「文学横浜の会」

 「掲示板」の内容

評論等の堅苦しい内容ではありません。
テーマになった作品について参加者がそれぞれの感想を書き込んだものです。
  

2022年10月05日


「十二月の窓辺」津村記久子

<「掲示板」に書き込まれた感想>

遠遠藤大志さん 2022/8/22 17:57

津村記久子著の「ポストライムの舟」は2009年年第140回芥川賞を受賞した際に読んだことがある。
派遣社員で働きながら、世界一周クルージングの費用が163万円、それは自分の年収相当分であることをしり、節約してその額を貯めようと慎ましやかに暮らす話である。

 今回は津村記久子著の「十二月の窓辺」がテーマ図書であった。
「十二月の窓辺」に出てくる「ツガワ」は著者の津村自身であろうことがすぐにわかった。
全てが津村の経験したことなのかは定かではないが、彼女の経験した職場であると思う。

 僕は「津村記久子」とコンビニ人間の「村田沙耶香」が同じ匂いがすると感じた。
ツガワもコンビニ人間の主人公"古倉恵子も、一般企業のOLを上手くこなすような器用さが感じられない。
どこか不安定で、パワハラ、モラハラがあるような会社だと、一番に標的にされやすいタイプである。
「ツガワ」のような人間はどの会社にも存在するし、「V係長」のような高圧的に上から目線で罵倒してくる人間も存在する。
「十二月の窓辺」も「ポストライムの舟」も社会の弱者が主人公であり、かなりリアルに表現されている。
 今日、岸田首相が格差是正を謳っているが、十二月の窓辺を読んで2009年当時から社会的弱者が顕在化しており、津村記久子がその時代の社会問題を自らの経験から著したのは時代を先読みしていたからだろう。
彼女の小説を読むと、先の生活が見えてこない、会社における自分の立ち位置が見えて来ない為、暗い気持ちになってしまう。

 十二月の窓辺は、最後、女装のアサオカに感化を受け、その勢いで退職願いを出すに至る。友人のナガトが通り魔であったという何処かミステリー的な結末で終わる。
 筆者が言いたかった事は”次は自分以外の誰かのこともわかることができるようにとツガワは強く思った。・・・・・・誰かの気休めになることができればいいと思った”(P187)であろう。
ツガワにはナガトいう聞き手がいた点であり、もしもナガトがいなければ、ツガワはとっくに潰されていて、社会復帰することが出来ず、引きこもり生活をしていただろうと思う。
 本小説で自分の話を聞いてくれる存在かいることにより、救われるという事を改めて感じた次第である。

「疑問に残ったのは、主人公がヨーグルトの菌を死滅させ、職場を去る。これらのことです。皆さんはどのように思われるか。感想をお聞かせください。」
 学校でも会社でも嫌な奴、嫌みな奴、横暴で偉そうな奴はいるし、それらを避けて通ることはできない。
最近学校では「いじめ」に対しては「登校しない(登校拒否)」を是認し、追い詰められない様にする動きもある。会社に於いても「出社しない(出社拒否)」で配置転換をし、居場所を確保していく動きがある。ただし、それはまだ恵まれた環境にいる場合のことである。この小説の様に配置転換なんか許されないケースが圧倒的に多い。限界に達した時に、ツガワの様に辞めるのは選択肢の一つである。
 その際に恨みつらみを人にぶつけられないツガワのような人間は、ヨーグルトの菌を全滅させることにより、彼らに仕返しをしたのではないでしょうか?

中谷和義さん 2022/9/20 21:27

いじめはどこにでもある。その理由は千差万別。でも「千差万別」は、世界は思ったほど狭くも画一的でもない証拠でもある。今の環境が嫌なら飛び出してもいい――。テーマは重いが、肩を押してくれるような一種のさわやかさを感じた。

 主人公のツガワは同僚より年上で仕事も不器用。職場で浮いていて、「子供が産めなくなった」を免罪符に後輩をしごく(いじめる)V係長の標的になる。知り合いのナガトに愚痴をこぼして何とか精神の安定を保つが、そのナガトは仕事ができる分、上司のZ部長から何でも押し付けられ、出世したはいいが男性の同僚からやっかまれている。ツガワは隣のビルでの殴打事件を目撃し、この被害者となら気持ちを通わせられるのでは、と訪ねていく。でも、被害者アサオカがいじめられているのは、性的指向による差別が原因だった。
 <アサオカが自分と同じ条件の下で苦汁をのまされていたのではないと知って、自分はやっと辞める気になったのだ、とツガワは思い出した。ここでないどこかは、当然こことは違い、そこには千差万別の痛みや、そのほかのことがあるとツガワは知ったのだった。Vが自分に信じ込ませようとしたほど、世界は狭く画一的なわけではないと思ったのだった。自分がここから離れて、その感触に手を差し伸べに行くのは自由だと思ったのだった>(p.182)

 主人公たちが体験する出来事は確実にパワハラ、セクハラ、あるいは純粋に暴行事件として指弾されるケースばかりだが、この作品が発表された2007年当時はまだ「熱血指導」で済まされていたのかもしれない(企業にパワハラ相談窓口の設置を義務づけた「パワハラ防止法」の施行は2020年)。ナガトの通り魔は極端ではあるが、どこにも相談できないという閉塞感が、多くの職場にあったことを想起させる。

【ヨーグルトについて】
 2002年に一大ブームとなったカスピ海ヨーグルトを思い出した。家森幸男・京都大学名誉教授が1986年にグルジア(ジョージア)から持ち帰り、知人へのお見舞いとして分けたのがきっかけで広がったという。作品の中では、V係長が自分を中心とする社内ネットワークづくりの道具として使っている。ツガワは社内のくだらないしがらみに決別する象徴的行為としてヨーグルトを死滅させたのだと思う。

阿王 陽子さん 2022/9/24 12:42

パワハラ上司とその仲間たち。自分ではこのような本を読むことはないため、今回の読書会をきっかけに、社会的な問題の小説を読むのも、ためになるかもしれない、と感じた。
ヨーグルトの菌を煮てしまったのは、V係長や仲間たち、上司、会社への報復、復讐で、菌を煮立たせたのだと思う。ツガワのひそかな復讐だが、ヨーグルトの菌繁殖でつながっている、会社の仲間意識、その仲間なは阻害されていたツガワという孤立された個性の人格、菌を煮立たせ、消滅させる行為は、パワハラの仲間たちのつながりを消滅させたい気持ちがあふれている。

わたし自身は現在は良い環境の仕事場なはいるが、以前はパワハラが多かった。しかし、このV係長みたいなダイレクトなパワハラではなかった。しかし、この世の中には、ひどいパワハラがあるのだな、と思う。

寺村 博行さん 2022/9/24 21:33

身もふたもない言葉でいってしまえば、これはイジメの物語だ。イジメをイジメとしてそのまま描いた、またそれをイジメられる側からリアルに描いたところに、作品の価値があるだろう。作品は、初めの部分で通り魔の話が語られ、中間部分でも通り魔は常に会話の材料になって語られ、最後には会社を辞めたツガワが、通り魔に出会う。そしてただ一人、心の許せる話し相手だったナガトが通り魔だったことを発見したところで物語は終わる。通り魔は、通奏低音のようにこの物語の雰囲気を支えている。
ツガワは、実はナガトも自分以上に苦しかったかもしれないことに気づいて、自分の人生を立て直そうという肯定的な気持ちになって、物語は閉じられる。しかし、この最後の部分はわざとらしいのではないか。というのは、ツガワは辞めるに際してV係長が配布したヨーグルトを全部殺菌してダメにするという、どちらかというと陰湿なマイナスの行為でV係長と職場に復讐をするが、その行為との関係が不自然な気がする。ツガワの心はマイナスのままで閉じられた方が、物語としては自然でよかったのではないか、と思った。作者としては、それでは(マイナスばかりのままでは)あまりに救いがない、それでは哀れ過ぎる、という気が働いたのかもしれない。幾分でも肯定的に、明るさが見えるような形を、最後にはとりたいという気持ちはわからなくもないけれど、そうすることによって物語としては、不自然な作為が感じられるものになってしまったように思う。
出口のない、やり場のない、何者かに計画的にゆっくりと絞め殺されていくような、先の見えないものに覆われている世の中である。ヨーグルトの菌を死滅させて辞めてやる、というツガワの強い意志には胆が隠されているような気がする。
ニートもそうだが、それ以上に「引きこもり」という社会現象は、そんな有象無象を現実化している。「ひきこもり」は、一説には日本全体で30万人は下らないと言われているが、どういうわけかマスコミはほとんど報道しない。「引きこもり」で出口を見失った結果ではないか、と思われる家庭内殺人事件が、よくニュースになっているが、それも単なる殺人事件の扱い以上にはならない。蔓延する閉塞感の原因は、そんなところにもあるのではないだろうか。
やり場のない、救いようのない閉塞感の中で ‥‥ それでも、生まれてきた者たちは生きていく。生きるしかないのだ ‥‥ 今までに生きてきた人たちのように。どんなにひどい世の中でも人間は生きてきた。またこれからも生きていくだろう。友人のナガトが通り魔であった、という美しくない結末は、奇しくも現代日本の表象として、この物語にふさわしい≪落ち≫となっている。

石野夏実さん 2022/9/27 08:11

時間的な余裕がなくて、テーマ本だけ読みました。2009年140回芥川賞受賞作の「ポストライムの舟」は、まだ読めていません。姉妹編で、こちらの「十二月の窓辺」の方が先に2007年に書かれたもののようです。デビュー作は2005年の「マイイーター」(第21回太宰治賞)=のちに「君は永遠にそいつらより若い」に改題。
いきなり太宰治賞ですし、「ポストライムの舟」のあとにもいくつもの文学賞を受賞しています。名前も作品のあらすじも何も知らず読みましたが、読ませる力とテーマの明瞭性がなければ、これほど多くの賞を毎年のように授賞できないと思いましたので、他作品にも興味がわきました。

実生活の作者は、タイミング的には20世紀の最後の年に就職し、ひどいいじめにあい10か月で退職したものの、21世紀が始まる時から社会人として世の中を見てきた。私たちは、いや少なくとも私は新しい世紀に期待して2001年を迎えた。何を期待したか。変わること。色々なものが、色々なことが、大きく変わること。社会のありよう、人間関係。世界情勢も政治も経済も、不安定なもの全て。
私は、21世紀は「知」の時代だととても大きく期待した。。。

なのに身近なところでは、学校や会社でのいじめは相変わらず陰湿に毎日どこかで起きているし、世界では戦争もなくなっていない。
1000年に一度の節目でも格差だけが広がって何も変わらなかったような気がする。女性の地位は、少し向上したのだろうか。堂々と育休が取れる夫が少し増えたとしても、それは大企業や、またはよほど恵まれた会社に正社員として就職している夫の話ではないのだろうか。

少なくとも男たちは、いまだ髪を振り乱して子育てをしてはいない。教育が普及したから、もっと人々はモノを考え自己の確立が進むと思ったけれど、見かけは賢そうに身構えていても中身は20世紀と大して変わっていないように思う。

この課題本の中に書かれているように、会社という上下関係のある特殊な組織の中で、紙切れ一枚のはかない肩書を得ている上司と呼ばれる権限を持たされている人物が、部下と呼ばれる無力な後輩に対し、言葉の暴力と脅しの行動で追い詰めていく。今では、れっきとした犯罪として認定されているパワハラである。
あらん限りの暴言暴挙を放ちながら、社内という閉ざされた空間の中で弱い者を追い詰めていく。学校でのいじめは、学校にいかなくてもいいという選択がかなり浸透し、救われる子たちも少しずつ増えたと思う。
学校を卒業すれば、生きて食べていくために収入を得なければならず、ほとんどの人は就職をする。
この就職先がパワハラ蔓延の地獄のような環境であったなら、弱者は自己否定に支配され自分を追い詰めていくことは容易に想像できる。弱いものを力で脅す。社会の縮図の学校も会社も同じだ。

作者は弱者のひとりであったが、努力して「書く」という力を得た。「芥川賞」も授賞できたしその後も作家として数々の作品を発表し色々な文学賞も授賞しているので、会社員生活とは違う生活を勝ち取った。
全ての人が、彼女のように脱出できるわけではない。努力しても報われない人、諦める人、職場を転々とする人。おそらく特別な資格もない人は、転職すればするほど労働条件は悪くなるだろう。一番の問題点はここだと思う。
作者は限界まで経験しているからこそ彼らの代弁者になれたし、共感を呼び説得力もあるのだろう。
しかし読後感はそれほど良くない。辞める選択以外、労働者の問題はひとつも前進していないからだ。
たとえ仕事が単純作業でも、人間関係の環境さえ良ければ、ひとはその職場で長く働くことができるのではないだろうか。そして、仕事に価値を見出す。どんな仕事でも必ず社会とつながっているからだ。

☆☆ヨーグルト菌を死滅させ職場を去るのはなぜか。☆☆ せめてもの意思表示でしょう。全員に対し「あほんだら!」とか「馬鹿野郎!」の心情レベルだと思います。いや、もっとすごく「ふざけるな!」とか「くそったれ!」あたりですかね←書いてすっきり、読んで下品。失礼しました〜終わります!

藤原芳明さん 2022/9/27 15:19

1.『十二月の窓辺』と『ポトスライムの舟』
 津村記久子の作品は初めて読みました。今回の課題作品『十二月の窓辺』と併録されている芥川賞作品『ポトスライムの舟』は、作者の会社員時代の経験が強く反映されているようです。小説の内容は、『十二月の窓辺』で会社を辞めた主人公ツガワが『ポトスライムの舟』では再就職して工場のラインで働くナガセになっています。この経緯も作者の実体験と対応しており、二つの作品をひとつの物語として読むこともできます。
 パワハラを受けて、ついに会社を辞めた主人公が、再就職先ではよい上司(ラインリーダー)の下で、比較的安定した生活を送り、ささやかな希望(世界一周旅行)を抱いて、ヨタヨタしながらも生きる姿が描かれています。『十二月の窓辺』はストーリーに変化はあるものの、やや不自然さが散見されるのに対し、『ポトスライムの舟』は日常の出来事を手堅く説得力をもって描いており、作品の完成度でみるとこちらの方が上と思いました。

2.小説のスタイルと文体
 小生が注目したのは、作者津村記久子が採用した小説のスタイルと文体です。 
二つの作品とも主人公は本名ではなく、ツガワ(『十二月の窓辺』)やナガセ(『ポトスライムの舟』)とカタカナ表記されています。ただし小説で記述された内容はすべてツガワまたはナガセが実際に見るか、聞くか、考えた範囲の事柄で、それ以外のことは書かれていません。小説の中で語られる内容はすべて主人公(ツガワまやはナガセ)の視点から見えたもの、主人公のフィルターを通して見えた事象であり認識です。ですから、仮にこの小説の主人公表記を「私(わたし)」に置き換えても作品としては成立します。
 文庫解説者は「ツガワ」や「ナガセ」とカタカナ表記したことにより、主人公が一人称でも三人称でもない、対象に対する自由な距離感を獲得できた、と書いていますがどうでしょうか。小生にはカタカナ表記の効果はよくわかりません。むしろ小生には、解説者がさらりと触れているように、「良質のハードボイルド小説」と共通するスタイルと文体を採用していることに興味があります。

3.レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウ小説との共通点
 津村記久子の小説スタイルと文体を観察すると、唐突のようですが、レイモンド・チャンドラーの私立探偵フィリップ・マーロウ作品との共通性を感じます。
 チャンドラーの作品は、主人公マーロウ自身(一人称「私」)による長い長い独白の形式で物語が進行します。作者チャンドラーはその中で、事件の経緯や顛末はもちろん、マーロウ自身が考えたこと、内心のつぶやき、そして思想や哲学までも語らせます。例えば傑作として名高い『ロング・グッドバイ』(1953年刊行。清水俊二の旧訳のタイトルは『長いお別れ』)にはつぎのような箇所があります(物語が5/6あたりまで進んだところ)。(以下マーロウの独白)
「・・遅くに帰宅したとき、くたびれて気が滅入っていた。空気はもったりと重く、夜の物音はくぐもって遠くに聞こえた。もやのかかった月が、空の高いところに我関せずという顔で浮かんでいた。部屋の中をあてもなく歩き回り、レコードを何枚かかけたが、ほとんど聴いてもいなかった。どこかからこちこちという規則的な音が聞こえてくるような気がした。しかし家の中にはそんな音を出すものはない。それは私の頭の中で鳴っている音だった。私は独歩する死の時計なのだ。」(村上春樹訳。2009年発行)
 これはチャンドラーが創出した私立探偵フィリップ・マーロウという架空のキャラクターの視点というフィルターを通して認識された世界の描写です。
津村の『十二月の窓辺』、『ポトスライムの舟』も、主人公ツガワ、ナガセのフィルターを通して認識された世界の描写である点で、同じ構造をもつ小説と言えます。またその文体も、主人公の、ある意味クールな世界認識を反映している点で類似なものを感じます。例えば上記の『ロング・グッドバイ』の文章を『ポトスライムの舟』のどこかに持ってきても、それほど違和感はないでしょう。

 もちろん主人公のキャラクターはまったく異なります。マーロウは自分の生きるポリシーとスタイルを固持し外観上はクールな私立探偵の姿を貫いていますが、内心のつぶやきは饒舌です。タフのようでいて、じつは感受性豊かな傷つきやすさも持ち合わせています。やせ我慢して生きているようにも見えます。それが読者にとって魅力的なのですが。
 一方、ツガワやナガセは、現実の自分の姿に忸怩(じくじ)たる思いを抱え、自己肯定感のレベルは低いまま、それでもつつましい希望を秘めてヨタヨタ生きる現代の女性たちです。
 チャンドラーと津村記久子。小生は、この主人公も時代設定も主題もまったく異なる二人の作者の小説が、どこか共通するスタイルと文体を採用していることに面白さを感じました。そして津村記久子の文章の自在さ、流れるような文章の運び、読んでいて心地よいテンポに感心しました。この文章力があるから(内容はともかく)最後まで読むことができました。

4.今回の課題(ヨーグルト菌を死滅させたこと)について
 『十二月の窓辺』で描かれる職場はなんともいやらしい環境です。主人公にとって職場がこの通りなら、会社を辞めて当然かなと思います。ただ、ツガワが抱えていた心の闇は、「通り魔」を実行するほどには強く屈折したものではなかったのでしょう。職場のヨーグルト菌を全部死滅させたのは、いじめられた小学生が、いじめっこやその仲間たちの靴を下駄箱からこっそり盗み出し、どこかに捨てて困らせる程度の幼い復讐と思います。

5.その他、気づいたこと
 併録の『ポトスライムの舟』(2009年2月発表)を読んでいておやっと思った箇所がありました。ナガセの友人りつ子の娘、恵奈は仏像が好きで、奈良の東大寺戒壇院や興福寺の仏像を観に行くという場面が出てきます。じつは先日(8月末)、文横54号向けに提出した小生の創作品に同様の場面があります。偶然ですが、ちょっと驚きました。

金田清志さん 2022/9/29 07:04

「十二月の窓辺」感想

 津村記久子の作を読むのは初めてです。

 作品の順序で、まず「ポストライムの舟」を読み、最近芥川賞の候補作が全て女流作家だった、との話題を思い、
作風から言ってこの作家のテーマは大きく言えば「女の生きづらさ」ではないのかな、と感じた。
と言う事で、今日の女流作家の先駆けでは、との印象を持った。

 本題の「十二月の窓辺」では一読して、登場人物が名前で、しかもカタカナで「ツガワ」「ナガト」そして「アサオカ」の3人だけで、
しかも表現・書き方としては男女の区別は判りにくい、と感じた。

 新しい組織に加わる事は、つまりその組織にできている空気なり仲間意識なりに加わることである。
この小説はそこから始まり、挫折する話と読みました。

 作品そのものは主人公ツガワが様々な人間関係や仕事上のトラブルに翻弄され退職するまでの心の綾、
「自分がよそでやっていけるわけがないというV係長の言葉は真実なのだろうか」」とか
「とりあえず耐えろ、自分にも悪いところがなかったか考えろ、と最終的にはその一点張りで有名った。」
「結局、何処へ行っても槍玉にあげられる人間はいて、組織というものがその構造から脱することはないのだ」
と言うようなことを主人公にいわせて、揺れ動く心理を表現している。

これは組織の中の末端にいる人間にとっては男、女に共通の心象現象なのだ、と作者は言っているように思う。

登場人物の名前が3人だけで、しかもそれぞれの会社が違うのは、
同じ会社組織ではP先輩、部長、V係長と、あくまでも表面的なもので個人としての関係は得られないと主人公は思っているのだろう。

そんな中で、退職時に主人公が「ヨーグルト菌」を全て殺す行為は心の鬱憤を晴らすようで印象的だった。

だが、この小説では、
ナガト(女)の上司の部長が入院した時、その下がみんなランクが一つ上がったとかは現実的でなく、
ナガトが「通り魔」だったとの設定は極めて唐突であり、
アサオカは女性だと思っていたのだが、結局「感じのいい男の子」と言うのもぼくには不可解、と言うより解釈できない。

そもそも「通り魔」や「アサオカ」の設定は不用ではないか、と思うのだが…?

山口愛理さん 2022/9/29 17:22

津村喜久子は「給水塔と亀」「浮遊霊ブラジル」の二作を読んだことがあるが、どちらも何某かの賞を受賞している割に、私には響かなかった。そもそも文体が好みではなかった。
ということで今回の「ポトスライムの舟」内の「十二月の窓辺」だが、この作品も読みにくくて私は苦手だ。ただ、あらすじ的には結構面白い。パワハラをテーマにし、ツガワ、ナガト、アサオカの三人が男女どちらかわかりにくいなかで読み進めるうちに、男でも女でも良いように思えてくる。男女ではなく、人間としての扱いの問題なのだ。ただ、それだけにやっぱり読みづらく、諸先輩や上司もなぜにアルファベット表記? と思ってしまう。
しかし色々なレビューを読むと、この作品はかなりの人々に支持されていることがわかった。特に働く若い人たちのようだ。今という時代性、ワーキングプアやパワハラという重い現実を的確にとらえているのだろう。登場人物を自分と結びつけて読めるのかもしれないが、支持の多さにちょっと驚いた。重苦しい内容だが、ツガワが自分のことで精いっぱいだったのに、ラストに近づくに連れ、他者を思いやることができるようになるのがせめてもの救いか。
最後にヨーグルト菌を死滅させて会社を辞めるシーンは、少しだけ梶井基次郎の「檸檬」を思い出した。「檸檬」の主人公は想像上の檸檬爆弾を気づまりな丸善の積み重ねた洋書の上に置いて立ち去った。これで主人公の感覚は爽やかになり憂鬱が晴れていくという秀逸な展開。しかし、こちらのヨーグルト菌死滅は実害があり、現実的で暗い。その先には通り魔や更に大きな犯罪が潜んでいるかもしれない。実社会で起こり得る分、読後感は決して良くはなかった。

森山里望さん 2022/10/1 11:25

名前も知らなかった作家です。難しいとは思いませんがんが、読みにくくわかりにい文章でした。傍観しているようにしか読みすすむことができず、小説を読む楽しみを感じませんでした。
社会が、表面的な品行方正を保とうとすればするほど、職場、学校、家庭内、身近なところでこのような実態はあるのだと思います。私の回りにも、新卒で就職しても、心的外傷を追って退職する若い人が幾人かいます。リアルな実社会を書いているだけに、何か前途に託すものをこの小説から受け取りたかった。

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