「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2022年06月07日


「春にして君を離れ」アガサクリスティー

<「掲示板」に書き込まれた感想>

遠藤大志さん 2022/4/14 09:22 投稿

アガサ・クリスティと言えば、「オリエント急行の殺人」、「そして誰もいなくなった」、「ナイルに死す」など言わずと知れた「ミステリーの女王」である。
 エルキュール・ポアロ探偵が事件を解決していく事でも有名である。

 今回、後藤さんがアガサ・クリスティをテーマに選んだ事から、てっきり推理小説だとばかり勘違いしていた。
 この『春にして君を離れ』を読み終えて、アガサ・クリスティの世界観が180度変わったと言ってもいい。
ミステリーに留まらないマルチな作家である。
 この小説は実に良く書かれていて非常に面白かった。

 夫婦の形、関係性というのは千差万別、一つとして同じ形態、バランスのものは存在しない。
 まさしくこの小説のロドニーとジョーンの様に。
この夫婦の関係性を客観的に観察しても、思う感想はまちまちなのだろうと察しがつく。
 男女でも感想は分かれると思う。まさに読書会で様々な意見が出て活況となる「題材」であると感じた。

 読み手とて、結婚しているかいないか、結婚している場合、その時の夫婦関係、心のバランス、子供の成長度などで、二人に抱く感想は変わってくるだろう。
正に、ジョーンが砂漠の中に取り残され、八方塞がりになり、追い詰められた時に、過去を振り返り、子供たちや夫の言動に自らの思い違い、思い上がり、勘違いをしていたことを気付いたにも関わらず、旅行から帰還し、ロドニーに過去の過ちを謝ろうと思っていた気持ちが一瞬にして霧散し、そんな思いに駆られた自分を恥じ、思いを転換し、自らとってきた決断を再度肯定して何事も無かった事にしたのかのようにである。
 気の迷い、疲労によりとかく人は気弱になるものであるから、ジョーンもまたそんな状態であったのかもしれない。

 僕は男性で、夫であり、二人の娘の父親である。
そういった意味ではロドニーと立場が似ている。その為、ロドニーがとる行動、発言には同調できる部分が多々あった。
 ロドニーは若い頃牧場を経営することを夢見ていたが、ジョーンの現実を見てという強い圧力によって、弁護士になった。
 元々まじめな性格であるから、彼の実直な性格が評価され、弁護士として安定した収入を得ることに成功していく。
 3人の子供に恵まれ、傍から見れば何不自由のない裕福で円満な家庭である。
 だが、実際の家族は両親、特に母親のジョーンに対して何も分かっていない存在としか映っていない。
そんな子供たちの思いを知りつつ、妻(母)の立場(威厳)を守ろうと子供たちに諭す。


 ロドニーはレスリーに心奪われ、心の内で葛藤する。
 ジョーンに於いてもロドニーが他の女性に心奪われているのを全く知らない、気付かないということは決してないはずである。だがジョーンは認めようとしない。
 自分に対する絶対的な信頼、それともそれを認めてしまったら何もかもをもすべて否定することになるし、その先には自分の存在を否定することになることが分かっているのである。

p270
エイブラル、トニー、バーバラ、わたしは子どもたちを愛していた。
いつも変わらず愛しつづけてきた。
(でもそれだけでは足りなかった。愛するだけでは十分ではないのだ。)
ロドニー、ロドニー、わたしにできることはもうないのでしょうか? わたしに言いえることはないのでしょうか?

春にして君を離れ

 ジョーンは決して悪い母ではない。ジョーンは決して悪い妻でもない。
ただ、無知なだけなのである。無知が悪いものであるのならば、ジョーンも悪い人間ということになるのかもしれない。
ジョーンの周りから人々は離れて行く。ジョーンの周りから人々の心が離れて行く。
それはもはや止められない。だがロドニーだけは離れない。
それは愛しているからではない。ロドニーが弁護士であり、ジョーンの夫であり、心優しい義務感のある男だからである。

 そう言った意味で、この本は僕自身に改めて人の義務を教えてくれた様な気がする。
春にして君を離れ、実に上手いタイトルであると感心した。

1 )解説の栗本薫の書き出しのままに、みなさんは本作品を読んで
怖いと感じましたか? 哀しいと感じましたか? それともそれほど怖いとか、哀しいと感じる人に共感できずにいますか? とお聞きしてみたいです。
→ジョーンの心の内の様々な変化、変容がリアルに書かれていて、「仕方ない」と感じた。
この仕方ないというのは、妥協であり、納得であり、諦めの意味が包含されている。
それでも夫婦を続けられるのであれば、続けるものであり、続けるために努力をしないといけないと痛感した。

清水 伸子さん 2022/5/13 11:26 投稿

この作品を読むのは二度目になります。以前、別の方からこの作品を勧められて読んだのですが、その時はさほど印象に残りませんでした。今回読んでみて、私にとっては怖いとか哀しいというよりは痛みを感じると言うのが一番ぴったりします。ある意味でジェーンは私自身のように思えるからです。特に長女に関しては、初めての子育てで「いい子に育てなくては」という強迫観念に支配されていたように思うのです。以前読んだ時には、自分のそんな面に気づいていなかったのでしょうか?それも恐ろしく感じます。
改めてアガサクリスティーという作家の力量に驚かされる作品でした。

藤原芳明さん 2022/5/24 14:14 投稿

1.はじめに
 家族(妻と息子三人)を持つ身としては、自分の胸に手を当てて考えたくなる小説ですね。まず感想とコメントを以下に述べます。討議テーマに対する回答(本作品を読んで怖いと感じたか、哀しいと感じたか)は文末に書きます。

2.独善的になる
 自分の言動、ふるまいが周囲の人たち(家族、友人、同僚、文横のみなさん、など)にどう受けとめられているか、神ならぬ身ゆえ、自分ではわからない。さいわいにして公平な立場から、自分の言動の問題点を指摘してくれる存在、たとえば友人、パートナー、ときには子どもたちでもいれば、自分の欠点に気づかされることもあるだろう。しかし多くの場合、誰もなにも言ってくれない。だから私たちは独善的にふるまい、まわりの人間はそれを喜んでくれている、少なくとも容認してくれているものと錯覚しがちである、作中のジョーンのように。

3.忠告を聞かない
 じつはジョーンはこれまで自分の問題点を指摘されたり、忠告や批判を受けたりしたことが何度もあった。一例を抜粋すればつぎのとおり。

・ギルビー校長から「あなたは自己満足の気味がある。自分のことばかり考えず、ほかの人のことも考えなさい」と忠告される(p138)
・バーバラ(次女)が「これ以上(ジョーンとここで暮らすのは)我慢できない」とロドニーに訴えているのを偶然聞く(p72)
・エイヴラル(長女)から面と向かって「お母さまはあたしたちのために何もしてくださらない」と批判される(p127〜128)
・トニー(長男)についてロドニーから「(ここにいてジョーンの思いどおりにさせたら)トニーが幸せになれないかもしれない」と言われる(p213)

しかし結果としてジョーンには響かず、効果はなかった。自分にとって問題が認識されないとき、ひとからのありがたい忠告も耳には入らないのだろう。

4.忠告・アドバイスが有効なとき
 ひとからの忠告が当人にとって効果を発揮するのは、事態がうまくいっていないとき、気分が落ち込んでいるとき、自分の問題を実感したときである。小生で言えばつぎのような場合だ。

(1)テニスがちっとも上手くプレイできないときのコーチのアドバイス
(2)病気で身体が弱っているときのお医者さんの診断と処方箋
(3)気分がへこんでいるときの精神カウンセラーの忠告

ジョーンが砂漠に取り残されて心細くなり、素直になった数日間なら、ひと(ブランチなど)からの忠告を受け入れられたに違いない。

5.ロドニーのレスリーへの愛情について
 ロドニーの死んだレスリーへの愛情はプラトニックなものだっただけに、かえって今後もロドニーの心に深く残り続けるだろう。ロドニーのこの想いをジョーンに対して不実と非難しても仕方ない。 開高健の「食卓は笑う」に「男にとって忘れられない三人の女」というジョークがある。曰く、(1)初恋の女性 (2)新婚時代の女房 (3)永遠の恋人。 ロドニーにとってレスリーは永遠の恋人だったのか。ロドニーはもはやジョーンを愛していないが、「いい妻」(p322)として認め、別れることはないだろう。

6.討議テーマについて
 さて、小生自身について考えてみる。パートナーが小生の存在、ふるまいをじつはどう見ているのか、じつは彼女は小生と似ても似つかぬ永遠の恋人をこころ密かに抱いているのではないか‥などなど、怖くてとても聞けたものではない。ですから小生の回答は「怖い」です。

寺村博行さん 2022/5/27 16:37 投稿

『オリエント急行殺人事件』を映画で鑑賞する機会が何度かあり、その筋書きの面白さに、アガサ・クリスティーは大した作家だなあ、と思っていましたが、彼女の書を読むのは今回が初めてでした。彼女は推理小説作家だから、先に推理小説を読んでから、というのが本来の順序なのだろうとは思うけれど、このような変則的な読み方も、それはそれで面白いかもしれません。

内容は内容として、まず大きく心を動かされたことは、大英帝国イギリス人の行動範囲の広さと自由さです。長女のエイブラルはロンドンですが、次女のバーバラは中東イラクのバグダッドに住み、長男のトニーは東アフリカのローデシアでオレンジ園を経営しています。レスリー・シャーストンの長男ジョンはビルマの森林管理所で生活し、ジョーンの友人ブランチの両親は、ブランチを好もしくない男から遠ざけるために、世界一周旅行に送り出しています。そのブランチとジョーンは、数十年後にイラクの鉄道宿泊所でバッタリと出会います。ジョーンとその家族は、イギリスの上流階級というわけではなく、中流の上というところでしょう。つまり、この時代の普通のイギリス人ならだれでもが行き来している生活の範囲です。それがバグダッドでありローデシアであり、ビルマであったわけです。
ジョーンは、ごく自然に何の引け目もなくインド人やアラブ人に命令する。主人公のジョーンが、全く当然のこととして彼らを使用するばかりではない。使用されるインド人やアラブ人の側でも、まるでこの世の初めからそう決められているかのように、ジョーンの言葉を主人の命令として、何の疑問も抱かずに従う。時期は、ナチスの台頭期だから1930年代ごろの話でしょうか。大英帝国とはいっても、もう最盛期は越えているのにこの有様 ‥‥ さすがは世界を支配する大英帝国、そこに住む英国人の物語だなあ、と感じ入るところがありました。

本書は、ジョーンの気づき・自己認識の物語です。クレイミンスターからほとんど離れたことのなかった主婦ジョーンが、遠く中東のバグダッドまで旅行することになり、その旅行の過程で、今までは深く感じたことも考えたこともなかったことを、感じたり考えたりすることになります。そんなことになったのは、旅行という環境に身をおいたことで、普段はほとんど見ることのないものを見、聴いたことのないものを聴き、触り、また呼吸することになったからでしょう。
環境の変化によって、いままで隠れていたもの ‥‥ 意識的・無意識的に覆い隠していたものが、隠れ家から這い出てきて、頭をもたげて蠢きはじめる。それをクリスティーは「トカゲが穴から這い出るように ‥‥ 蛇がヌラリと胸のうちをのたくって過ぎるように(133頁)」と表現しています。
それまでずっと信じ続けてきた認識から、別の新しい認識へ改めようとすれば、必ず過去の自分の「否定」という苦しみを伴うことになります。だから意識変革というものがスムーズに行われることは少ないでしょう。それは昆虫が脱皮をするようなもので、苦しみだけではなく危険も伴います。脱皮そのものがうまくいかなくて命を落とすばかりではなく、その途中で天敵の犠牲になってしまうことだってあります。
ジョーンは、一時は自分の「気づき」をロドニーに話し、脱皮を完結させようと意図しましたが、それは実行されずに結局は元の鞘 ‥‥ 今までの家族関係の範疇 ‥‥ に納まってしまうことになりました。クリスティーはそこで物語を閉じましたが、一度穴から這い出てきたトカゲや蛇が、一度は穴に戻ったとしても、ずっとそのままおとなしくしているでしょうか。一度出てしまった以上、また繰り返し穴から頭を出したくなるのは必定ではないかと思います。そのときジョーンは、どうするのでしょうか。しかし、それは書かれずに物語は終わりました。きっと計算づくで、クリスティーはそうしたのだろうと思いました。

世界的な大小説家に対して今更ですが、さすがの筆力だと思いました。実際の主人公の物理的な動きは、ただバグダッドからロンドンに移動するだけの短い期間なのですが、その短い旅行の動きに併せて、さまざまな心理描写を絡ませて物語を進めていく ‥‥ 最後ロンドンについてからは、走り抜けるように物語を締めくくっていくところなどすごいです。日本には松本清張という大推理小説作家がいますが、推理小説作家というのは、どこか一味違うように感じました。

(テーマ1&2について)
物語は、ある性格的な偏りを持った具体的な個人と、それにさざ波のように影響されながら紡がれていく家族の形の、ひとつの物語としてとても面白い。しかしこの物語で、恐ろしいとか哀しいとかの表現は大仰すぎるのではないかと思います。
ジョーンの家庭は、ある程度の偏りがあるとはいえ、基本的には上手くいっていて、とても恵まれています。それは、ジョーンとロドニーの力、二人の両親と御先祖様、そして運の力といっていいでしょう。もしこの家庭が、怖いとか哀しいということであれば、それ以外の世の中の多くの家庭は、とてもおどろおどろしく、死ぬほど哀しくて哀れなものになってしまいそうです。
個人と同様に、家庭も一つとして同じものはなく千差万別です。栗本氏のような感じ方もあるのでしょう。しかし怖いとか哀しいとか云う前に、まずはこのような恵まれた家庭に育ったことを感謝すべきだと思います。恵まれた家庭、というベースがあるからこそ、怖いとか哀しいとかが云えるわけです。よってそのような言辞は贅沢だし、限りなく我儘に近いのではないか、と私には思われます。

全体としてジョーンは優秀な主婦で、配偶者や子供の微妙な心に鈍感なところがあったとしても、人に100%を求めるのは無理なことです。微妙な心が分かりすぎることが子供にとって却って迷惑であったりすることもあるでしょうし、それが原因で、却って子供を躓かせることだって大いにあり得ることだと思います。人はさまざまです。例え親子であれ、理解できない部分があるのは当然のことです。それをお互いに推測したり、協力したり、反発したりしながらも認めあい、妥協を重ねながらやっていかなければならないのが、人の社会であり人間関係というものだと思います。そんなところに、人としての生きる面白みもあり、またドラマも生まれるのではないでしょうか。

荒井 幹人さん 2022/5/29 00:06 投稿

ジョーンは他者と接するとき、他者のことを考えるとき、いつでも、小ブルジョア的な尺度で、自分とその人(自分の夫と他者の夫、自分の子供と他者の子供)の優劣をつけようとします。自分(自分の夫、自分の子供)が他者(他者の夫、他者の子供)より劣っているということは、彼女には我慢できないことで、彼女はそうならないことだけを考えて、生きてきた(生きている)人のように思います。
 彼女が、「いくらなんでも、ヒットラーがそんなことをするわけがないでしょう?」なんて呑気なことを言っているのは、彼女には自分(自分の夫、自分の子供)と他者(他者の夫、他者の子供)の優劣以外のことには関心がなく、彼女がとても狭い世界に生きているからだと思います。
 ジョーンのようなところが全く無いとは言えず、ブランチやレスリーのように生きたいと思っても、なかなかそうはなれない私は、この小説を読んで、少し哀しい気持ちになりました。

中谷和義さん 2022/5/29 14:34 投稿

主人公は、近東の砂漠で気づいた真相をなぜ「愚にもつかない想像」と切り捨ててしまったのか。表面的には穏やかな生活が続くのだから、「幸せ」なのかもしれないが、家族からの嫌悪感は変わらず、救われない。作者はあえてイヤな感じの結末にすることで、主人公たちの自己欺瞞を印象づけたかったのだと思う。

主婦のジョーンは旅先のバグダッドからイギリスに帰ろうとして、学生時代の友人ブランチと偶然再会した。ブランチはバグダッドに住むジョーンの娘が「よっぽど問題のある家庭に育ったに違いない。家から逃げ出したくて、プロポーズした最初の男と結婚したんだろう」とうわさされているといい、ジョーンの夫ロドニーについても浮気心があったと示唆する。ジョーンはむっとするが、天候不良のため足止めされた辺境のテル・アブ・ハミドで暇をもてあまし、砂漠をさまよううち、家族に自分の価値観を押しつけてきたことに気づく。「家に帰ってやり直そう、新しい生活を築きあげよう――ふりだしにもどって……」と決意するが、帰国すると、何ごともなかったかのように元の生活に戻った。夫ロドニーは、ジョーンへのやさしさから、母への不満をつづった娘からの手紙を燃やす。

旅に出ると、ふだん考えないようなことにも気づく。むかし上海に行って有名な小籠包店の行列に並んでいたとき、たまたま前にいたのは九州から来たという日本人夫婦だった。夫婦いわく「ときどき都会の空気を吸いたくなると来る。上海は東京より近いですからね」。2人の心の中にある世界地図が首都圏在住者とはかなり異なっていることに驚いた。
この作品の主人公の場合、穏やかなイギリスとは対極ともいえる近東の砂漠地帯で、読書もできず食べ物も缶詰ばかりという環境におかれた。ふだんなら読書や家事など気を紛らせるものに事欠かないが、ここでは自分をみつめるしかない。ふだん見ようとしなかった真実、うすうす感づいていながらも目をそらせていた真実を直視せざるを得なかった。

しかし、ジョーンの気づきは客観的証拠があるわけではなく、「思い過ごし」と思い込む余地がある。ジョーンはその余地にすがったわけだが、仮に悔い改めて家族に謝罪し、許しを請うていたらどうなったのだろうか。子どもたちはすでに独立し、夫も人生をやり直すには年を取り過ぎている。どのみち家族の形は変わらない。だとすると、自分で自分をごまかしながらも、せめて表面だけは穏やかな日々を守る主人公の選択は、悲しいけれど「正解」と認めざるをえないのかもしれない。

和田能卓さん 2022/5/30 20:57 投稿

読書会のテーマ、について。

1 )解説の栗本薫の書き出しのままに、みなさんは本作品を読んで
怖いと感じましたか?哀しいと感じましたか?それともそれほど怖いとか、哀しいと感じる人に共感できずにいますか?とお聞きしてみたいです。

怖い・哀しいという言葉にはいろいろな意味が含まれているのでしょうが、僕は今回、「哀しい」を選びました。

2 )さまざまな感想をお聞きしたいです。

ポアロやマープルものに通ずる、人は理解しがたいものだよね、という想いを今さらのように深めさせてくれる作品だとの感を抱きました。
お蔭様で・・・プライムビデオにある『ミス・マープル』全12作品を鑑賞する良い機会を与えられたもの、と感謝しております。

杉田尚文さん 2022/5/31 09:55 投稿

「春にして君を離れ」 アガサ・クリスティー
48歳の専業主婦、ジョーンは末娘の急病にバクダットを訪ねた帰り、女学校の同級生、ブランチに遇う。たわいのない会話だったのであるが、ブランチは末娘を知っていて「よっぽど問題のある家庭に育ったに違いない」と噂されていたと伝え、急病の背景に不倫の存在をほのめかす。また、ジョーンの夫の弁護士ロドニーについて「浮気しそうな目つき」だったと印象を語る。
優しい夫、よき子供に恵まれ、理想の家庭を築いたと誇りに思っていたのに、足止めされた砂漠の宿泊所で、トカゲが穴から顔をだすように、不愉快な疑問が次々湧いてきて、春にして君を離れ、放心状態となる。
時間に余裕が生じたとき、自分を監視するもう一人の自分が活躍する。最初は面白い奴だ。こういう見方もあるなと教えてくれる。ああ、そういうことだったのかと気づかせてもくれる……ところが、こいつが勝手に動き出して検察官として自分を攻撃し始める、追及の手をゆるめてくれと願っても逆に厳しく糾弾し続ける。
実は子供たちは自分を毛嫌いしている。その原因は自分のとってきた言動のせいで、理想とは、ほど遠い家庭であることを知る。見栄っ張りの愚かであった自分を反省し、帰って夫に告白しようと誓うが帰ってみると、今さらと思い、これまで通りの生活を選ぶ。

子供たちからは煙たがられ、夫からは人の気持ちが解らない可哀想な女と軽くみられている。しかし、ジョーンは人一倍、子供と夫を愛している。ただそれ以上に自分を愛していて、見栄っ張りだ。見た目が一番で、自分の感情的な言葉を押し付ける。関係する人たちの気持ちなど少しも考えず、リスクは避ける。言い出したら聞かない。嫌われるタイプの人だ。夫は包容力があって、そんな妻に疲れているね、休んだらと優しい。一つの家庭として、ありがちなタイプと思います。そんなジョーンに同情して哀しいものだと思いました。しかし、ジョーンはしたたかな女性ではないかとも思います。

植民地の人々、インド人の管理人、アラブ人の少年、トルコ人の駅長が登場します。また、車がぬかるみに、はまった時、車を引き出そうとしますが、アラブ人たちは、引く方向や押す方向が様々で、ぬかるみから、なかなか引き出しません。アラーの神の思し召しだと言います。その人たちへの視点は問題がありそうです。ジョーンが愚かであるから一個の人間とは見ていないとの作者の意図的表現となったのでしょうか。公爵夫人にジョーンが違和感をもったように、大英帝国の腐臭を感じたのは私だけでしょうか。

解説者は身近にジョーンによく似た人がいて恐ろしかったと言います。似た人が母であった場合、恐ろしい。子供たちに進路を強制するようなことはしていない。そうしようとした人がいたので、勘違いしていることを指摘して、子供のしたいようにしたことはあった。私の周りにはジョーンに似た人はいないので、恐ろしさは感じませんでした。

長女の不倫の際のロドニーの言葉、結婚とは契約であり、契約した以上はどんな時も相手をいたわるべきであると繰り返し結婚感を披露している。作者自身は恋愛で結婚し、夫の不倫にあい、「失踪事件」を起こし、ずいぶん悩んだらしい。その後、14歳年下の夫と結婚している。堂々としたものだ。しっかりした人なのだ。それにしても、誓いの言葉の重みを考えました。

レスリーの夫が横領のため服役したとき、レスリーは周囲が離婚を進めても従わず、農業で経済的に自立し、子供を育て、出所した夫を受け入れ、家庭を築いた。ロドニーは感心し、逆境を跳ねのけ、力強く、家庭を支えるこの農婦を勇気ある人、理想の女性として尊敬する。ロドニーは困っている人、弱い人、逆境にある人に優しく手を伸べる。二人は尊敬しあって、いつしかプラトニックラブに陥る。構成上、作者はこの二人に最高評価を与えている。しかし、この部分にリアリティを感じたいがどうしてもできない。作者はロドニーを美化しすぎている。それに、レスリーを過大評価している。レスリーの生活は日本の農家の主婦たちの生活そのものだ。農業で自立し、立派に子供を育て、夫を支える普通の人たちだ。普通の人たちへの賛歌の物語でもあるのだろう。

意外な展開による面白さ、流れるような語り、構成の見事さ、さすがと思いました。

作者は何をこの作品で言いたかったのでしょうか。ロドニーこそが魅力的な男であり、理想的な夫であると言いたかったのでしょうか。困っている人、逆境にある人、弱者に対して優しく接するロドニーの長所、しかし、この厳しい競争の世界で、そこが同時に欠点で、ジョーンが二人分の分別を働かせて、危険を避けて、結果として家庭を守ってきました。バランスの取れた夫婦なのです。ジョーンが愛ある生活を望まなかったのだろうか。いや、強く欲した。砂漠で遭難しそうになったではないか。しかし、家庭は休息の場ではないか、正装を脱ぎ捨て、気兼ねなく、感情を爆発させて、のんびりと過ごす場所だ。レスリーのように、額に汗する人生もあるだろう。立派だと思う。しかし、自分がそんなに立派になってロドニーの尊敬を伴う愛を得たいとは思わない。自分はそんなに真面目ではない。尊敬されたいとは思わない。のんびり楽に生きていく。ロドニーには今まで通り、包み込んでほしい。やっぱり、自分はうまくやってきた。子供たちに自分の考えを押し付けようとした。そして、嫌われた。だけど、子供たちは自分で進路を決め家庭を出て行った。結果としてそれぞれうまくいっているではないか。ギルビー校長は自己満足の傾向があるといった。少しは他人を思いやったらと言った。その通りだと思う。

金田清志さん 2022/6/1 04:56 投稿

読み終えてまずまず思ったのは「人間とは考える葦である」との哲学者の言葉だ。

己の信念の下に幸せな家庭を築いた主人公・ジョーンが、何もする事もない日常に否応なく閉じ込められた中で、
妄想をないまぜた過去を追想し、「個人の幸せとは」を問うた作だと読みました。

自分が良かれと思う事でも、例え身内であろうとその個人には果たして正解なのかと思う事も多々ある。

この作に書かれた内容は、形や程度の違いはあるだろうが、どの家庭にもあり得ることで、恐らく共通のテーマでしょう。
が、読み手には作者が推理作家との予備知識があり、読みながら何か事件が起こるのでは、とのイメージが離れなかったのは残念!

人間はよけいな事を考えなければ幸せになれるのかも知れない。
でも、考える事をやめると、人間じゃなくなるんだよね。
つまり生きているというのは見方によって清濁、陰影併せ持つのかな、とこの小説を読んで改めて感じました。

日本語がよく判らない部分があったのは残念!

十河孔士さん 2022/6/1 16:59 投稿

ジョーンの家族とそれを取り巻く人たちの過去の話が中心の物語。人物の描写や細部の設定はさすがに一流の作家であることを思わせる。特に11章でのジョーンとロシア夫人サーシャの列車内での対話は、おたがいに深く入りこまない抑制されたもので、印象に残った。
 しかし話といってもそれはジョーンから見た一方的な思い出話である。真偽のほどが疑われるが、夫の話を含めまわりからの言葉を総合すると、主人公が砂漠の一人の時間に再発見した「真実」は確かに存在したろうと推察される。

 だがジョーンは、砂漠に閉じ込められなくても、なぜもっと早くに自分の”浮いている”状態に気づかなかったのか、という疑問が残る。一般に、ふだんの生活で自分をふり返るのに興味のない人は、砂漠という特殊な環境の中でも自分をふり返ることはあまりしないのではないかと思われる。主人公は本当はあまり過去をふり返ったりはしない人ではなかったか? だから旅が終わり夫のもとに戻ったら、砂漠での内省はそこに降る雨のように乾燥して消えてしまった。

 一つひとつのエピソードは断片的で、他のエピソードと並行して語られ、スパイラルを描くようにしてくり返し述べられる。が、次々と語られる過去の出来事はお互いの関連をつかむのが必ずしも容易ではなく、読むのに困難を感じた。

 @ジョーンが毎日の生活の中で守ろうとしたものは何か? 社会的な安定、それまでの生活を尊重してずっと続けようとすること、遠くを見ずに今を安心して暮らすこと、そんな生き方を子供たちにも期待すること――つまりはロンドンから1時間半ほどの田舎に住む中流の生活様式=活力を欠き変化を嫌う保守的な生活様式。
 夫の弁護士のロドニーは妻の生き方の限界に気づき時に指摘したりもしたが、結局はジョーンとの生活を続けていく。子供たちはそんな生活を再生産するのが嫌で、母親のくびきから逃れたくもあって田舎を離れる。
 A家庭内における「妻対夫と子供3人」の長い間の葛藤。
 以上2つの構図を持ったこの小説がひどく興味ぶかかったかというと、そこまでではなかったというのが本当のところです。

石野夏実さん 2022/6/1 21:28 投稿

アガサ・クリスティ「春にして君を離れ」(Absent in the Spring)1944年発刊
2022.6.1    石野夏実

 アガサ・クリスティが、メアリ・ウエストマコット名で発表した殺人事件も探偵も出てこない回想中心の心理描写小説。アガサ・クリスティの探偵ものはTVで何度も流れているので観たことがあるが、実際に書物を読んだのは今回が初めてである。彼女の詳しい人物像もwiki等を読んで知った。「女王陛下の007」ではなく「女王陛下のミステリー作家」であり「ミステリーの女王」であった。
アガサは、デビュー100年後の2020年時点で、20億冊を売り上げた世界のベストセラー作家として今もファンが多い。
探偵ものに限らず、イギリス人の本好き新聞好きは長年の文化なのだと思う。もちろん作家がいての支える読者であるし、読者がいるから作家は腕を磨く。本好きの人々を魅了するには、どんどん読み進ませ、読後には色々思考を巡らせるような趣向が必要だ。アガサの小説は、その期待にぴったりなのだろう。
今では中国が一人当たりの読書頻度が世界一多い国だそうであるが、伝統のイギリスは2番である。このコロナ禍でイギリス人の読書時間は2倍に増えたと書かれていた。※読書頻度とは毎日、ほぼ毎日、読書する人の割合。この統計は2017年のもの。読書時間の世界比較表は新しいものがない。是非とも知りたいところだ。

さて、この小説の主人公は、夫が弁護士のイギリスの地方に暮らす48歳の既婚女性。息子ひとり娘二人の子どもにも恵まれ、その子ども達も全員結婚し、孫もいて老いの入り口に立っている。今から80年以上も前の話なので、平均寿命を鑑みても孫もいるし初老の扱いでいいだろうと思うが、驚くことに、この主人公ジョーンは皴ひとつなく28歳に見える容姿の持ち主だそうだ!これは、高慢ちきな彼女を支える一大外因でもあると思う。
気位が高く自尊心の塊で「お気の毒に」と他人を見下し、常に自分は正しくて間違ったことをしていないと自負して暮らしてきたジョーン。金銭中心の価値感と世間体が物差しであり、自分の思い通りに物事を運ぶことが夫や子ども達の幸せと思い込んで25年間も暮らしてきた。

家族から疎まれていることを知ってか知らずか、反省もなく生きてきた女性。バグダッドに住む末娘を見舞っての帰途、偶然にも女学校時代の友人ブランチと再会する。その砂漠の町で、天候不順により足止めされたのは彼女ひとりだった。家事も雑事もない時間、何もすることがない有り余る時間の中で、ブランチとの再会をきっかけに自分の人生を振り返ることになる。次々と過去の様々な場面を回想することで、見ない様にごまかしてきた自分と向き合うこととなった。これは内面小説でもあり、心理小説でもあるのである。
レストハウスと徒歩での散歩しかない砂漠の中で過ごした数日間。そこでの見事な心理描写が、この長編を一気に読ませる。

旅行から帰ったジョーンは、以前のジョーンではないはずであるが、受け入れる側の長女も夫も(今に始まったことではないが)彼女にも彼女の話にも興味がない。ジョーンが見舞いに行った中東に住む次女は、母親ジョーンへの嫌悪、父親ロドニーへの感謝をジョーンが家に帰る前にロドニー宛に航空便で送ってきていた。
妻の帰宅を待ちわびていたはずの夫ロドニーは、ドアを開けジョーンの姿を見てびっくりして立ち止まった。ジョーンの心は決まった。赦しを請うか、今まで通りで押し通そうかふたつのうちのどちらかの選択は、今まで通り!に決まった。
「ただいま、ロドニー、やっと帰ってきましたのよ」
何事もなかったかのように旅行前の日常が始まる瞬間だった。

しかし、そもそも選択なんてする必要があるのだろうか。心から反省して悔やんでいたら躊躇することなく今の気持ちを率直に話すべきだろう。選択、駆け引き、、ジョーンは変わっていない。
ロドニーも、いまさらジョーンに変わってもらおうとは思っていないのだろう。心の中はレスリーの思い出で満ち足りていて、ジョーンは妻という名のただのお飾りだ。

最後の最後にエピローグがある。今度は夫であるロドニーの写実と心理描写だ。
ジョーン不在の6週間は、ロドニーにとって心行くまで亡くなった愛するレスリーを思い出し、友人と行き来し、メイド達とものんびり過ごし、自身もジョーンから解放された幸せな日々であった。
ジョーンは結婚して25年間、ずっとロドニーを愛している。ところが、ロドニーの心はレスリーの死によって決定的にジョーンから離れた。レスリーとジョーンは、その価値観、ものの考え方が全く正反対なのであった。ジョーンに対してのロドニーの思いは、もはや憐憫の情しかないのであった。
題名の「春にして君を離れ」はとても耳障りがいい日本語であるが、内容は哀しい。
「Absent in the Spring」は、直訳なら「春での不在」。
ある年の5月、ロドニーは、亡くなったレスリーの新しいお墓にひとりでいた。ジョーンはたまたま見かけて近づいた。ロドニーの上着にさしていた赤いシャクナゲの蕾がぽとりと落ちた時、彼は「心臓から滴り落ちた血の雫だ」といった。その後ロドニーは、過度の疲労と神経衰弱で2か月の療養生活を送った。
かってその花は、3月の花なのに珍しく10月に咲いたことがあった。ロドニーとレスリーが向き合うことなく距離を開けたベンチに無言で並んで座って愛を確かめた時、季節外れに咲いていた思い出の花。その場に出くわしたジョーンは隠れ、二人に声をかけることができなかった。
レスリー亡きあとも、その季節外れに咲いたシャクナゲは春になると咲き誇り、ロドニーが思い出すのは彼女のことばかりだった。
ならば、ロドニーにとってこそ「春には、もう君(レスリー)がいない」である。ジョーンにとっては、夫の心は亡きレスリーに行ったまま戻らない「春、あなた(ロドニー)はもう私の元にはいない」
ふたりにとって相手は違えど「今は春、そして君はいない」。

しかし中村妙子さんの訳は素晴らしい。「春にして君を離れ」は、ロマンチックで美しく怖くもあり哀しくもある奥深い訳である。文中にも出てくるように、シェークスピアのソネット98からの引用ではあるのだが。
48歳なのに28歳くらいにしか見えないジョーンであるので、健康で長生きをするのだろう。まだまだ人生の先は長い。夫は、死んだレスリーの亡霊をこよなく愛し、ますます心を閉ざすだろう。夫の心を少しずつ自分が変わることで取り戻すことができるだろうか。無理なような気がする。ジョーンは、自己嫌悪に陥っていない。

家庭を持つことによって、夫も妻も互いに理解し合うよう努力し、足らないところを助言しあうべきだと思う。子どもが生まれたら、その子の成長に教わりながら親も成長する。子育ては親育てなのである。この二人の25年間は。。。
ロドニーは呟く。「プア・リトル・ジョーン」君と僕は、ことごとく考え方が違う。きみは、ひとりぼっちだ・・・
何という夫なのだろうと思うけれど、しかし、このような夫婦は世間では、いくらでもいると思う。

これほど極端でなくても子育てが終わりふたりだけの生活に戻った時、折り合いをつけながら共に必要な場面(三度の食事に家事行事)は共有しながら、老体をいたわり合いながら、しかし個人の思考、行動は束縛しない暗黙の了解を得て、居ても居なくても、自分の邪魔さえしなければ、それでいい。空気のような互いの存在。禁句は、過干渉。
他者への過干渉は、おそらく暇だから。自分への拘りをもっと持てばそれも少なくなると思う。

※ 主人公一家が暮らす「クレイミンスター」ですが、架空の地名ではないでしょうか。
ご存じの方、お教えください。
※※ ハヤカワ文庫の表紙が写真なのですが、不思議な服装です。ウエストから細いひもが見えますが、指先にも絡ませていてベルトではないような。ワンピースの様なものを着ていますが、これも病院の統一寝間着?にも見えます。椅子は空港や駅の待合の椅子でしょうか。それとも病院の待合の椅子のようにも見えますが。真っ赤なペディキュアに黒いビーチサンダル。使い古した革鞄。お洒落にも統一感がなくやや不気味です。戦前の光景ではなさそうですが。ミステリアスな表紙。

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質問@怖いと感じましたか?哀しいと感じましたか?それとも・・・ =怖いというより哀しい夫婦だなと思いました。理由は、25年も一緒に暮らしてきているのに、妻の独りよがりな価値観や対応にも、とことん話し合うことなく向き合わない夫。それは本当の優しさではない。子ども達には、父親としてひとりひとりに向き合い感謝されてはいるが。

質問A様々な感想をお聞きしたいです
=感想は上記にまとめました。

森山里望さん 2022/6/2 17:46 投稿

メモを見ると2011.6に読んでいて、悲しく,哀しく恐い物語…とある。深く考えさせられた小説で、やるせなさがいつまでも残っていた。
そして、スカダモア家がこうなったのはすべてジョーンに原因があり、彼女が哀れで彼女さえ変わればこうはならなかったと思ったように覚えている。
だが、再読してみると事態はそう単純ではなかった。答えることのできない大きな問いを突き付けられているように感じた。
ジョーンは何もない空虚な環境に身を置いたことで、自問自答の苦しい精神のさまよいを経てむき身の真実の己の存在を知った?悟った?夫や子どものたちの心の内も理解した?その真実を見えなくしてしまうのは、社会通念や、中流階級の生活様式というラベルということだろうか。
どの夫婦も、どの家族も、その暮らしが文化的で近代的であればあるほどスカダモア家のような危険と悲哀と残酷さをはらんでいるのではないだろうか。自便にも思い当たることがある。
これは推理小説ではないとしているが、制約ある背景と本人の回想のみからヒタヒタと真実に向かっていく過程の筆力、最後に別の角度(ロドニーの側、娘の手紙等)から正解を示すあたりは、推理作家ならではの手腕とおもった。アガサの人間の深層心理をみぬく鋭い洞察力を感じる作品だった。
・ロドニーの品行方正な優しさも罪だが、私は終始ロドニーという男性に惹かれながら読んだ。特に、p187〜191の娘エイヴラルへの言葉、p309帰ってきたジョーンに初めてあったときに「おや、どこかいつもと違う」とちゃんと察知するところは、父親として、夫として強くかっこいい。
・この後、時代は世界大戦へと進んでいく。暮らし向きが困窮し、生活の優先事項が変化していく流れの中でも、ジョーンはそれに応じた有能な一家の主婦としての手腕を発揮し続けるだろうか?
・装丁がいい。素足に赤いペディキュア、使い慣れた旅行鞄、駅か空港か、これはジョーンか…あれこれ思いながら小説の中のさまざまな場面とからめて写真にじっとみいってしまう。
・中村妙子の訳は、先にロアルド・ダールや、絵本などで知っいて子どもにこびない作品の持ち味を大事にした訳だなと感じていた。児童書専門の翻訳家だと思っていたが、どうして長編から詩までジャンルなくあるではないか!読みやすかった。
問いについて
端的に言えば、哀しいし、怖い。

成合武光さん 2022/6/3 17:01 投稿

『春にして君と離れて』  感想 成合武光

前に分本主義についての話が出たが、それと一緒に話題にされるといいかなと思います。
 父親が娘の年齢の離れた人物との恋愛を諭す。話は誠に当を得ている。しかし、感謝されることではない、というのも頷ける。どちらも苦しいが、正しいと思う。 これこそ思考の訓練が必要だ。というにふさわしい。
 夫は妻の理解のなさに苦しむが、しかし愛している。それゆえに異を唱えない。難しいことだがそれも正しいと思える。
 40日40夜の砂漠の行、キリストと同じような舞台を、わざわざ設定しなくても良いと思った。しかしそれは理屈抜きに苦を理解させる。人々の想像、思考を何の抵抗もなく呼び込める。日本人には海が身近なのと同じように、あちらでは砂漠が身近なものなのかとも思った。
 結婚は契約である。履行されなければならない。努力と思考の訓練が必要である。思考が足らなければ、永遠に苦痛であり「人生についての開明はない」と。・・生きるとはまさしく、思考の訓練のためであるかも、と思わされた。
 この夫婦は仲睦まじく、幸せな夫婦であり、家庭であると私には思える。これはこれで一つの幸せの形であると思う。夫婦の形も千差万別かもしれない。それ以外にもなく、それでいいのかもしれない。常に思考することで「不断の進歩の過程」を歩む。歩み続ける。・・終点はない。・・
やっぱりそれが人生、人間なのでしょうか。このような感想を持ちました。良い本を読みました。ご紹介ありがとぅございました。

(文学横浜の会)


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