「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2022年09月05日


「お伽草子」太宰治

<「掲示板」に書き込まれた感想>

遠藤大志さん 2022/7/13 15:39

太宰治がこの『お伽草子』を書いた事を初めて知った。
本著には、瘤取り、浦島さん、カチカチ山、舌切雀の4作が収められている。
残念ながら桃太郎は、もう飽きたのか掲載されずに終わっている。

■瘤取り
 お爺さんと妻、そして四十近くになる真面目な息子という至って普通の家族である。
お爺さんは五十過ぎに右の頬に異変を感じ、その頃から大きな瘤が出来始めた。
お爺さんはそれを嫌がるどころか、家族の中で唯一共感を得られる孫の存在に思い、愛おしく感じるようになる。
ある日、林の奥の草原に足を踏み入れた際、鬼の集団に遭遇する。
そこでその鬼たちに気に入られ、また来て欲しいいと思った鬼たちによって、お爺さんの瘤は取られてしまう。
その話を聞いた、左に瘤のあるお爺さんは、その鬼たちの元に行き、左側にある瘤を取ってもらおうとする。
しかしその目論見は外れ、その鬼たちに恐れられ、依然預かっていた瘤をそのお爺さんの右側に付けてしまうという話である。

■浦島さん
 有名な浦島太郎のお話である。
 物語の通り、亀を助けた浦島太郎の元に亀がやって来て、浦島太郎を竜宮城に誘っていく話である。
太宰の話では、二人は掛け合い漫才の如く、互いにツッコミを入れながら、海の下にある竜宮城を目指す。
 竜宮城とは昔話にあるような華やかで、ドンチャン騒ぎで、大きな皿に鯛のさしみやら鮪のさしみ、赤い着物を着た娘つ子の手踊り、そうしてやたらに金銀珊瑚綾錦があるような場所ではなく、また、乙姫のイメージも想像とは大きく違い、乙姫は誰に聞かせようという心も無くて琴をひき、客人に対して無関心だった。
 やがてこんな生活に飽きた太郎は陸上の貧しい生活が恋しくなり、戻る事を決意する。お互い他人の批評を気にして、泣いたり怒つたり、ケチにこそこそ暮してゐる陸上の人たちが、たまらなく可憐で、そうして、何だか美しいもののようにさえ思われて来るのだった。
 浦島は乙姫に向ってさようなら、と言い、無言の微笑でもって許された。竜宮のお土産の玉手箱を手渡される。
 この玉手箱により、浦島太郎は三百歳になってしまうのだが、ここでの太宰の考え方が独特である。
『年月は、人間の救ひである。忘却は、人間の救ひである。
 竜宮の高貴なもてなしも、この素張らしいお土産に依つて、まさに最高潮に達した観がある。思ひ出は、遠くへだたるほど美しいといふではないか。しかも、その三百年の招来をさへ、浦島自身の気分にゆだねた。ここに到つても、浦島は、乙姫から無限の許可を得てゐたのである。淋しくなかつたら、浦島は、貝殻をあけて見るやうな事はしないだらう。どう仕様も無く、この貝殻一つに救ひを求めた時には、あけるかも知れない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である。これ以上の説明はよさう。』
忘却を乙姫は浦島太郎に与えたのだと言う。なんとも哲学的な考え方である。

■カチカチ山
 カチカチ山の物語に於ける兎は少女、そうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。
この設定は現代でも多くあるシチュエーションである。
 元々山でのんびり遊んでいた狸であったが、山で爺さんに捕らえられるが、なんとか逃げ切るが、その際婆さんに引っ掻き傷を与える。
 この狸は風采があがらず、愚鈍大食の野暮天であったというだけで、特に悪いやつでもない。
 対して兎の方は美しく残忍な性格といういかにもと言う感じである。狸を焼こうとしたり、火傷の背中に唐辛子を塗ってみたりと残忍極まりない。この十六歳の美しい処女に最後は騙されて、泥舟ごと海に沈まされてしまう。
 最後、太宰は若い男に警鐘を鳴らす。
『好色の戒めとでもいふものであらうか。十六歳の美しい処女には近寄るなといふ深切な忠告を匂はせた滑稽物語でもあらうか。或いはまた、気にいつたからとて、あまりしつこくお伺ひしては、つひには極度に嫌悪せられ、殺害せられるほどのひどいめに遭ふから節度を守れ、といふ礼儀作法の教科書でもあらうか。
 或いはまた、道徳の善悪よりも、感覚の好き嫌ひに依つて世の中の人たちはその日常生活に於いて互ひに罵り、または罰し、または賞し、または服してゐるものだといふ事を暗示してゐる笑話であらうか。』
 女性で様々な問題を起こした太宰であるが、そんな自分自身に対して言っているような気がする。

■桃太郎について
 結局、桃太郎については書かなかった訳であるが、それあ対する言い訳も行っている。
『桃太郎のお話は、あれはもう、ぎりぎりに単純化せられて、日本男児の象徴のやうになつてゐて、物語といふよりは詩や歌の趣きさへ呈してゐる。もちろん私も当初に於いては、この桃太郎をも、私の物語に鋳造し直すつもりでゐた。すなはち私は、あの鬼ヶ島の鬼といふものに、或る種の憎むべき性格を附与してやらうと思つてゐた。どうしてもあれは、征伐せずには置けぬ醜怪極悪無類の人間として、描写するつもりであつた。』
 太宰の桃太郎も読んでみたかったものだ。

■舌切り雀
 最後は舌切り雀である。言葉が話せる雀と親しげに話していたところ、お婆さんから浮気をしていると疑われてしまい、お婆さんは嫉妬のあまり、その雀の舌を切ってしまうと言うものである。
 雀は若い女の身代わりで被害に遭ってしまう。
『あの若い女のお客さんを逃がしてしまつたのなら、身代りにこの雀の舌を抜きます。いい気味だ。』
 お爺さんは生れてはじめての執拗な積極性で舌を切られた雀を必死になって探す。
 欲を張ったお婆さんは重い大きい葛籠を背負い、雪の上に俯伏したまま、死んでしまう。葛籠の中には燦然たる金貨が一杯詰まっていた。お爺さんは、のち間もなく仕官して、やがて一国の宰相の地位にまで昇りつめる。
 雀に対して優しいお爺さん、嫉妬に駆られて舌を切り、欲を張って死んでしまうお婆さん。

テーマ  @みなさんはこの4つの昔話「瘤取り爺」「浦島太郎」「かちかち山」「舌切り雀」のもともとのお話をちゃんと知っていましたか? また、子どものころ、だれか大人に読んだり、話したりしてもらった経験はありますか? ご自分のお子さんやお孫さんに話したり読んであげたりしましか? →ちゃんとと言うのがどの程度なのかは分かりませんが、一通りどのような話だったかは記憶しています。  おそらく、教訓のような意味合いで親が話していたのだと思いますし、自分が親になった際、親が子供に読んで聞かせる際、勧善懲悪や、欲張ると痛い目に遭うみたいなつもりで読んで聞かせていたような気がします。

 Aテーマなく、自由な感想をお願いします。
→ 特に面白いのは、浦島さんであった。
新解釈も新解釈。
亀との関係性はお互いに皮肉の言い合い。
 竜宮城は我々が想像していた、飲めや歌えの大宴会などではなく、乙姫もイメージと真逆である。
 きっと、太宰が子供の頃これらの日本話の数々を聞いていて、その傍で、更に想像を巡らせ、独自の世界に誘われていったのだろう。
 今回森山さんからこのお伽草子を紹介していただき、太宰の新しい局面を垣間見たような気がします。

中谷和義さん 2022/8/12 11:05

「太宰治を読むとネクラになるので薦めません」。高校時代、若い男の社会科教師が授業中につぶやいた。ひねくれた目で世間を見始め、自殺への誘惑に駆られるようになる、というのだ。今回、ミュージシャンの夢をあきらめ田舎教師になるしかなかった教師の悲しげな瞳を思い出しながら「お伽草紙」を読んだ。その「教訓」を楽しむには一定の精神的成熟が必要で、未熟な「子供」には取扱注意の作品だと感じた。

「瘤取り」で、こぶがなくなったお爺さんの家庭は冷ややか。息子は気づかぬふりをし、お婆さんは「また、水がたまって腫れるんでしょうね」と妙に現実的な反応を示すばかりで喜ばない。きっとお爺さんはこれからも寂しさを紛らわせるため酒を飲み続けるのだろう。こぶが増えてしまった近所のお爺さんは、肩に力が入りすぎて変な踊りになってしまった。内面からわき上がる気持ちに裏打ちされない、物欲しげな芸(術)はダメですよという教訓だと思う。

「浦島さん」は、亀の生態をめぐる考察が、アニメや漫画を科学的に解説する「空想科学読本シリーズ」のようで面白い。ごちそうが(海の住人を食べることになる)豪勢な刺し身ではなく藻であったり、酒も液体ではなく花びらだったりするのも論理的だ。だから「教訓」も論理的に導き出される。「玉手箱を開けて三百歳になったのは不幸だ」という俗人の勝手な思い込みを廃してみれば、おのずと「忘却は、人間の救いである」という結論に至る。

「カチカチ山」は、兎の復讐の仕方が「男らしくない」ことから女だったことにして、(若い)女のおそろしさと男の愚かさを描いている。なかばストーカー的な狸は兎の庵を訪れて露骨にイヤな顔をされても、自分の災難に心を痛めているのだと誤解する。男性は女性よりコミュニケーション能力に乏しいと言われるので、こうした行き違いは今もあちこちで生じているのだろう。

「舌切雀」に登場するのは、生活力のない夢見がちの夫と現実主義者の妻。平山郁夫やダリが、しっかり者の妻に支えられて売れっ子画家になったという話を思い出した。

@ 四つの昔話は知っていた。読み聞かせてもらった記憶はなく、家にあった本で読んだと思う。子供に読み聞かせたことはない。読み聞かせていたら、もっと情緒豊かに育てられたのかもしれない。

A 「お伽草紙」ではそれぞれの物語の舞台に具体的な地名が与えられ、空想ではなく「実際にあった話」のように感じられる。その分、読者が自らの経験に引きつけて考えやすくなっていると思う。

藤原芳明さん 2022/8/13 16:13

『お伽草紙』感想

1.はじめに
 私は太宰治の熱心な読者ではなかった。それでも中学高校の国語教科書で『走れメロス』や『富嶽百景』を読み、二十代で文庫本になった主な作品は読んだと思う。それでわかったことは、学校の教科書に採用されたものは、太宰作品の中で安心して青少年に読ませられる一部分であって、他の作品群にはもっとアクの強いもの(たとえば『人間失格』)があり、むしろそちらの方がより太宰らしいと考えられていることだった。  このアクの強さとは、たとえば自分自身への痛烈でネガティブな感情が、それと裏腹な自惚れや自意識と共存していることである。それをあざとい露悪趣味と感じる読者はこの作家から離れてゆき、逆に、それを自分の屈折した心情の代弁者と感じるものは太宰ファンになるのだろう。(お笑いコンビ ピースの又吉は太宰ファンとして有名らしい)

2.『お伽草紙』について
 かなり以前、初めて『お伽草紙』を読んだときは、既存の昔話を大胆に解釈しなおした面白い着想の作品と思った。今回読み返して昔の記憶がよみがえった。そしてあらためて感じた印象を以下に述べる。

(1)全体としての印象
 すでに人口に膾炙している昔話の骨格を借りて、太宰が自由な発想で自分なりの解釈と創作を肉付けている。既存物語の枠組みをアリバイにできるので、かえって奔放な想像力を働かせ、その中に自分の本音や芸術論を自由に展開できたのかもしれない。全体として軽妙で滑稽な味に仕上げられており、作者の楽しんで書いている姿が想像される。

(2)『瘤取り』
 登場する瘤をもった二人の爺さんがともに家庭では浮いた存在で、家人から尊敬されていない点が身につまされる。ただ作者は余計なことをちょっと書きすぎていると思う。たとえばp224〜の「鬼」や「鬼才」の説明など。

(3)『浦島さん』
 岸田秀によると、海の底にある竜宮城は、人間がなんの不満もなく充足していた胎児のときにいた子宮のシンボルであり、海は羊水であるという。竜宮城はすべてが満たされたユートピアであり、このため時間が存在しない。陸に戻り玉手箱(本作では貝殻)を開けると突然時間のある世界になる(すなわち浦島が三百歳になる)。これは現実世界では不足と挫折、後悔の念が生じるからだとしている(『ものぐさ精神分析』)。
 一方、本作品で太宰は、浦島にとって三百歳になったことはむしろ幸せなことだった、すなわち「年月と忘却は人間の救いである」と解釈している点がユニーク。

(4)『カチカチ山』
 善良だが愚鈍な中年男(狸)が、冷酷無情な乙女(兎)に徹底的に嫌われ、いたぶられ、にもかかわらず水に沈む最後の瞬間まで兎を想いつづけ、騙されたと覚った刹那にも「惚れたが悪いか」と叫ぶ。この哀れな狸の喜悲劇は、太宰自身の痛い実体験にもとづく女性観の反映かもしれない。

(5)『舌切雀』
 長年つれ添った老夫婦の不毛でかみ合わないざらざらした会話が痛々しい。雀に対する老人の恋心は、この閉塞した生活に一筋の光を射し込む唯一の非日常だったのだろう。

3.感想のまとめ
 四つの説話とも、文学・芸術や人生に対する卓見がユーモアとともに盛り込まれていて楽しく読めた。ただし、ときどき顔を出す作者(太宰)の自意識がうるさく感じられることもあった。個人的には浦島とカチカチ山が面白かった。
 たとえばカチカチ山であそこまで狸(自分自身)を戯画化し笑うことができ、また他の説話でも同様に人生の諸相を第三者的な距離をもった眼で描くことができた太宰が、なぜあのような最期を選択したのか、不思議な気もする。
 なお、太宰の近しい存在だった坂口安吾はその太宰治論『不良少年とキリスト』の中で、死んだ太宰の才能を惜しみ、彼が生きることを選ばなかったことへの無念さを述べている。今回の課題を機会にこちらも読み返した。

清水 伸子さん 2022/8/16 15:58

@
親に読み聞かせてもらったり、お話をしてもらった記憶はありません。ぼんやりと絵本の挿絵を見た記憶があるくらいで、ちゃんとしたあらすじは覚えていません。そして自分の子どもや孫に読み聞かせた事もありません。

A
今回初めてこの作品を読みました。昔話をもとに、発想を膨らませて大人向けの読み物に仕立て上げられているのが興味深く面白かったです。個人的には「瘤取り」と「浦島さん」が好きです。「瘤取り」ではお酒が好きで、鬼たちの酒盛りの中にかまわず入って行って踊りを踊るようなおじいさんが、真面目一方で面白味の一切ない妻や息子と暮らす味気無さに同情を覚えたし、瘤を孫のようにいつくしんでいたというのが面白いなと感じました。「浦島さん」では竜宮や乙姫に関する新解釈…『美酒珍味が全く無造作に並べ置かれてある。歌舞音曲も別段客をもてなさうといふ露骨な意図でもって行はれるのではない。乙姫は誰に聞かせようといふ心も無くて琴をひく。……客もまた、それにことさらに留意して感服したような顔つきをする必要も無い』などのくだりは、太宰自身の思いのたけを語っているように感じました。そして三百歳になった事も『年月は、人間の救いである。忘却は人間の救いである。』という表現に物語の深みを感じました。
 一方で「カチカチ山」兎に対して一夫的な思いをかける狸に対して、兎の仕打ちはあまりじゃないかと感じ共感できませんでした。「舌切雀」はおばあさんが雀とおじいさんとの会話を耳にして嫉妬し、雀の舌をむしり取るという時点で首をかしげましたが、おばあさんが欲を出し金貨のいっぱい入った葛籠を背負って起き上がれず雪の上で凍死してしまい、おじいさんはそののち仕官して宰相の地位にまで登った時、雀大臣と呼ばれたが『いや、女房のおかげです。あれには苦労をかけました』と言ったというのには、更に首をかしげてしましました。このおじいさんの、雀に対する気持ちとおばあさんに対する気持ちのありどころがつかめなかったのです。ただ、太宰は女性に対して屈折した感情を抱いていたのかなとも思いました。

匿名さん 2022/8/24 16:14

私だけの想いかもしれませんが、近頃の文化状況にはとても失望しています。テレビや映画は、ハリウッドものかその亜流ばかり ‥‥ まだマシと思われる日本製の時代劇も、面白みの欠けたものに変容してきているように思われる ‥‥ 本屋を覗けば商業主義に塗れて読むべきものは少なく、購入はほとんどが注文 ‥‥ 「老いの繰り言」というものかもしれませんが、個人としては不満をかこつ日々ではあります。そんな不満の中にいるものだから、今回の課題図書は読ませていただいて、とても嬉しかったです。
『お伽草子』に、『盲人独笑』や『新釈諸国噺』なども加えて、遠く忘却の淵に霞んでいた、日本語と日本文化の粋に再会した気持ちがして、心が洗い清められる心地でした。素晴らしい作品に親しむ機会を与えていただき、とても感謝しています。

『お伽草子』は、太宰が戦時空爆下の日本で、防空壕に入って子供に絵本を読んで聴かせるような生活の中で、それでも作家の本能に導かれて、手慰みのように書き綴った作品ではないかと思います。だから、ほとんど自分のために自分が書きたいように書いたという、そんな自由さが感じられ、力が抜けて軽妙洒脱な作品になっている ‥‥ もともと軽妙な筆致の作家だから、ますます軽妙で楽しい作品になっていると思います。しかし楽しいとはいえ、童話の範疇はとうに越えて、大人が楽しめる作品になっています。解説の奥野健男氏は「ぼくは『お伽草子』を、太宰治の全作品の中で芸術的に最高の傑作と考える。」と書いていますが、私もその通りだと思いました。
少し外れますが『新釈諸国噺』は、どの噺も笑いと涙の連続で、もう周りに人のいるところでは読めない、と思うぐらいでした。太宰は子供のころからお道化て人を笑わせるのが得意だった、とのことですが、西鶴に太宰のコメディアンの才能がプラスして、これ以上のものはないと思われるほどの、悲喜劇物語になっています。これほど楽しめる読み物は、大人になってからでは記憶にありません。子供のころ回し読みした漫画の面白かったこと、その楽しみを思い出しました。

太宰の作品というと『斜陽』『人間失格』『桜桃』『走れメロス』『富嶽百景』などの方が有名です。今回の課題図書はどちらかというと、あまり知られていない作品群のようで、私も知りませんでした。太宰治は、作品と併せて作家そのものが小説であり芸術であるようなところがあるので、そちらと直接関係している作品の方にどうしても興味が引きずられる、ということはあるのでしょうが、別のところでこんなに素晴らしい芸術作品を遺していることは、もっと知られてもいいことだと思いました。
太宰は自殺未遂を、主なものだけでも四回起こし、ほぼ四十歳の誕生日に最後の五回目をおこし、やっとというべきかそれが成就し、連れの女性と共にこの世を去っています。彼の自殺癖は、作品にも書かれていますが、いつも何かに追い立てられているかのような強迫観念に苛まれるというか、常に火急であった精神状態に起因するもののようですが、四回目の自殺未遂(昭和12年3月、妻初代との心中。27歳)の後、五回目に成功して世を去る(昭和23年6月、山崎冨栄との心中。39歳)までの期間は約十年余りと長く、その間には再婚をし、曲がりなりにも普通の家庭生活を営み、三人の子供をもうけています。
そして、この期間はすっぽり見事に戦争の期間と一致し、上記の『お伽草子』『盲人独笑』『新釈諸国噺』などの作品が生まれたのもまたこの時期です。世の中は戦争でしたが、太宰個人の人生という面からみると、この期間は比較的落ち着いた、というか、戦争の空爆の下でしたが、彼自身の生涯では最も落ち着いた時期であったようです。なんという皮肉でしょうか、太宰文学の最も生産的な時期は戦時下ということになります。戦争のおかげで比較的心静かな一時期を過ごすことができたという太宰の特殊性が、また作品においてもこの時期に、最高のものを遺すことができたのです。
最後に、太宰を悼んだ坂口安吾の言葉(『不良少年とキリスト』より)を引用して、この感想を終わります。
≪通俗で、常識的でなくて、どうして小説が書けようぞ。太宰が終生、ついに、この一事に気づかず、妙なカッサイに合わせてフツカヨイの自虐作用をやっていたのが、その大成をはゞんだのである。‥‥ くりかえして言う。通俗、常識そのものでなければ、すぐれた文学は書ける筈がないのだ。太宰は通俗、常識のまっとうな典型的人間でありながら、ついに、その自覚をもつことができなかった。≫

【四つの昔話の感想】
★『瘤とり』22頁  阿波剣山(〜のような気がするだけ)
この物語は何のために書いたのか、と詰め寄られたなら「性格の悲喜劇というものです」とでも答えるしか無いだろう、と半分ごまかしているが、別のところでは「このように、いわゆる “傑作意識” に凝り固まった人の行う芸事は、とかくまずく出来上がるものです」と書いて、言いたいことはハッキリ言っている。この小篇は、阿波聖人や左瘤の爺さんのように、四角四面に真面目に行動する人の滑稽さを描きたかった、というか、つい描いてしまった(常々そう思っていたから)という、そういう作品ではないか、と思う。
★『浦島さん』50頁  丹後水江
風流談義に事寄せて、遊び(風流)としての理想郷を描いているように思われる。またそれにかこつけて「あの国(竜宮城)には批評がないのだ」と、また「乙姫様は批評が気にならない」と、常々抱いてきた作家としての不満というか、我儘をぶつけてみせたりもする。そして物語の最後、乙姫様の御土産を開けてみた結果を、「年月は人間の救いである、忘却は人間の救いである」と本来の『浦島さん』とは逆の解釈を示して物語を閉じる。もっと加えて書きたいことがあったのではないかと感じるところがあるが、それが何かは作者自身にもハッキリしなかったのではないか、全体にそんなまとまりの無さも感じるが、却ってそれが味になっているかもしれない。
★『カチカチ山』35頁  甲州河口湖畔・船津の裏山辺り
 「これは、好色の戒めとでもいうのであろうか。美しい女には近寄るな、という忠告を匂わせた滑稽物語でもあろうか。あるいはまた、 ‥‥ 節度を守れ、という礼儀作法の教科書でもあろうか。  或いはまた、 ‥‥ 笑い話であろうか。いやいや、 ‥‥ 。 曰く、惚れたが悪いか。  ‥‥ 」(新潮文庫p.365)
作者が最後に記したこの言葉に尽きる。
★『舌切り雀』33頁  仙台愛宕山麓  
子供のころに読んだ本では『雀の恩返し』というタイトルだったような記憶がある。確かにこの方が内容を把握しやすいが、それは元々のお話の場合によるだろう。太宰風に換骨奪胎されたこの物語では、単に恩返しということではない、また単に教訓ということでもない、独特の味付けがなされているので、単純には結論はつけ難い。最後には婆さんが死んで、爺さんが出世して「女房のおかげです。苦労をかけました」というところは心難いが、この爺さんの立場にたてば、だれしもそう言うだろうという気はする。婆さんは愚かだろうか? ‥‥ どちらにしても可哀そう。

【お聞きしたいこと、の回答】
? うちに絵本があって、母親が読み聞かせてくれた記憶があります。その頃は、テレビがない時代だったので、子供にとっては数少ない娯楽のひとつでした。
? 本文に。

山口愛理さん 2022/8/25 15:04

太宰治は、文学好きの誰もが通るはしかのようなものだとか、読みすぎると精神を病むとかよく言われたものだが、中・高生時代の私はかえって興味を持って太宰を読んだし、結果、はしかでもなく今でも好きで、精神も特に病んでいないと思う。

「お伽草子」は戦時中、結婚し子供もいるという比較的安定した時代の太宰の異色作。思う存分に書いている感じがする。太宰はもともと喜劇的要素も持っているし、シニカルでもある。それが遺憾なく発揮された感じ。遠い昔、高校生の頃に読んだのだが、「浦島さん」だけ少し記憶に残っていた。

「お伽草子」の太宰の味付けは優れていて、特に「浦島さん」が好きだ。もともと「浦島太郎」しか元話を知らなかった。(今回すべての元話を調べ直した。)この浦島の元話が曲者で、なかなか優れたSFであると思うのだが、助けた亀に連れられて竜宮城で過ごして帰って玉手箱を開けたら凄いおじいさんになってしまう、という落ちはシュールで何が教訓なのだかよくわからない。善行をしたからといってあまりつけあがるな、ということか。禍福は糾える縄の如し、人間万事塞翁が馬、ということか。(ちなみに「浦島太郎」と「竹取物語」は、日本昔話の二大SFファンタジーと私は思っている。)
亀との会話とか、わびさび感漂う竜宮の描き方とかが出色。亀は可哀そうなだけでなく哲学的な面もあり、浦島太郎は好男子というだけでなく迷い教えを乞う普通の人間として描かれる。確かに、浦島が三百歳になってしまったことは、不幸と決めつけてはいけないのだろう。なお、魚の背中を踏んづけて竜宮へ歩くシーンは悪い夢のようで、なぜか内田百閧フ小説を思い出した。

「舌切り雀」も元の話からするとかなり変わっている。この主人公のうだつの上がらないおじいさんには、太宰が投影されている気もする。そして元話では小さなつづらを持ち帰ったおじいさんは小判をたくさんもらえたが、大きなつづらを持ち帰った嫉妬深く欲深いおばあさんは妖怪に襲われたが、それでも改心して夫婦仲良く暮らしたとある。太宰の話のように冷たくなって発見されたりはしない。太宰の女性不信的な面が表れているのだろうか。
女性不信的な部分は「カチカチ山」でも見て取れる。太宰は「女生徒」(実在の女生徒の日記をもとにしたとも言われる)という優れた作品を書いたが、「カチカチ山」ではウサギ=少女を男性の純真を弄ぶ残酷な存在として描いている。

「瘤取り」は罪のない作品。ここにも書かれている通り、教訓を導き出すのは難しい。しいて言うなら、天才と凡人の比較か。踊りの才のあるおじいさんは得をし、才のないおじいさんは損をする。だが才のあるおじいさんはおごり高ぶらず平常心で無欲である。ここがポイントか。ちなみに、この「瘤取り」と「浦島さん」は元話がカタカナで挿入されていて、わかりやすかった。

以上、私が読んだ「お伽草子」はスズキコージさんの絵入りで楽しかった。しかし、やはり私は「晩年」「道化の華」「人間失格」「斜陽」などの作品の方が「The太宰」という感じがして好きだ。

荒井 幹人さん 2022/8/26 23:54

4つとも知っている話です。実家に昔話のレコードがあって、小さい頃、よく、聴いていました。

瘤取り
 結びを、「性格の悲劇というものです。」と書くこともできそうですが、「性格の悲喜劇というものです。」と書くところが、作者らしいと思いました。

浦島
 作者が、物語の結末をどう解釈したのか、理解しようとがんばったのですが、わからなかった。でも、いろいろ考えながら何度も読み返すのは楽しかったし、わからないことが残った方がまた読みたくなるので、よかったと思いました。

カチカチ山
 わたしに於いても。後略。

舌切雀
 主人公の奥さんは、ひどいことをする欲の深い人であるように書かれていますが、奥さんをそうなるまで追い込んだのは、主人公であると思います。主人公は、奥さんを死なせてしまいそのことに気付いて、申し訳なかったと反省し、それを機に、現実の世界に向かったのではないか、と思いました。
 草庵を出る主人公を想像すると、作者が書かなかった、「われ非力なりと雖も」、と言って鬼退治に向かう、桃太郎と重なりました。

石野夏実さん 2022/8/28 17:30

太宰治作「御伽草子」1945年10月25日発行(筑摩書房)
2022.8.28 石野夏実 

 以前、吉本隆明の講演会の文章を読んでいてこの敗戦間近に書かれた「御伽草子」をとてもほめていたので、kindle版青空文庫の本棚に並べて置いた。太宰の本は、ほとんどをkindleの無料版で読めるので気軽に積読ではなく並べ読(ならべとく)にしている。総作品数250余といわれているが、昔文庫で買って読んだ代表作以外は(これも代表作かもしれないが)ごく短い時間で読めてしまうものも多いのでkindleを重宝使いしている。同じく芥川や漱石、鴎外の超短編も無料kindleで手に入りやすい。

文横54号の原稿を仕事や家事の合間に書き続けていて、なかなか「御伽草子」を読むことができず、やっと書き終えたその足で読み始めましたら、気軽に読めて面白くて。。うふふ〜でした。テーマ本指定を有難うございました。

テーマの質問の返答が先になってしまいますが、私はこれらの昔話を父の膝の上で幼稚園の頃に絵本を見ながら聞かされました。たぶん4,5歳だったと思います。
「カチカチ山」と「舌切り雀」は、悪いことをしたら罰を受けるという教訓だったんでしょうか、怖いお話としてずっと覚えてました。今思えば、非情で残酷な話です。
「瘤取り」や「浦島太郎」は、欲張ったり約束を破ったら瘤が増えたりたちまちお爺さんになってしまうといういましめだったと思います。
「桃太郎」の話は、父が好きであったようで何度も読み聞かせされましたが、この話は桃太郎の成功談でタイプが違う昔話だと思います。芥川も書いていますので、太宰が書かなくて正解だったのではないでしょうか。
娘二人には、夫がやはり膝の上に娘たちを乗せて講談社テレビ名作絵本シリーズ「まんが日本昔ばなし」(TBSで市原悦子と常田富士男がナレーションと声優を分担。テーマソングと共にこの名作アニメ番組はテレビ史の宝物)を読んでいたのを思い出します。食後のひと時、私は後片付け、夫はその間、子供たちとのコミュニケーションの時間に充てていました。私がねだられてたまにする読み聞かせは、世界名作子ども版シリーズでした。

さて、太宰の「御伽草子」ですが「カチカチ山」が一番気に入りました。
若い娘に恋する37歳のおっさん狸。この狸にどんどん心情を入れ込んでいく太宰が見て取れます。ユーモアも調子づき加速し、筆がひとふで書きのように止まるところ知らずです。自分でニヤニヤしながら書いたのではないでしょうか。
「女性にはすべて、この無慈悲なウサギが一匹住んでいるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかってあがいている」これが書きたかったんだと思います。
「舌切雀」は、「桃太郎」云々のところでもういいかなと思って、今回はパスしました。

森山里望さん 2022/8/29 13:56

感想を追加投稿します。
10年ほど前、この太宰の「お伽草紙」から脚本をおこした舞台を観る機会があり、観劇の前にと読んだのが最初です。私自身が日本をはじめ世界各国の伝承民話や、宮沢賢治、小川未明、アンデルセンなどの創作童話の語り手であることもあり、大変興味をもって読みました。
 おとぎぞうしの表記は御伽草子が一般的なのか、どの本も「草子」としてありますが太宰のものが、子→紙としているのは意図か理由があるのでしょうか?
民話や伝説から起こされた小説、ファンタジー小説は多々あります。
・龍の子太郎/松谷みよ子
・空飛ぶカバン/アンデルセン
・クラバート/プロイスラー
・ガラスの靴/ファージョン  等々
 それらどれもが、元の話を核に物語が大きく展開され、大衆の娯楽であった昔話が文学と言えるものになっていると思います。
 しかし、この御伽草紙はちょっと違う。物語はたいして大きくなっていなくて、登場人物像は戸惑うほどに元々のイメージと違っています。その人物を掘り下げ、心理・心象を深く鋭く書いています。ぶざまで滑稽で哀切な暮らしの中の、おじいさんやおばあさん、亀も雀も愛おしく感じます。太宰の優しい眼差しを感じます。
 ひょうひょうとして力強い文体だと思います。私が観た舞台は、太宰の文をそのままセリフにしているとのことでしたが、耳で聞くとより心地よく届きました。
 太宰は「鶴女房」のごとく己の身を削って作品にした、故に力尽きて絶えてしまったかとも思えます。しかし、私は「御伽草紙」を読むたびに、この人は生きたかったのだ、生きることを賛歌していたのだと思えてなりません。

瘤取り
 隣の爺さんが瘤をとってもらうべく凝然と平家没落の唄を舞う?詠む?この場面のミスマッチな滑稽さがいい。民話としての「こぶとり爺」の生彩のある口承は、東北地方中心(日本昔話百選・/稲田浩二・和子著/三省堂)で、太宰も津軽出身なのに阿波の国を舞台にしたのはこのくだりを描きたかったからだと思った。
 恐ろしい鬼の愚鈍さ、酒好きのおじいさんの悲喜こもごも、見えるような文章で、太宰は書いていてさぞ楽しかったのではないか。
 いつの世も人の暮らしに、性格の悲喜劇はなくならないものだと、ストンと心に落ちる。
 宇治拾遺物語 「鬼にこぶとらるること」の結びには 
 ものうらやみはすまじきことなりとか とある。

浦島太郎
 私が読んだ口語訳の「御伽草子」原典では、浦島太郎は貧しい漁師となっているが、これを裕福な旧家の風流好みの御曹司としているところがおもしろい。
 亀のいなせな毒舌、洒落が落語のようだ。この亀の言葉の随所に太宰の信条、世相への諦観が込められているように思った。
 陸上の生活は騒がしい。お互いの批評が多すぎるよ。陸上生活の会話の全部が、人の悪口か、でなければ自分の広告だ。
 野心があるから、孤独なんてことを気に病む…
 言葉というものは、生きていることの不安から、芽生えてきたもの…

カチカチ山
 日本の五大お伽噺の一つ。私が語ってきた中では、4話の中で一番聞く人を引き込む話だが、これまで「狸がかわいそう」と言われたことはない。
 狸のあまりの醜態に、読んでいて心情は兎寄りになる。
 女性の中の無慈悲な兎は、時に男性の飛躍成長を促すこともあるのではないか。この狸にその資質はないように思う。惚れたが悪かった

舌切雀
 これも五大昔話の1話。
 自らを翁として、三十代の夫婦をおじいさんおばあさんとしているのをじれったいような気持ちになる。この若いおじいさんに、太宰は自分を投影したかと思うほど

十河孔士さん 2022/8/30 12:55

「斜陽」「津軽」「人間失格」などの代表作からは距離を置いて、いわば副次的に書かれた格好のもの。そういう作品を読むのは初めて。昔ばなしという読者がよく知っていることを題材にして、換骨奪胎し、自分なりの物語に作りかえる作業が面白いものとは思えなかった。また、結果もわかっていて、それを辿るのが興味深いこととは思わなかった。「創作のレッスン」にはなるだろうが、それ以上ではないと思っていたのが、おそらく今まで読まなかった理由。

 しかし読んでみると、作者なりの物語の切り取り、組み立てがよく分かり、太宰ならではのものだった。ああ、太宰はこういうところに焦点を当て、展開して話を作ったのかと、興味ぶかかった。皮肉家でひがみっぽいなど、人生を斜めから見る太宰らしさもよく出ている。

 太宰は人間の本質を問題とした文学の中心に位置する作家。自堕落な生活をくりかえしたと受けとられがちだが、こうした傍系に位置する作品群で創作の練習をくり返したと思われる。そしてその先に太宰を太宰たらしめる諸作品が生まれたのだろう。

 作者は本に収められている順番どおり「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切り雀」と書いたといっている。一読後の感想も、この順番でよくなっている印象だった。

金田清志さん 2022/8/31 05:31

「お伽草紙」太宰治  感想

 まず読み終えて「昔話(童話)をこんな込み入った話しにする必要はあるの?」という疑問というか、そんな気持ちだった。

少し考えて、これは戦中、自由に物事が書けない状況の中で書かれた作品だと思えば、
形は兎も角、明らかに大人の読み手を対象にしている。太宰治の戦後の作とは異なる作風だと思う。

「瘤取り」

 自分にできた瘤をまるで可愛いい孫のように思いあつかうおじいさんと、
同じ瘤でも、じゃまっけな憎む対象でしかないと思っているおじいさんの話。一方は瘤がなくなり、一方は瘤が増えてしまう。

 人間の生活の底に流れる「性格による悲喜劇」を表現した作だろう。
つまりどんな事でも自分がどう受け取るかで、人生そのものも変わってしまうというたとえ話のように受け取れる。

「浦島さん」

 旧家の長男であり、人を批評するのもされるのもきらい、冒険もきらいな浦島さんが助けた亀に竜宮に連れていかれ、
お土産に「玉手箱」の代わりに「閉じた貝」を貰ってくる話。
この浦島さん、批評するのもされるのも嫌いなのだそうだが、どうも理屈っぽい。

この作は童話「浦島太郎」の玉手箱を開けるとおじいさんになってしまう気の毒なお話が、「果たしてそうなの」、
との作者の疑問から発想された作だと思う。

つまり年を取る事は、考えようによっては忘却であり、幸福へつながると言っているようにも思う。

「カチカチ山」

 この話は只々タヌキが可哀そうな役回り。
人間社会に当てはめるとタヌキは「恋する人間」であり、ウサギは「愛される対象の人」と言う設定。
人間社会でも恋は盲目と言いますが、まさに人間社会そのものでしょう。

「舌切雀」

 この作でのおばあさんの役回りは大変気の毒です。
 年齢的にはおじいさんではないが、世捨て人のような生活をしているお爺さんは
「おれは本当の事を言うために生まれてきた」とか、
「世の中の人は皆、嘘つきだから、話を交すのがいやになった」等といのたまわり、
ただただ無欲を実践している。

そんなお爺さんが雀のお宿からおばあさんが貰ってきた大きな葛籠に入っていた金貨のおかげかどうかで、
一国の宰相になると言う話だが、どうも納得できない。

成合武光さん 2022/9/1 20:14

『御伽草紙』(太宰治著) の感想   成合武光

素晴らしい作品です。初めて読みました。『人間失格』だけでしか、太宰を知りませんでした。。誰もが知っている原本はあらすじだけの物語ですが、子供たちにはこの方が分かり易く、物語を楽しめるのかなと思いました。そのあたりのことは、児童文学に深い人にお聞きしてもみたいです。太宰の御伽草子は大人の物語だと思いました。年老いてきて、初めて私も分かったような事々があります。子供の時は、一緒に住んでいても年寄りのことを深くは分からないと思う。
 その様なことを考えると、確かにもう少し生きて、物語を書いてほしかったとも思います。しかし、それが太宰の心、生きる道だったのでしょう。一人の人間が二つの道を生きるのは、まさしく超人ならでは難しいだろうと思います。
 若い時、私も太宰に酔いました。しかしそれでは生きていけないと、いつの間にか離れて来たたことを思い出します。酔いの深さもわかるように思っています。
 文学作品として『人間失格』は素晴らしい作品だと思います。一人の人間の生き方として考えると、難しい。人生がその様である人には、頑張ってくださいと、応援するだけしか出来ない。
 『御伽草紙』も太宰治の趣味らしいところがあります。それがいいという人もいるでしょう。書き過ぎだという人もいるでしょう。それは皆原本を読んでいるときの想いがそうさせるのではなかろうかと、考えてもみました。ここらあたりに難しさがあり、真似のできないことだとも思いました。課題本として紹介されなかったら、読むこともなかったかもしれません。ありがとうございました。   (了)

阿王 陽子さん 2022/9/2 23:43

1、あまり童話、絵本を読んだ記憶がなかったため、これを読んでみて、あ、こういう話だったかな?と思ってしまいました。
うっすら、市原悦子さんの語りのアニメ「まんが日本昔話」の記憶が残っていました。

瘤取り

うっすら記憶にあるぐらいです。

浦島さん

幼稚園のときのお遊戯会で、兄が海藻のワカメ役(笑)、セリフなしだったのですが、この演目は人気だったため、下級生の私も内容は覚えました。

カチカチ山

うっすら記憶にあるぐらいです。

舌切雀

こちらはスズメが米粒(のり)を食べることをこの童話から知ったり、またのりが米粒で代用できるのか、と知ったりした、きっかけで、記憶があります。善良なおじいさんに意地悪なおばあさん、というミスマッチな夫婦がなぞでした。

2、よくよく幼い頃の記憶の童話、昔話を思い出しながら、太宰治「お伽草紙」を読みました。
太宰治は、「走れメロス」を小学生のときの教科書で読み、そのあと自分で「富嶽百景」を読みましたが、興味を抱いたものの、女性を巻き込んだり放蕩したり、スキャンダラスな私生活があまり好きになれず、友達から「人間失格」「斜陽」を読むことをすすめられ、読んだものの、悪酔いしたような不快感を感じてしまい、それから自分では読もうとはしませんでした。

私は以前は三鷹からバスで近い場所にいたこともあり、太宰のゆかりの地もとおったことはあるのですが、いまでもなかなか好きにはなれない作家です。

この「お伽草紙」は、江戸時代の戯作、黄表紙みたいな感覚で読みました。(黄表紙は大学生時代読みました)

瘤取りについて

○このお爺さんは、四国の?別に典拠があるわけではない。

なんだかばかにされてるような語りですが、江戸時代の式亭三馬の作品とかにもこんな話しぶりはあったようなので、太宰がひょっこり顔を出す語りは、絵解き、紙芝居と同じようなものかと感じました。

浦島さんについて

「浦島さん」
での、

○旧家の長男というものには?すべて満足なのである

の、長男についてや、
○信じる事は、下品ですか。?ケチなもんだ。
の、吝嗇についてや、
○紳士は、これだから、?げっそりしますよ。

○あなたたちの深切は、遊びだ?子供だからお金をやったんだ。

○何のかのと、ろくでも無い料理を?かなわない。

など、作者の個人的な主観があり、それは人間を小馬鹿にしているような滑稽味あふれた語りで、

「人間の言葉はみんな工夫です。気取ったものです。不安の無いところには、何もそんな、いやらしい工夫など必要ないでしょう。」
と、挑発的です。

ただ、「浦島さん」は、「海の桜桃」「海の桜桃の花」など、太宰好みの「桜桃」が出てくるほか、貝殻だけの玉手箱、ごちそうではなく藻を食べる、おとなしい乙姫など、ユニークな発想がとても不思議でした。

カチカチ山について

ギリシャ神話のアルテミスが出てきて、太宰の時代にはもう翻訳されていたのか、と驚きましたが、太宰は昭和だったのですね。狸と兎がオジサンと若い娘、という解釈なのがわかりやすく、こちらは面白くテンポよく読めました。

舌切雀について

「桃太郎」を書かなかった言い訳に始まり、尻切れトンボに、舌切雀のおばあさんが大金残して死ぬラストは雑な印象でした。

林 明子さん 2022/9/3 01:49

@A合わせて・・・。

4つの昔話、子どもの頃から全部知っています!
その中で、子ども心にずっと納得がいかなくて、大人になっても腑に落ちず、数十年間心に引っ掛かっていた昔話が「浦島太郎」です。

「浦島太郎」は私にとっては日本の昔話というよりも、もはやミステリーに近いお話で、機会さえあれば知人や親しい人に・・・
玉手箱の煙は何だったのか?  何のために乙姫は玉手箱を浦島太郎に渡したのか?  乙姫は浦島太郎に本当に玉手箱を開けてほしくなかったのか?
「開けてはいけない」というものをなぜわざわざ渡すようなことをしたのか?  乙姫は亀を助けてくれた浦島太郎に感謝していたはずではないのか?
それなのになぜ開けるとおじいさんになってしまうようなむごいプレゼントを渡したのか?  乙姫は残酷なのか? 
良い行いをした浦島太郎は、なぜ最後にいっぺんに齢をとってしまうという仕打ちを受けなければいけないのか?  なんて理不尽な昔話なのか?
・・・と質問や議論を浴びせかけていました。

昔話ひとつにこんなにむきになってぐるぐる考える私につきあってくれる人もそうおらず、今回太宰治の御伽草子に「浦島太郎」が含まれていて、これらのミステリーについてみなさんと共有できることをとてもありがたいと思いました。
そして、実は2年ほど前にようやく私の中でこの謎が解けました(解けたというか、納得できる解釈を自分なりに得ることができました)。

太宰治は「年月・忘却は人間の救い」「深い慈悲」と現しています。
私は、玉手箱は救いでも慈悲でもないと思います(文豪に対し恐れ多くも意見してよろしければ!)。
良い行いをした浦島太郎にそもそも救いも慈悲も不要なはずだからです。
「300歳年を取ることが不幸であるという先入観」というのも決めつけすぎる気がします。
300歳も年を取らせて、むしろ浦島太郎を死へと近づけさせる行為は、自殺ほう助にも近いものを感じ、それは本物の救いや慈悲ではないと思います。

玉手箱の中身は浦島太郎の時間です。
乙姫は預かっていた時間を浦島太郎に返しただけです。
浦島太郎が陸に帰るとき、浦島太郎の持ち物である時間を返さなければいけなかった。
陸上と海底で流れる時間の速さは異なり、乙姫にはそれが分かっていた。
玉手箱を開けると、浦島太郎がおじいさんになってしまうことを分かっていたので、「開けないでください」と伝えた。

乙姫はただ浦島太郎について誠実だっただけなのだ、とようやく理解しました。
預かっていたものを返す、という当たり前のことをしただけで、この「浦島太郎」の話には悪い人もかわいそうな人も誰もいないのだと、ある時ふと光が射すように解を得ることができ、数十年間続いた疑問に幕を下ろすことができました。
弱いものいじめから亀を助ける善行、善行に対する報恩、それだけではなく預かっていた時間は返さなければいけないという誠実さ・美しさがこの「浦島太郎」にはあるのだと思います。
陸上と海底とで流れる時間が違うという発想・ロマンが1000年以上も前に書かれた話とは思えず、改めて魅力的な昔話だと思いました。
今回、太宰治の御伽草子の感想というよりも、私の勝手な解釈をふりかざすというかなり暴走した内容になり恐縮しておりますが、ご容赦ください。

(文学横浜の会)


[「文学横浜の会」]

禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2007 文学横浜