう。例えば世界中で苦しむ多くの難民たちはその典型だ。国内でも、ホームレス100人の人たちには、当然100人の個人的事情があるに違いない。柳美里のこの作品は、ホームレスであるひとりの男の人生を、共感をこめて描いている。

 しかし、100人のうちの何人かは、「箱男」のように自らホームレス生活を選択した人もいるかもしれない。その意味で、インテリのシゲちゃん(何かから逃亡するために社会的存在を消してホームレスになった)に、他の仲間たちがどうしてホームレスになったのか、聞いてみたかった気がする。

『JR上野駅公園口』を読んで 投稿者:藤本珠美
投稿日:2022年 3月 1日(火)19時01分27秒

過酷な人生を生きる主人公の心の中が、乾いた感じに描いてあるような気がした。

雨、詩的な表現であったり、涙を流し、家族を思う主人公ですが、何か諦めてしまったかのような、しかしだからこそ苦しい現実の向こう側まで、その目は見ているような気がする。

バラについての記述や、特に通行人の会話がしばしば表われてくるのは、著者が演劇に携わっていたこともあるのかなと思いました。

同時間帯に、ある人は冗談を言いながらその場所を通り過ぎ、この小説の主人公はこれまでの人生を思っている。これは台本のような感じがしました。柳美里さんの作品は、二十年くらい前に何か一冊読んでいるのですが、タイトルが思い出せないのですが、今回のテーマ作品も、詩的でありながら硬質な文章である気がして、そういう部分に魅力を感じました。

JR上野駅公園口を読んで 投稿者:森山里望
投稿日:2022年 3月 1日(火)20時02分48秒

@ 何に気持ちを添わせて、どこに足場を置いていいのかわからず迷子になったまま読み終えてしまった感がある。もう一度読んだら何か落ち着くのではとすぐに再読したが読後感は同じだった。福島の百姓でありそこに家族はあってもカズの暮らしはなく、方々の出稼ぎ先では滅私の仮住まい。生きることも、命を失くしても死ぬこともならず、現在と過去と上野の巷を浮遊する。読んでいて苦しいのだが涙の感情にはならない。全体に宙を彷徨うような感覚が筋書きとは別の面から主人公カズの人生を醸しているのかもしれない。

 問にあった詩的表現と写実的描写の交錯の効果については、そのことがが全体によりどころのなさを増幅させているように思う。

A 私は東北の農村地域に昭和40年生まれ育ち、カズの息子浩一とそう遠くない世代である。また海辺から遠い山間部ということを除けば、この小説の背景にある福島県相馬と似ていて、ある種郷愁のようなものを感じながら読んだ。小学校ではクラスの8割がたが米作農家の子で、私のような他所から移り住んだ勤め人の子は稀有だった。幸い子ども社会に土地の因習や家柄の上下関係は作用しなかったが、両親、殊に母は土着の人たちに受け入れてもらえるよう暮らしていくことには、計り知れない気苦労があったと今になって思う。

 これを読んで思い出すことが多々あったが、確かに当時父親が出稼ぎに出ている家庭が一定数あった。子ども同士の会話にも春になると「今日、父っちゃ田植えさ帰ってくる!」「俺のどごもだ」などと幾分はしゃいでお土産の話題になっていった。まるで三浦哲郎の小説「エビフライ」だ。また、今思い起こすとおかしな話だが、国語の時間に「出稼ぎに行ってるお父さんに手紙を書く」という授業があった。先生は「お父さんがおうちにいる人は、お父さんが出稼ぎに行っている気持ちになって想像して書きましょう」といい、全員が書かなくてはならなかった。私はひどく困ったのを覚えている。そしてその手紙は教育委員会かなにかが選んだものを冊子にし、市が出稼ぎ労働の人たちに送るのだと教えられた。

 とにかく当時、あの農村地域にあって出稼ぎは農家の生業を支えるなくてはならない身近な手段だった。しかし、子ども心に「出稼ぎ」という言葉からは、冬の厳しい寒さと重なり暮らしに沈殿して堆積する重暗いものを感じたのを覚えている。余談でした。

B 天皇制については考えたことも、考えようとしたこともなかった。漠然とそういうものと思っていた。そういう自分を知らされた。

C 文中福島の方言がかなりネイティブに忠実に表記されていて、長い部分もあった。同じ東北出身の私ですら理解できない部分があったくらいで、東北以外の方々にはわかりずらかったのではないかと思うのですが、どうでしたか?

Dこれが全米で評価されたのは意外でした。浄土真宗を説くあたり、福島の方言、日本語特融の擬音も多く、どう訳されて英語圏にどう理解され浸透したのだろうと思った。

E カズの生きざまは、何ら恥じることはないのに、なぜホームレスになることを選択したのか金田さん同様私にも理解できなかった。

F 問について 取材がどう作品化されたのか分析はできませんが、書くために取材したのではなく取材が取材を呼んで連なり小説にしたくなったのではという印象をもちました。

「JR上野駅公園口」感想 投稿者:石野夏実
投稿日:2022年 3月 1日(火)20時12分34秒

 柳美里作「JR上野駅公園口」2014年3月刊行(河出書房新社)感想
                     2022. 3.1  石野夏実

 読書会のために買っておいた文庫ではあったが、映画の会絡みで映画監督のフェリーニの自伝や評伝、インタビューがー面白く、そちらばかり読んでいた。この小説を読み始めたのは先週木曜日からだ。最初の「詩」の導入になじめず、もたもたしていたが字を追っていくうちにページ数が半分になった。あと半分だから気合を入れて読んでしまおうと、金曜日に読み終わった。

 柳美里は、この小説で一体何が描きたかったのか。平成天皇と同じ生年月日のカズという主人公。息子は皇太子の浩宮と同じ頃生まれたので浩一と名付けられた。カズの妻は、大正天皇の后の節子皇后と同じ名の節子だ。こんなにも同じ生まれた時代や名前なのに、その生涯は、全く違う。

 天皇という名称は「国王」より格式高く「皇帝」と同じ扱いだ。世界中で「国王」は何人もいるけれど「皇帝=エンペラー」と呼ばれるのは日本国の「天皇」しかいない。そしてこの国は、外国から見れば「立憲君主制の国」なのである。

 戦争責任も問われず生き延びた天皇とそれを利用した制度。「行幸」「山狩り」を通して「天皇」という存在も問うている。我々は、いまだに「臣民」なのか。

 作者は、あとがき(2014年2月7日)の中で、もともとホームレスを書こうと構想したのが2002年あたりで、06年から「山狩り」と呼ばれる行幸啓直前に行われる「特別清掃」の取材を3回行ったと記している。

しばらく間が空き8年の歳月が流れた時、2011年3月11日に東日本大震災が起き、福島第一原子力発電所の爆発事故が起きた。原発から半径20キロ圏内の地域が「警戒区域」になり誰もが避難生活を余儀なくされた。生計が成り立たないため出稼ぎで郷里を離れているうちに帰るべき家を失くしたホームレスの人々と、強制的に戻ることができない人々の痛苦を相対させ、2者の痛苦を繋げる蝶番の様な小説を書きたいと思ったと書いている。

 彼女の書きたかったことの大半は、私たち読み手に伝わったけれど、カズに電車の飛び込み自殺をさせないで欲しかった。人生の半分以上を出稼ぎに行き、家族の暮らしを支え、やっと自宅で妻とふたり水入らずで過すことができた晩年7年間の穏やかな生活は、この小説の中での救いだった。しかし作者は、カズには地震や津波に押し流されて亡くなるより、自分で自分の命の終わりを決めさせたかった。

カズは、妻の死後、妻も息子と同じように眠りの中で命を失くしたため、死は怖くないが目を閉じるのが怖くなり鬱と不眠症になっていた。

 同居してくれている21歳の孫娘は、洋風の朝ご飯を作ってくれる可愛い優しい子だ。負担になりたくない縛りたくないとの思いの強さから、書き置きを残して家出をしてしまう73歳のカズ。(この場面は、少し説得力に欠けたが)

 30歳の出稼ぎの時に降り立った上野駅で、野宿生活を始める。死に場所を探していたはずが5年間のホームレス生活になってしまった。カズの目で観た風景も、バラ好きな柳美里個人が混入させた、おそらく行ったであろう上野の森美術館の2012年6月「ルドゥーテのバラの図譜展」も、カズの気持ちか柳自身の気持ちかわからない文章も時々あるけれど、そして芥川賞を受賞した「家族シネマ」(彼女の作品はこれしか読んでません)でも、急に場面転換が起きるのは、彼女の小説の独特な個性だと思う。

おそらく自由で気ままでわがままで、何があっても自分を貫く無類の女性小説家だと思う。

担当の中谷様へ=質問の答えになるかどうかはわかりませんが、今度小説を書くときは、一度急に場面転換をしたり「詩」を置いてみたりに挑戦してみようかなと思いました。

また、ご紹介の英語版の表紙に書かれた説明文と、黄色い菊の紋章入りのイラストの表紙、両者の鮮やかさにも、原作同様に大きな拍手を送ります。

JR上野駅 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2022年 3月 2日(水)06時53分44秒

世界には、戦争や政治的理由で止むに止まれぬ事情の難民が数百万いるようです。映像では、彼らにはテントすら十分でない悲惨な、気の毒な状況です。彼らには救済は無い。救いは無い。誰からも見捨てられた追い詰められた存在です。上野公園は公共の場です。ホームレスには、行政やNGOの生活保護、自立支援、簡易住宅などの代替案が提供されている恵まれた条件と思います。公共の公園で、公共や国家の事業がおこなわれているとき代替案に移るのは当然と思います。それを被害者目線で、ことさら天皇の行幸に絞つて、国家権力とか、なんとか何か狙い撃ち、意図的に思います。謎です。

「上野駅公園口」を読んでで 投稿者:清水 伸子
投稿日:2022年 3月 2日(水)16時56分24秒

 柳美里の作品は以前に「命」を読みました。彼女の激しい生きざまが胸に迫る、辛いけれど凄みのある美しい心象風景が後に残りました。それに対して「上野駅公園口は、主人公が家族のために一生懸命生きたにもかかわらず、次々にその大事な家族を失い、ホームレスとして暮らした末に自殺してしまうという悲惨な話ではあるのですが、私には切実さが伝わってきませんでした。彼女が伝えようとする意図はわかる気がするのですが…。ざっくりした感想ですみません。

「JR上野駅公園口」を読んで 投稿者:山口愛理
投稿日:2022年 3月 2日(水)17時19分52秒

柳美里作品は、彼女が所属していた劇団東京キッドブラザース主催の東由多加との恋愛と彼の死、自身の未婚出産を描いた『命』しか読んでいない。壮絶な内容でほとんどノンフィクション小説だったことを覚えている。

ちなみにデビュー作では、モデルとなった女性との間で訴訟問題があり、その場面をカットするという結果になったようだ。私は読んでいないが、そのニュースだけは覚えている。

恐らく今回の小説も含めて、事実に基づいた事柄を小説化することを得意としているのではないか。特に今回の『JR上野駅公園口』においては、ホームレスへの取材、浄土真宗に関する取材、福島の地震・津波被害に関する取材などをもとに、それらを結び付けた労作だと思う。

しかしノンフィクション風だけで終わらせないために、詩的表現でカバーするという工夫を作者はしているように見える。これが功を奏しているのか、返って中途半端な印象になっているのかは、読む側の受け取り方によって違うだろう。

バラの下りやマダムたちの会話は芸術の地である上野とホームレスの生活の対比を際立たせるためと思う。が、できればそれらもホームレスの目から見た違和感ある世界として描いて欲しかった。インテリ風のシゲちゃんの存在などは興味深いので、何人かのホームレスに関する取材をもっと膨らませた形の小説を読みたいと思った。

主人公が自殺するというのは、そこまでの切迫感を感じないので唐突感があったが、孤独に耐えられなくなったということか。小説後半に出てきた「目を閉じるのが、怖かった。幽霊のようなものが怖いのではない。死が、自分が死ぬことが怖いのではない。いつ終わるかわからない人生を生きているのが怖かった。」というところに主人公の心情が最も現れているのでは、と思った。

JR上野駅公園口  投稿者:森山里望
投稿日:2022年 3月 2日(水)21時09分43秒

訂正

三浦哲郎の「エビフライ」は「盆土産」の間違いでした。
記憶で書いたらちがってました。すいません。

JR上野駅 投稿者:浅丘邦夫
投稿日:2022年 3月 3日(木)12時35分56秒

詩とは何でしょうか、個人的に常に思うこと。一つ、心の底の底から届く声、二つ、言葉のリズム、三つ、言葉の香り、四つ、読む人の心と心との共振、と思うのですが、あくまで個人的な常の思いですので。

JR上野駅公園口を読んで 投稿者:林 明子
投稿日:2022年 3月 3日(木)22時34分48秒

救われない話だなと思いました。
同じ生を受けても運の悪いことばかりが続く人生。
どうしたら救われる、明るい方を向くことが出来るのか、考えさせられました。

ホームレスになる理由は様々だと思いますが、ホームレスの方々の日々の生活、何を考えて生きているのか、仕方なく生きているのか、厳しい生活の中にも楽しみや気になることがあるのか?(これらの疑問は、ホームレスの方々に対して失礼なものかもれないです。ごめんなさい。)
作者の取材・作品から、そういった疑問の答えの糸口になる部分が少し見つかったようにも感じました。

作品に何度か通行人の会話が出てきますが、それらの作品名中における効果はどんなものなのかが、読み終えてもよく分かりませんでした。
日常のありふれた会話と、ホームレスの苦痛や寂しさとが対比されているのかな、とも考えましたが、通行人の会話の部分が多すぎるように思いました。

まず、通行人の会話をホームレスの方達は、そんなに聞いているのだろうか?
聞こえていることはあっても、聞き取ってはいないのではないだろうか?
最後、天皇陛下を見たときに、「悟る」としたことはなぜ自殺だったのでしょうか。

同じ歳月を生きた自分と天皇陛下はロープ一本でしか隔てられていないのに、これまでの人生の大きな隔たりを感じて絶望したのでしょうか。
ホームレスになることが必ずしも不幸なことではないと思いますが、生活は厳しいものと思います。

運の悪いことばかりが続いても、強く支えてくれる人がいればホームレスにはならなかったのではないかと考えもしましたが、こういった考えも自分の傲慢や偏見によるものなのではないかと複雑な心境になりました。

「死によって隔てられるものと、生によって隔てられるもの、生によって近づけるものと、死によって近づけるもの…」一番印象に残った部分です。それらが何かはまだ浮かびませんが、考えてみようと思いました。

『上野駅公園口』の感想 投稿者:成合武光
投稿日:2022年 3月 5日(土)07時06分59秒

掲示板の沢山の意見を読ませてもらい、驚いてもいます。作者のことも知らず、他の本も読んでいないので、その反響にびっくりです。おなかの大きい妊婦の写真が本の表紙になっているのを、書店で何度か見ました。しかし本の表紙の写真を見て、なんとなしにタブーを感じました。そのため手に取って見ることもしませんでしたが、同じ作者だなとは思いました。この本を読みだすと、思っていたイメージと違うのに驚きました。

英訳はどんな表現だろうか、という同じような疑問も感じましたが、圏外に置いて読みました。
賞に値する本だと思いました。人間としての苦しみ、切なさ、哀しさが深く心に響きます。
‥今している努力は、生きる努力だ。
‥死にたいというよりも、努力することに疲れた。
‥落ちることを止められるのは、死ぬ時だけだ。それでも、死ぬ時までは生きなければならない。‥細々と駄賃稼ぎをするしかない。
‥地回りのヤクザ.ホームレス間の争いがある。
‥「特別清掃」の折は、人間とみなされない。在る人に、無い人の気持ちは分からない。

これらの文に何かを付け加えることは、何も浮かびません。象徴天皇を認めている法律の力は、ウクライナを侵攻しているプーチン大統領の頭の固さと、どっこいだろうか。否、本当は純粋な国民の祈りである、と思う。その力を世界の人々の幸せのために、発揮して欲しい、と今日この頃思うことです。プーチンの頭は21世紀の頭ではない。

  2022 03 04

(文学横浜の会)


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