「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2022年05月09日


「白い人」遠藤周作

<「掲示板」に書き込まれた感想>

浅丘邦夫さん 2022/4/13 11:35 投稿

自称狐狸庵、いたずら好きです。友人達に嘘電話して、慌てさせておもしろがる。作品も一筋縄てはない。一捻り二捻りして、尻尾をつかませない。私は、最近の二.三.作は別として、文横三十八号以来、一貫して禁教令下のキリシタンを書いてきました。遠藤周作と材料は多く重なりました。プロとアマの違いを痛感しています。今日は、これまでにします。

浅浅丘邦夫さん 2022/4/13 11:35 投稿

山本健吉氏が初期の作品であり、図式的、概念的な欠陥があると指摘したが、まさにその通りと思いました。主人公はユダの役割りであり、ジャックはキリストの役割りと思いました。又、狐狸庵山人は常にアンチテーゼを提起します。為に、嵐のように議論が巻き起こり、キリスト教会から、総スカンを食ったりします。狐狸庵山人の思うツボです。ただ者ではありません。

浅丘邦夫さん 2022/4/13 11:36 投稿

キリストが死んて人類の罪が救済される、これが教理です。しかし、ジャックお前が死んても何も救済は無い、ユダである、私を破壊しないとなんにもならない、と、いう狐狸庵山人独特の、アンチテーゼと思いましたね。

浅丘邦夫さん 2022/4/13 11:36 投稿

端的に言いますと、宗教は善を説き、文学は悪を好んて描くと思っています。主人公は悪を、すなわちユダの役割りを演じ、ジャックは善を、すなわちキリストの分身を演じます。周作の若書きであり、図式的、概念的で、欠点の目立つ作品と思います。とはいえ、傑作であることも間違っていません。キリストは死ぬことで、人類の罪を贖います。これが教理です。主人公はジャックに、お前が死んでも、何の救済もないぞ、という。ユダである、自分を破壊しなければ駄目だという。キリスト教会の牧師達から、総スカンを食らう所以だと思いいます。アンチテーゼです。皮肉屋です。一筋縄では、理解できません。でも傑作です。

浅丘邦夫さん 2022/4/13 11:37 投稿

主人公は悪の固まりのような人物です。裏切り、嫉妬、いじめ、姦淫、何故?、仏教は性善説ですが、キリスト教は性悪説です。人は生まれながらにして悪である、罪人である。理由などない、神様がそうされたのですから。原罪論です。又、その悪魔的人間ほど、神様は愛され救われる。矛盾だらけに思えます。しかし、それがテーマと思います。

中谷和義さん 2022/4/13 11:39 投稿

同じような境遇にあった主人公と神学生のジャックを分けたもの、それは広い意味での教育だ。主人公は愛のない家庭で、愛すること、愛されることを知らずに育った。大人になってこの作品を読むと、無自覚な言動で子どもたちの未来をゆがめてしまっていないか、反省を迫られる。

主人公は顔立ちにコンプレックスを抱いていた。「一生、娘たちにもてないよ。お前は」という父親の残酷なひと言が呪いとなり、女性とまともに向き合えなくなった。せめて母親が愛情をそそいでくれれば救われたかもしれないが、夫の放蕩に嫌悪を抱いていた母親は、プロテスタントの厳しい禁欲主義で息子の放蕩の芽をあらかじめ押さえ込もうとするだけだった。「ふみくだかれた灰から一層、火の燃えあがる」という古いことわざのとおり、両親によって健全な出口を失った性欲が、主人公をサディスティックな行動に走らせた。

一方、ジャックもさえない外見だった。しかし、「十四歳のとき、僕は自分の顔だちが十字架であることを知ったんだ」と、カトリックの神学生となることで欲求不満を昇華させた。確かに、享楽的な女学生モニックが言うように「顔がみにくいから、求愛する勇気もないから、神学校に入ったまで」かもしれない。主人公が指摘するように「カトリックの奴は自分にまで平気でウソをつける人間」かもしれない。しかし、自分に課せられた制限から逃れられない中でも「よりよく生きたい」という気持ちは普遍的なものだろう。その願いに出口を与えたのが、ジャックの場合、「愛」を重視するカトリックの信仰だった。

カトリック作家の遠藤は、ジャックを「キリスト」に、主人公を「悪魔」に擬している。悪魔である主人公は、ジャックのいとこマリー・テレーズを裏切り者の「ユダ」に仕立て、ジャックに信仰を捨てさせようとする。しかし、ジャックは最後の場面で自殺という「罪」を犯すことによって仲間を守り、いわば殉教を果たした。マリー・テレーズの純潔の放棄も殉教的な行動にみえる。逆に主人公は、室内を飛び回る蠅(=悪魔の象徴)のように、苦しみから逃れられないままだ。ジャックが自殺した後、主人公がつぶやく「俺を破壊しない限り、お前の死は意味がない」という言葉は、「悪そのもの」のような存在になってしまった己の魂を救ってほしいという逆説的な祈りだと思う。

この小説は「図式的」と指摘される。たしかに「善と悪」「人間の弱さと信仰」といったテーマがむき出しに示されている。しかし、日本に根付かないキリスト教という宗教を扱う以上、一般にもわかりやすい構造が必要だったのではないか。ちょうど、イエスが常にたとえ話をもちいて説教をしていたように。

清水伸子さん 2022/4/13 11:41 投稿

遠藤周作はクリスチャンの作家として認識していたので、邪悪な主人公がしぶとく生き延びていくこの作品を読んで衝撃を受けました。よくこんな作品が書けたと思います。読んでいても苦しくなるのに、作者はどれほどの思いで書き続けたのでしょうか。小説家としての業を感じました。
 また、今ロシアがウクライナを蹂躙している様に正論が力を持てない無力感を感じてしまうのですが、この作品はある意味人間世界の姿を描ききっているのかとも思いました。

 質問への私なりの考えを書きます。

@自分の快楽しか顧みぬ父親と、その反動で厳しく禁欲主義を押し付ける母親が要因になっていると思います。特に正しい事を押し付けようとする母親の中に、正直でないもの、自分自身をも偽っている姿を見てしまったのではないでしょうか?そして、老犬を虐待する女中の様子を見て、情欲の喜びを感じるのが紛れもない自分だと認識してしまったのだと思います。

A新潮文庫版のP.18 2行目からの文
「マキやその味方を裁き拷問し虐待したあの『松の実町』事件の一味として同胞?から復讐されるだろう。もちろん逃げるつもりだ。いや、私の裡の拷問者を地上から消すことは絶対にできないのだ。その事実を私はこの記録にしたためたいのである」
というこれが答えなのではないかと思います。邪悪はしぶとく、根絶する事は出来るのかという大きな投げかけをしているように思いました。

藤原芳明さん 2022/4/16 20:14 投稿

1.はじめに
 19歳の時、遠藤周作の「沈黙」を読み、感動した記憶がある。その後、現在に至るまで何度か読み返している。また「死海のほとり」を読み、カソリック信徒である遠藤が、明確なキリスト教的、神学的テーマを真正面からとりあげる作家であることを再認識した。後年、「わたしが・棄てた・女」を読んだ。この作品は、りきみのない軽い文体なのに深い小説であり、天使のような心をもつ女性 森田ミツの物語に再び感動した。
 「白い人」は今回初めて読んだ。この作品もキリスト教的テーマを扱ったもの。ナチ支配下のフランスを舞台に、ナチに拷問される極限状況の人間たちを、悪魔(デーモン)的人物である主人公の視点から描いている。

2.討議テーマに対するコメント
(1)主人公がサディスティックな人間になった要因は何だと思いますか?

【コメント】
 もちろん主人公の先天的性癖である可能性もある。この性癖に、後天的要因があるとすると、以下が考えられる。
自分の醜い(と本人が感じる)容貌へのコンプレックスや、父や女性達から疎まれる屈辱感に対する裏返しで、相手を屈服させ、屈辱を与えて苦しめることで、強い優越感を得、同時に快感を覚えるようになった。
 作者は神学生ジャックを、主人公と同じく容貌へのコンプレックスをもちながら、主人公とは正反対に、キリスト教に献身し、他人のために祈る人物として描いている。すなわち、ジャックとの対比をきわだたせるドラマツルギーとして、主人公にこのような悪魔的人格を与えたのだろう。

(2)ジャックが自殺した後、主人公は「俺を破壊しない限り、お前の死は意味がない」と繰り返し呟きますが、これはどういうことだと思いますか?

【コメント】
 主人公は、ジャックに代表されるキリスト者や哲学教師マデニエ達を、綺麗ごとをならべるだけの偽善者と決めつけ、軽蔑し、その汚い本性を暴こうとする。そして拷問に耐えるジャックを、自己犠牲に陶酔し、英雄になろうとしているだけと糾弾する。人間は元来、罪を抱えた汚れた存在であり、決して十字架上のキリストにはなれない。ジャックは、マリー・テレーズを利用した精神的拷問に耐えられず、ついには同志を裏切るはずだ。この結果、偽善は暴かれ、悪の勝利が証明される、と主人公は考えていた。
 ところがジャックは拷問の途中で自殺してしまう。これは主人公から見れば、言わば責任放棄でしかない。悪魔的人間である「俺を破壊」するとは、十字架上のキリストの前で、「俺」に自分の罪を悟らせ、自ら悔い改めさせることだろう。しかしジャックの死は「俺」を改心させることはできなかった。これが「お前の死は意味がない」理由である。

3.「白い人」と「沈黙」
 遠藤周作はその後、「沈黙」でこのテーマをさらに掘り下げる。17世紀、キリシタン禁制の日本に送り込まれたイエズス会神父ロドリゴは、長崎奉行所の役人に捕えられ、背教を迫られる。初めは頑なに拒否したロドリゴだったが、神の沈黙に対し信仰が揺らぎ始める。そしてお前が背教(「転ぶ」という)しなければ日本人信者への拷問を止めないと言われ、ついに踏み絵を踏む。そして背教した帰化日本人として、その後を生き続ける。
 「沈黙」は、同志への拷問を前にして、自殺ではなく、背教という別の選択をしたキリスト者の物語であり、「白い人」の延長線上にある作品ともいえる。

和田能卓さん 2022/4/29 13:11 投稿

1955年上半期の芥川賞作品。昭和30年の時点では衝撃的な「悪」を描いた作品だったろうと思います。
 主人公がマリー・テレーズを誘惑する場面、エデンの園でイブをそそのかす蛇=悪魔を想起させられました。
 神に、イエス・キリストにすがって原罪を免れようとしない主人公の姿を読み取りました。

【テーマ】
@主人公がサディスティックな人間になった要因は何だと思いますか?

 主人公の「悪魔性」は生まれながらのものだったと思います。それを増幅させ、顕現化させたのが作中に描かれた切っ掛けの数々でしょう。

Aジャックが自殺した後、主人公は「俺を破壊しない限り、お前の死は意味がない」と繰り返し呟きますが、これはどういうことだと思いますか?

 拡大解釈してですが――自分を神、イエス・キリストを信じ、従うようにさせない限り、回心させることができない以上、神の僕として死んでも、ジャックの死に意味はないということだと考えます。

寺村博行さん 2022/4/29 14:43 投稿

(4月に入会しました。よろしくお願いいたします)

重い。非常に重い。とても疲れました。
高校生ぐらいの時だったか、同じく遠藤周作の作品『沈黙』を読みました。『沈黙』も、この作品と同様に ≪重い≫ 作品だったと記憶していますが、その時は、その重さを感じるよりも、作者の術策に完全に嵌り、感動させられた記憶があります。

人間の歴史では戦争は常にあり、現在でも毎日のように繰り返し戦争のニュースが流れてきます。戦争のような圧倒的な外力の前では、個人はあまりに小さなものでしかありません。そんな中で究極的な状況に追い込まれたとき、個人があくまでも尊厳を保ちたければ ≪死≫ を選ぶ以外に方法はない、という状況は大いにあり得るでしょう。

キリスト教は、教義としていかなる場合でも自殺を禁じていると理解していますが、ジャックの場合、ここで死ななければ個人としての尊厳はどうなったのでしょうか。自死しなければ、発狂して狂人として生きたのでしょうか。仮にそうだとすると、身体は人間でも、もはや人間といえるでしょうか。
ジャックは死んだ。とにかく状況に迫られて自死した。これはジャックなりに、ギリギリの最後のところで、尊厳を守った ‥‥ 身体は死んだとしても、人間としての尊厳は辛うじて保持した ‥‥ 尊厳という立場からすれば、生き抜いた、ということでしょう。
主人公にしてみれば「そんな手があったか ‥‥ そこまでは考えが及ばなかった」ということだったかもしれません。
作者は、この物語で「人間として満足に生きるためには、キリスト教の教義から逸脱しなければならないこともある」と、暗示したかったのかもしれません。

(テーマ? について)
やはり、もって生まれた性質と生い立ちに主な原因があると思われますが、そこのところは詳しくは書かれていないと思います。「一生、娘達にもてないよ。お前は」などの言葉や、イボンヌと犬、アラビアの少年の挿話、などが繰り返し語られます。それは物語全体の ≪サディスティックな暴力と悪の雰囲気≫ づくりに役立っていますが、要因までは仄めかす程度に暈されていると思います。

(テーマA について)
主人公が、自分の筋書き通りに事が運ばなかったことを悔やんだ言葉ではないかと思います。事ここに至っても、自分の望み通りにならなかったことを、ジャックの所為にしようとしています。主人公は、一連の悪を貫くことによって、善人であるジャックをも悪の方向へ道連れにする、そして悪は勝利し、偽りの善は敗北する、という筋書き ‥‥ これを ≪悪の完結≫ といっていいのかどうか分かりませんが、それに類する ≪悪の完結≫ を望んでいたのではないか、と思います。

(付記)
『黄色い人』のp.129に次のような記述がありました。
‥‥ あなたは、なぜ、ユダを見捨てられたのだろう。
「ユダ、私はお前のためにも手を差し伸べている。すべて許されぬ罪とは、私にはないのだから。なぜなら、私は無限の愛なのだから」
あなたは決してそうは言わなかった。聖書にはただ、恐ろしい次のあなたの言葉が記されてあるだけなのです。
「生まれざりしならば、寧ろ彼に取りて善かりしものを」
生まれざりしならば ‥‥ ユダとともに私は、心底からそれを思う。そしてふたたび生まれることが不可能な今、私が自殺することさえ、神は許さない ‥‥
明確に整理できるわけではありませんが、ここには同様の問題が提起されているように感じました。それは、悪と神に関係する問題のように思います。作者がいくつかの物語で繰り返し追及しているテーマは、その周辺の事柄のように思いました。

金田清志さん 2022/5/1 10:13 投稿

読後感は「重いテーマだな」と「キリスト教信者でもない者に、何処まで理解できるか?」との思いがありました。
若い頃なら兎も角、今読むのは、とても疲れる。

二度読んで「人間の悪」を問い詰めた作ではないかと思った。

始めの方に書かれている、ナチの侵略をうけて、その残虐さをまのあたりして、
「文化とか基督教とか、ヒューマニズムなどはなんの役にもたたない今日なのだ。
聯合軍であろうが、文明人であろうが、黄色人であろうが、人間はみな、そうなのだ。」
と主人公に言わせているが、これはナチに限らず人間の悪の本質を言っている。この記述はこの小説の前触れなのだろう。
ーー>今日的に言えばロシアのウクライナ侵攻を想起させる。

主人公は放蕩でみだらと言ってもいいフランス人の父親と、そんな夫に反感をもつ禁欲的なプロテスタントとして厳格に育てたいドイツ人の母親のもとで育つ。
外形的な引け目と、両親への反感などもあり、抑圧感の中で性的にもいびつな精神構造のいまま成長し、
それは「悪性」を内在したは自由へのあこがれともなる。

やがて神学校に通っているジャックと出会う。ジャックも外形的に引け目のある男だが、
「ぼくは、基督のように、ぼくの顔だけではなくこの世の顔を、みにくい顔を背負うつもりだ。」
と言い、ナチの残虐に直面しても未来への希望を望むが、
「いくら十字架を背負ったって、人間は変わらないぜ。悪は変わらないよ。」
と主人公の闇は深い。

結局、主人公はゲシュタポに協力して、ジャックを自殺させる側になる。
やがてナチは敗北し、主人公は裏切り者となるのだが、それでも逃げて生きようとする。
主人公の闇は深いが、それも人間なのだと作者は言っている。


毎日のようにロシアのウクライナへの侵攻ニュースを目にする現在、
この小説の読後感はなんとも憂鬱だ。人間とはなんとも愚かなのだろう。

石野夏実さん 2022/5/4 13:40 投稿

2022年5月読書会テーマ「白い人」感想
2022.5.3   石野夏実

 ドイツ人の母とフランス人の父との間に、1920年頃?に生れたフランスのリヨンに住む青年(一人称の「私」)が主人公である。この主人公には名前がない。両親にも名前がない。他の登場人物には全員名前がついている。

 容姿に決定的なコンプレックス(幼児期の父親による残酷な宣言がトラウマ)を持ち、それゆえ暗くて排他的な少年であったが、誰も彼の内面を知らなかった。もっと早い時期に彼を理解する愛ある人がひとりでも傍にいれば、彼の人生ももう少し違ったものになっていたであろうに。

同年代の神学生ジャックは「私」の理解者になろうとしたが、それは出来なかった。

「私」が、プールに入っている女子学生(マリー・テレーズ達)の下着を引き裂いたのをジャックに見られていて恥ずかしさが熱湯のように顔から頭にのぼった。ジャックは「豚!」「豚!豚!〜」と呻いた。自分よりも醜い男だった。それに対し「私」は嗤いたかった。
「君は斜視だ。斜視のくるしみは、ぼくにはわかるのだ」このアーメン輩の憐憫ほど私を傷つけるものはなかった。
 ジャックは、自分の容姿の醜さからくる苦しみかなしみを克服しようとし、自分の力でそれを昇華させ14歳の時に神学校に入学した。「私」の進学先の法科大学へジャックが教会法の聴講のため来校している。ふたりの出会いは下着事件の目撃から。文科生のマリー・テレーズは、ジャックの従妹で両親が亡くなってから世話になっているため逆らえず、女の子なら行きたいはずの舞踏会もあきらめている。

<薔薇の花は、若いうち つまねば  凋み、色、、あせる・・・>
「ぼくは、基督のように、ぼくの顔だけではなくこの世の顔を、みにくい顔を背負うつもりだ」とジャックは「私」に言い「私」にもせめて自分の斜視のかなしみだけでも背負ってくれたらと言った。
※「私」は自己対峙をしないため悪魔ぶりは徹底しているが、「斜視」とはっきり言う神学生のジャックには、思いやりや優しさが足りないのではと思う。

<青空は、まひるのうち 行かねば 陽が翳る、夜がくる・・・>
ジャックは大学の「私」の机の上に、色々なキリスト教の書物を毎週定期的に置いて行くほど積極的になってきた。(小説では=彼は攻撃してきた)

「私」は、下着引き裂き目撃で自分を傷つけたジャックへの復讐のためマリー・テレーズを騙して舞踏会へ連れ出し、お酒を飲ませ、水だと嘘を言ってさらにジンを飲ませて意識不明にさせた。
その後、マリー・テレーズとは校内で出くわしたが、ジャックとは教会に盗み見しに行った以外、41年の運命の日まで再会していない。
 父はすでに亡くなっていたが、1939年9月に始まった第2次世界大戦の翌年1940年2月に母も亡くなった。手元には10年間は暮らせる遺産が残ったが、学校にはますます行かなくなり、孤独はさらに深まったと推測できる。5月にオランダとベルギーの国境を突破したドイツ軍により6月にはパリ陥落。1週間後にはリヨンも。
10月に「私」はナチの秘密警察の通訳に応募し採用される。翌年41年にはマキ(反ナチのレジスタンス運動)の訊問所である「松の実町」に上司の中尉に連れて行かれた。
そこの廚では訊問拷問が行われていた。ある日、ジャックの写真を中尉に見せられた。ジャックがマキの連絡員の疑いで連行され拷問を受けていた。
拷問中のジャックはほとんど呻かず耐えていた。「私」はジャックが絶叫するのを待ちながらも他方では、耐えろ、耐えろと念じていた。
途中から「私」も加わった。口を割らないジャックへの切り札はユダとして利用価値のあるマリー・テレーズであった。
連行されたマリー・テレーズは「私」に犯され、隣室にいるジャックは舌を噛んで自殺した。
拷問による「殉教」ではなく自殺だった。
ジャックの自殺は「私」にとって予想外だった。結局、ジャックは仲間を裏切らなかったし、これ以上はマリー・テレーズを「私」が利用することはなくなるだろうと、自分の命と引き換えた。キリスト教では自殺は最も深い罪であるが、それによって大切なものを食い止めることができた。しかしマリー・テレーズは気が狂ってしまった。「私」は心身ともに疲労し無感動だった。虚無だけが残った。
※ジャックは、これ以降の「私」の悪を食い止めたのではないだろうか。

しかし生まれつきの悪の化身のような人物っているのだろうか。何かのきっかけでそう成り、また何かのきっかけで、そうではなくなるのではないだろうか。介在するのは「憎しみ」と「愛」だろうか。

【テーマ】

@主人公がサディスティックな人間になった要因は何だと思いますか?
サディスティックな「私」の素地は、わが子の斜視と顔立ちの醜さを本人に残酷に宣告する父親と、清教徒である異常な潔癖症、完全主義者の母親への反抗からのものであろう。
しかし、描写がやや異常で病的でもある。氏は、若い時からサドの研究もしている。

2010年4月の時事通信記事からの拾い↓
「沈黙」「深い河」などの作品で知られる作家、遠藤周作(1923〜96年)の未発表とみられる中編小説が書かれたノートが、24日までに長崎市の遠藤周作文学館で見つかった。未完成ながら遠藤文学研究の貴重な資料となりそうだ。
 ノートは、遺品整理中の学芸員が2008年12月に発見した。「われら此處(ここ)より遠きものへ」と題し、舞台は第2次大戦後のフランスのリヨン。小説家マルキ・ド・サドを研究する日本人留学生「小杉」と、戦争中にレジスタンスの活動家として秘密警察から拷問を受けた黒人学生「バシカ」の2人が、それぞれ内省していく。
 執筆当時の日記も見つかっており、1958年9月から10月にかけての記述で、この小説を「Sadizme(サディズム)を現代の悲劇に浮かびあがらせるもの」とつづっている。
 小説は400字詰め原稿用紙に換算すると約80枚分。B5判のノート、80ページにわたって、青色のペンで独特の丸文字で書かれている。発見時、表紙は付いていなかった。
 学芸員の池田静香さんは「遠藤文学の初期のテーマである人間の『悪』の問題を追究している。この草稿の資料的な価値については今後詳しく調査していきたい」と話している。
 ノートと日記は5月22日から始まる同館創立10周年企画展で公開予定。 

Aジャックが自殺した後、主人公は「俺を破壊しない限り、お前の死は意味がない」と繰り返し呟きますが、これはどういうことだと思いますか?
お前(ジャック)は、自殺することで「私」から逃れることが出来た。これ以上、口を割って同志を裏切ることも、マリー・テレーズの生死を左右することもなくなったが、肝心の「私」を改心させない限り「私」はまた色々な場面で「悪」を繰り返すと心の中で述べている。マリー・テレーズは狂い「私」は狂わなかった。
また「俺を破壊しない限りとお前の死は意味がない」と述べているが、思い描いたものと全く違う結論=ジャックの自殺と狂ったマリー・テレーズを目の当たりにして、今までの「私」は終わり破壊されたと思った。これまでも、おそらくこれからも「私」は虚無的な無神論者であろうが、この日以降はもうキリスト教徒を偽善者とは呼ばないだろう。

4月に入り2回通読した。最初は筋を追って一気に。次は精読とまではいかないが、細部に気を配りながら。
 短期間の間に二度読みができるのは中編であるからだ。毎月のテーマ本は、できればあまり長くないものをという約束があったのを思い出した。長編であると、再読に時間的余裕が生れない。

山口愛理さん 2022/5/5 16:37 投稿

 若い頃私が通っていたエッセイ教室の先生は、元産経新聞社の文芸担当記者で、遠藤周作をはじめ数々の作家を担当していた。授業では遠藤周作の裏話を数多く聞いたが、その頃テレビで観た狐狸庵先生の飄々としたイメージと相まっていた。
 遠藤周作を初めて読んだのは、戦後初のフランス留学者である氏のリヨン留学体験を記した『フランスの大学生』だった。ユーモアたっぷりのエッセイ集かと思いきや、読みやすいわりに中身が深く、以後、氏の作品をそれほど読んでいない私でも、この留学体験が後の文学作品における生涯のテーマ(日本の精神風土におけるキリスト教の存在意義と相克)となったのだろうということは察しがついた。この留学を氏は肺結核のために中途でやむなく断念している。このことも後の作品作りに少なからず影響を及ぼしているのだろう。
 ちなみに私はフランス映画が好きでフランス語を長く勉強しているが、基本的に禅系のブディストなので、カトリック系キリスト教が90パーセントと言われるフランスのこと、特にフランス文学のことは根底からは理解できないのだろうと思っている。
 遠藤周作は12歳の時に伯母の影響で洗礼を受けた。きっかけは自分で選んだのかどうかわからないが、いずれにしても、氏は生涯キリスト教徒だったのだから、神と自分、キリスト教と日本の精神風土という点を一生のテーマとして創作に挑んだのだろう。
 この小説で氏は、主人公をフランス人、時代を1942年のフランス・リヨンに設定している。思い切った設定だが、読んでいてさほど違和感が無いのだから凄いと思う。私はそのことにまず、驚いた。留学の経験が生きているのかもしれない。
 主人公の苦しくなるほどのサディスティックさは、幼いころからのコンプレックスの裏返しなのかもしれない。他者を痛めつけることによってのみ、自己が優位になり自己の完結に近づけるという幻想なのか。また、主人公は自分とは正反対のジャックにある意味、執着しているように見える。「俺を破壊しない限り、お前の死は意味がない」と言いながら、思いがけないジャックの自死により、かなりな喪失感と敗北感を抱いたのではないか、と感じた。

荒井幹人さん 2022/5/6 00:56 投稿

@主人公がサディスティックな人間になった要因は何だと思いますか?
 父親の愛情を受けなかったこと、母親の極端な禁欲主義、主人公の容姿など、小さいころからストレスに晒されてきたことが要因であると思います。

Aジャックが自殺した後、主人公は「俺を破壊しない限り、お前の死は意味がない」と繰り返し呟きますが、これはどういうことだと思いますか?
 ジャックの死とイエスの受難を重ねたのだと思います。

藤本珠美さん 2022/5/6 08:52 投稿

『白い人』を読んで
キリストはユダを最も愛していたのではないかと思うことがある。
ユダは信徒たちのなかでも、特殊ではあった。キリストを売り、「私は罪深い」と言って自死する。
その罪深さを、キリストは愛のなかに受けとめているのではないかと思うが、『白い人』の主人公の場合、その愛を受けつけず、罪を重ねていくことに自分の生きる道を見いだしている気がする。
しかし自分を「悪」としている主人公は、「悪」を重ねながらも、いつも「善」「罪がない」ということを意識することからはなれられていない。これらが対極に存在するからか、あるいはこれらを対比させ、「対極」と認識させているものは何なのか。
『黄色い人』もそうだと思うが、作者は「善」は「善」のまま遂げられないように描きながら、ジャックにしろ神父にしろ、「罪」を犯しながらも、「善」を全うする人物も、表現している気がする。

杉田尚文さん 2022/5/6 15:12 投稿

課題1.主人公がサデイステックな人間になった要因はなにか。
生まれつきサディスティックな傾向の人間だったと思う。小説では原因として、主人公に幼年時代の記憶を語らせて、母の過剰愛、父の虐待、契機として、女中の犬への虐待、アデンでの児童虐待の快感の自覚が書かれている。
しかし、この中で注目すべきは父の虐待と思う。元々、父はサイコパスでその遺伝子を引き継いだものだと思う。

課題2.「俺を破壊しない限りお前の死は意味がない」
主人公はジャックへの虐待の快感に酔っている。最終的に音をあげるはずであるが、楽しみはこれからだと信じていた。ところが思いがけない自死は玩具を急に取り上げられた子供のようで実に不満だ。信者の掟破りでジャックは自死した。死んでも悪である主人公に負けないという強さを示したようにも見える。主人公はジャックの死に同情はおろか、ただ、不快感だけを覚える。死んで負けなかったつもりか知れないが「俺を破壊しない限りお前の死は意味がない」と呟く。主人公にとって他人の死はいつも意味がない。ジャックの死は自己の虐待による快感が奪われたことでしかない。

著者の小説は初めて読みました。読書会の課題でなければ読んでいないと思います。
特殊な主人公から始まり、次第に、私にもこういう所があるなと共感をもたらすものが小説と思っています。生い立ちと体験のせいでサディストになったとする主人公に共感する人はいるのでしょうか? 
昭和30年、まだ、食べるに精一杯の日本の状況で、ナチによるリヨンの支配状況を知る人はおらず、日本人が西洋を舞台にして、しかも、悪人を主人公にすることは新鮮で、魅力があったのでしょう。
小説では脇役に悪人が出てきて、面白さが増す事があります。この小説は一読してリアリティがなく、少しも面白くないが、悪人の描き方として、参考になるかと2回目を読みました。なるほど、後半の拷問のシーンなどは迫力があり、悪人が描けています。
テーマは神の不在でしょう。「神の不在」を主人公は嘆くが、自己愛だけだ。孤立していて、他者と対話することはない。早くに児童虐待に歓喜する主人公がいる。図式としては、サディストに対し、弱者、困っている人、子供たち、未来への愛こそ、描かなければならないと思う。引き受ける登場人物ジャックには存在感がない。

読んでいて、今、行われているウクライナ侵略のことを想った。邪悪な戦争犯罪人プーチンは主人公と同じ観念的で妄想だけの世界に生きている。主人公はナチの秘密警察の協力者となるが、プーチンは16歳でソ連の秘密警察を志願したという。サディストであれば、秘密警察は魅力的な職場であろう。8年前のソチ五輪開会式で「戦争と平和」の寸劇があった。プーチンはトルストイが好きだという。2百年まえの祖国防衛の英雄を気取っているらしい。戦争の悲惨を書いたものなのにこんなはずではと、トルストイは嘆いているだろう。
「人類は進化の途上にある」と確信している。一日でも早く戦争が終わることを願っています。
以上

森山里望さん 2022/5/6 16:21 投稿

難しく多分自分には租借も消化もできていないテーマであったと思います。私にとって読書とは、差し出されたテーマにや問いに対して、楽しみ、感じながら読み無意識のうちに己の中で深く考え何かしらの発見を見出すものです。この「白い人」(黄色い人もそうですが)は、その『楽しみ感じる』というところがなく苦しいまま読み終えてしまいました。しかし「深い河」「沈黙」「マリー・アントワネットの生涯」等は、同等に信仰を底辺においた深く重厚な作品だと思うのですが、これらは感情が大きく揺さぶられ、文章の妙に感嘆し読書のだいご味を味わいながら読んだ記憶があります。その違いは、「白い人」が初期の作品であり、青さ硬さを残して熟しきらないものがあるからのように思います。
テーマ@
要因は一つではないと思いますが、戦時下というゆがんだ閉塞した社会が作ったのではないでしょうか。
テーマA
罪があるから善がある?

成合武光さん 2022/5/6 21:05 投稿

『白い人』(遠藤周作)の感想   成合武光

難しい問題でまとまりません。思ったことを書きます。
 未来に、歴史に、抱く愚劣な夢想、陶酔。・・・「陶酔は許さない」と主人公は言う。
現今(2022・03~04)のロシアの事実を見れば、私も含めて或いは大方の日本人が再び戦争はないと夢想していた、と思えるかもしれない。しかしそれが人類の夢であり、道であるということを尚の事強く思うのではなかろうか。
 悪は生の否定である。生の否定は悪である。他人の否定、自身の否定。自分自身において生に至る道を見つけられない者は不幸である。不幸は悪を呼ぶ。日常に於いても、いじめられている者、生きる道を見いだせない者は、自ら生を絶つか、反転して他を殺める、苦しめる。生きる場がないからである。知らないからである。
 人は皆理解し合い、許し合い、認め合い、力を出し合うことで生きることが出来る。更なる生を求め、臨むことができる。しかし、多くの人が己個人のことで手一杯である。その一方で多くの人々の実践があり、それを知った人は誰もが感動する。励まされる。
 孤独な不満は悪を呼び、悪に走る。ナチの生は悪である、と人類は学んだ。しかし人の生のある限り、人はその生を問う。悪の萌芽は春の野の草のごとくである。庭を保ち、田園を営むには管理が必要だ。管理されない生はそれ自身のものならず、周りをも滅ぼす、と言われる。だが己の心ひとつをも管理することは難しい。それでも人は沢山の幸を求める。叶わない幸は不幸。災いを呼ぶ。災いを招きやすい。ここに大きな不幸の源がある。それに気づくことも難しい。気付いても、直すことも難しい。それでも多くの人が気付き、直すことに努めている。その最大の人をキリスト、と人は知る。知るばかりの人もそれを否定する人を私は知らない。

「どこに、人は行くのか」問い続け、歩き続けるしか無いのかもしれない。
 初めて外国人を目にした時、人は驚き、拒絶感を経験したのではないだろうか。しかし国際結婚をして幸せを得た人達も多い。その事実からも学ぶべきことはある。理解し合うこと。愛すること。信頼すること。自分と異なる人が居ることを知り、理解し合うことに努めるべきであろうと思う。
 悪は生の否定。生の否定が悪だ。だが生を否定できるだろうか。悪への陶酔は、自己陶酔、やはり、自己中心的な我儘と言えるのではないだろうか。
人は決して悪魔にはなり切れないと、知る前に、犯す前に、「人の欲せざるを為すなかれ」と、己を励ますことではないだろうか。 
人は人生のそれぞれのとき・場において、それぞれの生、それぞれの道を行く。行かざるを得ない。遠藤周作の意図は、キリストの選んだ道と反対の道もある。反対の道でも人は人である。‥であるだろうか。という投げかけではないでしょうか。(了)

(文学横浜の会)


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