「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2022年07月05日


「桃子」等(『つめたいよるに』収録)江國香織

<「掲示板」に書き込まれた感想>

遠藤大志さん 2022/4/18 08:48

江國香織の作品は本作が2作目となる。最初に読んだのは『冷静と情熱のあいだRosso』である。
 『冷静と情熱のあいだRosso』は辻仁成の『冷静と情熱のあいだBlu 』のアンサー小説的存在で、永遠に忘れられない恋を女性の視点から綴っている。
女性目線で書かれており、小説の中に題名の様に冷静と情熱のあいだの「揺れ動く何か」を感じた記憶がある。
 今回、阿王さんが江國香織の「桃子」をチョイスされたということで、「つめたいよるに」の短編をすべて読んでみた。短編もあれば掌編のものもある。短い文章の中に子供の心理や女性の心理が垣間見ることができる。
 この「桃子」はそれらとは少し趣が違う。古い言い伝えのようであり、おぞましさと闇がある。
 たった7歳の少女に魂を抜かれるまじめな修行僧天隆、まじめであるがゆえに魂を抜かれたのか、それとも桃子には持って生まれた天性の妖艶さがあった為か? そのどちらなのかはこの小説の中からだけでは分からない。

 阿王さんが本作を選択する前に候補に挙がっていたのが、ツルゲーネフの「初恋」であったので、勝手に阿王さんの意見を聞きたい世界観をだぶらせてしまった次第である。
 5歳年上の美しい女性、ジナイーダに淡い恋心を抱く16歳の少年ウラジーミル。
ジナイーダは持って生まれたコケット(色っぽい女)で、彼女に惚れる何人もの「崇拝者」達を自身の家に集めては弄ぶ。
 桃子は7歳、ジナイーダは21歳と年齢こそかけ離れているが、桃子が21歳になる頃には、ジナイーダの比ではないほど男たちを弄んでいることが予想できる。

(1)なぜ二人は鳥と花に変身したのかを教えてください。
 結局のところ現世ではこれだけ歳が離れたカップルが祝福され恋愛成就できるはずもなく、現世で叶えられなかった思いは、このような「鳥と花」という組み合わせにして成就させるしか方法はないでしょという筆者なりの落としどころではないでしょうか。

(2)感想を自由にどうぞよろしくお願いします。  僕自身は江國香織の作品を自ら進んで読むか? と言われれば、恐らく読まないと思う。
女性目線の女性の為の小説という感想を抱く。本「つめたいよるに」の短編の中ではデュークが一番心に残る作品であった。

浅丘さん 2022/4/19 20:58

作者の名は知っていましたが、初めて読ませていただきました。童話作家とは知りませんでした。童話には、よく怖い童話と楽しい童話がありますが、これは怖い童話ですね。私は、とても怖いと思いましたよ。世の中には、見える世界と見えない世界があります。ふたつの世界を、パラレルに描いた作品と思いました。見えない二人だけの心の世界、それが青い花と、小鳥でしよう。優れた怖い童話です。

清水 伸子さん 2022/5/9 10:58

江國香織の作品を初めて読みました。7歳の桃子に恋をする19歳の天隆。桃子は両親を亡くしており、伯母夫婦に引き取られるまでの間寺に預けられ天隆が世話係となり桃子はなついていく。二人が蝉の羽をむしったり、ミミズを日向で乾かし、蟻を水におぼれさせたい溺れさせたりしたのは、桃子が死を追体験したかったからなのでしょうか。映画「禁じられた遊び」を思い起こさせられました。
*なぜ二人は鳥と花に変身したのか
桃子は天隆の元へ戻りたくて自由に飛べる鳥になり、天隆は修行僧としての自分から逃れてはいけないと考えながらも、桃子への思いは募るばかりで、その思いが美しい花となったのではないでしょうか。

中谷和義さん 2022/5/12 15:43

若い男女が夢見るような表情で抱き合ったまま、静かに青い夜空を飛ぶ――。そんなシャガールの絵を思い浮かべた。幻想的で美しい作品だ。

@なぜ二人は鳥と花に変身したのか
 幼女と言ってもいい7歳の桃子と、青年の天隆。どんなにひかれあったとしても、社会常識で許される恋ではない。ましてや天隆は修行僧だ。しかし、許されないからこそ思いは募る。その思いは人間の殻を割ってあふれだし、2人を変身させた。
 桃子が鳥になったのはなぜか。両親もなく孤独な桃子は大人の都合であちこちたらい回しにされていた。自分の意思でどこにでもいけ、どこにでもとどまれる自由な存在になりたかったのではないか。一方、天隆は自身が桃子の居場所になるため、生きながら即身仏のような姿になった。目印となる頭上の花は、ラピスラズリの高貴な青に輝いていると思う。白い小鳥の赤いくちばしとのコントラストも鮮やかだ。

A感想
 実写版の映画にしたらグロテスクな作品になってしまうだろう。かつての後藤久美子や宮沢りえなど、どんな美少女をもってきても、青年との絡みは病的な小児性愛を感じさせてしまう。具体的な映像なしに美しいイメージをもたらす小説の良さをあらためて感じた。

阿王さん 2022/6/7 08:47

レジュメに追記
短編集「つめたいよるに」掲載の他作品についても、印象に残った作品があれば、感想を教えて欲しいと思います。
宜しくお願いします。

森山里望さん 2022/6/9 21:25

江國香織の作品について
童話作家とのことですが、今月の「桃子」他、代表的な受賞作「草之丞の話」「ぼくの小鳥ちゃん」「こうばしい日々」等、私はどれも児童文学とは思えず、子どもには薦めたくありません。「人生は辛く厳しいものだ。だけどほら、生きるってこんなに素晴らしいことなんだよ。生きてごらん」というメッセージが物語の根底にあるのが児童文学と思っています。これらの作品からは、そういったメッセージも力強さも受け取れないからです。
しかし、児童文学、童話というくくりを外して読めば、面白いと思います。現実からちょっとだけ浮いたような不思議な世界観があるのに都会的な文章で、擬音の使い方が一般的じゃない。びょおびょお泣く(デューク)、涙がふくらんで…ほたほたと落ちる(桃子)、カポーン 缶をける音(鬼ばばあ)等々独特です。短編はどれも甘く口当たりがよくて、すぐ溶けてしまう綿菓子のようです。たくさん、次も読みたいとは思わない。「つめたいよるに」も前に読んだはずだが残っていない。
ずいぶん前「冷静と情熱のあいだ」をBluとRossoが同時進行の愛蔵版をどっぷり浸って読んだが、並行して読むと辻成仁より江國香織の方が断然筆力が勝っていると感じた。江國香織は恋愛作家だと思った。
「桃子」について
この山寺のあたり一帯がすっぽり魔法で包まれているような、そこだけ昔々に時代をさかのぼったような異界に感じながら読んだ。二人は現実に戻らず、この山寺の異界で一緒に生きていくために鳥と花になったのだろうか?
この寺に訪れ、住職の話を聞く「客人」は何者か気になる。

石野夏実さん 2022/6/14 16:55

江國香織・文 (飯野和好・絵)「桃子」1986年発表作品
        =「桃子」旬報社2000年12月1日発行=
2022.6.6  石野夏実

 江國さんの文章はもちろんのこと、飯野さんの絵の力と合わさって、この本は何倍にも大きなインパクトを与えるものとなった。
表紙の桃子の着ている洋服は、7歳そのもの。7歳といえば小学1年生である。その出で立ちに、オレンジ色が混ざった深緑色のおかっぱ頭の少女のアンバランスな眼差しを、何と表現すればいいのだろう。何を、見つめているのだろう。
敢えて見透かすという表現が相応しいのだろうか。深遠な眼差しである。飯野さんの他作品の特徴ある目に比べ、桃子のこの瞳は謎めいている。髪型と髪の色は、飯野カラーの特色そのままに使われているようではある。
この表紙絵は、殺生を和尚に咎められ説教されている時のふたりの様子である。天隆は頭を畳にこすりつけて詫び、桃子は項垂れることもなく真正面を見据え「もういたしません」と言い切った。反省した顔つきではないから不気味なのである。
飯野さんの絵力に感服したので、さっそく地元の図書館に出かけて他作品を借りてきた。新しい本もたくさん出ていて、ご自身の絵と文でのオリジナルな絵本と絵だけ担当の絵本を5冊ずつ合計10冊借りてみた。
江國さんの処女作「桃子」の次作で「草之丞の話」の絵本も借りてきたが、2001年8月発行で出版社も同じ旬報社だった。※2作とも立派な絵本になったのは、発表後15年経ってからである。そして絵の担当は飯野さんだったが、「草之丞の話」の主人公「僕」の「おふくろ」の色っぽさは伝わるものの、不思議さや引き込まれ感は生まれなかった。
2冊を並べてみても、やはり「桃子」の絵本の表紙のインパクトは絶大である。

この話は、一途な恋に憧れている年頃の独身女性が書いた、大人のファンタジー物語なのではと思った。
7歳の少女が、かなりませていたとしても海外出張もタクシーもある現代に、19歳の修行僧に恋愛感情を持つ話というのは、対象読者は子どもではなく当時の江國さんと同年齢の若い女性かなと思った。
江國さんの小説はいまだ読んだことがなく、映画ではイタリアのフィレンツェの街並みが美しい「冷静と情熱のあいだ」をかなり前にヴィデオで観たことがあるが、この絵本を読んでからは、実際に小説を読まなければ、彼女の個性は伝わってこないと思った。
「桃子」は、あまりにも文章が短かったが、プロの作家へのデビュー作(※「草之丞」より1年早い)であり江國ワールドの出発点であるのは間違いないだろう。
(1)なぜ鳥と花に変身したのか
変身は物語ではよくあることですが、、ただ、お坊さんの剃髪は煩悩を打ち消すための象徴であるとのこと。作家としては、あえて挑戦して頭のてっぺんには花を咲かせ白い鳥を桃子の化身として住まわせたのでしょう。だって、作り話の最たるものが、童話なんですから。
(2)感想
本文のとおりです。

寺村博行さん 2022/6/19 16:40

江國香織の作品ははじめて読みました。『桃子』をはじめとする『つめたいよるに』の小品群は、現代的で女性的です。また現実性がうすく場面設定が唐突であるところは、物語におけるシュールレアリスムではないか、と思いました。

『桃子』については、昔見た映画『シベールの日曜日』を思い出しました。二人が出会う場所が『桃子』ではお寺であるのに対し、『シベールの日曜日』では、少女シベールと青年が出会う場所は教会です。桃子と天隆の二人が、ホタルを追っていたことをとがめられたことで、桃子は赤い嘴をもった白い小鳥に、天隆は青い花に変身して、人間であることをやめます。一方『シベールの日曜日』では、少女シベールと青年の二人が湖の岸辺で追いかけっこをしているところを、勘違いした警察の手によって青年が射殺されます。
7歳頃の孤独な少女と、ひとりの孤独な青年との交流 ‥‥ <恋愛>というのとはちょっと違う、と私は思います ‥‥ という人物設定、またその出会う場所が宗教施設であること、物語終盤の水辺での追いかけっこ、また悲惨な結末(?) ‥‥ など、あらすじがとてもよく似ています。
『シベールの日曜日』は本格的な文学作品だと思いますが、『桃子』は文量も少なく、説話風・童話風です。童話風とはいっても、子供に語って聴かせるという話でもなさそうです。『桃子』で作者の云いたいことは、結局のところ最後の和尚の言葉 ‥‥ 人を恋するというのはえらいことですわなあ(p.49)‥‥ということになるのでしょうか。そこのところは私にはあまりピンときませんし、仮にそうだとしてもあまり心が動かされません。よって私にとっては、発想に面白いところはあるけれど、それ以上ではない物語ということになります。

(テーマ1について)(テーマ2は上記)
作者の趣味としか言いようがないと思います。花と蝶でもいけそうだし、池と魚という設定などもありそうです。鳥の白と赤、花の青という原色が強く迫ってきます。作者はこの最後の場面にこだわりがあり、最大限に強調したかったのだろうと思います。

藤原芳明さん 2022/6/20 11:05

1.はじめに
 江國香織の作品は初めて読みました。川端康成の『掌の小説』を連想させるような作品集です。怪異譚もあれば日常のスケッチもあります。小生は何日かかけて数話ずつ読みました。そのなかで印象に残った作品は『デューク』、『夜の子どもたち』、『晴れた空の下で』でした。

2.『桃子』についての感想
 たとえば源氏物語で、光源氏が紫の上を略奪したのは光源氏18歳頃、紫の上が10〜11歳と推定されています。ですから天隆19歳、桃子7歳の二人は、普通では考えられないくらいの設定です。作者は恋愛の純粋結晶を象徴的に描こうとしたのかもしれません。この世で成就できない恋愛なら、二人してこの世での身を捨て、生まれ変わって別の世界で添い遂げたい、この変身譚は一種の心中物語といえるでしょう。

3.印象に残った作品
『デューク』:
 死んだもの(多くは人)が現われる怪異譚は無数にありますが、この作品では、現れるのが死んだ愛犬である点に味があります。きっと犬好きには大いに共感できる話でしょう。また、たとえば浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』などには読者の涙腺を刺激するような「泣かせ」がありますが、『デューク』ではそこが抑制されていて好感がもてました。

『夜の子どもたち』:
 オムニバス映画『トワイライトゾーン(1983)』のなかに『真夜中の遊戯』という話がでてきます(たしかスピルバーグが監督)。ある老人ホームで老人たちが施設のルールを破って、夜中に庭でカン蹴りをして大いにはしゃぐという話だったと思います。子どもに戻って大声を出したり、泥だらけになったりして遊びたい気持ち、よくわかります。

『晴れた空の下で』:
 老妻を失い少し認知も始まった老人の日常、それをやさしく見守る息子の嫁。作品の着地のさせ方もうまいと思いました。

4.怪異譚について
 偶然ですが、先日、内田百閧フ短編集(『東京日記』その他)を読みました。百閧フ作品には、怪異や不思議をなんの説明もなく日常の茶の間にごろりと投げ出したような凄みがあります。その文体は極端に言葉を節約し不愛想に見えます。文章の達人だからこそできる技で、それが百閧孤高の存在にしています。今回、江國香織のこの作品集を読んで、ほんの少し百閧ノ近いテイストを感じました。

5.その他
 解説者は「文学の至極は怪談にあり」を三島由紀夫がいったと書いていますが、これは佐藤春夫の間違いと思います。三島が自身の評論集『作家論』のなかで、この言葉を佐藤の説として引用しています。細かいことですがご参考まで。

藤本珠美さん 2022/6/25 08:39

『桃子』を読んで
江國香織さんは、雑誌『クウネル』が暮らしの雑誌であったころ、妹さんとの往復書簡が載っていて、それがとてもおもしろく、生活に添って書いていく作家なのかなと思っていましたが、この『桃子』は生活から独立しており、なにか怖いものを持っているところは、所収されている他作品も同じイメージを感じました。話し言葉で書かれていることが、効果的だと思いました。子供時代は大人になると、若干記憶が幻想的になったりもするので、それで怖いものを感じるのでしょうか。最後部の「人を恋するということは〜」という部分は静かだが深いと思いました。

荒井 幹人さん 2022/6/28 22:34

桃子に惹かれた天隆が冷静を失い、狂っていく様子が非常に怖かったです。普通の恋愛で、失恋の痛手から、頭に花が生えたりするまで、人が狂ってしまうことがあるんだろうか、と思いました。
 天隆が桃子に何故惹かれたかがわかる場面がないですが、何か普通ではないことがあったのではないか、それはなんだろう、などと、いろいろ考えております。  

十河孔士さん 2022/6/29 16:13

一読、芥川を思わせる。48ページにある「あの花の青さといったら、あたりの声をすいこんで、そこだけ深閑とつめたいようでした」などは、まさに芥川そのもの。筆者が芥川から学んだのは『南ヶ原団地A号棟』からも明らか。『桃子』は『南ヶ原』よりも成功している。というより、この文庫本にある話の中で、いちばんいいのではないか。
 「海外出張中」などの言葉があり、今の時代の話だろうと思われるが、読み進めるにつれて時代を超越するような印象を持った。実際、この話には室町時代あたりが似つかわしい気がする。お寺が舞台だし、人物たちの使う言葉も時代がかっている。物語の最後で話は飛躍し読者を驚かせるが、こうした猟奇的な展開は時間を現代から他へ移した方がより容易に成立するように思われる。(ただし『つめたいよるに』のほかの話は現代を舞台にしているので、この話だけを他の時代に設定するのは、はばかられたか。)
 ショート・ショートは?切り口”が作品の成否を握るように思われる。さまざまな人生の一断面が手際よく鮮やかに切り取られていて、興味深くハッとさせられるところも多かった。しかし都会的でスタイリッシュさが強調された話には、「文学」がおいてきぼりを食らうようで、共感しにくいところもあった。

和田能卓さん 2022/6/29 16:53

江國香織『桃子』を読んで
「教科書をつくっている光村図書が、」「サブタイトルに『児童文学の冒険』と入った」「『飛ぶ教室』という雑誌をだし」、「常時投稿原稿を募集しており、審査員の眼鏡に適えばすぐに載せてくれた」というのに江國香織が二十一歳で投稿し、入選したのが『桃子』だったという(『「飛ぶ教室」のこと』、朝日文庫『物語のなかとそと』2021による)。
 光村図書の教科書については仕事柄親しくしてきたが、『飛ぶ教室』なる雑誌の名は初めて知った。この雑誌は(復刊されて)現在も刊行されているが、サブタイトルが「児童文学の冒険」という刺激的なものであることから、ようやく『桃子』が通常思い浮かべる児童文学、ないしは童話と趣向を異にする理由が分かった。(とは言え、『飛ぶ教室』書斎の多作品を読んでみたわけではないから、これは、あくまで私感によるものにすぎない)
 読む者によって抱くイメージは様々であろうが、本作を児童文学として子供に読ませて良い物語なのか、困惑させられた。語り手の表現とは言え、七歳の桃子は「時々妙に大人っぽい表情をし」、「一種色っぽい感じがした」といい、天隆と残酷な行為をしたり、二人きりで部屋に籠って何やら「あやしげ」だったりで、子供向けの作品ではない印象を受けたのだった。
 再読三読するうち、絵本のほうではどのように描写されているのか気になりはじめ、さっそく購入し、読んでみた。飯野和好の絵による比較的小さな版(ほぼ菊版)の絵本で、表紙画には桃子と天隆が語り手に詫びを入れている場面が描かれている。明るい絵柄ではない。初読時に抱いたイメージから、何か暗く隠微な感じに思えて仕方のない絵柄であり、その感慨は一冊を通じて変わらなかった。色彩は鮮やかだが、暗い。桃子が鳥になり、天隆の頭に青い花が生えた場面も同じような・・・。
 原作品の本文を繰り返し読んでも、最初の印象は変わらなかった。
 桃子が小鳥に変身した件――人間の魂が鳥になるという発想は古典文学や民俗の世界では古来語られてきた趣向であるが、作者がそれを意識していたかどうかは分からない。この作品を書く流れの中で自然に出てきたものとしても、それはそれでよい。引き取りに来た伯母夫婦の目前で小鳥になって飛び立ったのは、限定して言えば、天隆と一緒にありたいという願いからだろう。
 青い花を頭に生やした天隆がやせ細り、小鳥が巣にしている様子、変身前の桃子が天隆の意気消沈に反比例して生き生きしていたことから、『牡丹燈籠』の生気吸いを思い出さずにいられなかった。この生気を失わされるという怪奇な類型はあまたある話である。
 おわりに、本作を読みながら想起したのが、夏目漱石の『夢十夜』であり、エドワード・ゴーリーの『うろんな客』の不気味な世界だったということを付記しておきたい。
 (まとまらない感想ですが、以上です)

山口愛理さん 2022/6/30 16:42

父親の江國滋の「夜の紅茶」などのエッセイは読んだことがあるが、江國香織の作品はほぼ初めて読んだ。以前に機会があって「デューク」だけ読んだことがあり、何となく途中からネタバレを感じはするが、短編のうまい作家だなあ、と思っていた。
「つめたいよるに」はどれも劣らずうまい短編というか掌編。ちなみに「僕はジャングルに住みたい」「鬼ばばあ」「晴れた空の下で」「緑色のギンガムクロス」が好きだ。その中で「桃子」は他の作品からは異彩を放つ。皆さんが書いておられるように「禁じられた遊び」や「シベールの日曜日」のようなテイストを持つ。ターゲットがどこにあるのかわからないが、童話とは言えず、むしろフランス映画的だ。関係があるかどうか、作者はアテネ・フランセに通っていたようだ。
だが、この作品の舞台はキリスト教ではなく仏教寺院。奔放な少女に恋をして生気を吸い取られた年上の修行僧という形に見えるが、私の感想はちょっと違う。桃子が世話係に任命された天隆と、セミやミミズやアリを残酷に殺生するシーンから感じたのだが、桃子はもともと前世で鳥だったのではないか。鳥が餌をあさるような感覚を体現したのではないか。その自然さに、つい天隆も一緒になって行動してしまった、と私は考えた。
桃子の魅力に取りつかれた天隆はだんだんと生気を失っていく。もう、修行どころではないが、代わりに頭に美しい一本の青い花を咲かせ、そこに白い鳥となった桃子が戻ってきてすみつく。絵としては空恐ろしい限りである。が、私はこのシーンの青い花は、日本画家の堀文子が描いた有名なヒマラヤ5000メートルに咲く幻の青いケシをまず連想した。それほどに気高く神秘的で美しかったのではないか。
堀文子は80歳を超えてヒマラヤに初登山し、この貴重な花を実際に見てから描いた。柳澤桂子著の般若心経解説本である「生きて死ぬ智慧」にこの青いケシの挿絵が載っている。作者がこれを意識したかどうかわからないが、私にはそう思えたのだ。

金田清志さん 2022/7/1 06:16

江國香織は初めてです。

「つめたいよるに」は掌編からなる作品集。内容は様々、作風は作者の感性がにじみ出てくる読後感でした。

その中の「桃子」ですが、恋をテーマにしたものと読みましたが、それはあくまで修行僧・天隆の側から恋であるように思われます。
桃子が叔母夫婦が迎えに来た際に、小鳥になってしまう件は、なんとも不思議です。
どう解釈していいか、作者は読み手の想像力に任せているよにも思えます。
ぼくには桃子と言う少女の不安心理を表現したのではと感じました。

幼い子供にとって、どうしても頼れる大人が必要ですが、両親のいない桃子にとってはたまたま天隆がその人であったに違いありません。

しかし天隆にとってはそれが恋になったのでしょう。恋とは不可解なものです。

以上、ざっくとしたぼくの感想です。

その他の作品も個々に作者の感性に満ちています。その中で「スイート・ラバース」「ラプンツェルたち」「緑色のギンガムクロス」を上げます。

杉田尚文さん 2022/7/1 08:39

「桃子」(「つめたいよるに」)江國香織
著者の本は初めて読みました。奇談、変身、転生、幽霊があって楽しく読みました。犬の死を幽霊で、おばあちゃんの死を少年の目のリアリズムで描く、ただ、自分の好きな懐かしい風景を好きな食べ物アイスクリームなど入れて静かに描いているようにも見えますが、伝統を踏まえた、質の高い作品集と思います。
「絵本の世界は奥深い、子供の世界や感覚を思い出す」と著者は新聞のコラム欄で書いています。
「鬼ばばあ」時夫と養老院のトキとの出会いと別れの物語です。
懐かしい風景、夕方の日差しの中で缶けりに夢中な時夫たち、養老院の散歩でトキは「あんたトキオ言うんか」と時夫に声を掛けられ、知り合ったトキの部屋を訪ねるようになります。やがて、婆さんの死を受け入れる時夫は成長したように思えます。
カンを蹴った幼児の時のかくれんぼを懐かしく思い出しました。八百屋の前の土の道路が遊び場です。ある名前を言って蹴るように前もって言われて、カポーンと缶を蹴ります。年長の子供たちは大笑い、幼児の私はその名前が八百屋の主人の名前と知りませんでした。変な役割をさせられました。子供は残酷な面を持っています。
「夜の子どもたち」は基地ごっこの話。夜は父母の基地ごっこ、梅の実爆弾を入れた母のエプロン、父の「爆弾を」に母は「ハーイ、今」と応える。何故か東条英機を連想させる。
「とくべつな早朝」はコンビニを題材にしたリアリズム調で良かったが、「英文科の加藤さんがイブに暇とは思えないが同じクラスの深沢はいるかも」と電話した。「アイスクリームを食べに出てこないか」深沢は翌早朝にコンビニに来ます。「アイスクリーム」が「メリークリスマス」と聞こえた。泣かせる話ですが、ちょっと縮こまっていて、みじめすぎる。
一番良かったのは「夏の少し前」女子高生が白髪の老女となり、テニスの間、孫を預けに来る。「こんな光景にあこがれていた」と呟き、また、女子高生にもどる。転換が非常にうまいと思います。
「桃子」七歳の少女桃子に恋をした天隆の剃った頭の上に、それでは命令すると桃子は青い花を咲かせた。桃子は嘴の赤い白い小鳥となってそこに住み着いた。登場する人にリアリティは全くない、落語家のように語る僧侶、物好きと揶揄われるお客、3か月の海外出張の叔母夫婦、皆どこかぶっ飛んでいるおかしみがある。ブラックユーモアである。
あるいは、意味などないのではないでしょうか。今は意味偏重の時代、唯、存在すること、感じるだけでよいのかも。市松人形のような黒い髪、黒い瞳と濁りのない白目、両親を事故で失ったばかりの七歳の桃子には青い青い花に住む白い小鳥がよく似合う。

成合武光さん 2022/7/1 13:23

『桃子』(江國香織著)の感想   成合武光

一読して『千一夜物語』を想いました。一夜ごとに物語を紡いだアラビアンナイトの女性も、『桃子』の作者江国さんのようだったのではないかと、想像しました。
 世の中には素晴らしい人が沢山いるのだな、と思った次第です。才色兼備、正しくは才色兼美ではなかろうかとも想像しました。二刀流の大谷と同じように、素晴らしい人なのでしょう。どの物語にも感心しました。
 幼いながら人としての本源の泉、恋に魅せられた天隆と桃子。幼いだけに他のことは考えられないでしょう。恋こそが、人をして人として生きることの全てである。その力は生命の力である。人は誰もがそれとの綱引きに苦しみ、生に苦しむ。一途に、なにもかもを恋にまかせられたら、或いは幸せかとも思う。その生の一面に焦がれる。真実、焦がれ死ぬひとも多い。誰を煩わせることもない二人だけの世界に、昇華出来たらと憧れる。
 美しいと思います。切ないと思います。蝶と花は作者の賞讃でしょう。
 恋についてだけの物語であるだけに、胸を打ちます。恋に気づいたら、誰もそっとして、大事にしてあげたい。成就してほしいものです。先輩の僧侶たちもそのことを想わなかったのでしょうか。ちょっと残念な気もします。そう思わせる所で終わっているのも、作者の力でしょう。
 このような清純な物語、心を洗われる気がします。極暑の午後の冷たいフルーツソーダー ですね。  この夏の暑さ、みなさん頑張ってください。

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